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お知らせ~過去の記事を加筆修正しました。

13 11月

こんばんは。以前に書いた記事に画像を加えてビジュアルで分かりやすくしたり、新たに加筆修正しました。

加筆修正した記事のタイトルとイメージ画像の一覧を下に出します。タイトルをクリックしますと、その記事のURLに移動できます。

世界の食文化その3~イスラム教の食事マナー


食の歴史その36~トマトがなかった昔のケチャップ

世界の食文化その1~世界の4割は直接手で食べている~

食の歴史その18~最初は下品だったフランス料理~

食の歴史その17~パスタのルーツは中国か?~


食の歴史その16~フレンチポテトからポテトチップに至るまで~

食の文化史その2~茶と紅茶とコーヒーの歴史~

以上となります。

また加筆修正したらブログの新着記事にてお知らせします。

世界の食文化その1~世界の4割は直接手で食べている~

27 7月

こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いて見ました。

今回も地図を使って説明しますので、画像もアップします。

1912年のアフリカとヨーロッパの植民地支配

1912年のアフリカとヨーロッパの植民地支配

直接手を使って食べる行為は特に欧米ですとアジア、アフリカを征服し。植民地とした優位性からか。征服した現地の手を使った食べ方に非文明的、不衛生、不作法、下品というイメージが先行し、文明開化して欧米化した日本にもその価値観を押し付けていましたが。欧米の自己中心的な価値観が生んだ偏見にすぎません。

中世ヨーロッパの食卓

中世ヨーロッパの食卓

自ら「先進地域」としているヨーロッパでさえ、長い間ナイフで切り分ける以外は手で食べていましたし、

箸で食べる文化の日本でもおにぎり、サンドイッチ、ハンバーガーなどを手で食べていたりします。

世界の歴史を振り返っても人類は手で食べる事を基本としていました。

ですから、手で食べたからといって、粗野で文化の程度が知れるものではありませんし、逆にそのような思い込みこそ、人類の食文化史に対する無知をさらけだすことになります。

現在も手で食べる事文化が地球上の総人口の4割を占めており、25億人以上の人々が手で食べている計算になります。

なかでも、インドのヒンズー教徒や中東のイスラム教徒などは、食べ物は神から与えられた神聖なものと言う固定概念が強く、昔はヨーロッパもそうでしたが、食器などを使わず、手で食べる事が最も清浄といった宗教的な戒律を強く守っています。

しかも、この文化圏では右手は清浄だが、左手は尻拭いに使うほど不浄という考えが徹底し、神から与えられた食物に触れることが許されるのは、右手だけと信じられ、たとえ左利きであっても左手で食べ物を持つ事はあっても、左手を使って口に運ぶことはまずありません。

中東の食事風景

中東の食事風景

この文化圏では食事に使う手も親指、人差し指、中指の三本だけと決められてありまして。

北アフリカの先住民であるベルベル族の間では次のようなことわざがあります。

「一本指で食べるのは憎しみを象徴することであり、二本指で食べることは傲慢さをしめす。三本指で食べるのはムハンマドのイスラムの教えに忠実なものであり、四本あるいは五本指で食べることは大食漢であることをしめす。」とあります。

ヒンズー教徒などが手で食べる場合、第二関節から先だけを使い、あたかも象の鼻のように器用に動かしながら食べ物を掴んで放り込みます。

インドの食事光景

インドの食事光景

カレーのような汁物でも問題なく手で手で食べます。つかむ、つまむという動作を通じて、口だけでなく手の感触も楽しめる事から、彼らは、

「まず手で味わい、次に口で味わう事ができる」と言われるほど、手で食べる事にこだわりがあります。

掴み方の方にも様々な厳しい食事作法があります。まず、食事の前後に必ず手を洗う事は言うまでもないが、同時に口もすすぎます。これは古来、食べる行為を神聖な儀式とされていたことの名残ですが、特に食後の口のすすぎは、指の腹側を使ってよくこすり、口の中を綺麗に掃除することが礼儀となっています。

床の上で食事するインド人

床の上で食事するインド人

最近では組み立て式の食卓も一般化しつつあるとはいえ、庶民の家では床の上に大きな風呂敷のような布を広げ、この上に食べ物を並べるのが一般的な食べ方です。布は膝にかけて、そのままナプキンとして使うこともできます。

