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食の歴史その17~パスタのルーツは中国か?~

23 6月

こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしになればと思ってコラムを書いて見ました。

今日のコラムはいくつか画像を載せています。

よく「中国4000年の歴史」なんてフレーズがありましたが。

歴史をかじってますと。殷(いん)が3600年以上昔にあったかな?という段階で4000年も歴史があるのか疑問が沢山あるのですが。数年前に中国で麺の化石が出てきました。

4000年前の麺の化石

4000年前の麺の化石

写真を見ると現在の麺と変わりない形をしております。

およそ1800年前の後漢という中国の王朝の時代に書かれた語学書「釈名(しゃくみょう)」に麺の記録が現れ。1500年ほど前に書かれた「斉民要術(せいみんようじゅつ)」という世界的に初めて書かれた農業に関する学術書には農業だけでなく、調味料や麺の製法まで書かれています。

現在の湯餅のひとつ

現在の湯餅のひとつ

それによると、湯餅(たんぴん)と呼ばれる小麦粉で作った麺を温かいスープで煮込んだものが現在の麺料理の元祖らしいです。

麺の製法の中で最も古いとされるのは、こねた小麦粉を手でひたす延ばす「手述べ麺」でして、日本ではそうめんが代表的です。

この手述べ麺が中国北部では拉麺(ラーミェン)と呼ばれ、後に日本でラーメンと呼ばれるルーツになったとも言われています。

中国では元々「麺(ミェン)」は小麦粉を意味したものでしたが、穀物を粉にしたもの全てを表す言葉になり、現在の中国では麺類を「麺条(ミェンティアオ)」と呼んで使い分けています。

これが1400年前に出来た一度は教科書で習った「遣唐使(けんとうし)」の時代である、唐王朝の時代になりますと、小麦粉を板状に広げて切っていく「切り麺」が普及していきまして。日本でもこの頃、中国からこの切り麺の製法が伝わり、そば切りやうどんなどに発展していきます。

シルクロードを経由してイタリアに伝わったパスタにもフィットチーネ(幅広パスタ)という切り麺がありまして、カルボナーラなどによく合います。

130年の歴史があるイタリアで初めての押出式パスタマシン

130年の歴史があるイタリアで初めての押出式パスタマシン

イタリアのパスタやマカロニなどでよく行われている製法にトコロテン方式のこねた小麦粉を小さな穴から突き出して麺にするもので、アジアでも冷麺やビーフンがこの製法で作られています。

こうして200年ほど前になりますと。麺類はアジア、中近東、イタリアに分布しますが。これらは独自にうまれたのか、アジアから伝わったのか、確認する方法は今のところ無いみたいですが。東南アジアの麺料理は200年ほど前に東南アジアのあちこちに住み着いた華僑(かきょう)と言われる中国人と関係があると言われています。

マルコ・ポーロ

マルコ・ポーロ

一方、イタリアのパスタ、マカロニに関して古くからある論争に「東方見聞録」を1298年ごろに書いたマルコ・ポーロが中国から伝えたという説についての論争がありますが。ヨーロッパの学者達でさえ、このマルコ・ポーロが本当に中国へ行った事があるのか疑念を抱いています。

大英図書館

大英図書館

イギリス国立図書館のフランシス・ウッドは「東方見聞録」では中国に長く滞在した事になっているが。もし、そうだとしたら後に中国へ本当に滞在した人なら必ず珍しがって記録する中国の文化面が致命的に抜けていると指摘しています。

台湾の飲茶(ヤムチャ)

台湾の飲茶(ヤムチャ)

たとえば、コーヒー、紅茶が伝わり。沸騰させた水が飲める事にヨーロッパ人がやっと気づいたのが400年前ですが。それ以上前に中国に行ったのであれば、茶を飲む習慣を書いていなければおかしいと指摘していますし。中国で長期間滞在したら、お茶を飲みながら点心を食べる飲茶(ヤムチャ)も見たはずです。

その時に食器として箸を使う習慣も、今から300年ほど前にベルサイユ宮殿に君臨していたルイ14世がフォークやスプーンを使わずに手づかみだった事を考えれば、物珍しいものとして書いていなければおかしいと指摘。

