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食の歴史その50~フィッシュ&チップスと捕鯨・石鹸・冷蔵庫

17 3月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いてみました。

今回もビジュアルで分かりやすくなるよう、画像を沢山使っています。

使用している画像はクリックしますと拡大され、より見やすくなるものもあります。

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幕末の1854年にペリー率いる黒船がやってきましたが。その目的は開国によって捕鯨船に水や食糧が補給できるようにする事でした。

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石油の採掘が始まるまで鯨油(げいゆ)はランプの燃料と潤滑油として大量の需要がありました。
理由は温度が下がっても固まらない、粘結度があまり変わらないので引っ張りだこでした。

1800年代のコルセット

1800年代のコルセット

髭や骨は女性のコルセットやペチコートの材料として使われました。

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鯨油は石鹸にも使われ当事の石鹸の包装に鯨の絵が使われている事からもうかがえます。

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しかし、1800年代半ばから値上がりした鯨油に取って代わってココナッツ・オイルが石鹸の材料に使用されていきます。

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石鹸が変わっていくのは材料だけでなく、当事は糸で切り分けていたのが現代の石鹸のように使いやすいサイズへと変わり。

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有名な画家を使って広告にも力を入れた石鹸が洗練されていくと同時に1851年の万国博覧会には727ものメーカーが出品していましたが。石鹸のシェアはナイト、ギブス、ヤードリー。それと新規参入したサンライトとペアーズに半数以上占められました。

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競争に敗れた数百もの石鹸メーカーは石鹸を作るための銅鍋をフライパンに、ココナッツオイルを揚げ油に転用する事によってフィッシュ&チップス屋に転業していきます。

石鹸からフィッシュ&チップスへ転業された頃、この料理にとって重大な発明がされています。

冷凍装置の発明者ジェームズ・ハリスン

冷凍装置の発明者ジェームズ・ハリスン

1856年に実用的な冷凍装置をオーストラリアのジェームズ・ハリスンが発明しました。

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この冷凍装置は1864年以降、蒸気トロール漁船にて使われた結果、氷詰めで輸送されたタラがイギリスで安く出回るようになりました。

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こうして、1860年代からロンドンとランカシャーでタラのフライとポテトのフライが組み合わされたフィッシュ&チップスが売り出されると爆発的に広まり、1870年代にはイギリスの他の地方でも労働者の食べ物つぃて広まっていきました。

”世界で最も有名なフィッシュ&チップスの店”のキャッチフレーズでお馴染みハリー・ラムズデンのトレードマーク

”世界で最も有名なフィッシュ&チップスの店”のキャッチフレーズでお馴染みハリー・ラムズデンのトレードマーク

こうして現代では自分は外国にいった事が無いので、伝聞ですが。イギリスはロンドンのヒースロー空港に降りたつや、空港内に”世界で最も有名なフィッシュ&チップスの店”というキャッチフレーズで知られる、ハリー・ラムズデンが迎えてくれますが。創業者のハリー・ラムズデンは石鹸業者ではないらしく。ブラッドフォードの下町マンチェスター・ロードで店を開き、1900年前後にフィッシュ&チップスがイギリスでポピュラーな庶民の味となっていきます。

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日本でも売られるようになりましたが、ソーセージとポテトを揚げたソーセージ&チップスというのも存在します。

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お腹が空いてきたので、夜食にモルト・ビネガーをたっぷりかけてフィッシュ&チップスを頂こうと思います。

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油っぽいものにビールが欲しい方はパブなどへ足を運んでみてはと思います。

皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

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食の歴史その49~「人類の恩人」と瓶詰め、缶詰

10 2月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願い、コラムを書いてみました。

今回もビジュアルで分かりやすくなるよう画像、写真を多用していきます。

1800年代は食卓にも科学技術の革命が起き。サトウダイコンから砂糖を取り出したり、粉末スープの工業生産が可能となり、ヨーロッパは飢餓から逃れる事に成功します。

ニコラ・アペール

ニコラ・アペール

そんな1800年代の発明で特筆すべきはニコラ・アぺールが発明した瓶詰めと彼の名前を取った「アペルティザシオン」と呼ばれる殺菌消毒法です。

ウィキペディアを見ると情報が少なすぎるので、ニコラ・アペールの生い立ちなどの詳細も書きますと。

1749年11月17日、フランス北部のシャロン=スュル=マルヌ(マルヌ県)に生まれ。父はホテルを経営していました。

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実家のホテルの厨房で料理の手ほどきを受けたアペールはジャム、リキュール、砂糖菓子などを担当する料理人として1772年にクリスチャン4世。1775年にフォルバック公妃のもとに仕え、修行を重ねていました。