食べるときは、食べ物を取り囲むようにして座り、男性や子供はあぐらをかき、女性は膝を立てた姿勢をとります。

このスタイルはヒンズー教もイスラム教もほとんど変わりありません。

来客の時は男女別々に食事を取り、食事中に誰かが尋ねてきた場合には、食事にともにくわわるようすすめるのが礼儀となっています。

いっぽう、手で食べるために指がやけどするような熱い料理は食べません、というか食べられていません。

つまり手で食べる文化圏では息をかけて冷ますような熱いスープなどの料理はあまりつくりません。

また、幾ら起用に扱っても手は汚れるし、お代わりは自分で取り分ける事ができないために、主婦あるいはホスト役が気を利かせて器の中から注ぎます。

このときに限って木製のスプーンを使うことが許されています。

日本人は一般に潔癖症な性格だと言われています。

しかし、カースト制のもとに清浄、不浄の概念が徹底しているヒンズー教徒のほうがより潔癖と言えるかも知れません。

そもそも自分の手以外に食べ物には触らないという徹底ぶりのうえ、食器や道具もできるだけ使おうとしません。

他人が触れたり使用したりする食器は不浄そのものという考え方から、日本人のように茶碗によそって箸を使うほうが彼らにとっておそ「不潔」となります。

インド南部の葉っぱを使った食事の盛り付け

インド南部の葉っぱを使った食事の盛り付け

従って、食べ物は皿やお椀に代わって、バナナやバショウの葉に盛り付けるか、あるいは使い捨ての素焼きの器に入れて食べます。

水を飲むときもコップに口をつけないようにするか、使い捨ての素焼きの器で飲みます。

何故ここまでヒンズー教ではこだわるのかと言いますと、ヒンズー教における戒律の一つに、異なるカーストの階級が交じり合う事を厳禁していることが背景にあります。

インドのカースト制では、この戒律と制度のもとで、上位のカーストは下位の不浄なカーストを見ることさえ忌み嫌います。

ましてや彼らが触れたかも知れない食器を使い、同じ食卓で同じ食べ物を食べることは、自らを汚す行為にほかなりません。

異なるカースト同士が絶対に食事をともにしない理由はここにあります。

また、共同の食器としての盛り皿を利用する場合、タライのような金属製や石製品はあとで綺麗に洗えるから清浄とされています。

しかし、共同の食器から個人用の食器に取り分けられた食べ物は、口につけたか否か関係なく不浄な存在であります。従って一旦取り分けられたものを他人が食べることはありえないので、料理を残すことは極めて礼儀知らずな行為となります。

ただし、中東や北アフリカなどに住むイスラム教の人々には金属製の共同の食器をごく普通につかいますが、ヒンズー教のような厳しい清浄・不浄の概念はないと言われています。

以上でコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その24~イスラム教はなぜ豚肉を禁じるのか?~

6 7月

おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと願って、コラムを書いて見ました。

また、説明に地図を使うので。画像を出します。

古来、世界各地でいわれなき偏見やタブーにさらされた肉は少なくありません。

豚肉はそれらの筆頭にあげられ、豚肉を食べる事を禁じるユダヤ教、特に広く分布しているイスラム教での忌み嫌われぶりも半端ではないです。

たとえば厳格なイスラム教徒となりますと、豚肉が鍋や包丁などの調理器具に触れているかも知れない可能性を恐れ、一般のレストランを避けて、わざわざイスラム教徒専用レストランで食事を取るなど徹底しています。

