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食の歴史その32~ホテルやレストランの「バイキング」のルーツ~

19 7月

こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いて見ました。

今回は画像が無いので、携帯やスマホからも見やすいかと思います。

 

ホテルの朝食では好きなものを好きなだけ食べてよいバイキング形式が無駄の無い食事法であり、ホテル側にも利用者側にも好都合な形式です。

言うまでもなくなくバイキングは「入り江に住む人」の意味で西暦700年代から1000年代までイギリス、オランダ、フランス、ロシアなどへ積極的に進出し、中には地中海に入ってイタリアの南にあるシチリア島に王国を築いたり、東ローマ帝国やイスラム帝国とも盛んに貿易をしたノルウェー、デンマーク、スウェーデンの人たちを指します。

話がわき道に逸れますが、映画にもなったロビン・フッドはフランスのノルマンディーに定着したバイキングの末裔がフランスからイギリスへ上陸して征服したノルマン王朝の時代のお話で、十字軍で活躍したイギリスのリチャード獅子王もノルマン王朝の系譜の人です。

話を戻して、バイキングは船首につけた飾りから「ドラッガール(竜)」、「スネッカール(蛇)」と呼ばれる幅5メートル程度の船を操り、沿岸地域のみならず、ロシアの川を遡って中東まで向かい、西にはアイスランド、グリーンランドまで殖民したりと広範囲で活躍した民族で、アメリカの東海岸をコロンブスより数百年早く発見したという説もあります。

このバイキングたちの故郷である北欧は寒さのために収穫の少ない麦が貴重品で、パンを薄く切ってバターを塗り、50種類の多種多様な具を乗せ、酒を飲み、談笑しながらずっと日の沈まない白夜の夜を楽しむ習慣があります。

スウェーデンではそれを「スモーガスボード」と呼びます。

「スモーガス」はバターつきパンを意味し、「ボード」はテーブルを意味します。

この北欧独特の食事に目をつけて日本にこの「スモーガスボード」スタイルとも「ビュッフェスタイル」とも言われる形式を日本に持ち込んだのは東京は帝国ホテルの犬丸徹三社長でした。

彼は、1957年の北欧視察の時に、「スモーガスボード」の方法に接して関心し、日本に取り入れました。

この食事形式のネーミングは帝国ホテルで社内公募され、時同じくして日本でも上映されていたカーク・ダグラス主演の映画「ヴァイキング」の中に、船の上で飲み放題、食べ放題のシーンにヒントを得て「バイキング」という名前が採用されました。

この短いコラムを書いていましたら、ある意味お惣菜がバイキング形式で選んで買えるオリジン弁当にでも向かい、海老とブロッコリーのサラダとポテトサラダなどを好きなだけ取って買い、今日の夕食のおかずにしようかと思います。

今日はこの辺でコラムを終えますが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

最後に映画「ヴァイキング」の映像をYou Tubeから、

英語が分からなくても映像見ていると何となくわかります。そこが映画のいいところですね。

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食の歴史その30~ジャガイモと大正日本とコロッケ~

16 7月

こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願って、コラムを書いて見ました。

今日は画像をふんだんに使ってビジュアル的にも理解しやすくなればと願っています。

大正6年(1971年)は、外国では第1次世界大戦がまだ終わらず、ロシア革命など歴史的な出来事が起こっていましたが。日本の帝国劇場や東京の下町、浅草オペラで「コロッケの歌」が上演され、目新しいものが好きな江戸っ子がコロッケに興味を持ち、次第に家庭での手軽なおかずになっていきました。

ホワイトアスパラのクロケット、トリュフマヨネーズと共に

ホワイトアスパラのクロケット、トリュフマヨネーズと共に

このコロッケは元々はフランス料理の付け合せで、正しくは「クロケット」と言いまして。

このクロケットはジャガイモを使わず、肉や海老を主な材料で作り、ホワイトソースで和えてから、形を整え、フライパンで焼いた付け合せ料理でして。日本人のイメージにあるコロッケとは程遠いもののようです。

フランス料理のレシピを見ますと、デザートとしてリンゴを使ったクロケットや作り方を見てるだけでうんざりするほど面倒な手順で作ったりして、とても庶民の料理とは思えない代物だったりします。

日本では明治の文明開化とともにクロケットが入ってきますが、明治5年(1872年)に書かれた『西洋料理指南』では、ジャガイモとひき肉を使って牛脂で揚げるとあるので、今の肉じゃがコロッケに近いものが紹介されています。

明治31年(1898年)には日本橋の浜町にあった吉田という蕎麦屋のメニューに鶏肉たたきを材料にしたコロッケを乗せた「コロッケそば」が出てきます。

東京ではそばに冷たくなったコロッケを乗せて食べるメニューが立ち食いそばに当たり前のようにありますが、考えれば100年以上前からあった伝統的なメニューだったりします。

