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食の歴史その40~砂糖と爪楊枝~

19 8月

こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いてみました。

今回もビジュアルで分かりやすくすべく、画像を多用してみます。

砂糖の原料サトウキビはインド原産で2500年ほど前には製糖されていたとされています。

アレキサンダー大王(紀元前356~紀元前323年)がサトウキビの産地インドまで遠征し、「蜜の葦」の存在を伝えた頃にヨーロッパにも砂糖は伝わっており、古代ローマにて使われていましたがローマ帝国が崩壊し中世になるとヨーロッパへの砂糖の供給が滞ります。

イスラム帝国の勢力範囲

イスラム帝国の勢力範囲

砂糖の生産地はイスラム帝国のアラブ人が入植したスペインとシチリア。そして中近東であり。サトウキビが育たないヨーロッパではヴェネチアに運ばれて再び製糖された砂糖を大変な高値で取り引きされていました。しかし、1096年からそれを覆す事件が起きます。

十字軍征服路

1096年から始まった十字軍が砂糖の生産地を占領し、再びヨーロッパへ直接供給されていきますが、1300年頃から勢いの増したオスマントルコ帝国に駆逐され、千年にわたって東ローマ帝国の帝都だったコンスタンティノポリスが1453年に陥落してから砂糖の供給がほとんど無くなってしまいました。

マデイラ島とカナリア諸島

マデイラ諸島とカナリア諸島

ところが、1419年に大西洋のマデイラ諸島が、1480年にカナリア諸島が発見され、技術者を送り込んで砂糖の生産が始まりました。

こうして生産された砂糖が値崩れしないようヨーロッパに供給する数は制限され、イギリスでは450グラムの砂糖でレモン240個が買えたましたので、現代の価格に相当しますと、約14000円相当となります。

イギリス女王エリザベス1世

イギリス女王エリザベス1世

そんな高値でも砂糖がヨーロッパ中に出回り、砂糖を使った様々な菓子が考案され洗練されていきます。

砂糖を使った菓子類が大好物のエリザベス1世(1533~1603年)は歯が虫歯で真っ黒だったと伝えられています。

爪楊枝を使う右端の女性

爪楊枝を使う右端の女性

当時は黒くなった歯に石灰で磨いたり硝酸で漂白などを行い、虫歯を抜くために歯医者という職業も出現し。古代インド発祥の爪楊枝で上の食卓風景の絵にある右端の女性のように歯をほじるのがステータスとなり、爪楊枝には金属製ブローチのように彫刻や宝石がついていました。

1700年代ヨーロッパの三角貿易

1700年代ヨーロッパの三角貿易

しかし、時代は進みイギリスなどがカリブ海やアメリカ大陸に植民地を持ちますと、上の図に見られるような三角貿易によって西アフリカから連れてきた奴隷をカリブ海などへ砂糖を作るための労働力として送り、砂糖の大量生産が行われヨーロッパにもっと安く供給されるようになりました。

イギリス産業革命

イギリス産業革命

こうして庶民にまで砂糖を入れたコーヒーや紅茶が広まり、産業革命にも陰ながら貢献していきます。

それまでの労働者は水の代わりにビールやワインを飲んでいたので、酔っ払って作業効率が悪くなりましたが。コーヒーや紅茶は逆にカフェインで目が冴え、一緒に入れた砂糖から手っ取り早くカロリーが摂取できるので、素早く体を動かすエネルギーが得られ、労働効率が上がっていきました。

そういった事情からか、1800年代に「世界の工場」と言われた頃のイギリスでは温かいミルクティーが1度の食事と同等の扱いをされていました。

カフェ・プロコープのヴォルテール

一方、同じく砂糖が安く手に入るようになったフランスでは1674年からカフェが始まり。家に閉じ込められていた女性たちもカフェに出入りする事が許され。カフェではコーヒー、紅茶、ココアなどの飲み物の他にお菓子、果物の砂糖漬け、シャーベットが出されました。