イスラムの戒律が比較的ゆるいインドネシアでも10年ほど前、味の素の製造過程に豚の成分を使用したという事実が発覚して逮捕者が出たりと大騒ぎになった事もあります。

科学的には味の素という製品になった時点で豚の成分は消滅しているのですが、イスラム教では食用禁止にあたるのだそうです。

ではなぜ、そこまで豚を嫌うのか聞くと、豚を嫌う当事者であるユダヤ教徒、イスラム教徒も明快な答えを出せなかったりします。

そういった事情から生理的な嫌悪感や食わず嫌いとも言えるでしょう。

イスラム教の開祖マホメットによる『コーラン第五章の食卓の章には、

「死んだ獣の肉、血、豚肉、それからアッラーならぬ邪心に捧げられたもの、絞め殺された動物、撃ち殺された動物、また猛獣の食らったもの」

などは食べてはならないとされてあり、第六章の家畜の章にも「死肉、流れ出た血、豚の肉、これらはまったくのけがれもの」などとタブーであることを強調しています。

イスラム教徒が豚肉を嫌う最大の理由は、これらの戒めを遵守しているからにほかならないのです。

ちなみに、イスラム世界で禁じられた肉は「ハラム」と呼ばれ、逆に食用にしていい肉は「ハラール」と言われています。

ユダヤ教の聖典『旧約聖書』の「レビ記」「申命記(しんめいき)」の中でも、全知全能の神ヤハウェ(エホバ)は事細かに食肉のタブーを命じています。

数ある動物のなかでも、

「ひづめが分かれたもの、ひづめが二つにきれたもの、反芻(はんすう)するもの」

という条件をクリアしないといけませんが、豚は反芻しないという理由で、けがれた獣としてタブーにされてしまいました。

ユダヤ教を母体とするイスラム教は『旧約聖書』の教えの一部を受け継いでいるものなので、タブーとした根源が『旧約聖書』が由来とみても差し支えないと言われています。

このような背景から、豚を禁じるのは宗教に根ざしたものと思われるが、ではなにゆえにヤハウェやマホメットが豚を禁じてしまったのだろうかと言いますと。

豚は人糞も含むあらゆるものをむさぼり食う大食漢で、鈍重なうえに、発情期が21日周期で年中繰り返すといった性欲のを持つ習性が、不潔で汚らわしいというイメージをかきたてられ、ブクブクと醜く肥え太り、どうひいきめに見てもスマートさとは程遠い。

「この豚野郎!」

という感じの、ののしりの言葉が世界共通の代名詞にもなっているほどなので、比較的に禁欲主義的なユダヤ教やイスラム教とは相容れない家畜と、そうそうに決められてしまったのかも知れません。

事実、現在のイスラム法学者たちの多くは、

「アッラーが豚肉を禁じた第一の理由はそのいやしい習性と食べ物がきわめて不潔である豚の生態そのものにある」

と解釈する傾向が強いそうです。

しかし、豚は清潔好きな動物で知られており、悪しき本章とみられるのは飼育する側に問題があるためです。糞を食べるという理由にしても好んで食べるわけではないし、場合によってはニワトリ、ヤギ、ウサギ、イヌも糞を食べる習性があったりしますので、根拠が弱かったりします。

いっぽう、牛やヤギはミルクをはじめとする乳製品を、羊は羊毛を、ニワトリは卵をといったように、肉だけにとどまらず、様々な副産物を提供してくれる家畜ですが、豚は労働力にもならなければ、毛も繊維には向かない。

結局、豚は肉以外に利用価値がないから差別の対象になったのだろうとする意見もあります。

これらの動物の習性論に取って代わったのが、食衛生と生態環境の両面から解釈しようとする試みでして、要約しますと。

第1に、中東のような暑くて乾燥した地域では、豚肉は腐りやすく、これを食べると食中毒にかかりやすい。

第2点は、不潔な食べ物を摂取する豚は病気に感染している危険性が高い。

第3には、絶えず移動を強いられる遊牧中心の中東では、定住性の家畜である豚は生態環境に適さない、

などといったものです。

これらの点を案じた古代の人たちは、生活を合理的に営む知恵として、神の啓示という建前を駆りながら豚肉を食べる事をタブーにしたと考えられております。

豚の祖先は適度な湿度と大量の水に恵まれた河岸を住みかととしてきたと言われています。

このため、豚の体温調節システムは高温で乾燥した場所で生息には適していない事だけは確かです。

そもそも、汗を出す汗腺をほとんど持っていないため、自ら体温を調節することが出来ない。

豚が泥の中を転げまわっている光景も汗を流す事ができない豚の体温冷却のための生理的な動作だったりします。

したがって、中東で養豚業を営もうとすると、風通しの良い場所を選び、直射日光をさえぎるための日陰や水を蓄えた土地を人工的に作る必要があり、飼育してもコストが大変悪い。