万里の長城

万里の長城

他にもアルファベットや中東の文字と全く違う文字である漢字の存在や木版画、女性が行う纏足(てんそく)、観光客を圧倒させる万里の長城などを書いていない事を挙げ。マルコ・ポーロは家族が貿易やっていたので、ヨーロッパにいながら中国の産物を運んでくるペルシャやアラビアの商人から情報を仕入れて、さも中国に行ったように書いたのではなかろうか?と言われています。

そして、マルコ・ポーロが帰国したのが1295年とされていますが。それより前の1279年の記録にマカロニと書かれたものが出てきています。

ジョヴァンニ・ボッカッチョ

ジョヴァンニ・ボッカッチョ

それから数十年経ってイタリアの詩人である作家であるジョヴァンニ・ボッカチオが書いた10日間を意味するタイトルの「デカメロン」が出版された1353年には、パスタやマカロニがもうしっかりイタリアの定番料理になっていたようです。

「デカメロン」の中には2種類のパスタが書かれており、上にかけるソースやチーズについても書かれています。一部を抜粋しますと、

「イタリアのベンゴディ地方にはブドウのつるをソーセージで結ぶ。そこにはおろしたチーズの山があって、その上で一日中男達は、スパゲッティとラビオリを作っては、チキンのソースをかけて食べる」

とあります。

さて、フォークは1700年代頃まで普及していなかったので、どうやって食べたかと言いますと。

下の図のように長い間手づかみで食べていました。

フォークが普及する300年以上昔のパスタの食事風景

手づかみでパスタを食べる300年以上前の人たち

こんな食べ方を長い事していたものですから、中国のように温かいスープに入れて箸で食べるのではなく、手掴みが前提でバターやチーズをまぶして食べるタイプになったのも当然の成り行きなのでしょう。

パスタを手掴みで食べる光景を写した20世紀初頭の絵葉書用写真

パスタを手掴みで食べる光景を写した20世紀初頭の絵葉書用写真

このような手掴みで食べる伝統イタリアでは20世紀初期までありまして。絵葉書の写真にもされています。

イタリア南部を支配したシチリア王国

イタリア南部を支配したシチリア王国

パスタにはもっと古い記録もありまして、1140年代にイタリア南部を支配していたシチリア王国のロジェル2世に仕えた北アフリカはモロッコ出身の地理学者アリ・イドリーシが書いた「ロジェルの書」によりますと、イタリア半島の南にあるシチリア島の北西部にあるトラビアの町にはパスタの一種イットリーヤが作られ、各地に積み出されている事が記録されています。

中世のアラブ人が書いた本によると、イットリーヤはキシメンに似た手打ちの乾麺だったと記録され、

イスラム圏の麺類リシュタ

イスラム圏の麺類リシュタ

1000年前のペルシャで活躍した哲学者イブン・シーナもイットリーヤはペルシャ語で「糸」を意味するリシュタと同じ食べ物であると記録しています。

イブン・シーナはペルシャからはるか北の中央アジアからやってきたイスラム教徒である事などから、麺を食べる文化が東から中央アジア、中東、北アフリカとはるか昔に広まっていたようです。

こうして東からイタリアへ伝わったであろうイットリーヤなどは大量生産される事なく、今ほどありふれた食べ物ではありませんでした。

大量生産されたのは1800年代にナポリで木製のねじ式の押し出し機を使って細長いパスタが大量に出来上がっては天日干しにされ、手で練っていた生地も1830年代に発明された機械で練られ、イタリア中に広く普及しました。

そして、イタリア系移民がアメリカに大勢住みつき、1920年代になりますと。ニューヨークはマンハッタンのプラザホテルでコックをしていたヘクター・ボイアーディがアメリカ人にもっとイタリア料理を知ってもらいたい思いからトマトソース味のパスタを瓶詰めにしてみました。

この便利なパスタの瓶詰めがA&Pフードの重役ジョン・ハートフォードの目に止まり。アメリカ中の食品店にソースで味付けされたパスタの瓶詰めや缶詰が置かれれるようになり、1940年代に今も量だけは多いけど貧相なアメリカ料理に革命がもたされ、イタリア系じゃないアメリカ人にもパスタが普及しました。

今でもトマトソースで味付けされたパスタを詰め込んだ缶詰がケチャップで有名なハインツ社によってイギリスで作って売られているようですが、フォークでクルクル巻こうとする前にブチブチ切れるほど伸びている代物なので、微妙な味ですが。興味ある方は「缶詰パスタ」とgoogleにキーワードを入れて検索しますと実際に缶詰パスタの中身を写した写真や食べた感想などが書かれている記事を読む事ができます。