修行して腕を上げたアペールは1782年にパリのレ・アル地区のロンバール通りに店を構え。瓶詰めで食品を保存させる研究を行っていきます。

ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』

ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』

ナポレオンが皇帝になった1804年。フランス政府は遠征軍のために長期間の保存が利く方法を発明した者に今の価値で約300万円相当になる12000フランの賞金を約束し、民間からもアイディアを募集していました。

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この募集の話を知って奮起したアペールは塩漬け、酢漬け、アルコール漬け、燻製といった中世からの古い食品保存方に革命を起こすべくグリンピース、サヤインゲン、牛乳などをガラス瓶に入れて密封し、長時間煮沸する殺菌消毒を発見します。

この殺菌消毒が「アペルティザシオン」と呼ばれるものです。

ジャン-アントワーヌ・シャプタル

ジャン-アントワーヌ・シャプタル

この保存方法を科学者であり、当事大臣だったシャプタルがナポレオンに伝え、アペールの店は軍の公式納入業者となり、1809年に皇帝から12000フランの賞金を賜り、3年後の1812年には「人類の恩人」という称号も授かりました。

こうして大もうけして名誉も得たアペールですが、瓶詰めに使われた殺菌消毒と保存法などの特許を取らず、全財産を投げ打って死ぬまで食糧の保存法を研究し。『あらゆる動植物食品を多年にわたり保存する法』を出版し、英語に翻訳されたものはイギリスを経由してアメリカで読まれ、好評を博しました。

 

1824年イギリスの缶詰

1824年イギリスの缶詰

アペールの瓶詰めと保存法から発展していくイギリスのピーター・デュラントが発明してアペールと違い、特許を取得した缶詰は缶切りがまだ発明されておらず、開封はハンマーとたがねなど、大工道具を用いるため長期航海する船員や遠隔の僻地に旅行する人などが利用する程度の特殊な保存食でした。

アメリカ南北戦争 ゲティスバーグの戦い

アメリカ南北戦争 ゲティスバーグの戦い

しかし、アメリカ南北戦争(1861~1865年)で需要が増大して缶詰の大量生産に繋がっていき。1860年代は缶詰の素材に適したブリキと容易に中身を取り出せる缶切りが発明され。南北戦争以降から欧米の庶民の食卓に缶詰食品がのぼりはじめます。

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日本でも明治四年(1871年)に缶詰の製法が伝わり。長い間、軍の保存食として生産されていましたが。明治時代の缶詰の詳細は『食の歴史その47~アメリカの辞書にも載っている「テリヤキ」』をご参照下さい。

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さて、そろそろ夕食の時間なので、さばの水煮缶と大根おろしとレモン汁と薬味でさばのおろし和えでも作って食べようかと思います。

皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

お知らせ~過去の記事を加筆修正しました。

13 11月

こんばんは。以前に書いた記事に画像を加えてビジュアルで分かりやすくしたり、新たに加筆修正しました。

加筆修正した記事のタイトルとイメージ画像の一覧を下に出します。タイトルをクリックしますと、その記事のURLに移動できます。

世界の食文化その3~イスラム教の食事マナー


食の歴史その36~トマトがなかった昔のケチャップ

世界の食文化その1~世界の4割は直接手で食べている~

食の歴史その18~最初は下品だったフランス料理~

食の歴史その17~パスタのルーツは中国か?~


食の歴史その16~フレンチポテトからポテトチップに至るまで~

食の文化史その2~茶と紅茶とコーヒーの歴史~

以上となります。

また加筆修正したらブログの新着記事にてお知らせします。

食の歴史その47~アメリカの辞書にも載っている「テリヤキ」

3 11月

こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いて見ました。

今回もビジュアルで分かりやすくするために画像を多く使うつもりです。

醤油工場

醤油工場

アメリカで消費される醤油は醤油メーカーのキッコーマンがアメリカで製造している量だけでおよそ10万リットルと言われていますが。アメリカで消費される醤油のほとんどが照り焼きソースになっていると言われています。