そして、大正5年には民間の料理書に洋食の雰囲気がある立派なコロッケの作り方が出てきます。

下に作り方を書きますと、

「牛肉のひき肉200g近く、ジャガイモ5個、小麦粉少々、卵1個、パン粉少々、牛脂、ウスターソース、バター少々、塩を用意。

牛肉のひき肉をバターで炒め、塩で味付けし、ジャガイモは皮をむいて茹でてから裏漉し(うらごし)にかけ、牛肉のひき肉と混ぜてちょうどいい大きさに丸め、小麦粉をまぶし、卵をつけ、パン粉をつけて牛脂で揚げ、ウスターソースを添えて出す。」

そうして出来上がったコロッケは下の画像のようになります。既に現在のコロッケと変わりないです。

肉じゃがコロッケ ウスターソース添え

肉じゃがコロッケ ウスターソース添え

こういった西洋の料理を日本風にアレンジしたもののパイオニア(先駆者)は戦前ですと、海軍だったりします。

明治41年(1908年)発行の『海軍割烹(かっぽう)術参考書』にはフィッシュコロッケ、ビーフコロッケ、エッグコロッケなど3種類のコロッケが登場してきます。

3つめのエッグコロッケは皮をむいたゆで卵に合いひき肉を味付けしたもので包んでパン粉または砕いたポテトチップをまぶして揚げるスコッチエッグです。

研究家にとってもスコッチエッグを基にしたエッグコロッケの作り方が珍しいようで、図になっていますので、下に出してみます。

このようにコロッケの普及が明治時代になったばかりの頃に北海道で男爵様がイギリスからもちこんで栽培してみた男爵イモはデンプンが多く、ほくほくした食感があり、煮崩れしやすいのでコロッケなどに使われ、東日本で主流の品種であります。

いっぽう、大正時代にイギリスから持ち込まれたメークイーンは荷崩れしずらいので、カレーやシチューに適し、皮もむきやすい品種で、こちらは西日本で主流の品種であります。

こういった男爵イモとメークイーンを代表としたジャガイモの栽培とコロッケ、カレーの普及から、明治時代は25万トンだったジャガイモ生産量が、大正時代には4倍の100万トンにまで膨れ上がります。

そして、日露戦争の日本海海戦でロシアの艦隊を撃破した海軍大将の東郷平八郎がビーフシチューを作らせようとしたらワインやバターが無かったので、醤油と砂糖で代わりを作らせたら肉じゃがができたという伝説があります。

この伝説は出所がはっきりしないので、この話は眉唾ですけど。昭和13年(1938年)の海軍の教科書にある「甘煮」という名前で肉じゃがの原型が登場します。甘煮のレシピを下に出しますと、

「材料は牛肉、こんにゃく、じゃがいも、たまねぎ、ゴマ油、砂糖、醤油。

作り方

1. 油を入れて熱する

2. 3分後牛肉を入れる

3. 7分目に砂糖を入れる

4. 10分目に醤油を入れる

5. 14分目にコンニャクを入れる

6. 31分目にタマネギを入れる

7.こうして35分くらいで甘煮こと肉じゃがが完成」

この海軍の教科書には「醤油を早く入れると、醤油臭くて味を悪くすることがある」とまで補足されており、何分目にどんな食材を入れるかまで時間を細かく指定していますので、おそらく誰が作っても失敗しないようマニュアル化させたものなのだと思います。

最後にトリとして出した肉じゃがですが、各家庭では「おふくろの味」になっていたりと日本人に馴染み深い和食となっている肉じゃがが決定打となったのか。現在の日本のジャガイモ生産量は275万トンまで跳ね上がり。

275万トンのジャガイモのうち、78%を占める215万トンが北海道で作られ、2位が長崎で11万トン、3位が鹿児島となっています。

こうしてスーパーのお惣菜コーナーにはジャガイモを原料にしたお惣菜が沢山並ぶにまで至ります。

最後に、長野県の方とコロッケの話をしていたら「野菜コロッケ知らないの?」と言われ、よく聞きますと、長野県では野菜コロッケがコロッケのコーナーの半分を占めるほどになっていて、冷凍野菜のミックスベジタブルの野菜が具に入っています。

野菜コロッケ

野菜コロッケ

写真を探してきましたが、上の写真のような感じのコロッケです。東京でも野菜コロッケがあったら試しに食べてみたいと思います。

それでは、今日の夕食のおかずは肉じゃがコロッケとカニクリームコロッケにしようかと思います。

以上でコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

皆さんも気が向いたら夕食にコロッケはいかがでしょう?