検索するのが面倒臭い。そんな人のためにパスタの缶詰の画像を2つほど出しておきます。

イギリスのパスタの缶詰

イギリスのパスタの缶詰

パスタの缶詰を皿に移したもの
パスタの缶詰を皿に移したもの

それから第2次世界大戦後、日本にやってきた米軍が接収していた横浜のニューグランドホテルで今のナポリタンの原型が開発され、1950年代半ば以降から学校給食にケチャップとソーセージで作ったナポリタンが出されるようになり、日本人にも馴染み深い麺料理となりました。

ただ、ナポリタンとミートソース以外のパスタは1980年代のイタメシと言われたイタリア料理ブームが来るまで待たなければなりませんでした。

ここでコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

自分はケチャップとソーセージと乾麺のスパゲッティがあるので、ナポリタンを作ってタバスコと粉チーズをかけてこれから昼飯を楽しもうと思います。

では、ご拝読有難うございました。

・参考文献

辻原康夫 著 『世界地図から食の歴史を読む方法』

池上俊一 『世界の食文化15 イタリア』

チャールズ・パナティ 著 バベル・インターナショナル訳

『はじまりコレクション 1』

アレックス・バーザ 著 小林浩子 訳  『嘘の歴史博物館』

ウィキペディア 『ナポリタン』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%BF%E3%83%B3#.E5.8D.A0.E9.A0.98.E4.B8.8B.E3.81.AE.E6.97.A5.E6.9C.AC

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食の歴史その14~神々とワイン~

21 6月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと思ってコラムを書いてみました。
携帯やスマホで見ている方もいるだろうと考え、あえて画像は入れていません。

聖書では人類が初めて口にした酒はワインとされています。
「旧約聖書」にはワインの記述が500箇所ほどあり。
その中でノアの大洪水の話では洪水が終わって箱舟から出てくると。
「ここにノア、農夫となりて、ブドウ畑をつくることはじめしが、ワインを飲みて酔い、天幕のうちにありて裸になれり」
と「旧約聖書」ではノアが初めてブドウを栽培し、ワインを作った事になっています。

「新約聖書」では、最後の晩餐にてキリストが、
「お前達のために流す私の血」
と言って弟子達に分け与えて以来、教会のミサに欠かせないものとなりました。

また、ギリシャ神話では酒の神ディオニソスの血とされ、古代ローマでは酒の神バッカスへのささげ物でした。

古代ギリシャではディオニューシア祭という。酒の神ディオニソスにちなんだ祭りがありましたが。
この日に限っては酒の席だからなのだろうか、階級や男女問わず、からかったり冷やかしても許され。

ディオニューシア祭のメインイベントである演劇の上演も普段は言えない反戦のメッセージや体制批判などを表立って行える貴重な場でもありました。

ワインがいつから飲まれたのかについては諸説ありますが。6000年前のメソポタミア文明があった所の遺跡からワインを醸造していた痕跡がありますし。このメソポタミアは「ギルガメシュ叙事詩」にて「旧約聖書」よりもはるか昔に洪水伝説が発祥した所でもあります。

ちなみに、ワインという言葉はラテン語の「ウィヌム」、古代ギリシャ語の「オイノス」に由来しています。
このラテン人や古代ギリシャ人が参考にしたもっとも古いワインを指す言葉「ウィヤナス」はトルコのアナトリア半島に勢力を持った世界最古の製鉄民、ヒッタイト帝国の言葉であるとの説があります。

こうして古代からヒッタイト人、ラテン人、古代ギリシャ人がそれぞれ命名したワインは3700年ほど前にエジプトや中東からギリシャに伝わり、さらにギリシャが植民地を拡大していきますと。イタリアにも広まり、そこから南フランス、スペインへと広まっていきました。

この当事はワインをまず宴会を行う家の主人が最初に飲み、これを時計周りと逆の順番で回し飲みするマナーなどもありました。

他にも古代ギリシャ、古代ローマではワインを水で割って飲むのが常識でした。

割る割合もワイン1に対して水が3で割ると決まっておりました。

割らずに飲むと野蛮人の飲み方とされました。

こうした水で割って飲む習慣はワインがまだ大量生産されず貴重品だったので、生のまま浴びるほど飲む余裕が無かったのと。アンフォラという素焼きのかめの中に保存していると水分が蒸発して濃縮され甘みも酸味も強くなってしまう事が多々ありました。