1721年にはパリに300軒ものカフェが営まれ、フランス革命後の1800年になると2000軒を越えるまでになりました。

パリの数あるカフェの中でも「カフェ・プロコープ」はすぐ近くの劇場で劇が終わると貴族や金持ち、知識人がやってきて。イギリスのコーヒーハウス同様、貼り出されたその日のニュースなどを見て情報交換や討論を行い、噂の発生源ともなりました。

この由緒ある「カフェ・プロコープ」に出入りした客の中に宗教と科学の分離を促す啓蒙思想の大家ヴォルテール。

絶対王政に反対し、権力を司法、立法、行政の3つに分ける三権分立を説いたモンテスキュー。

「人民主権」を提唱し、後の民主制や選挙制度に影響を与えたルソー。

などが出入りし、彼らによって後のフランス革命に繋がる革命思想が芽生えました。

こういった知識人が出入りしたカフェについて1721年にモンテスキューはこう書いています。

「もし私がこの国の統治者だったら、カフェなど閉めてしまうだろう。なぜなら、ここに集まってくる人々は頭にひどく血が上っている。居酒屋で酔っ払わせているほうがずっとましだ。少なくとも、酒に酔っても自分にしか害を及ぼさないが、カフェで議論に酔った連中は、国の将来にとって危険なものになる。」

こうしてコーヒーや紅茶に入れられた砂糖は陰ながら近代思想にも影響を与えたりもしました。

もし、ヨーロッパに砂糖がなければ現代につながる近代国家も産業革命も生まれなかったことでしょう。

以上でコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その39~大航海時代の食卓~

16 8月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いて見ました。

今回もビジュアルでわかりやすくするために画像を沢山使う予定です。

 

スパイスは厳密には「香辛料」と言い。料理の風味を引き立て、食欲をうながす調味料の一つとなっています。

麺類だけでもソバなら唐辛子かワサビ、ラーメンにはコショウ、そうめんにはショウガといったようにセットになっているのでわかるように現代の食生活にスパイスは欠かせない物となっています。
このスパイスを使った歴史は古く、人類がスパイスの存在を知ったのは5万年前からだとされています。

ミケランジェロ作「天地創造」

ミケランジェロ作「天地創造」

聖書にある天地創造の天上会議で出されたワインにゴマが入っていたという伝説がありますが、これがスパイスの始まりとも言われています。

2300年ほど前にギリシャからインドまで遠征したアレキサンダー大王がペルシャの皇帝と戦う前に、ペルシャからアレキサンダー大王に宛ててゴマの実を送られたのに対し、マスタードをペルシャに宛てて送り返したという逸話もありますので、昔から王侯貴族や金持ちはスパイスで食卓を彩っていましたが大変高価で。

インドネシア西部のマラッカ諸島

インドネシア西部のマラッカ諸島

大航海時代以前のクローブの価格だけでも原産地のインドネシアにあるマラッカ諸島からヨーロッパに運ばれまでにインドや中東のアラビア商人、イタリアのヴェネチア商人を経由してヨーロッパ各地に至ると原価の360倍にもなっていました。

このような暴利に音を上げたヨーロッパ諸国はヴェネチア商人も中東のアラビア商人も介さずに直接スパイスを手に入れる独自ルートを手に入れるためにインドや中国、聖書に出てくる東の楽園エデンの園だとみなされていたマラッカ諸島へ向かうべく船を出して探しに出て行き、大航海時代が始まります。

アメリカへ向かったコロンブスのサンタマリア号

アメリカへ向かったコロンブスのサンタマリア号

マルコ・ポーロの「東方見聞録」を信じてジパング、中国を目指したコロンブスが1492年にアメリカを発見。1498年にバスコ・ダ・ガマがアフリカ最南端の喜望峰を経由して直接インドへ向かう航路を発見。1522年にはマゼラン率いる船団がマラッカ諸島を発見し、世界1週をして帰ってきました。