食の歴史その29~江戸時代のおかず番付その2~

15 7月

おはようございます。今日は先日書いた江戸時代のおかず番付の続編を書きます。

まずは四季と問わず年中食べられた魚介類のおかずの番付を一部列挙しながら、解説を加えていきます。

最高位の大関はメザシ、イワシとなっています。

メザシは安く保存しやすく栄養豊富といいとこ取りで。

イワシのような青魚にはDHA=ドコサヘキサエン酸や、EPA=エイコサペンタエン酸という舌を噛みそうなな名前の不飽和脂肪酸とやらが含まれていて、これを摂取すると血行がよくなり、頭がが冴え、週に2~3回は食べると良いとされているそうです。

江戸時代の人はこのような栄養価の高さを知らないわけですが、現代の栄養学的にも最高位の大関に相応しいでしょう。

次の関脇はアサリ、ハマグリなどの剥き身を切り干し大根と一緒に煮たもので、「剥き身切り干し」。

これを美味しく食べるには薄味にするのがコツなんだとか。

前頭筆頭はマグロの赤身を味噌汁にした「まぐろからじる」。

ちなみに江戸時代は冷凍技術がないので、トロといった脂身はすぐ腐敗してしまうので、大正、昭和初期に評価されるまで猫の餌にしか使わなかったと言われています。

そして、次の「たたみいわし」は静岡県と神奈川県沿岸が名産地なので、その他の地方の方にも分かるよう画像を出しますと。

たたみいわし

たたみいわし

この写真はカタクチイワシの稚魚を板状にしたもので、酒の肴にも良いのだとか。

次も「いわしの塩焼き」脂の乗ったイワシの塩焼きもうまいですが、冷蔵庫の無い時代なので、番付が下がったのでしょう。

次はマグロを薄く削いだ魚肉を塩干しにした「まぐろすき身」、カツオの塩漬け「しおカツオ」。塩漬けニシンの「ニシン塩引き」

以上が春夏秋冬関係なく食べられるおかずの番付でしたが、次は春のおかずを一部抜粋してみます。

まず、春の部の最高位である大関が醤油にショウガ汁を入れたタレをつけて約「マグロきじ焼き」。

関脇はまたアサリ、ハマグリですが、ヒジキとの煮付けとなっています。

小結が海老をさっと炒めて、食べる時に調味料を使う「芝海老から炒り」。

次はイワシの刺身に酢味噌を和えた「いわしのぬた」。

「いわしつみいれ」これはイワシのつみれですが、おでんの具としてコンビニでもよく見かける事でしょう。

「サバ味噌漬け」「スルメ付け焼き」スルメを炙ったものは今も酒の肴として今でも食べられています。

夏の部は芝海老と豆腐を一緒に煮た「芝海老豆腐」。

カツオを一回蒸してから干した、カツオのなまり節をヒジキと煮る「ヒジキなまり節」「なまりキュウリもみ」「コハダ煮浸し」「なまり節大根おろし」「クジラ汁」「どじょう鍋」。

殻つきの海老の丸焼き「えび鬼瓦焼き」

秋の部はまず、「蒸しハマグリ」「焼きハマグリ」。

東京湾から千葉県の房総半島へかけての内海沿岸は当事、日本一のハマグリの産地で沢山取れる分、値段も安かったようです。

他はそれぞれ一緒に煮たのであろう「芋煮ダコ」「ハゼ煮大根」。

「酢だこ」「ニシン煮浸し」。そして、今も秋の名物とされる「焼き秋刀魚」

冬の部は文字が潰れて判読できないものが多いのですが、それでも抜粋しますと。

ナマコを酢とショウガで食べる「ナマコ生姜」。「秋刀魚の干物」「しらす干し」。

他にはどの海産物が対象なのかわからない「卵とじ」などもありました。

江戸時代のおかず番付をその1とその2に分けて説明してきましたが、大体の料理は現在でも食卓に出ておかしくない食品で、改めて幕末のおかずが今もなお日本のどこかで食卓に上がっているかと思いますと、明治維新から洋風や中華が沢山取り入れられていてもなお、日本の伝統が残っているのだなと感慨深いものがあります。

家庭科で栄養を勉強しますとたんぱく質、脂肪、炭水化物とビタミンからなる三大栄養素なるものがありますが、先進諸国では食べないコンニャクやトコロテンなどは大腸ガンを予防し、悪玉コルステロールを減らす食物繊維という「第四の栄養素」が豊富なのも江戸のおかずの特徴であります。

ただ、「好事、魔が多し」と例えていいのか分かりませんが。和食の特徴は塩分を摂りすぎてしまいやすい事なので、そこをクリアしつつ江戸時代のおかずを食べ続けていたら立派な健康食となる事でしょう。

大根は切らしていますが、おかず番付その1で紹介した「八杯豆腐」をまた作りに行こうかと思います。

それでは皆さんも紹介したおかずの中で気に入ったものがありましたら今日の食卓にいかがでしょうか?