映画『サイン』のワンシーン

映画『サイン』のワンシーン

映画『サイン』でも晩飯にメル・ギブソン演じるパパが家族に「好きなもの食っていいぞ」言うと。まずはチーズバーガー、スパゲッティとアメリカらしい食事を家族がリクエストしていき、最後に筋肉質のあんちゃんが「teriyaki」とさり気無く言うシーンがあるほど、照り焼きという言葉も料理もアメリカでは一般的になっており。アメリカの辞書にも「teriyaki」が載っています。

ブリの照り焼き

ブリの照り焼き

アメリカに伝わる以前の照り焼きは醤油、砂糖、酒で魚を調理したもので。日本ならではの料理、肉じゃが、すき焼き、今も缶詰に使われる大和煮などと共通しているのは調味料に砂糖を使っているところです。

ここからは推測で述べますが。日本料理に醤油と砂糖で煮〆た料理が普及したのは戦前に日本全国から人を集めた軍隊の中で食べ親しまれ全国的に普及したのだと思われます。

吾妻ひでお著 『失踪日記』よりアル中病棟のひとコマ

吾妻ひでお著 『失踪日記』よりアル中病棟のひとコマ

人間は酒が飲めないと、むしょうに甘いものが欲しくなるもので。アル中の体験を小説にした故、中島らも氏も断酒時代は冷凍バナナやあんぱんに凝り出し、桃の天然水をよく飲んでいました。

フランス軍の戦闘糧食に付属する菓子類

フランス軍の戦闘糧食に付属する菓子類

ミリタリーに疎いので、詳しい人の解説が欲しいところですが。軍隊もなかなか酒が飲めないらしく、どこの軍隊でも甘いものが求められ。各国軍隊の携行食糧には菓子や粉末の紅茶、コーヒー、ジュースが付属しているのが、よくあるパターンで。日本も例外ではありません。

大和煮の缶詰

大和煮の缶詰

明治時代の日本軍では醤油と砂糖とその他調味料で煮〆た大和煮の缶詰に人気があり。日清戦争、日露戦争では日本の肉牛が全て大和煮の缶詰になったほどだったといわれています。

京都の福神漬け

京都の福神漬け

もうひとつ、日本の軍隊で人気が高かったのは砂糖で甘口に漬け込んだ福神漬けの缶詰もありました。

このような甘口メニューを軍隊に入って口にし。戦争が終わって故郷に帰った後も海軍名物である肉じゃがのように家庭でも作らせて家庭料理として砂糖と醤油で煮〆た料理、または砂糖で味付けした料理が広まり、砂糖と醤油で味付けするのが共通項の照り焼きも軍隊で食べた大和煮の代わりに生まれたのだろうと推測しています。

海上自衛隊のカレー

海上自衛隊のカレー

話がわき道にそれますが。激辛、辛口がブームになったのは1980年代の事で。昔のカレーも甘口が普通でして、特に軍で出すカレーは辛くて食えない人を出さないようにするためなのか、必ず甘口だったそうですので、今時の辛口カレーが食べられないお年寄りも結構いたりします。

チキンテリヤキ

チキンテリヤキ

閑話休題。こうして戦前には各家庭でおふくろの味となった照り焼きが戦後の1957年に醤油メーカーのキッコーマンがアメリカに進出して醤油を売ろうとした時、キッコーマンの日系二世のセールスマン、タム吉永が彼の母親の調理した和食、魚の照り焼きをヒントに、肉料理に合う醤油ベースの料理法「テリヤキ」を発案。テリヤキソース調理法はキッコーマン主催の料理教室や販売促進用の小冊子などで、ゆっくりとアメリカに定着し、アメリカの辞書に乗るほどの現在の地位を確立してきました。

ヨシダソース創業者 吉田 潤喜(よしだ じゅんき)

ヨシダソース創業者 吉田 潤喜(よしだ じゅんき)

それから50年以上経った今のアメリカでは。アメリカ人が好きなバーベキューに照り焼きソースをつけて食べられていますが。そのソースは吉田 潤喜(よしだ じゅんき)が80年代初期に考案して販売し。大成功を収めたヨシダソースが有名です。