このような華々しい成果の陰には船乗りの厳しい食生活がありました。

1度の航海に3ヶ月分の食糧を積み込みますが、その内容は今よりも硬く味気の無いビスケット、塩漬け肉、塩漬け魚、干し魚、乾燥した豆やニンニク、チーズ、玉ねぎ、果物、ビール、ワイン、真水、油、酢、塩などですが。船出して数日で新鮮な野菜、果物は無くなり、その後はひたすら塩漬けの肉類とビスケットを食べ続けるほかありませんでした。

何週間もするとビスケットにもコクゾウムシが湧き、ネズミにかじられその糞も付着し。塩漬け肉もウジが湧いてドロドロになっていきます。水も黄ばんで汚水となり、ワインやビールを飲むほかありません。

こうした食生活で沢山の船乗りの命を奪ったのがビタミンC不足による壊血病でした。

壊血病は倦怠感の顔色の悪化に始まり、歯茎や口の粘膜からの出血、皮膚内出血、手足のむくみなどが起こり最悪は衰弱死します。

ある船乗りの日誌の中には、壊血病の身の毛のよだつような内容が記録されています。

「俺の歯茎はすっかり腐ってしまった。真っ黒な腐った血が流れ出ている。太ももは壊疽を起こしていて、俺はナイフでこの腐った肉を削り取って、どす黒い 血を無理やり流しだす。土気色になった歯茎もナイフで削り、腐った血をしぼり出す。俺は小便で口をゆすぎ、強くこする。ものを噛めないので、飲み込むしか ない。毎日この病気で仲間が次々と死んでゆく。包みや戸棚の裏でいつの間にか死んでいて、発見された時は目や指はネズミにかじり取られてなくなってい る・・・・。」

バスコ・ダ・ガマの10ヶ月にのぼる長期航海でもこのような地獄絵図が船乗りに起こり、出発した時は170人いましたが壊血病で次々と死んでゆき、ヨーロッパに帰ってきたときは44人しか残っていませんでした。

キャプテン・クックことジェームズ・クック

キャプテン・クックことジェームズ・クック

この壊血病による船乗りの死人を出さないようになったのは大航海時代が始まって250年以上も経ってイギリスのキャプテン・クックことジェームズ・クックの登場を待たなければなりませんでした。

ザワークラウトとソーセージ

ザワークラウトとソーセージ

1753年にイギリス海軍省のジェームズ・リンドが新鮮な野菜を食べたら壊血病が防げる事を発見し、キャプテン・クックが1768~1771年にかけての長期航海にて1500年代から1700年代にかけてヨーロッパ全土に伝わった千切りキャベツと塩を瓶に詰めて発酵させた漬け物ザワークラウトを積み込ませ、船乗りに食べさせたところ、壊血病で死ぬ者が一人も出さなかったという功績を残しました。

その後、イギリスの軍艦には壊血病予防にライムが詰まれ、長い航海中ひたすらライムをかじっていたのでイギリス人の事を「ライミー」と呼んだりします。

今も「ライミー」という言葉が使われていまして、邦題『イギリスから来た男』という映画も原題はイギリス人を意味する『THE LIMEY』です。

最後にその『THE LIMEY』からテレンス・スタンプ演じるイギリスから来たおじいちゃんの話すコテコテのイギリス英語をどうぞ。

よく聞けば、英語わからなくても何とくアクセントや話しかたがアメリカ英語と違うなあと感覚でわかるかと思います。

以上でコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

 

食の歴史その36~トマトがなかった昔のケチャップ

2 8月

こんにちは、今日も暇つぶしになればと願ってコラムを書いて見ました。

ビジュアルで分かりやすくするため、画像を沢山使ってみました。

今、ケチャップと言いますと完熟トマトを加熱してから湯剝きで皮を取り、裏ごししてから低温で煮詰めてトマトピューレを作り。砂糖、塩、酢、オールスパイス(ピメント)、シナモン、グローブを加え、タマネギ、セロリなどの野菜も加えて作られます。