それでは厨房に行きますので、この辺で。

食の歴史その28~江戸時代のおかず番付その1~

14 7月

おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと願って、コラムを書いて見ました。

今回もはめこんだ画像をもとにコラムを書いていきます。

まずは幕末に書かれたおかず番付の画像を一つ。

ざっと見て何が何だか分からないでしょうが、参考文献「江戸のまかない」にて現代語に訳した上に補足説明がついたものがありますので、そこから抜粋しますと。

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まず、中央の行司の下に沢庵、梅干を中心にぬかづけ、なすび漬け、茎菜漬けと並び。

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その下の世話役にでんぶ、ひしお、ざぜん豆、味噌漬け、唐辛子。

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一番下の段には味噌、塩、醤油の三大調味料となっています。

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その右には年寄の欄があり、かつおぶし、塩辛、佃煮、ごま塩となっています。

これらは現在でも日本料理の基本となる調味料や食材なので、幕末も今も大して変わらないものとなっています。

そして右側が野菜や大豆を使ったメニューの番付で、左側が魚など肉をつかったメニューの番付となります。

この番付は大関までしかありませんが、江戸時代は大関が一番位が高く、横綱は名誉職で番付外でした。

では、右の野菜メニューの番付から解説を。

ただし、全部は列挙しきれないので、それぞれ一部からの抜粋になります。

八杯豆腐

大関に「八はいどうふ」とありますが、これは水6杯と酒1杯を入れて、煮立ったら醤油1杯を入れて煮立てる、そこに絹ごし豆腐を入れて、豆腐がグラグラ動き出したところを、おたまですくいだし、これに大根おろしをかけて食べるというメニューです。

自分もこのメニューを作りますが、感想としては安くて簡単であっさりしていて美味しいメニューです。

大根おろしがなくても、この一品で酒のつまみにもなるだろうと思っています。

昆布と油揚げの煮物

昆布と油揚げの煮物

関脇は「昆布油揚げ」昆布と油揚げの煮物です。小結はきんぴらごぼう、これはコンビニにもありますので、説明する必要もないでしょう。

前頭筆頭は煮豆で、食物繊維の王様なのだそうです。

前頭二枚目は焼き豆腐を具にしたおすまし。

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前頭三枚目はひじきの白和え、ひじきの煮物に砕いた豆腐を和えたもので、海草と豆腐の取り合わせという長寿食のイメージがあります。

四枚目は切り干し大根を薄味で煮た素朴なおかず。

五枚目はサトイモの仲間、「唐の芋」の茎を使った芋がらと油揚げの煮物。

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六枚目は油揚げに醤油をつけてあぶるだけ、刻みネギをつけると酒の肴にもうってつけだったりします。

七枚目は小松菜のおひたし。

ここまでが四季を問わずに食べられるおかずで、次は四季折々のおかずの番付を。

春の部も一部抜粋しますと、油で炒めた豆腐、笹がきゴボウ、麻の実を入れた「けんちん」というすまし汁。

わかめに酢味噌をかけた「わかめのぬた」「ニンジンの白和え」

油揚げ、大根、シイタケを葛(くず)でとろみをつけた「のっぺい(能平汁)」

レンコンを酢味噌とサンショウの若芽で和えた「蓮の木の芽和え」。

「ほうれんそうのおひたし」「海苔とウドの吸い物」。

わらびとがんもどきを煮付けた「わらびがんもどき」。

「たんぽぽの味噌和え」たんぽぽはサラダにしても美味しかったりします。

夏の部の抜粋は「地元ナスうま煮」「ささげごぼうの和え物」「いんげんごまひたし」「そら豆煮付」。

他にも「茄子の刺身」ゴマ油で軽く揚げた「茄子の揚げだし」。「かぼちゃゴマ汁」「フキの煮付」。

花が落ちて10日ほどの若いへちまの実を食べる「へちま煮浸し」。

白瓜(しろうり)をらせん状に細長く切って塩につけて干した「かみなり漬け」

最後にとりあげるのは茄子をマツタケの形に切って炒め煮にした「まつもどき」などのように多少凝った料理もあります。

秋の部の抜粋は「若菜汁」「サトイモころがし」「ふろふき大根」「とろろ汁」。

豆腐にとろろをかけた「山かけ豆腐」。「焼きしょうが」。

水気を切ってくずした豆腐に味をつけて炒る「炒り(いり)豆腐」。「あんかけ豆腐」。

「長いもおでん」「山芋のぐつぐつ煮」。

冬の部の抜粋は「湯豆腐」「こんにゃくおでん」「納豆汁」「かぶ菜汁」「輪切りゴボウ」「こんにゃく白和え」「ねぎ南蛮」「こんにゃく刺身」「ごま味噌」。

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大根、こんにゃく、コボウ、人参、豆腐などを入れた味噌汁で、旧暦の12月8日に、その年の農作業の終わりである「お事終い(おことじまい)」を祝って食べた「お事汁」。

他にも「うど白和え」。鍋に材料を入れて焦げ付かないように水分を飛ばす「こんにゃく炒りつけ」。

「切干し大根白和え」。

などなど、今でも通用しそうなメニューが沢山あります。

明日は江戸時代の魚を使ったメニューの番付を書いて見ます。

皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?暇つぶしだけでなく、簡単なメニューもありますので、今日の献立の参考にもなれば幸いです。

