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食の歴史その50~フィッシュ&チップスと捕鯨・石鹸・冷蔵庫

17 3月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いてみました。

今回もビジュアルで分かりやすくなるよう、画像を沢山使っています。

使用している画像はクリックしますと拡大され、より見やすくなるものもあります。

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幕末の1854年にペリー率いる黒船がやってきましたが。その目的は開国によって捕鯨船に水や食糧が補給できるようにする事でした。

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石油の採掘が始まるまで鯨油(げいゆ)はランプの燃料と潤滑油として大量の需要がありました。
理由は温度が下がっても固まらない、粘結度があまり変わらないので引っ張りだこでした。

1800年代のコルセット

1800年代のコルセット

髭や骨は女性のコルセットやペチコートの材料として使われました。

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鯨油は石鹸にも使われ当事の石鹸の包装に鯨の絵が使われている事からもうかがえます。

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しかし、1800年代半ばから値上がりした鯨油に取って代わってココナッツ・オイルが石鹸の材料に使用されていきます。

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石鹸が変わっていくのは材料だけでなく、当事は糸で切り分けていたのが現代の石鹸のように使いやすいサイズへと変わり。

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有名な画家を使って広告にも力を入れた石鹸が洗練されていくと同時に1851年の万国博覧会には727ものメーカーが出品していましたが。石鹸のシェアはナイト、ギブス、ヤードリー。それと新規参入したサンライトとペアーズに半数以上占められました。

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競争に敗れた数百もの石鹸メーカーは石鹸を作るための銅鍋をフライパンに、ココナッツオイルを揚げ油に転用する事によってフィッシュ&チップス屋に転業していきます。

石鹸からフィッシュ&チップスへ転業された頃、この料理にとって重大な発明がされています。

冷凍装置の発明者ジェームズ・ハリスン

冷凍装置の発明者ジェームズ・ハリスン

1856年に実用的な冷凍装置をオーストラリアのジェームズ・ハリスンが発明しました。

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この冷凍装置は1864年以降、蒸気トロール漁船にて使われた結果、氷詰めで輸送されたタラがイギリスで安く出回るようになりました。

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こうして、1860年代からロンドンとランカシャーでタラのフライとポテトのフライが組み合わされたフィッシュ&チップスが売り出されると爆発的に広まり、1870年代にはイギリスの他の地方でも労働者の食べ物つぃて広まっていきました。

”世界で最も有名なフィッシュ&チップスの店”のキャッチフレーズでお馴染みハリー・ラムズデンのトレードマーク

”世界で最も有名なフィッシュ&チップスの店”のキャッチフレーズでお馴染みハリー・ラムズデンのトレードマーク

こうして現代では自分は外国にいった事が無いので、伝聞ですが。イギリスはロンドンのヒースロー空港に降りたつや、空港内に”世界で最も有名なフィッシュ&チップスの店”というキャッチフレーズで知られる、ハリー・ラムズデンが迎えてくれますが。創業者のハリー・ラムズデンは石鹸業者ではないらしく。ブラッドフォードの下町マンチェスター・ロードで店を開き、1900年前後にフィッシュ&チップスがイギリスでポピュラーな庶民の味となっていきます。

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日本でも売られるようになりましたが、ソーセージとポテトを揚げたソーセージ&チップスというのも存在します。

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お腹が空いてきたので、夜食にモルト・ビネガーをたっぷりかけてフィッシュ&チップスを頂こうと思います。

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油っぽいものにビールが欲しい方はパブなどへ足を運んでみてはと思います。

皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その43~古代ローマのソフトドリンク類~

4 9月

おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いて見ました。

今回もビジュアルで分かりやすくするために画像を多用します。

古代ローマとワインは密接で上流階級から奴隷までワインを飲んでおり。店に行けば1アス(45円)からワインが飲めました。

奴隷にもワインの搾りかすから作られる「ロラ」というワインが与えられていました。

今回はそのワイン以外の酒やソフトドリンクなどを紹介してみます。

まずはローマでワインの次にメジャーな酒は「アクア・ムルサ」と呼ばれた蜂蜜酒です。

これは水と蜂蜜とイースト菌を混ぜて発酵させて造るもので。「田舎者の酒」と呼ばれていました。

ローマ人の言う田舎者はブドウが栽培できない、ワインが作れない北方に住むヨーロッパ人を指していました。

自家製ビールを造る女性

自家製ビールを造る女性

他にも「アリカ」と呼ばれたビールも存在しましたが、奴隷用のワイン「ロラ」の半額で売られるほど低級な飲み物で、野蛮人が飲むものとみなされていました。

ソフトドリンクになりますと、果汁を煮詰めたシロップの「テーフルトゥム」という子供用の飲み物がありまして。水や酢で薄めて飲ませていました。

他には鉛または鉛でコーティングされた鍋でブドウの果汁を煮詰めて作った甘味料「サパ」がワインに甘味料、保存料として添加され、鉛中毒になる人が沢山いました。

鉛中毒の症状の一つに難聴があり、ベートーベンの髪の毛から通常の100倍の鉛が検出されたので。耳が聞こえなくなったのはワインに含まれた鉛を大量に摂取したのが原因ではないかと推測されています。

歴代ローマ皇帝には発狂した人、早死にした人が複数いますが。これも鉛中毒ではと推測されています。

狼の乳を飲んでいるのは、双子のロムルス(後のローマ建国の王)とレムス

狼の乳を飲んでいるのは、双子のロムルス(後のローマ建国の王)とレムス

朝の飲み物として定番であり、子供の飲み物とみなされたものにミルクもあります。ローマを建国したロムルスは狼の乳を飲んだという神話と関係してミルクが子供の飲み物とみなされていましたが、大人も朝にコップ1杯のミルクを飲み。時にはミルクにハーブを混ぜて滋養強壮の薬として医者が処方する事もありました。
牛乳が主流の現在と違い、古代ローマ人にはヤギ、羊、馬、ロバのミルクが好まれ。牛のミルクはあまり人気がありませんでした。

その一方、ラクダのミルクは珍しさと滅多に手に入らないからなのか、珍重されていました。

こういったミルクはローマ人に人気のあるチーズの材料にされる他に、「メルカ」と呼ばれる羊やヤギのミルクから作られたヨーグルトも作られ。消化を助ける健康食品とみなされていました。

メルカの食べ方にはコショウとガルムという魚醤(ぎょしょう)。あるいはコリアンダーと塩を加えて食べていました。

他には酢を水で薄めた「ポスカ」があり。スパイスや蜂蜜を混ぜて飲む事もありました。

このポスカは主に酢を生水と混ぜて飲むことで生水を飲んで水当たりする事を避ける目的も兼ねた水分補給源で。主に旅人が活用していました。

キリストにスポンジで含ませた酢を飲ませようとするローマ兵

キリストにスポンジで含ませた酢を飲ませようとするローマ兵

この飲み物はキリスト教にもゆかりがあり、キリストがはりつけにされた時、兵士に飲まされたのがポスカだと言われています。

酢はワインの成れの果てでありますので、ワインの手にはいる所なら気軽にポスカが入手できました。

ローマ水道

ローマ水道

最後に水を紹介しますが。300年かけて建造されたローマ水道は現代の日本でも300万人分の水を供給できるほどの能力があり、ローマに住む100万人以上の人々は212箇所あった公共水槽から水を汲んで運び調達していました。この水運びを代行するアクアリウスというという商売もありました。

トレビの泉

トレビの泉

現在は彫刻もほどこされ、観光名所となったトレビの泉も古代ローマの人々が使っていた公共水槽の一つでした。

ミルクで作ったポリッジ

ミルクで作ったポリッジ

ローマで調達された水はお湯にするなどして最も安いソフトドリンクとして飲まれ。ローマの庶民の中にも朝食にパンと塩味のニンニクと水で済ませたり、小麦粉と水を混ぜた「ポリッジ」という粥を作って食べたりしていました。

以上でコラムは終わりますが、次こそは古代ローマのディナーを書いてみるつもりです。

皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その31~ピラミッドはタマネギとニンニクで作られた~

17 7月

おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと願って、コラムを書いて見ました。

今日は文章だけで画像は無いので、携帯やスマホからでも読みやすくなっていると思います。

古代ギリシャの歴史家ヘロドトスが「エジプトはナイルの賜物」と記述しましたが。

具体的にはエチオピアのアビシニア高原に5月の雨季になりますと大雨が降ってナイル川が増水し、6月から9月にかけて氾濫した水がナイル川沿いの農地を潤し、アビシニア高原から運ばれてきた豊かな黒土も同時にもたらされます。