ヨシダソース

ヨシダソース

もし、アメリカで照り焼きを食べる機会がありましたら。おそらくはヨシダソースを塗って焼いたものが出されるかと思います。

ブリの照り焼き

ブリの照り焼き

照り焼きの事を書いていましたらお腹が空いてきましたので、魚屋に行ってブリの照り焼きを買って生姜をそえて頂こうと思います。

皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その40~砂糖と爪楊枝~

19 8月

こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いてみました。

今回もビジュアルで分かりやすくすべく、画像を多用してみます。

砂糖の原料サトウキビはインド原産で2500年ほど前には製糖されていたとされています。

アレキサンダー大王(紀元前356~紀元前323年)がサトウキビの産地インドまで遠征し、「蜜の葦」の存在を伝えた頃にヨーロッパにも砂糖は伝わっており、古代ローマにて使われていましたがローマ帝国が崩壊し中世になるとヨーロッパへの砂糖の供給が滞ります。

イスラム帝国の勢力範囲

イスラム帝国の勢力範囲

砂糖の生産地はイスラム帝国のアラブ人が入植したスペインとシチリア。そして中近東であり。サトウキビが育たないヨーロッパではヴェネチアに運ばれて再び製糖された砂糖を大変な高値で取り引きされていました。しかし、1096年からそれを覆す事件が起きます。

十字軍征服路

1096年から始まった十字軍が砂糖の生産地を占領し、再びヨーロッパへ直接供給されていきますが、1300年頃から勢いの増したオスマントルコ帝国に駆逐され、千年にわたって東ローマ帝国の帝都だったコンスタンティノポリスが1453年に陥落してから砂糖の供給がほとんど無くなってしまいました。

マデイラ島とカナリア諸島

マデイラ諸島とカナリア諸島

ところが、1419年に大西洋のマデイラ諸島が、1480年にカナリア諸島が発見され、技術者を送り込んで砂糖の生産が始まりました。

こうして生産された砂糖が値崩れしないようヨーロッパに供給する数は制限され、イギリスでは450グラムの砂糖でレモン240個が買えたましたので、現代の価格に相当しますと、約14000円相当となります。

イギリス女王エリザベス1世

イギリス女王エリザベス1世

そんな高値でも砂糖がヨーロッパ中に出回り、砂糖を使った様々な菓子が考案され洗練されていきます。

砂糖を使った菓子類が大好物のエリザベス1世(1533~1603年)は歯が虫歯で真っ黒だったと伝えられています。

爪楊枝を使う右端の女性

爪楊枝を使う右端の女性

当時は黒くなった歯に石灰で磨いたり硝酸で漂白などを行い、虫歯を抜くために歯医者という職業も出現し。古代インド発祥の爪楊枝で上の食卓風景の絵にある右端の女性のように歯をほじるのがステータスとなり、爪楊枝には金属製ブローチのように彫刻や宝石がついていました。

1700年代ヨーロッパの三角貿易

1700年代ヨーロッパの三角貿易

しかし、時代は進みイギリスなどがカリブ海やアメリカ大陸に植民地を持ちますと、上の図に見られるような三角貿易によって西アフリカから連れてきた奴隷をカリブ海などへ砂糖を作るための労働力として送り、砂糖の大量生産が行われヨーロッパにもっと安く供給されるようになりました。

イギリス産業革命

イギリス産業革命

こうして庶民にまで砂糖を入れたコーヒーや紅茶が広まり、産業革命にも陰ながら貢献していきます。

それまでの労働者は水の代わりにビールやワインを飲んでいたので、酔っ払って作業効率が悪くなりましたが。コーヒーや紅茶は逆にカフェインで目が冴え、一緒に入れた砂糖から手っ取り早くカロリーが摂取できるので、素早く体を動かすエネルギーが得られ、労働効率が上がっていきました。

そういった事情からか、1800年代に「世界の工場」と言われた頃のイギリスでは温かいミルクティーが1度の食事と同等の扱いをされていました。

カフェ・プロコープのヴォルテール

一方、同じく砂糖が安く手に入るようになったフランスでは1674年からカフェが始まり。家に閉じ込められていた女性たちもカフェに出入りする事が許され。カフェではコーヒー、紅茶、ココアなどの飲み物の他にお菓子、果物の砂糖漬け、シャーベットが出されました。