食の歴史その27~アングロサクソン人がタコ、イカを食べない理由~

12 7月

おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いてみました。

今回も地図で説明するために画像を一つ入れています。

人間は雑食動物の最たるものとされています。哺乳類全般は言うまでも無く、アリ、ゴキブリから、芋虫や蛆虫まで美味しく味わう人々が世界にはいます。

中には再三起こった飢饉からの経験なのか土を食べる例も報告されています。

中華料理で最高級の食材にツバメの巣、熊の手、猿の脳味噌などがありますし、日本人もウニ、ナマコ、ホヤなどといった食材に舌鼓をうちますので、特に欧米人からは不気味な人たちとうつるに違いありません。

これは物好きではなく、飢えないよう何でも食べて生き残る知恵なのですが、他の哺乳類には無い何でも食べる雑食性とその食欲には驚かされるばかりです。

例えば、20世紀の中国ですと、国民党との戦いから共産党が中国南部の拠点を捨てて北部の延安までの長い逃避行を行った長征がありますが、この逃避行でお偉方までもが餓死寸前となり、ベルトや靴も茹でて食べ、それでも足りず、家畜の糞から未消化の穀物を探して食べたりもしたと言われています。

逆に、殆どの人が日常的に食べているにもかかわらず、特定の食べ物をタブー視する習慣も世界中に見られます。

ヒンズー教の牛、ユダヤ教、イスラム教の豚などが有名ですが。中にはチベット、アメリカ先住民のように魚肉をいっさい口にしない民族も少なからずおります。

モンゴルでも魚はタブーだったようで、若き日のチンギス・ハーンは食うに困って魚や野鼠まで食べたという逸話が残っています。

そして本題ですが、ドイツ、イギリス、北欧などのゲルマン系はタコ、イカを食べる習慣が殆ど無いといいです。

なかでもオクトパスの名を与えられたタコは別名デビルフィッシュと呼ばれるほどの嫌われ者です。

ゲルマン系がタコを食べない理由の一つにキリスト教の原点でもあるユダヤ教の戒律があるとされています。

ユダヤ教では魚類はヒレとウロコが備わったものだけしか食べてはならないとされており。

具体的にはタコ、イカ、カニ、エビ、ウナギ、エイ、貝類、当時は魚に分類されたイルカや鯨などです。

捕鯨反対、イルカ漁反対を唱える欧米人の背景には聖書にある食の戒律が根底にあるのかも知れません。

それはさておき、キリスト教徒の間では『旧約聖書』にある食の戒律が予想以上に評判が悪く、中東と異なる風土や動植物が見られるヨーロッパでは、豊富な食材を禁じようにも説得力はなく、古代のキリスト教徒は何かと言い訳を見つけてはカニ、エビ、貝類を食べ、早々と『旧約聖書』のタブーは無視されました。

ただし、イカとタコについては、そのグロテスクな見かけからの連想もあって、誘惑者、裏切り者、噓吐きといった偏見の目で見られてきました。

特にドイツやイギリスなどでは好色的で執念深く、しかも凶暴な動物というイメージが張り付いていました。

大航海時代以後の1600年代になると、北欧ノルウェー沖合いの北極海周辺に出没する巨大なタコまたはイカの姿をしたクラーケンという化け物が伝説となっています。

クラーケンは天地創造から世界の終わりまで行き続け、全長2.5キロもあるきょだくぃな動物で。

その巨大な触手で船を襲い引きずり込むと言われ、命知らずの船乗りでさえ、その存在に怯えていました。

今では全長10メートルもあるダイオウイカがクラーケンの正体だったのだろうと推測されています。

このようにヨーロッパ北部の海域で実像がゆがめられたのは、タコが主に温帯から亜熱帯の暖かい海に生息するため、ゲルマン系の人たちに馴染みがなく、食べる機会が少なかったのも偏見を促す大きな原因になったのだと推測されています。

いっぽう、キリスト教が伝わる前からイカやタコを食べてきた地中海地方では古くから重要な海の幸でした。

現在でもスペインのパエリア、あとはイカをイカ墨で煮込んだ物になりますと、このスペイン製の缶詰をネット上から買う事も出来ます。

ポルトガルやギリシャなどではフライや炭火焼きにして食卓を彩り、観光客も舌鼓を打っています。

地中海地方の人々は外見より自らの舌を優先させ、カエル、カタツムリ、カキといった一見正体不明のゲテモノも平気で平らげきました。

中でも舌が肥えているので、手当たり次第口に入れるフランス人をイギリス人やドイツ人は徹底して軽蔑している歴史があります。

今でもフランス人の悪口の一つに「フロッギー(カエル野郎)」や「ジョニー・クラポー(ヒキガエルのジョニー)」があるのはこうした理由もあります。

日本ではタコやイカをひょうきんだが知恵があり、人間に対して好意的で縁起の良い動物として描かれ、京都をはじめ各地にある蛸薬師(たこやくし)は、薬師如来が海をタコに乗ってやってきたという伝説を生むほどです。