ケチャップ状の調味料には歴史があり、古代ローマ時代からあるケチャップは広く「ガルム」という名で知られ、リクアメンと呼ばれていました。

ローマでのガルムの製法

ローマでのガルムの製法

ガルム、またはルリクアメンは世界で最も古い調味料の一つで。酢、オイル、コショウ、干したアンチョビをドロドロにしてから潰して裏ごしにして調味したソースでした。

古代ローマで作られたトマトのないケチャップは鶏肉や魚に良く合うソースとして重宝され、ケチャップ工場で有名な町もありました。

2000年ほど前に火山灰に埋もれたポンペイの遺跡には「最高に滑らかなリクアメン。ウンブリクス・アガトホプス工場製」と書かれた世界で最も古いケチャップの瓶が発掘されています。

しかし、これは現在のケチャップの直接の先祖ではなく。1690年代に中国でやはり鶏肉と魚用のソースとして魚の酢漬け、貝、スパイスを塩水で漬け込んだものがマレーシアやその周辺にも伝わり、ここで「ケチャップ」という言葉が初めて出てきます。

このケチャップを1700年代にイギリス人がマレーシアやシンガポールの原住民が食べているのを見つけ、故郷のイギリスに持ち帰り、イギリスでもその味を懐かしんで料理人に作らせたのですがアジアのスパイスが手に入らなかったので、代用として魚介類ではカキ、アンチョビ、ロブスターを使い、他にはマッシュルーム、インゲンマメ、クルミ、キュウリ、クランベリー、レモン、ブドウなどで作り、現在でもパイやシチューに使われています。

イギリスのキノコから作ったケチャップ

イギリスのキノコから作ったケチャップ

この中国、マレーから伝わってイギリスで独自に作られたケチャップはイギリス人を魅了し、ハリスン夫人の書いた『ハウスキーパーのポケットブック』という人気の高い料理書に、主婦は「このソースを決して切らしてはなりません」と書かれています。

チャールズ・ディケンズ

チャールズ・ディケンズ

ヴィクトリア朝時代のイギリスを代表する『オリバー・ツイスト』などの著書を残した作家チャールズ・ディケンズ(1812~1870年)は『バーナビー・ラッジ』の中で「たっぷりケチャップをかけたラムチョップ」に舌鼓をうち、パイロン卿は彼の詩『ペッポー』の中でケチャップを称えています。

このケチャップにトマトに入ったのは1790年ごろ、アメリカのニューイングランド地方で生まれたとされます。

トマトは今のメキシコに繁栄していたアステカ帝国で食用に品種改良し、栽培されており。そのアステカを征服したスペインのエルナン・コルテスが1519年に種を持ち帰ったのですが、毒草のベラドンナに似ているのと、赤い実だけでなく毒のある葉も間違って食べていたから長い間毒とされ、日本でも江戸時代に長崎から伝わり、貝原益軒の『大和本草』にもトマトについて書かれていたのですが。ここでも偏見があり、日本でも食用になるのは明治を待たなければなりませんでした。

トーマス・ジェファーソン

トーマス・ジェファーソン

こういったトマトの偏見を覆したのがアメリカ建国の父の一人トーマス・ジェファーソン(1743~1826年)でして、アメリカで最初にトマトを栽培し、赤い実だけ食べれば毒は無く、すぐれた食べ物である事を知らせました。

アメリカにパリ仕込みのフライドポテトを持ち込んだりとアメリカの食生活にも影響与えたジェファーソンのトマトとそのケチャップはすぐさま広まり、1792年にリチャード・ブリッグが書いた『新しい料理法』にトマトケチャップの料理法が書かれ、1850年代にもなると、どこの家庭にでも見かけられるようになります。