飼育するコストが大変悪いのは中東に限った話ではなく、乾燥地帯の遊牧民全てに当てはまる法則だとも言われています。

だが、3000年ほど前まで古代の中東では豚を抵抗無く食べていたことは、各地の遺跡による大量の骨の発掘で証明されていますので、環境条件だけを、タブーにされ続けてきた根拠とするには、根拠が弱かったりします。

諸説入り乱れる中で、最近では古代ユダヤ人による善悪二元論的な世界観に基づいた「肉食可否の分類法」が有力説として浮上してきています。

これは自分達の食体験にのっとって、食べていいもの悪いものを振り分けておけば食生活の安全上の目安になるうえ、肉を得るための家畜化する判断基準にもなりうると考えた一種の○×法です。

この法則によって、草食動物はOKだが肉食動物は駄目という単純な図式が定着したのですが、雑食性とあいまいな動物、とりわけ豚は○か×か判断に迷う正体不明な動物と見られたのでは?と言われています。

一方、乾燥地帯の中東には不向きでコストが高い豚の飼育は中東では重要な農牧とは言えず、タブーになったからといって経済面でもそれほどマイナス要因にならなかっただろうと推測されています。

コラムは以上ですが、いかがでしたでしょうか?

次はヒンズー教やユダヤ教の食のタブーについてもとりあげてみようと思います。

食の歴史その17~パスタのルーツは中国か?~

23 6月

こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしになればと思ってコラムを書いて見ました。

今日のコラムはいくつか画像を載せています。

よく「中国4000年の歴史」なんてフレーズがありましたが。

歴史をかじってますと。殷(いん)が3600年以上昔にあったかな?という段階で4000年も歴史があるのか疑問が沢山あるのですが。数年前に中国で麺の化石が出てきました。

4000年前の麺の化石

4000年前の麺の化石

写真を見ると現在の麺と変わりない形をしております。

およそ1800年前の後漢という中国の王朝の時代に書かれた語学書「釈名(しゃくみょう)」に麺の記録が現れ。1500年ほど前に書かれた「斉民要術(せいみんようじゅつ)」という世界的に初めて書かれた農業に関する学術書には農業だけでなく、調味料や麺の製法まで書かれています。

現在の湯餅のひとつ

現在の湯餅のひとつ

それによると、湯餅(たんぴん)と呼ばれる小麦粉で作った麺を温かいスープで煮込んだものが現在の麺料理の元祖らしいです。

麺の製法の中で最も古いとされるのは、こねた小麦粉を手でひたす延ばす「手述べ麺」でして、日本ではそうめんが代表的です。

この手述べ麺が中国北部では拉麺(ラーミェン)と呼ばれ、後に日本でラーメンと呼ばれるルーツになったとも言われています。

中国では元々「麺(ミェン)」は小麦粉を意味したものでしたが、穀物を粉にしたもの全てを表す言葉になり、現在の中国では麺類を「麺条(ミェンティアオ)」と呼んで使い分けています。

これが1400年前に出来た一度は教科書で習った「遣唐使(けんとうし)」の時代である、唐王朝の時代になりますと、小麦粉を板状に広げて切っていく「切り麺」が普及していきまして。日本でもこの頃、中国からこの切り麺の製法が伝わり、そば切りやうどんなどに発展していきます。

シルクロードを経由してイタリアに伝わったパスタにもフィットチーネ(幅広パスタ)という切り麺がありまして、カルボナーラなどによく合います。

130年の歴史があるイタリアで初めての押出式パスタマシン

130年の歴史があるイタリアで初めての押出式パスタマシン

イタリアのパスタやマカロニなどでよく行われている製法にトコロテン方式のこねた小麦粉を小さな穴から突き出して麺にするもので、アジアでも冷麺やビーフンがこの製法で作られています。

こうして200年ほど前になりますと。麺類はアジア、中近東、イタリアに分布しますが。これらは独自にうまれたのか、アジアから伝わったのか、確認する方法は今のところ無いみたいですが。東南アジアの麺料理は200年ほど前に東南アジアのあちこちに住み着いた華僑(かきょう)と言われる中国人と関係があると言われています。