こうしたゲルマン系も材料を何も教えずにたこ焼きやイカ素麺を食べさせると歯ごたえを楽しんで舌鼓を打ちますので、人間は究極の雑種動物なのだなと再確認されます。

そんなイカやタコは北アフリカのモロッコなどで底引き網漁によって取れたものが日本に輸入されたりしていますが、最近は諸外国に買い負けて前ほど安く手に入らなくなってきたそうなので、これらの値段もいずれ上がるやも知れません。

その日が来るまでに今日はタコの酢味噌和えを頂こうと思います。

コラムは以上で終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その20~かつては辛くなかったキムチ~

27 6月

おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと思ってコラムを書いてみました。

今回も説明のために画像を一つ挟み込みます。

伝統料理というものは、あたかも古来から存在してきたように錯覚されがちである事は、食の歴史その3で書いたすきやきと、食の歴史その4で書いた寿司の話でも紹介しましたが、民族料理と言われる物の多くはこのように、せいぜい200~300年の歴史しかなかったりします。

歴史の錯覚と同じように、朝鮮料理=辛いといった図式がおぱりでしょうが。実際に韓国人一人当たりの年間トウガラシ消費量は約2キロという統計がありますが、世界的にみてもトップクラスとされます。

それでは、古くから朝鮮料理は辛いのかというと、そうでなかったりします。

朝鮮料理が辛い理由はトウガラシを意味する苦椒(コチュ)をふんだんに使用することにあるが、トウガラシの原産地は中南米でして、新大陸アメリカを1492年に発見したコロンブスがヨーロッパに持ち帰りましたが忘れられ、1500年にポルトガル人がブラジルを発見、再確認されてからヨーロッパでも自給自足できるスパイスとしてポルトガル、スペイン、イタリアなどの南ヨーロッパを中心に栽培されていきました。

こうしてヨーロッパや世界各地に広がったトウガラシは地域によって様々な品種がありますが。20年以上前に韓国でトウガラシが不作だったため、急遽ハンガリーから輸入したら辛くなく、騒動になったという報道がされていました。

トウガラシにはスパイス用の辛い品種と、野菜用の辛くない品種がありまして、ハンガリーはヨーロッパでも特にトウガラシを食べる国ですが、辛くない甘いトウガラシを使っておりまして、それを粉末にしたものはパプリカとか言われています。

トウガラシの伝来に話を戻しますと、日本には1552年にポルトガルの宣教師が現在の大分県を拠点とした戦国大名、大友義鎮(おおとも よししげ)にトウガラシの苗ごと献上されたましたが。最初は食用に用いられず。江戸時代初期に書かれた兵法書「雑兵物語」には足袋の中にトウガラシを入れると霜焼け止めになると書かれていたり、または毒薬とされていました。

また、イエスズ会の宣教師は中国にも伝え、麻婆豆腐などを生み出した四川料理へと繋がっていきます。

このトウガラシが朝鮮に伝わった説は2つほどありまして、東アジア沿岸で暴れまわっていた倭寇(わこう)による伝来説と秀吉の朝鮮出兵にともなって渡ったという説があります。

いずれの説にせよ九州から伝わったとされるトウガラシがいまや朝鮮料理の決め手で、切っても切れない関係にあるといっても過言ではありませんが、辛さ代名詞となっているのが漬物の総称であるキムチは。

「汁気が多い漬物」

を意味する沈菜(チムチェ)が語源ですが、これにトウガラシを合わせて漬け込むようになったのは、1800年代にトウガラシを使った料理の記録が少し出てくるようになったと言われているので、比較的最近となります。

それまではニンニク、サンショウ、ショウガ、シソなど自生の薬味類に塩で味付けして発酵させる、どこにでもみられるような漬物に過ぎませんでした。

コショウもあることにはありましたが、東南アジアと南蛮貿易によって結ばれていた日本を経由して輸入される貴重なスパイスで、とても庶民の手に届く代物ではありませんでした。

日本で戦国時代が終わって徳川幕府になって江戸時代が始まった頃の1613年、朝鮮の李晬光(りさいこう)が、『芝峰類説(チボンリュソル)』編纂した百科全書にて朝鮮半島におけるトウガラシの存在に触れた文献なのですが、この文献によりますと、

「南蛮椒(トウガラシの事を指す)には毒がある。最近ではたまにこれが栽培されているのを見かける。酒屋で焼酎に加えて売っており、これを飲んだために死んだ者も少なくない」

と記述され、食用どころか猛毒扱いされていたようです。

当時は、日本人が朝鮮民族を毒殺する目的で恐ろしい毒草を持ち込んだという、まことしやかな都市伝説まで流れていたと言われています。

その後に編纂された朝鮮の料理指南書『飲食知味方』にも、コショウ、サンショウ、ショウガ、ニンニク、タデなどのスパイスは紹介されているものトウガラシについての記述は、一切ありません。