この増水の度合いはその年の収穫量に繋がりますので、ナイル川にナイロメーターと言われる水位計で水位を測り、他にもオオイヌ座のシリウスという星が日の出前に東の地平線に出る時期に増水が始まる事を古代エジプト人は知っていたので、天体観測も欠かせませんでした。

そのエジプトを支配したファラオはナイル川を管理し、そのナイル川によってもたされる豊かな土地を維持する存在でした。

これは中国の伝説上の君主、三皇五帝の中に黄河の治水に尽力したという君主の逸話がありますので、大河に沿った文明では東西共通するものがあります。

そのファラオが農閑期(のうかんき)にエジプト人を集めてピラミッドを建設していきますが、建設労働者にはタマネギ、ニンニクを中心に支給し、ヘロドトスによるとピラミッドの壁にラディッシュ、タマネギ、ニンニクを労働者に支給した代金だけで銀40トンにもなると記しています。

銀1グラムが7月17日の時点で1グラム75円なので、40トンにしますと、およそ300億円となります。

他にもピラミッドの近くでパン工房の跡地が発掘され、労働者にパンを配るために焼いていたものとされています。

このエジプトのパンは生地を円錐(えんすい)形の型に入れて焼いたり、生地を平たく延ばして釜の中で焼いたりと様々で中には、動物をかたどったパンもありました。

このパンには果物や蜂蜜で味付け、風味付けされたりもして。

パンに使う粉の種類、ひき方、添加物、形などの違いで少なくとも30種類のパンが古代エジプトにあったと言われています。

パンを主食にニンニクとタマネギを食べ、現在より度数の低いビールも飲み、主要なタンパク源として豆もたくさん食べられていました。

古代エジプトではソラマメ、エンドウマメ、インゲンマメ、ヒヨコマメ、レンズマメなどが食べられ。これらの豆を潰して煮込んだフールという料理やソラマメで作ったコロッケが現代のエジプトでも食べられています。

先ほどビールに触れましたが、古代エジプトにおいてビールは日常的な飲み物で、栄養があり、日々の食事の中でも重要な位置を占めていました。

古代ギリシャの歴史家ディオドロスは「ワインに匹敵する」と褒めており、既に美味しいビールが作られていました。

ピラミッド建設ではこれらの支給の他にも、祭日になりますと肉や石鹸の代わりになるナトロンが支給され、祭日のために前もってビールを造るために休む事もありました。

これに対して「アニの教訓」という書物では暴飲暴食を戒めていましたので、古代エジプト人が祭日はよく羽目を外していたのがうかがわれます。

このような豊かな食生活が『旧約聖書』でもちらりと伺えることができます。

モーセがヘブライ人を率いてエジプトを出て行った際、ヘブライ人はエジプトで食べたニンニク、タマネギの味を忘れる事ができず、パレスチナで大量のニンニクを栽培して、心ゆくまで食べたとあります。

古代ギリシャではニンニクが宗教的に扱われ、天と冥界をつかさどる女神ヘカテのために十字路に石を積み、新月の夜にニンニクを積み上げたと言われています。ドラキュラが好まないニンニクの背景には古代ギリシャの風習が背景にあるようです。

古代ギリシャではその後アレキサンダー大王が現れ、インドまで征服しに向かいますが、アレキサンダー大王率いる兵士たちはニンニクを常食し、このニンニクは肉の臭みを消すほかに、胃を健やかにし、整腸作用をもたらし、呼吸器や内蔵の薬としても使われ、ニンニクでつけたスタミナで連戦連勝だったと伝えられております。

その後に繁栄したローマ帝国でも兵士が好んで食べ、キリスト教を弾圧した暴君とされる皇帝ネロは「アイオリ」というニンニクの入ったマヨネーズのようなホワイトソースを考案するほど入れ込んでいたと言われています。

このアイオリは、すり潰したニンニクに卵黄を混ぜ、オリーブオイルを少しずつ入れながら空気を入れるように混ぜ、レモン汁、塩コショウで味を調える代物で。

このアイオリはスペインのカタルーニャ地方ですと何にでもアイオリを加え、特に肉のグリルに欠かせない調味料となっています。

フランスのプロバンス地方では茹でた人参、ジャガイモ、さやいんげん、ゆで卵などにかけて食べる料理を「ル・グラン・アイオリ」と呼び、ブイヤベースにも添えられます。

以上でコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

今日はスタミナをつけるべく、昼はペペロンチーノ、夜は餃子でも頂こうと考えています。

皆さんも夏バテしやすいこの季節、ニンニクで精をつけてみてはいかがでしょう?