この頃人気のあった料理書、イザベラ・ビートン著『家政学の書』は、「トマトケチャップ・ソースは経験を積んだ料理人にはもっとも利用価値の高いソースの一つです。作る手間を省いてはなりません」と主婦たちにアドバイスしています。

しかし、家庭ではトマトを湯剝きして、裏ごししたものを絶えずかき回して作るトマトケチャップは大変な手間であり、1876年にドイツ系アメリカ人の料理人兼ビジネスマンのヘンリー・ハインツが世界で初めて瓶詰めケチャップを最初に大量生産されたとき、アメリカの主婦達がしきりに買い求めたのも当然のことでした。

ハインツ社のトマトケチャップ

ハインツ社のトマトケチャップ

ハインツ社を作ってトマトケチャップの瓶詰めを量産したヘンリー・ハインツは「お母さんがたと家庭を預かる女性に福音!」とレッテルに書いて売れたケチャップは、瓶の形は底が広くて首が細いデザインと中身のケチャップの製法が百年以上の間、ほとんど変わっていません。

アメリカから飛んで日本に向かいますと、カゴメのトマトケチャップが圧倒的なシェアを得ていますが、これは明治になってから西洋野菜としてカゴメの創業者、蟹江一太郎が1899年にトマトを栽培し、数年後豊作で余ったトマトを保存食にするべく、西洋のケチャップの製法には必要なオールスパイス(ピメント)、シナモン、グローブなどのスパイスの調達が難しく、代用で漢方薬を使ったりと試行錯誤を繰り返し。1904年に生産を開始し、今に至ります。

カゴメが国産ケチャップを開発、販売していなければ。チキンライス、オムライス、ナポリタンは生まれていなかったかも知れません。

今日はケチャップでタマネギとピーマンを炒め、ナポリタンを作りたくなってきました。

皆さんもケチャップがあったら何かに使ってみませんでしょうか?フライドポテトにケチャップも美味しいですよね。

それではケチャップをふんだんに使ったナポリタンを食べますので。今日のコラムはこれで終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の文化史その2~茶と紅茶とコーヒーの歴史~

18 6月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶし用にコラムを書いてみました。
ビジュアルで分かりやすくするために画像を沢山使ってみます。

中国、ミャンマーと国境を接するルアンナムター県

中国、ミャンマーと国境を接するルアンナムター県

まず、茶の歴史はミャンマー北部と中国南部に自生していたのを2300年ほど前に飲み物として使うようになったのだけど。最初は漢方薬として使われていました。


それが仏教が伝来し。仏教が酒を戒めると、お茶は酒の代わりに広まっていき。1600年ほど前には茶を栽培して飲むようになりました。

そのお茶も中国では大雑把に三種類ありまして。北部では緑茶、ジャスミンなどを入れた花茶。南部の福建省では烏龍茶。香港の近くにある広東では紅茶が作られて飲まれるようになりました。

長崎の出島とオランダ船

長崎の出島とオランダ船

それから千年以上送れてヨーロッパもお茶を飲むようになったのですが。最初は1610年にオランダが長崎からオランダの首都アムステルダムに運んだ緑茶がヨーロッパに渡った最初のお茶と言われています。この頃はオランダが植民地帝国で世界中に幅を利かせていました。

ウィーンの シェーンブルン宮殿

ウィーンの シェーンブルン宮殿

イギリスもその頃は意外でしょうけれども緑茶を飲んでいました。他にも、沢山の皇帝を輩出したヨーロッパの名門家ハプスブルグ家の本拠地ウィーンでも、不老長寿の薬として飲まれていました。海の交易は最初オランダが独占していましたが。1669年にイギリスが中国からお茶の買い付け に成功していますが、まだ緑茶でした。