マルコ・ポーロ

マルコ・ポーロ

一方、イタリアのパスタ、マカロニに関して古くからある論争に「東方見聞録」を1298年ごろに書いたマルコ・ポーロが中国から伝えたという説についての論争がありますが。ヨーロッパの学者達でさえ、このマルコ・ポーロが本当に中国へ行った事があるのか疑念を抱いています。

大英図書館

大英図書館

イギリス国立図書館のフランシス・ウッドは「東方見聞録」では中国に長く滞在した事になっているが。もし、そうだとしたら後に中国へ本当に滞在した人なら必ず珍しがって記録する中国の文化面が致命的に抜けていると指摘しています。

台湾の飲茶(ヤムチャ)

台湾の飲茶(ヤムチャ)

たとえば、コーヒー、紅茶が伝わり。沸騰させた水が飲める事にヨーロッパ人がやっと気づいたのが400年前ですが。それ以上前に中国に行ったのであれば、茶を飲む習慣を書いていなければおかしいと指摘していますし。中国で長期間滞在したら、お茶を飲みながら点心を食べる飲茶(ヤムチャ)も見たはずです。

その時に食器として箸を使う習慣も、今から300年ほど前にベルサイユ宮殿に君臨していたルイ14世がフォークやスプーンを使わずに手づかみだった事を考えれば、物珍しいものとして書いていなければおかしいと指摘。

万里の長城

万里の長城

他にもアルファベットや中東の文字と全く違う文字である漢字の存在や木版画、女性が行う纏足(てんそく)、観光客を圧倒させる万里の長城などを書いていない事を挙げ。マルコ・ポーロは家族が貿易やっていたので、ヨーロッパにいながら中国の産物を運んでくるペルシャやアラビアの商人から情報を仕入れて、さも中国に行ったように書いたのではなかろうか?と言われています。

そして、マルコ・ポーロが帰国したのが1295年とされていますが。それより前の1279年の記録にマカロニと書かれたものが出てきています。

ジョヴァンニ・ボッカッチョ

ジョヴァンニ・ボッカッチョ

それから数十年経ってイタリアの詩人である作家であるジョヴァンニ・ボッカチオが書いた10日間を意味するタイトルの「デカメロン」が出版された1353年には、パスタやマカロニがもうしっかりイタリアの定番料理になっていたようです。

「デカメロン」の中には2種類のパスタが書かれており、上にかけるソースやチーズについても書かれています。一部を抜粋しますと、

「イタリアのベンゴディ地方にはブドウのつるをソーセージで結ぶ。そこにはおろしたチーズの山があって、その上で一日中男達は、スパゲッティとラビオリを作っては、チキンのソースをかけて食べる」

とあります。

さて、フォークは1700年代頃まで普及していなかったので、どうやって食べたかと言いますと。

下の図のように長い間手づかみで食べていました。

フォークが普及する300年以上昔のパスタの食事風景

手づかみでパスタを食べる300年以上前の人たち

こんな食べ方を長い事していたものですから、中国のように温かいスープに入れて箸で食べるのではなく、手掴みが前提でバターやチーズをまぶして食べるタイプになったのも当然の成り行きなのでしょう。

パスタを手掴みで食べる光景を写した20世紀初頭の絵葉書用写真

パスタを手掴みで食べる光景を写した20世紀初頭の絵葉書用写真

このような手掴みで食べる伝統イタリアでは20世紀初期までありまして。絵葉書の写真にもされています。

イタリア南部を支配したシチリア王国

イタリア南部を支配したシチリア王国

パスタにはもっと古い記録もありまして、1140年代にイタリア南部を支配していたシチリア王国のロジェル2世に仕えた北アフリカはモロッコ出身の地理学者アリ・イドリーシが書いた「ロジェルの書」によりますと、イタリア半島の南にあるシチリア島の北西部にあるトラビアの町にはパスタの一種イットリーヤが作られ、各地に積み出されている事が記録されています。

中世のアラブ人が書いた本によると、イットリーヤはキシメンに似た手打ちの乾麺だったと記録され、

イスラム圏の麺類リシュタ

イスラム圏の麺類リシュタ

1000年前のペルシャで活躍した哲学者イブン・シーナもイットリーヤはペルシャ語で「糸」を意味するリシュタと同じ食べ物であると記録しています。

イブン・シーナはペルシャからはるか北の中央アジアからやってきたイスラム教徒である事などから、麺を食べる文化が東から中央アジア、中東、北アフリカとはるか昔に広まっていたようです。