食の歴史その15~ビール6000年の歴史~

21 6月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶし用にコラムを書いてみました。
携帯やスマホで見る人もいるだろうと考え、あえて画像は載せていません。

ワインと同じくビールの歴史も大変古く。既に6000年前から飲まれていました。

十二進法の数字、数学やそれを書くための楔(くさび)形文字を発明したメソポタミアのシュメール人が、大麦の粥を外に放置しておいたところ、そこへ酵母が入り込み、自然に発酵したのが始まりだろうと推測されています。

シュメール人が書き残した最も古い記録を見ますと、当時はビールは「シカル」という名前で、農業の女神ニン・ハラに捧げられていた事が記されています。

しかし、現代のビールとは程遠く、ホップの代わりに薬草を放り込んで味付けした異様な匂いがするドロドロした液体だったようで、当事の人はこれをストローで飲んでいました。

残された記録から古代のビールの醸造法をたどると、

①水に浸して大麦を発酵させ、これを天日で干す、

②うすでひいて水を加えてこねる、

③軽く焼いて砕き、水に浸した大がめに入れて足で踏んで発酵しやすくする、

④発酵してドロドロになったところを布で濾(こ)す、

といった順序で作られていました。

作業は主に女性が行っていましたが、メソポタミアこと現代のイラクの夏の高温では貯蔵しても腐るようなので、出来上がったらすぐ飲んでいたそうです。

今から3700年以上前にバビロニアの「目には目を」「歯には歯を」で有名なハンムラビ法典には、世界で最も古いビールに関する法律も書かれています。

その法律の日本語訳を抜粋しますと。

「お寺の尼さんがビール酒場を開いたり酒場に立ち寄ったりすると火あぶりの刑」

「ビールの代金を麦で受け取るが、銀貨で支払ったり、麦で支払った人より安くビールを提供した女性は水中に投げ込まれる」

などと物騒な刑罰が用意されていました。

先ほど説明したように原始的な手順で作られていたため、粗悪品のビールも多くでまわっていたようで、2300年以上前にアレキサンダー大王の家庭教師をやっていた哲学者のアリストテレスは、

「ワインを飲むと四方に倒れてうつ伏せになるが、ビールを飲むとなぜか後ろに倒れて仰向けになる」
といってビールの悪酔いをこきおろしています。

実際、古代ギリシャ人や古代ローマ人は、ワインは神々の飲み物として称えましたが、ビールはギリシャやローマの文明が及ばない田舎の野蛮な人たちが飲む低俗な酒と考え、一般市民もほとんど口にしませんでした。

それと蛇足ですが、古代から酔い覚ましにはキャベツが効果あると説かれていました。

現在のようなビール文化を生み出したのは、古代ローマ帝国を滅ぼしてヨーロッパ各地を支配したゲルマン人によるものでした。

そのゲルマン人らは風味がよく、腐敗も防ぐ効果があることから、ビールにホップを使うようになったのは西暦700年代ごろから、と言われていますが、これによって格段にビールの品質が向上しました。

ドイツなどヨーロッパ北部では、当初、農民が自家製ビールを作っていましたが、1200年前にカール大帝がローマ法王とその教会を援助して法王から西ローマ帝国皇帝として戴冠(たいかん)されたころから、修道院でのビール作りが盛んになっていきます。

この頃、教会は10分の1税として農民から年貢を取っていたので、年貢として集めた大麦などの穀物が大量にある修道院は、一度に大量のビールを作るにはうってつけの環境でした。

ちなみに、最初の修道院ビールはスイスのザンクトガレン修道院で、西暦820年ころに作られたと言われています。

ドイツでは古くから身分や男女関係無く自由に集まってビールを飲む風習がありました。

このため、カール大帝では泥酔して堕落したと見なした国民をとりしまる目的で、裁判所に原告や証人が酔っ払った状態でやってくるのを禁止し、裁判の判決をくだす貴族もしらふでないと、裁く事は出来ないというお触れを出しました。

同時に酔っ払いの兵士は反省したのち、お上に許しをもらうまでは水以外飲んではいけないというお触れも添えられていました。

カール大帝のお触れは効果がなかったようで罰金刑にしたり、牢屋に三日入れられるなど厳しい罰も下しましたが、今も昔も酒と酔っ払いを取り締まるのは至難の業(わざ)のようです。