朝鮮半島でトウガラシがどうにか日の目を見るようになったのは、1700年代初期で。1715年に水耕法を体系化した農書『山林経済』では、初めてトウガラシの栽培法が紹介されています。

やがて1700年後半にいたってトウガラシみそのコチュジャン開発され、もともと塩辛い保存食として食されたキムチの変質防止と臭みを除去する目的から、徐々にキムチや塩辛の中に取り入れられるようになるなどの経緯をたどりつつ、トウガラシを使った辛い味付けが庶民の家庭に定着したのはさらに下って1800年代に入ってからとなります。

朝鮮料理は辛いという概念も実は200年足らずの食文化に過ぎず、それ以前の料理の味付けは、少しも辛くなかったのです。

一方、肉食が一般化しなかった日本では、コショウやトウガラシの強い風味にはなかなか馴染めず、長い間観賞用だったり、漢方薬を参考に調合して七味にされるにとどまっていました。

本格的に使われるようになったのは、肉料理が好まれるようになった明治時代まで待たなければいけませんでした。

明治になって江戸時代よりは使われるようになりましたが、砂糖を隠し味とする、すきやきや肉じゃがなどが好まれた時代で、カレーも今の基準では甘口しかなかったようなので、大量に使われるようになったのは戦後のようです。

そのせいか、自分の地元でもお年を召した方々はあまり辛いものを口にしなかったりします。

なお、同じ朝鮮半島でも地域によって辛さに対する好みの違いがありまして。

もっとも薄味が好まれるのが朝鮮半島北西部の平安(ピョンアン)地方ですが、南へいくにつれて徐々に辛さが増して、朝鮮半島南東部の慶尚(キョサン)地方に下ると激辛の味付けこそがこそが一番という傾向がみられるようです。

今日のコラムはこれで終わりですが。皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史19~インドにカレーライスは存在しない?~

27 6月

おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと思ってコラムを書いて見ました。

今回も地図を出して説明するので画像を少し使います。

 

日本人でカレーライスが嫌いな人が殆どいないほど国民食となっています。

固形のルーを使ったカレーはライス経済的で調理は手軽、しかも美味しいのだから、ラーメンとともに人気の料理と言えましょう。

平成11年の統計によると、国民一人当たり年間およそ64回カレーライスを食べているそうです。

となると、週に1回以上はカレーライスを食べている計算になります。

カレーライスといえば、あたかもインド料理の代表に見られているように思われている方々もおられるでしょうが、インドにカレーライスという料理はありません。

それどころか、カレーとか大航海時代にポルトガル人が命名カリという言葉さえ、ほとんど死語に近い。

日本にIT関係や留学でやってくるインド人は何かといえばカレーライスという、日本料理を食べさせられてうんざりしたと聞いています。

インド人にとっての日本で出されるカレーライスはベトベトした口当たりで妙に甘ったるく、どこか薬臭いと評判が悪く、

「このとろみがある不思議な日本料理はなんというのか?」

と聞かれた日本人が戸惑ったという話も聞いた事があります。

カレーの語源は諸説ありますが、インド南部のタミル地方で具を意味する「カリ」からとするのが妥当な説だろうと言われています。

1500年代の大航海時代、交易のためにやってきたポルトガル人が、住民の食べている汁をかけたご飯を指差して「これはなんというのか?」とたずねたところ、聞く方は料理名を言ってくれる事を期待していたのだが、聞かれたほうは具の事だと思い「カリだ」と答えたのだろうと推測されています。

こうして、突如カリは料理名とし一人歩きをはじめ、ヨーロッパに紹介されたのち、英語に取り入れられて世界に広まったというのが通説となっています。

ちなみに日本語のカレーは英語のカリーがなまったものだそうです。

インドには約3000種類の調理法が紹介されている「調理辞典」という文献にはカレーと名のつく料理はわずか25種類。

このようにカレーと言う言葉は、本場インドでさえ使われるのはごくまれで、カレーライスはコロッケなどと同じく、西洋料理をもとに手を加えた洋風の日本料理にほかならないのです。

本場インドでカレールーやカレー粉に該当するものを挙げれば、マサラがそれに当たるでしょう。

マサラはターメリック、カルダモン、グローブ、シナモン、コショウなどのスパイスを調合して石臼(いしうす)で潰した調味料、またはこれらを用いて味付けした料理の総称に他ならないのです。

インドでカレー料理という概念が存在しないのは、日本に出汁(だし)料理とか醤油料理がないのと同じ理屈と考えてくださればご理解いただけますでしょうか?