こうして東からイタリアへ伝わったであろうイットリーヤなどは大量生産される事なく、今ほどありふれた食べ物ではありませんでした。

大量生産されたのは1800年代にナポリで木製のねじ式の押し出し機を使って細長いパスタが大量に出来上がっては天日干しにされ、手で練っていた生地も1830年代に発明された機械で練られ、イタリア中に広く普及しました。

そして、イタリア系移民がアメリカに大勢住みつき、1920年代になりますと。ニューヨークはマンハッタンのプラザホテルでコックをしていたヘクター・ボイアーディがアメリカ人にもっとイタリア料理を知ってもらいたい思いからトマトソース味のパスタを瓶詰めにしてみました。

この便利なパスタの瓶詰めがA&Pフードの重役ジョン・ハートフォードの目に止まり。アメリカ中の食品店にソースで味付けされたパスタの瓶詰めや缶詰が置かれれるようになり、1940年代に今も量だけは多いけど貧相なアメリカ料理に革命がもたされ、イタリア系じゃないアメリカ人にもパスタが普及しました。

今でもトマトソースで味付けされたパスタを詰め込んだ缶詰がケチャップで有名なハインツ社によってイギリスで作って売られているようですが、フォークでクルクル巻こうとする前にブチブチ切れるほど伸びている代物なので、微妙な味ですが。興味ある方は「缶詰パスタ」とgoogleにキーワードを入れて検索しますと実際に缶詰パスタの中身を写した写真や食べた感想などが書かれている記事を読む事ができます。

検索するのが面倒臭い。そんな人のためにパスタの缶詰の画像を2つほど出しておきます。

イギリスのパスタの缶詰

イギリスのパスタの缶詰

パスタの缶詰を皿に移したもの
パスタの缶詰を皿に移したもの

それから第2次世界大戦後、日本にやってきた米軍が接収していた横浜のニューグランドホテルで今のナポリタンの原型が開発され、1950年代半ば以降から学校給食にケチャップとソーセージで作ったナポリタンが出されるようになり、日本人にも馴染み深い麺料理となりました。

ただ、ナポリタンとミートソース以外のパスタは1980年代のイタメシと言われたイタリア料理ブームが来るまで待たなければなりませんでした。

ここでコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

自分はケチャップとソーセージと乾麺のスパゲッティがあるので、ナポリタンを作ってタバスコと粉チーズをかけてこれから昼飯を楽しもうと思います。

では、ご拝読有難うございました。

・参考文献

辻原康夫 著 『世界地図から食の歴史を読む方法』

池上俊一 『世界の食文化15 イタリア』

チャールズ・パナティ 著 バベル・インターナショナル訳

『はじまりコレクション 1』

アレックス・バーザ 著 小林浩子 訳  『嘘の歴史博物館』

ウィキペディア 『ナポリタン』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%BF%E3%83%B3#.E5.8D.A0.E9.A0.98.E4.B8.8B.E3.81.AE.E6.97.A5.E6.9C.AC

食の文化史その2~茶と紅茶とコーヒーの歴史~

18 6月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶし用にコラムを書いてみました。
ビジュアルで分かりやすくするために画像を沢山使ってみます。

中国、ミャンマーと国境を接するルアンナムター県

中国、ミャンマーと国境を接するルアンナムター県

まず、茶の歴史はミャンマー北部と中国南部に自生していたのを2300年ほど前に飲み物として使うようになったのだけど。最初は漢方薬として使われていました。


それが仏教が伝来し。仏教が酒を戒めると、お茶は酒の代わりに広まっていき。1600年ほど前には茶を栽培して飲むようになりました。

そのお茶も中国では大雑把に三種類ありまして。北部では緑茶、ジャスミンなどを入れた花茶。南部の福建省では烏龍茶。香港の近くにある広東では紅茶が作られて飲まれるようになりました。

長崎の出島とオランダ船

長崎の出島とオランダ船

それから千年以上送れてヨーロッパもお茶を飲むようになったのですが。最初は1610年にオランダが長崎からオランダの首都アムステルダムに運んだ緑茶がヨーロッパに渡った最初のお茶と言われています。この頃はオランダが植民地帝国で世界中に幅を利かせていました。