カール大帝の時代から百年以上経った中世ドイツの飲酒のマナーはことのほか厳しく、飲むほうもそれなりの心得を持って飲んでいたようです。

たとえば、貴族と商人が一緒にビールを飲むのは禁じられていましたが、学生と飲むのは許されました。

また、若い娘が真面目な青年とプラトニックな関係で飲む事は公に認められていましたが、たとえそのような人物だと思ってなかったにしても、下心がある男と飲んだ場合大いに非難されました。

いっぽう、乾杯にも様々な掟がありました。

本来は不在の人に捧げるのが乾杯の慣わしですが、たまたま不在の人の恋人が居る場合はその女性に捧げて乾杯する事が認められていました。

乾杯してからは一気飲みで全部飲み干すのが礼儀で、飲み干したらジョッキをひっくり返して一滴のビールも残っていない事を示すのが粋とされました。

飲み仲間に新しい客が入ると、各人が客にビールを献上するのですが、客がこれを断ると死をも意味するルール違反とみなされました。

このルールによって中世ヨーロッパではビールの席での流血沙汰がしばしば起こっています。

また、客が同席者と気が合わなかったり、ビールを飲み干せない時は隣の席の女性に限って、助けを求め、代わりに飲んでもらう事ができました。

こうしたルールがあるために貴族など育ちのいい人は若い頃からビールを一気飲みで全部飲み干せるよう鍛錬していました。

ビールは教会の洗礼式、葬式、商談、集会、あらゆる社交や儀式に必要な潤滑油だったので、多くの人が真面目に酒が強くなるよう努力していました。

西暦1500年代になると、都市部の中間層によって本格的なビール作りが行われ、この頃から立派なアルコール飲料になったと言われます。

1516年にはドイツのバイエルン公国のヴィルヘルム4世が、大麦麦芽、ホップ、酵母、水以外のものでビールを作ってはいけないとする「ビール純粋令」なる法律を打ち出しましたが、これが食品管理に関する最も古い法律とされています。

にもかかわらず、1700年代までは庶民や貧乏人が飲むものというレッテルが貼られ、偏見が根強く残っていました。

その後イギリスでビールの原料であるホップと麦芽に税金をかけたのをきっかけにアーサー・ギネスが発芽させてない麦を使って税金取られないように酒を作り、これがギネス・ビールの始まりとなります。

そして新大陸アメリカにビール文化が渡っていくと小麦などを使う余裕が無かったので、代わりにトウモロコシや米などで作った飲み口の軽いアメリカン・ラガーが生まれていきます。

そして1840年代からは産業革命で安く大量にガラスも作られるようになり、今のようなガラスのジョッキにビールを注いで飲む事ができるようになり、今に至ります。

コラムはこれで終わりですが、皆さん楽しんで頂けたでしょうか?

それでは良い1週間を。

食の歴史その14~神々とワイン~

21 6月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと思ってコラムを書いてみました。
携帯やスマホで見ている方もいるだろうと考え、あえて画像は入れていません。

聖書では人類が初めて口にした酒はワインとされています。
「旧約聖書」にはワインの記述が500箇所ほどあり。
その中でノアの大洪水の話では洪水が終わって箱舟から出てくると。
「ここにノア、農夫となりて、ブドウ畑をつくることはじめしが、ワインを飲みて酔い、天幕のうちにありて裸になれり」
と「旧約聖書」ではノアが初めてブドウを栽培し、ワインを作った事になっています。

「新約聖書」では、最後の晩餐にてキリストが、
「お前達のために流す私の血」
と言って弟子達に分け与えて以来、教会のミサに欠かせないものとなりました。

また、ギリシャ神話では酒の神ディオニソスの血とされ、古代ローマでは酒の神バッカスへのささげ物でした。

古代ギリシャではディオニューシア祭という。酒の神ディオニソスにちなんだ祭りがありましたが。
この日に限っては酒の席だからなのだろうか、階級や男女問わず、からかったり冷やかしても許され。

ディオニューシア祭のメインイベントである演劇の上演も普段は言えない反戦のメッセージや体制批判などを表立って行える貴重な場でもありました。

ワインがいつから飲まれたのかについては諸説ありますが。6000年前のメソポタミア文明があった所の遺跡からワインを醸造していた痕跡がありますし。このメソポタミアは「ギルガメシュ叙事詩」にて「旧約聖書」よりもはるか昔に洪水伝説が発祥した所でもあります。