ポルトガルから嫁いだキャサリン・オブ・ブラガンザ王女

ポルトガルから嫁いだキャサリン・オブ・ブラガンザ王女

緑茶から紅茶への変化をもたらすきっかけは1662年にポルトガルの王女キャサリンがイギリスに嫁いだ時に持参した紅茶でイギリス王室から紅茶を飲む習慣を広めたことからはじまります。

1600年代のポルトガルの都リスボン

1600年代のポルトガルの都リスボン

イギリスの硬水 の水質では王女キャサリンが故郷ポルトガルの貿易港リスボンから持参したタンニンの多い紅茶が適しており、肉食を好む食生活に濃厚なお茶の風味がマッチしていたのも緑茶に代わって紅茶が席巻していった理由だと言われ ています。

こうして紅茶が緑茶よりも好まれるようになり。ヨーロッパ、中東、アメリカでも飲まれるようになりました。
1800年代にインドやスリランカで紅茶を栽培して世界の紅茶をイギリスが独占しますと。独占しているために高値でふっかけられた値段に嫌気をさしたフランスやアメリカはコーヒーへとシフトしていきます。

こんな事情があって。紅茶はイギリス、コーヒーはアメリカという図式が後々出来ていきます。

エチオピア高原

エチオピア高原

では、次にコーヒーの歴史もさらっと説明してみます。
コーヒーの原産地はエチオピアのカファと言われる標高2400メートルの高原地帯に自生していたのを飲料にしたのが中東に伝わったものです。
コーヒーを飲むきっかけとそのルーツは伝説の領域ではっきり分かってませんが。文献には1100年前にアラビアのラーゼスという医師が茶と同じく薬用で処方したのが一番古いコーヒーに関する記録だと言われています。

コーヒーの実を食べた鳥を観察するシェーク・オマール

コーヒーの実を食べた鳥を観察するシェーク・オマール

あと、1587年に書かれた文献ではイエメンのモカに住むシェーク・オマールというアラブの偉い坊様が山で小鳥がついばんでいる赤い実を食べてみたらカフェインのせいか。心身爽快になったので。飲み物に加工して病人に与えて苦痛を救ったので聖人になったと言われています。

「昔ア~ラブの偉いおぼうさ~まが~♪」で始まるコーヒー・ルンバはこの話が元です。
アラブの偉いお坊様が飲ませたコーヒーはモカだったんですねえ。

昔の中東の喫茶店

昔の中東の喫茶店

しかし、コーヒーは長い間、門外不出の秘薬とされ。一般には出回らなかったけど。1554年にトルコの首都イスタンブールで「文化人の学校」という名前で出したのがコーヒー喫茶店の始まりだったそうです。

そのトルコ人が1615年にイタリアは水の都ベネチアに持ち込み、それがフランスやイギリスにまで飛び火して、イギリスも紅茶が普及するまでは「コーヒーショップ」というものが沢山あったほど流行していました。

しかし、キリスト教の敵であるイスラム教徒の飲み物を喜ぶなんてとんでもないという声もあり。反対派と擁護派で乱闘騒ぎになるほどヒートアップ。

ローマ法王クレメンス8世

ローマ法王クレメンス8世

この論争は当事のローマ法王クレメンス8世(1536~1605年)が「こんな美味しいものをイスラム教徒に独り占めさせておくことはない」と発言して一件落着。

カプチン修道会の修道士たち

カプチン修道会の修道士たち

ローマ法王が擁護するほど教会はコーヒー寄りで。カプチン修道会ではスパイスを混ぜたコーヒーを作って寝ずに修行していました。
これがカプチーノの始まりです。

コーヒーに砂糖とミルクを入れるスタイルを考案したのは音楽の都、ウィーンの人だと言われています。

トルコ帝国は音楽の都ウィーンを2回包囲して結局攻略できずに去って行ったのですが。トルコ人が去って行った時に山ほどコーヒーを残していったので。それを目端の利く人がタダ同然で買い付けてカフェを開いて一攫千金したそうです。
カフェではカップに粉が入らないよう布で濾してクリームを入れたウィンナーコーヒーも考案しました。