ウィーンの シェーンブルン宮殿

ウィーンの シェーンブルン宮殿

イギリスもその頃は意外でしょうけれども緑茶を飲んでいました。他にも、沢山の皇帝を輩出したヨーロッパの名門家ハプスブルグ家の本拠地ウィーンでも、不老長寿の薬として飲まれていました。海の交易は最初オランダが独占していましたが。1669年にイギリスが中国からお茶の買い付け に成功していますが、まだ緑茶でした。

ポルトガルから嫁いだキャサリン・オブ・ブラガンザ王女

ポルトガルから嫁いだキャサリン・オブ・ブラガンザ王女

緑茶から紅茶への変化をもたらすきっかけは1662年にポルトガルの王女キャサリンがイギリスに嫁いだ時に持参した紅茶でイギリス王室から紅茶を飲む習慣を広めたことからはじまります。

1600年代のポルトガルの都リスボン

1600年代のポルトガルの都リスボン

イギリスの硬水 の水質では王女キャサリンが故郷ポルトガルの貿易港リスボンから持参したタンニンの多い紅茶が適しており、肉食を好む食生活に濃厚なお茶の風味がマッチしていたのも緑茶に代わって紅茶が席巻していった理由だと言われ ています。

こうして紅茶が緑茶よりも好まれるようになり。ヨーロッパ、中東、アメリカでも飲まれるようになりました。
1800年代にインドやスリランカで紅茶を栽培して世界の紅茶をイギリスが独占しますと。独占しているために高値でふっかけられた値段に嫌気をさしたフランスやアメリカはコーヒーへとシフトしていきます。

こんな事情があって。紅茶はイギリス、コーヒーはアメリカという図式が後々出来ていきます。

エチオピア高原

エチオピア高原

では、次にコーヒーの歴史もさらっと説明してみます。
コーヒーの原産地はエチオピアのカファと言われる標高2400メートルの高原地帯に自生していたのを飲料にしたのが中東に伝わったものです。
コーヒーを飲むきっかけとそのルーツは伝説の領域ではっきり分かってませんが。文献には1100年前にアラビアのラーゼスという医師が茶と同じく薬用で処方したのが一番古いコーヒーに関する記録だと言われています。

コーヒーの実を食べた鳥を観察するシェーク・オマール

コーヒーの実を食べた鳥を観察するシェーク・オマール

あと、1587年に書かれた文献ではイエメンのモカに住むシェーク・オマールというアラブの偉い坊様が山で小鳥がついばんでいる赤い実を食べてみたらカフェインのせいか。心身爽快になったので。飲み物に加工して病人に与えて苦痛を救ったので聖人になったと言われています。

「昔ア~ラブの偉いおぼうさ~まが~♪」で始まるコーヒー・ルンバはこの話が元です。
アラブの偉いお坊様が飲ませたコーヒーはモカだったんですねえ。

昔の中東の喫茶店

昔の中東の喫茶店

しかし、コーヒーは長い間、門外不出の秘薬とされ。一般には出回らなかったけど。1554年にトルコの首都イスタンブールで「文化人の学校」という名前で出したのがコーヒー喫茶店の始まりだったそうです。

そのトルコ人が1615年にイタリアは水の都ベネチアに持ち込み、それがフランスやイギリスにまで飛び火して、イギリスも紅茶が普及するまでは「コーヒーショップ」というものが沢山あったほど流行していました。

しかし、キリスト教の敵であるイスラム教徒の飲み物を喜ぶなんてとんでもないという声もあり。反対派と擁護派で乱闘騒ぎになるほどヒートアップ。

ローマ法王クレメンス8世

ローマ法王クレメンス8世

この論争は当事のローマ法王クレメンス8世(1536~1605年)が「こんな美味しいものをイスラム教徒に独り占めさせておくことはない」と発言して一件落着。

カプチン修道会の修道士たち

カプチン修道会の修道士たち

ローマ法王が擁護するほど教会はコーヒー寄りで。カプチン修道会ではスパイスを混ぜたコーヒーを作って寝ずに修行していました。
これがカプチーノの始まりです。

コーヒーに砂糖とミルクを入れるスタイルを考案したのは音楽の都、ウィーンの人だと言われています。

トルコ帝国は音楽の都ウィーンを2回包囲して結局攻略できずに去って行ったのですが。トルコ人が去って行った時に山ほどコーヒーを残していったので。それを目端の利く人がタダ同然で買い付けてカフェを開いて一攫千金したそうです。
カフェではカップに粉が入らないよう布で濾してクリームを入れたウィンナーコーヒーも考案しました。