ちなみに、ワインという言葉はラテン語の「ウィヌム」、古代ギリシャ語の「オイノス」に由来しています。
このラテン人や古代ギリシャ人が参考にしたもっとも古いワインを指す言葉「ウィヤナス」はトルコのアナトリア半島に勢力を持った世界最古の製鉄民、ヒッタイト帝国の言葉であるとの説があります。

こうして古代からヒッタイト人、ラテン人、古代ギリシャ人がそれぞれ命名したワインは3700年ほど前にエジプトや中東からギリシャに伝わり、さらにギリシャが植民地を拡大していきますと。イタリアにも広まり、そこから南フランス、スペインへと広まっていきました。

この当事はワインをまず宴会を行う家の主人が最初に飲み、これを時計周りと逆の順番で回し飲みするマナーなどもありました。

他にも古代ギリシャ、古代ローマではワインを水で割って飲むのが常識でした。

割る割合もワイン1に対して水が3で割ると決まっておりました。

割らずに飲むと野蛮人の飲み方とされました。

こうした水で割って飲む習慣はワインがまだ大量生産されず貴重品だったので、生のまま浴びるほど飲む余裕が無かったのと。アンフォラという素焼きのかめの中に保存していると水分が蒸発して濃縮され甘みも酸味も強くなってしまう事が多々ありました。

そこで、濃縮されたワインが発酵しないよう松ヤニや塩水を加えましたが。それでも味が濃縮されているので、水で割って飲みやすいよう工夫したとも言われています。

その後、ローマ帝国の時代である西暦300年代にはフランスのボルドーやブルゴーニュ、シャンパーニュ、そしてドイツのライン川沿いなど、現在でもワインの名産地とされている場所でブドウの栽培と同時にワインの製造も行われていたようでした。

それからも少し時代を経て、ローマ皇帝がキリスト教を帝国の宗教とし、布教が広まると。教会では僧侶がワイン作りを熱心に取り組み技術も向上させ、「聖なるキリストの血」の研究に没頭していきました。

こうして教会の僧侶が努力して醸造していったワインは上質なものを醸造するためには品質、気象、土壌、地形などに左右され。あらゆる面で繊細さを求められるので、ワインが文化と呼ばれてきたゆえんでもあります。

欧米のアルコール文化は、
フランス、イタリア、スペイン、ポルトガル、ギリシャなどの南ヨーロッパを中心とした「ワイン文化圏」

イギリス、オランダ、北欧を中心とした「ウイスキー文化圏」

ドイツ、オーストリア、チェコとアメリカを加えた「ビール文化圏」
に大きく区別されます。

ワイン文化圏では、基本的にワインを飲みながら食事をします。

なかでもフランス人はワインと食事の調和になみなみならぬ情熱を注ぎ、料理の味を引き出すために、ワインの銘柄や種類にこだわります。

これは和食と日本酒との関係にも共通するところがあり。

例えば本膳料理や会席料理などの和食の多くは酒のためのおかずという意味合いが強く、肴(さかな)と言う字も、元々は「酒菜」、つまり酒を飲みながら食べるおかずという意味合いから生まれた言葉なのだと言われています。

晩酌という言葉がありますが、これは厳密には食事の前にお酒を軽く楽しむもので。以外に新しい習慣で。平安時代から食事と酒を一緒に味わうものでした。

ワインの話に戻しますと。ワインは食事中の酒ですが。ウイスキーやビールは食前の酒とされてきました。

ウイスキー文化圏ではカクテルも含めて酒を楽しんでからメインディッシュにかかるのが伝統とされているようです。

おもしろいことに、ワイン文化圏は食生活が豊かで農耕もいち早く発展し。産業革命後もそれほど工業が発展せず。宗教はカトリック文化圏と重なります。

逆に食生活が貧弱で産業革命が急速に進んだイギリスやドイツなどのプロテスタント文化圏ではウイスキーやビールを好む傾向があります。

これには、ブドウが暖かい所でしか栽培できないのに対し、ウイスキーの原料の大麦などが寒いところでも育つ事。

さらに気候的に寒い条件では度数の強いアルコールが好まれる事。

儀礼を重視してワイン作りに情熱を傾けるカトリックと、儀礼を軽視するプロテスタントの宗旨の違いなども深く関係していると思われます。

ここでコラムは終わりですが。皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

それではよい週末を。