ところで、マサラのブレンドには、調合する分量混ぜ合わせるスパイスの種類が厳密に決まっているわけではなく、家庭ごとに異なり、料理や素材により千差万別の味を生んでいます。

日本の味噌汁や雑煮のように、親から子へ伝授されていく、いわゆる「おふくろの味」なのだそうです。

カレーがヨーロッパに伝わったのは、1772年。ウォーレン・ヘイスティングスがスパイス貿易を行う東インド会社の社員時代に大量のマサラとインディカ米を故郷イギリスに持ち帰ったことにはじまります。

彼はインド人コックを使ってカレーとライスのコンビネーションを作らせ、これをイギリスの宮廷のレセプションで披露したところ大評判だったとされています。

この噂を聞きつけたのが、貴族の宴会を請け負っていたクロス・アンド・ブラックウェル社(C&B)で。早速イギリス人の口に合うような辛さを抑えて調合し直し、商品として世界初のカレー粉の開発に成功しました。

これを使って肉や野菜を調理したものがイギリス風カレーの始まりであり、日本のカレーライスの元祖にもなっています。

しかし、インドにおける味付けは、スパイスと塩、場合によってはヨーグルトを添えるだけで、サラサラした煮汁に近いものが多いが、イギリスではシチューの調理法があるため、小麦粉でを使粘り気の強いベトベトしたソースへ変化した。この時点で、既にイギリスのカレーとインドのそれは、似て異なる料理となりました。

他にもインド、イギリス、日本、それ以外の国々も含めて多種多様に広がった世界各地の主なカレー料理を地図で下に出してみます。

日本でカレー料理の存在を初めて伝えたのは、幕末の1863年にヨーロッパへ使節としてフランスに派遣された三宅秀(みやけしゅう)でした。

彼は同じ船に乗り合わせたインド人の食事風景を

「飯の上にトウガラシを細身に致し、芋のドロドロのような物をかけ、これを手にてかき回して手掴みで食す。至って汚き物なり」

と記しています。

実際に、日本人がカレー料理を初めて口にしたことを記録に残しているのは、それから8年後の明治になって間もない1871年のことで、記念すべき第一号は、当事16歳であった会津藩士の山川健次郎。

国費留学生としてパシフィックメイル号でアメリカへ渡る途中、船中で食したのが最初であると言われています。

翌年出された「西洋料理指南」では、早くもカレーの調理法が紹介されています。

調理内容を要約しますと。

「ネギ一本、しょうが半分、ニンジンを少しみじん切りにし、バターを大さじ一杯で炒め、水を約270CCを加え、鶏肉、エビ、タイ、カキ、赤ガエルまどを入れてよく煮たのち、カレー粉小さじ一杯加えて1時間ほど煮る。よく煮あがったら塩を加え、更に小麦粉大さじ2杯を水に溶いて入れるべし」

といったものだった。

現在の調理法とかなり異なっているし、具といえば、ニンジン、ジャガイモ、タマネギといういわば定番三点セットがどこにも見当たらない。赤ガエルが入っている意外性もありますが、今ならシーフードカレーといった所なのでしょう。ただし、調理法から見て現代のカレーライスと風味も相当かけ離れているに違いないでしょう。

日本にはカレーライスとライスカレーの二つの言葉がありますが、この二つは、果たして同じ料理か、それとも微妙な違いがあるのかについて様々な説が飛び交っております。

たとえば、カレーの具の多いほうがカレーライス、米飯が多いほうがライスカレーという分量説。

具ち米飯が別々になったのがカレーライス、米飯の上に具をかけたのがライスカレーというスタイル説。

また皿で出されるのがカレーライス、丼がライスカレーという器説。

あるいは関東がカレーライス、関西がライスカレーというように単なる地域呼称説など、様々な説があります。

カレーライスは英語のカレー・アンド・ライスの略ですが、ライスカレーという英語は見当たらない。

このライスカレーの起源の一つに、「少年よ大志を抱け」で有名なクラーク博士が札幌農学校で学生たちの体格向上を第一とした博士は、全寮制の寮の食事を肉類中心の洋食としたが、これとは別に、

「生徒は米飯を食すべからず。ただし、ライスカレーはこの限りにあらず」という特別なルールを作ったと伝えられています。

それ以来ライスカレーという言葉が世に広まったと言われていますが、これも確かな根拠があるわけでもなく、真相は藪の中のようです。

最後に日本ではカレーのお供に欠かせない福神漬けとラッキョウについて軽く語ります。

福神漬けは明治になってまだ日が浅い頃、上野の高級漬物店の15代目、野田清右衛門が開発して売り出したところ評判になり。時は過ぎて大正時代の1902年とも1903年とも言われていますが、ヨーロッパ行きの船の中でカレーライスに福神漬けを添えたのが始まりと言われています。

もう一方のラッキョウは歴史が古く平安時代以前に中国から伝わり、東南アジアでも塩と酢で漬けてカレーと一緒に食べたのを参考にして福神漬けがカレーに添えられたのとほぼ同時期にカレーの付け合せになったようです。

カレーの事を書いていましたらこれを書いているのが朝10時ですが、もうお腹が空いてきました。

今日はツナの入ったタイカレーをお昼に食べようかと思います。

これでコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?