1668年ロンドンのコーヒーショップ

1668年ロンドンのコーヒーショップ

このカフェがヨーロッパの歴史を大きく変えていきます。
フランスやイギリスにコーヒーショップが出来ますと。イギリスでは1ペニーの入場料と1ペニーのコーヒーで雑誌や新聞読み放題。雑誌や新聞を読んだ知識をコーヒー片手に議論できたので通称「ペニー大学」とも言われました。
その「ペニー大学」の議論からイギリスでは損害保険、生命保険の概念が生まれます。

ロンドンのロイズ本社ビル

ロンドンのロイズ本社ビル

イギリスの保険組合といえばロイズが有名ですけど。もとはコーヒーショップの談義から生まれたものなんですね。

バスティーユ襲撃

バスティーユ襲撃

一方フランスでは政治家、学者、芸術家などが集まってサロンとなり。コーヒー片手に新しい思想が生まれ。それがフランス革命の原動力となっていきます。

コーヒーが無ければイギリスの議会制もフランスの共和制も出来なかった事でしょう。

さて、アメリカのほうでは1669年にニューヨークでコーヒーショップが開かれ。1730年頃には一般家庭にまで広まっていました。


しかし、西部開拓民はコーヒーが満足に無いので。代わりに黒パン、大麦、タンポポの根、嗅ぎ煙草などを煮出して。「むくんだコーヒー」と言われる代用品を作っていました。

そんなアメリカも当事はイギリスの植民地でしたので。紅茶は伝わっていたのですが。高い関税がかけられて高値でした。


その上アメリカと関係の無い所でイギリスとフランスが戦争を起こし。その戦費調達に印紙税をアメリカから取りました。
その名残が日本でも文書に収入印紙を押す形で残っています。

アメリカからすると、アメリカ人はイギリスの領土なのに、イギリスの議会に参加できない。ロンドンの政治に参加できず勝手に決められた税金なのです。

ボストン茶会事件

ボストン茶会事件

そこで、アメリカの有識者が「代表なくして関税なし」と言い出しました。
そこからイギリスの関税の象徴である紅茶を攻撃しようとインディアンの格好して乱入し。紅茶の箱を次々と海に投げ込む事件が起こりました。

これがアメリカ独立戦争のきっかけになった「ボストン茶会事件」です。

アメリカは紅茶を独占するイギリスと何度も戦い。時にはホワイトハウスを燃やされた時もあった程なので。紅茶は廃れ、コーヒーが主流になりました。

しかし、1800年代が終わろうとする頃に大きな変化が起こります。

トーマス・リプトン

トーマス・リプトン

イギリスはスコットランドのグラスゴーに生まれたトーマス・リプトン(1845~1931年)がアメリカに渡り、食料品店を開きます。その時にスリランカともセイロン島とも呼ばれる場所で紅茶を栽培してから、大量に輸送し。商標をつけて安全性も確保し、信頼を得られるブランドとなりました。
それと、リプトンがセイロン島から大量に持ち込んだ紅茶のおかげで紅茶の値段が半分になったのもアメリカでも売れた大きな要因と言われています。

リプトンの缶などにパイプをくわえ、ヒゲを生やしたおじさんの顔が書かれていますが。あれがトーマス・リプトンです。

ヴィクトリア女王

ヴィクトリア女王

紅茶で財を成したリプトンは慈善事業も展開し。そのせいもあってかビクトリア女王からサーの称号を貰っています。

もし、イギリスのグラスゴーなどへ行ってみる時はリプトンの創始者。トーマス・リプトンさんの歴史も念頭に入れるとより旅行が楽しめるかも知れません。

さて、長々とした文章ですが。いい暇つぶしになったでしょうか?

楽しんでもらえたら幸いです。