1721年にはパリに300軒ものカフェが営まれ、フランス革命後の1800年になると2000軒を越えるまでになりました。

パリの数あるカフェの中でも「カフェ・プロコープ」はすぐ近くの劇場で劇が終わると貴族や金持ち、知識人がやってきて。イギリスのコーヒーハウス同様、貼り出されたその日のニュースなどを見て情報交換や討論を行い、噂の発生源ともなりました。

この由緒ある「カフェ・プロコープ」に出入りした客の中に宗教と科学の分離を促す啓蒙思想の大家ヴォルテール。

絶対王政に反対し、権力を司法、立法、行政の3つに分ける三権分立を説いたモンテスキュー。

「人民主権」を提唱し、後の民主制や選挙制度に影響を与えたルソー。

などが出入りし、彼らによって後のフランス革命に繋がる革命思想が芽生えました。

こういった知識人が出入りしたカフェについて1721年にモンテスキューはこう書いています。

「もし私がこの国の統治者だったら、カフェなど閉めてしまうだろう。なぜなら、ここに集まってくる人々は頭にひどく血が上っている。居酒屋で酔っ払わせているほうがずっとましだ。少なくとも、酒に酔っても自分にしか害を及ぼさないが、カフェで議論に酔った連中は、国の将来にとって危険なものになる。」

こうしてコーヒーや紅茶に入れられた砂糖は陰ながら近代思想にも影響を与えたりもしました。

もし、ヨーロッパに砂糖がなければ現代につながる近代国家も産業革命も生まれなかったことでしょう。

以上でコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その39~大航海時代の食卓~

16 8月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いて見ました。

今回もビジュアルでわかりやすくするために画像を沢山使う予定です。

 

スパイスは厳密には「香辛料」と言い。料理の風味を引き立て、食欲をうながす調味料の一つとなっています。

麺類だけでもソバなら唐辛子かワサビ、ラーメンにはコショウ、そうめんにはショウガといったようにセットになっているのでわかるように現代の食生活にスパイスは欠かせない物となっています。
このスパイスを使った歴史は古く、人類がスパイスの存在を知ったのは5万年前からだとされています。

ミケランジェロ作「天地創造」

ミケランジェロ作「天地創造」

聖書にある天地創造の天上会議で出されたワインにゴマが入っていたという伝説がありますが、これがスパイスの始まりとも言われています。

2300年ほど前にギリシャからインドまで遠征したアレキサンダー大王がペルシャの皇帝と戦う前に、ペルシャからアレキサンダー大王に宛ててゴマの実を送られたのに対し、マスタードをペルシャに宛てて送り返したという逸話もありますので、昔から王侯貴族や金持ちはスパイスで食卓を彩っていましたが大変高価で。

インドネシア西部のマラッカ諸島

インドネシア西部のマラッカ諸島

大航海時代以前のクローブの価格だけでも原産地のインドネシアにあるマラッカ諸島からヨーロッパに運ばれまでにインドや中東のアラビア商人、イタリアのヴェネチア商人を経由してヨーロッパ各地に至ると原価の360倍にもなっていました。

このような暴利に音を上げたヨーロッパ諸国はヴェネチア商人も中東のアラビア商人も介さずに直接スパイスを手に入れる独自ルートを手に入れるためにインドや中国、聖書に出てくる東の楽園エデンの園だとみなされていたマラッカ諸島へ向かうべく船を出して探しに出て行き、大航海時代が始まります。

アメリカへ向かったコロンブスのサンタマリア号

アメリカへ向かったコロンブスのサンタマリア号

マルコ・ポーロの「東方見聞録」を信じてジパング、中国を目指したコロンブスが1492年にアメリカを発見。1498年にバスコ・ダ・ガマがアフリカ最南端の喜望峰を経由して直接インドへ向かう航路を発見。1522年にはマゼラン率いる船団がマラッカ諸島を発見し、世界1週をして帰ってきました。