そこで、濃縮されたワインが発酵しないよう松ヤニや塩水を加えましたが。それでも味が濃縮されているので、水で割って飲みやすいよう工夫したとも言われています。

その後、ローマ帝国の時代である西暦300年代にはフランスのボルドーやブルゴーニュ、シャンパーニュ、そしてドイツのライン川沿いなど、現在でもワインの名産地とされている場所でブドウの栽培と同時にワインの製造も行われていたようでした。

それからも少し時代を経て、ローマ皇帝がキリスト教を帝国の宗教とし、布教が広まると。教会では僧侶がワイン作りを熱心に取り組み技術も向上させ、「聖なるキリストの血」の研究に没頭していきました。

こうして教会の僧侶が努力して醸造していったワインは上質なものを醸造するためには品質、気象、土壌、地形などに左右され。あらゆる面で繊細さを求められるので、ワインが文化と呼ばれてきたゆえんでもあります。

欧米のアルコール文化は、
フランス、イタリア、スペイン、ポルトガル、ギリシャなどの南ヨーロッパを中心とした「ワイン文化圏」

イギリス、オランダ、北欧を中心とした「ウイスキー文化圏」

ドイツ、オーストリア、チェコとアメリカを加えた「ビール文化圏」
に大きく区別されます。

ワイン文化圏では、基本的にワインを飲みながら食事をします。

なかでもフランス人はワインと食事の調和になみなみならぬ情熱を注ぎ、料理の味を引き出すために、ワインの銘柄や種類にこだわります。

これは和食と日本酒との関係にも共通するところがあり。

例えば本膳料理や会席料理などの和食の多くは酒のためのおかずという意味合いが強く、肴(さかな)と言う字も、元々は「酒菜」、つまり酒を飲みながら食べるおかずという意味合いから生まれた言葉なのだと言われています。

晩酌という言葉がありますが、これは厳密には食事の前にお酒を軽く楽しむもので。以外に新しい習慣で。平安時代から食事と酒を一緒に味わうものでした。

ワインの話に戻しますと。ワインは食事中の酒ですが。ウイスキーやビールは食前の酒とされてきました。

ウイスキー文化圏ではカクテルも含めて酒を楽しんでからメインディッシュにかかるのが伝統とされているようです。

おもしろいことに、ワイン文化圏は食生活が豊かで農耕もいち早く発展し。産業革命後もそれほど工業が発展せず。宗教はカトリック文化圏と重なります。

逆に食生活が貧弱で産業革命が急速に進んだイギリスやドイツなどのプロテスタント文化圏ではウイスキーやビールを好む傾向があります。

これには、ブドウが暖かい所でしか栽培できないのに対し、ウイスキーの原料の大麦などが寒いところでも育つ事。

さらに気候的に寒い条件では度数の強いアルコールが好まれる事。

儀礼を重視してワイン作りに情熱を傾けるカトリックと、儀礼を軽視するプロテスタントの宗旨の違いなども深く関係していると思われます。

ここでコラムは終わりですが。皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

それではよい週末を。

食の歴史その13~蒸留酒の始まり~

21 6月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと思ってコラムを書きました。
携帯、スマホで見ている人もいるだろうと考え、あえて画像は入れてません。

中東のイスラム教は酒を禁じていますが。現在では建前になっているようで、影でこっそりビールを少したしなむ程度なら大丈夫だったりします。

1000年ほど前のペルシャの詩人も月夜を眺めながらワインを飲む優雅さを詩にしていますので、この頃からプライベートで一人酒する程度なら大目にみられたようです。

そんな中東はワイン、ビール、蒸留酒の発祥の地でもあったりします。

今日は蒸留酒の歴史を辿っていってみようと思います。

蒸留酒がいつから作られたか調べますと。2700年ほど前に今のイラクで誕生したメソポタミア文明の人でした。

蒸留酒は果実、サトウキビ、イモ、ヤシなどを原料としますが。世界最古の蒸留酒はナツメヤシの実を原料に度数の強い蒸留酒を作っていたと推測されています。

東南アジア、インド、中東、バルカン半島、北アフリカ、スペインまでの広い地域に。アラック、ラク、アラキ、ラキ、オラカと言われる名前の蒸留酒がありまして。

原料や呼び方はそれぞれ違いますが。これは世界最古の蒸留酒の名前である「アラック」が広く伝わった名残とされています。

エジプトをはじめとする中東ではナツメヤシの実、トルコやバルカン半島ではブドウ、インドやスリランカではココヤシ樹液のトデー、東南アジアでは米やサトウキビなど原料は様々ですが。いずれも自然発酵させてから蒸留する手順は共通しています。