1668年ロンドンのコーヒーショップ

1668年ロンドンのコーヒーショップ

このカフェがヨーロッパの歴史を大きく変えていきます。
フランスやイギリスにコーヒーショップが出来ますと。イギリスでは1ペニーの入場料と1ペニーのコーヒーで雑誌や新聞読み放題。雑誌や新聞を読んだ知識をコーヒー片手に議論できたので通称「ペニー大学」とも言われました。
その「ペニー大学」の議論からイギリスでは損害保険、生命保険の概念が生まれます。

ロンドンのロイズ本社ビル

ロンドンのロイズ本社ビル

イギリスの保険組合といえばロイズが有名ですけど。もとはコーヒーショップの談義から生まれたものなんですね。

バスティーユ襲撃

バスティーユ襲撃

一方フランスでは政治家、学者、芸術家などが集まってサロンとなり。コーヒー片手に新しい思想が生まれ。それがフランス革命の原動力となっていきます。

コーヒーが無ければイギリスの議会制もフランスの共和制も出来なかった事でしょう。

さて、アメリカのほうでは1669年にニューヨークでコーヒーショップが開かれ。1730年頃には一般家庭にまで広まっていました。


しかし、西部開拓民はコーヒーが満足に無いので。代わりに黒パン、大麦、タンポポの根、嗅ぎ煙草などを煮出して。「むくんだコーヒー」と言われる代用品を作っていました。

そんなアメリカも当事はイギリスの植民地でしたので。紅茶は伝わっていたのですが。高い関税がかけられて高値でした。


その上アメリカと関係の無い所でイギリスとフランスが戦争を起こし。その戦費調達に印紙税をアメリカから取りました。
その名残が日本でも文書に収入印紙を押す形で残っています。

アメリカからすると、アメリカ人はイギリスの領土なのに、イギリスの議会に参加できない。ロンドンの政治に参加できず勝手に決められた税金なのです。

ボストン茶会事件

ボストン茶会事件

そこで、アメリカの有識者が「代表なくして関税なし」と言い出しました。
そこからイギリスの関税の象徴である紅茶を攻撃しようとインディアンの格好して乱入し。紅茶の箱を次々と海に投げ込む事件が起こりました。

これがアメリカ独立戦争のきっかけになった「ボストン茶会事件」です。

アメリカは紅茶を独占するイギリスと何度も戦い。時にはホワイトハウスを燃やされた時もあった程なので。紅茶は廃れ、コーヒーが主流になりました。

しかし、1800年代が終わろうとする頃に大きな変化が起こります。

トーマス・リプトン

トーマス・リプトン

イギリスはスコットランドのグラスゴーに生まれたトーマス・リプトン(1845~1931年)がアメリカに渡り、食料品店を開きます。その時にスリランカともセイロン島とも呼ばれる場所で紅茶を栽培してから、大量に輸送し。商標をつけて安全性も確保し、信頼を得られるブランドとなりました。
それと、リプトンがセイロン島から大量に持ち込んだ紅茶のおかげで紅茶の値段が半分になったのもアメリカでも売れた大きな要因と言われています。

リプトンの缶などにパイプをくわえ、ヒゲを生やしたおじさんの顔が書かれていますが。あれがトーマス・リプトンです。

ヴィクトリア女王

ヴィクトリア女王

紅茶で財を成したリプトンは慈善事業も展開し。そのせいもあってかビクトリア女王からサーの称号を貰っています。

もし、イギリスのグラスゴーなどへ行ってみる時はリプトンの創始者。トーマス・リプトンさんの歴史も念頭に入れるとより旅行が楽しめるかも知れません。

さて、長々とした文章ですが。いい暇つぶしになったでしょうか?

楽しんでもらえたら幸いです。