このような華々しい成果の陰には船乗りの厳しい食生活がありました。

1度の航海に3ヶ月分の食糧を積み込みますが、その内容は今よりも硬く味気の無いビスケット、塩漬け肉、塩漬け魚、干し魚、乾燥した豆やニンニク、チーズ、玉ねぎ、果物、ビール、ワイン、真水、油、酢、塩などですが。船出して数日で新鮮な野菜、果物は無くなり、その後はひたすら塩漬けの肉類とビスケットを食べ続けるほかありませんでした。

何週間もするとビスケットにもコクゾウムシが湧き、ネズミにかじられその糞も付着し。塩漬け肉もウジが湧いてドロドロになっていきます。水も黄ばんで汚水となり、ワインやビールを飲むほかありません。

こうした食生活で沢山の船乗りの命を奪ったのがビタミンC不足による壊血病でした。

壊血病は倦怠感の顔色の悪化に始まり、歯茎や口の粘膜からの出血、皮膚内出血、手足のむくみなどが起こり最悪は衰弱死します。

ある船乗りの日誌の中には、壊血病の身の毛のよだつような内容が記録されています。

「俺の歯茎はすっかり腐ってしまった。真っ黒な腐った血が流れ出ている。太ももは壊疽を起こしていて、俺はナイフでこの腐った肉を削り取って、どす黒い 血を無理やり流しだす。土気色になった歯茎もナイフで削り、腐った血をしぼり出す。俺は小便で口をゆすぎ、強くこする。ものを噛めないので、飲み込むしか ない。毎日この病気で仲間が次々と死んでゆく。包みや戸棚の裏でいつの間にか死んでいて、発見された時は目や指はネズミにかじり取られてなくなってい る・・・・。」

バスコ・ダ・ガマの10ヶ月にのぼる長期航海でもこのような地獄絵図が船乗りに起こり、出発した時は170人いましたが壊血病で次々と死んでゆき、ヨーロッパに帰ってきたときは44人しか残っていませんでした。

キャプテン・クックことジェームズ・クック

キャプテン・クックことジェームズ・クック

この壊血病による船乗りの死人を出さないようになったのは大航海時代が始まって250年以上も経ってイギリスのキャプテン・クックことジェームズ・クックの登場を待たなければなりませんでした。

ザワークラウトとソーセージ

ザワークラウトとソーセージ

1753年にイギリス海軍省のジェームズ・リンドが新鮮な野菜を食べたら壊血病が防げる事を発見し、キャプテン・クックが1768~1771年にかけての長期航海にて1500年代から1700年代にかけてヨーロッパ全土に伝わった千切りキャベツと塩を瓶に詰めて発酵させた漬け物ザワークラウトを積み込ませ、船乗りに食べさせたところ、壊血病で死ぬ者が一人も出さなかったという功績を残しました。

その後、イギリスの軍艦には壊血病予防にライムが詰まれ、長い航海中ひたすらライムをかじっていたのでイギリス人の事を「ライミー」と呼んだりします。

今も「ライミー」という言葉が使われていまして、邦題『イギリスから来た男』という映画も原題はイギリス人を意味する『THE LIMEY』です。

最後にその『THE LIMEY』からテレンス・スタンプ演じるイギリスから来たおじいちゃんの話すコテコテのイギリス英語をどうぞ。

よく聞けば、英語わからなくても何とくアクセントや話しかたがアメリカ英語と違うなあと感覚でわかるかと思います。

以上でコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

 

食の歴史その38~長い間高貴であり続けたチョコレート

11 8月

こんばんは、今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いて見ました。
ビジュアルで分かりやすくするために画像をいくつか使ってみます。

メキシコのカカオの実

メキシコのカカオの実

チョコレート、ココアの原料はカカオですが。原産地の中南米では3900年ほど前から利用され、栽培されている事がマヤ文明、アステカ文明の遺跡から明らかになっております。

当時カカオは貴重品でお金の代わりにもなっており。マヤ人の間ではカカオの断片10個でウサギ一頭、カカオ4粒でカボチャ1個、100粒で奴隷が買えました。

今でも偽札を作る人は沢山おりますが、カカオの皮に灰を詰めた偽物を作って騙す悪いマヤ人もいました。

壁画:コルテス率いるスペイン軍のアステカ征服

壁画:コルテス率いるスペイン軍のアステカ征服

このカカオを最初に発見したヨーロッパ人は1502年に中南米のポンジュラスでカカオの種を見つけたコロンブスですが、彼が一緒にヨーロッパへ持ち帰った唐辛子と同じく忘れられ。メキシコにあるアステカ帝国を征服したコルテスが1519年にカカオを煎って砕き、熱湯を加えてかき混ぜて泡立ったものを飲む利用法を知り、ハプスブルグ家の血を引くスペイン国王カルロス一世に献上されました。