アルコール度数は作りたてなら40度、古い酒ですと70度ありまして。不純物のはいった安い蒸留酒を飲むと二日酔いが酷いそうです。

ちなみにオスマントルコ帝国から近代的なトルコ共和国を建国したケマル・アタチュルクはアラックを毎日およそ1?ほど飲んでおり。それで肝臓を悪くして病死しました。

そのため、酒を禁じるイスラム教の人からは建国の父ケマル・アタチュルクが大酒のみだったことから「背教者」と呼んだりする事もあったりします。

そのアラックは無色透明ですが。カシの木で作った樽に詰めて貯蔵するため、樽の色が染み出して淡い黄褐色のものが多いです。

一般には酸味があってクセがありますが。インドのスパイスをふんだんに使った料理や脂っこい中東の料理には不思議と合うそうです。

また、香り付けのために香草アニスの種などを加えますが。水で割ると酒に溶け出したアニス油の成分が化学反応を起こして白く濁るのが特徴です。

水が少ないと薄桃色に近い白色ですが、水を沢山入れて割ると灰色になったりします。

こうした色の変化を楽しむ点ではニガヨモギを使ったヨーロッパの蒸留酒アブサンに似ているかと思います。

この中東で生まれた蒸留酒アラックはアラビア商人を通じてインド、東南アジア、ヨーロッパへと広がっていきます。

日本史では鎌倉時代に元寇と言われ、日本にも攻め込んできた元の皇帝フビライがビルマへ遠征した1277年には中国にも蒸留酒のアラックが伝わりました。

そのため、モンゴル語やウイグル語では今でも蒸留酒の事をアラキと言います。

日本には江戸幕府が出来て間もない頃に長崎からオランダ人が東南アジアのジャワを経由して持ち込んできます。

オランダ人もアラキと呼んでいたせいか、江戸時代の日本人は「荒気酒」と記しています。

明治時代になりますと蒸留酒のアラックはワインとともにエキゾチックなものと認識されており。詩人北原白秋もそういった詩を書いています。

このアラックの語源ですが。古代ペルシャ語で「乳」を意味する「ラク」が由来だとされています。

このラクはローマ帝国の言葉だったラテン語にも取り入れられ。乳酸を意味するラクトや乳糖を意味するラクトースなど、様々な言葉に引用されました。

ものの本によると、日本語の酪農もじつはラクの当て字で。一説には乳を発酵させて乳酒を作ったことからラクまたはラケが「酒」という言葉になったという説もあります。

コラムはこれで終わりですが。皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その13~平安時代の食卓~

21 6月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと思ってコラムを書きました。
今日は図で説明しないと伝えづらいので、あえて画像を添付します。

平安時代は身分や位での区別が厳しく。宴席の席順も身分や招かれた客によって厳しく決められていました。

大臣など偉い人の家で新年に行う宴会では当事としては贅沢なご馳走をだして。料理の数も30種類になりました。

そのメニューと献立を「厨事類記(ちゅうじるいき)」から抜粋しつつ、平安時代の食卓の画像を3つ出して説明してみます。

平安時代の食卓の図 その1

平安時代の食卓の図 その2平安時代の食卓の図 その3

上の画像を見ますと飯の盛りが半端じゃない量ですね。

まずは塩辛類として、くらげ、ほや、雉(きじ)の内蔵、鯛と並びます。

次は干物になり、干し鳥、鮭の干し肉、蒸しアワビ、焼きダコ。

次に生物として鯉(こい)、鯛(たい)、鮭、鱒(ます)、すずき、雉の生肉が出されています。

これらに醤油、酢、塩、酒の4種類を各人の好みで調合して生物を食べて行きます。

他には果物や木の実と。米、小麦、大豆の粉をこねてから、砂糖の代わりにツタの一種「甘葛(あまずら)」から取った甘味を加えて油で揚げた「唐菓子(からくだもの)」というお菓子も添えられていました。