スペイン名物 チョコラテとチュロ

スペイン名物 チョコラテとチュロス

それ以来、「苦い飲み物」を意味するココアは最初、貴族が朝食前のベッドで飲んで滋養強壮に使っていましたが、次第に王侯貴族だけでなく、教会の神父や女性にまで流行し。

南米では唐辛子などを入れて飲まれていたココアをスペイン宮廷で工夫を凝らし砂糖、バニラ、シナモンを入れたチョコラテとして飲まれ。揚げ菓子のチュロスと一緒に楽しむ文化も生まれました。

東京ディズニーランドに行った人なら食べた事があるであろう、チュロスは。本場スペインでは単体で食べるだけでなく、チョコラテと一緒に食べるのも定番となっています。

1600年代のスペインでは良家の娘の嫁ぎ先に持参金かわりにカカオを持って行く習慣があり、1615年と1660年の2度にわたってフランスに嫁いだ王女によってココアはフランスにも定着していきました。

ハプスブルグ家の女帝マリア・テレジア

ハプスブルグ家の女帝マリア・テレジア

1736年。フランスの近くからハプスブルグ家の本場オーストリアの女帝マリア・テレジア(1717~1780年)へ婿入りしたフランツによってウィーンの宮廷にも伝わり夫婦仲良くココアをたびたび飲まれました。

当事、ココアはコーヒー、紅茶の3倍の値段で取引され。いまだ珍重された飲み物でしたが、マリア・テレジアとフランツ夫妻が愛飲したココアは乾燥させたバラとジャスミンの花びらをココアパウダーに混ぜて数日間保存して香り付けしたものですが、花びらで香り付けする習慣はアラビアの食文化とされ、アラビアではバラの風味のついた水や油が使われていました。

ですので、ハプスブルグ家のココアは東洋と西洋が融合されたメニューといえるでしょう。

ザッハトルテ

ザッハトルテ

その後、ハプスブルグ家の歴代皇帝に仕えた宰相メッテルニヒが1832年、フランツ・ザッハーに飽食した貴族のために新しいデザートを作るよう命じたところ、1700年代からあるココア風味のケーキをひと工夫加えたザッハトルテを作ってだしたところ、フランツ・ザッハーの特別料理としてウィーン中の話題となり、世界中に広まっていきます。

それから15年経った1847年、イギリスのジョセフ・フライが固形チョコレートを発明し、スイスではネスレの創業者アンリ・ネスレがミルクチョコレートを大量生産して世界最大の食品会社ネスレの礎を築いていきます。

チョコ専門職人ショコラティエとデザート

チョコ専門職人ショコラティエとデザート

こうしてネスレを筆頭とした大企業によって規格化され、大量生産されたチョコレートのおかげで値段が下がり、庶民にもチョコレートが広まる一方、ベルギーやフランスを中心にチョコ専門職人ショコラティエが作る高級チョコレートの店が立ち並び、ヨーロッパでは差別化が図られてきました。

ブラウニーケーキ

ブラウニーケーキ

こうしたチョコレートが大西洋を渡ってアメリカに到着し、1893年のシカゴ万博にて「万博に参加する女性のために、ケーキひと切れよりも小さくて、お弁当箱から気軽に出して食べられるようなデザートを作ってほしい」というリクエストに応えてブラウニーというお菓子が考案されました。

ここから家庭でも作れる様々なチョコレートケーキのレシピが出回るようになり、太平洋を越えた日本でもレシピサイトのクックパッドに「ブラウニー」とキーワードを入力すると、1760種類ものレシピが出てくるのを氷山の一角に、多彩なチョコを原料としたお菓子が企業、家庭問わず作られております。

カカオからチョコレートに至る歴史をかいつまんでかいていましたら、むしょうにチョコが食べたくなったので、今日は寝る前に板チョコを冷凍庫に入れた物を出して夜食にしようかと思います。

以上でコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?