平安時代から煮物、汁物、蒸し物、茹で物、あぶって作った燻製、和え物、揚げ物、鱠(なます)、塩辛、漬物など和食の中心となる料理法の原型が大分出揃っています。

ただ、廃れていってその後の食卓に出なくなったものに酥(そ)があります。

酥は牛乳を煮詰めたときに出来る膜を箸で掬い取って集めて固形物にしたチーズでして。味は淡白で西洋のカッテージチーズに近い味で、現代ではジャムと混ぜると美味しいそうです。

酒は濁り酒といわれるどぶろくや、上澄みをとった清酒が出され、宴会には欠かせないものでした。

平安時代の食事で注目すべきは昆布などの海藻類の消費が京都で増えた事です。

海藻と魚は頭を活性化するブレイン・フードでして。

海藻には創造力を高めるグルタミン酸、ビタミン、カルシウムが多く。

魚には頭の機能を向上させるドコサヘキサエン酸が多いです。

これらの栄養分が宮仕え(みやづかえ)の女官で「源氏物語」を書いた紫式部や「枕草子(まくらのそうし」を書いた清少納言といった才女を生み出す一つの要因になりました。

自分も毎日コラムを書くための栄養として朝食には味噌汁にワカメを入れ。
夕食はなるべく魚を食べるように心がけています。

コラムはこれで終わりですが。皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その12~肉食と海軍と福沢諭吉~

21 6月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと思ってコラムを書いてみました。
携帯やスマホから見ている人もいると考え、あえて画像は載せていません。

江戸時代に外国との窓口だった長崎には中華料理とオランダから伝わった料理をかけあわせて日本流にアレンジした「卓袱料理(しっぽくりょうり)」と言われるものが長崎から京都、大阪。そして江戸へと伝わっていきます。

幕末になると牛鍋も登場します。その幕末に大阪の牛鍋屋に若い頃頻繁に通っていたのが、一万円札の顔で知られている慶応義塾を開き、いち早く新聞を出版して戦前の大マスコミを作り出した福沢諭吉でした。

彼の自伝を要約しますと。

「まず、たびたび行くのは鶏肉屋。それよりもっと便利なのは牛鍋屋。大阪には牛鍋屋が2軒だけで。1軒は難波橋(なにわばし)。もう一軒は新町の風俗街の近くにあって、最下級の店だから出入りする客は刺青を入れたゴロツキと貧乏学生ばっかり。肉も何処から取り寄せたのか分からない怪しい肉なので安く満腹にはなるけど牛肉は硬くて臭かった。」

と書いてありますが。この牛鍋屋には相当頻繁に通っていたようで。店の親父に頼まれて豚を水で溺れ死にさせて屠殺してから、オランダ医学を学んでいたので「解剖」と理屈をつけて豚の頭を持ち帰り、バラバラにしてから煮て食ったというエピソードもあります。

その後、福沢諭吉は英語を学び。幕府の使節としてアメリカとヨーロッパへ行って欧米と江戸幕府の日本との違いを体感して西洋の学問を日本がもっと取り入れないと思うようになり。

明治になると外国の学問や外国語を慶応義塾などで教えつつ新聞を書く著名な知識人でした。

彼の開いた慶応義塾には後に海軍のお偉方になるひとが複数いまして。海軍がイギリスを模範としたのは福沢諭吉の影響もあったことでしょう。

肉じゃがのルーツか?と思われる海軍の献立を書いた新聞も福沢諭吉が出版した新聞での掲載だったりするので、自分の門下生だった人たちがいる海軍との仲は良かったようです。

彼は新聞にキャッチコピーを書く才能もあり。明治になったとはいえ。まだ、卵でさえ食べたら氏神様の祟りにあるといって村人が卵を食べた男性を追い出そうとした事もあった頃、築地の食肉業者から何かいいキャッチコピーをと頼まれるとすぐさま。

「数千年の久しき、一国の風俗を成し、肉食を穢(けが)れたるものの如く云いなし、妄り(みだり)に之を嫌う者多し。畢(ひつ)異人の天性を知らず人身の窮理を弁え(わきまえ)ざる無学文盲の空論なり」

自分でも読み解くのが難しい言葉だけど自分なりに要約すると。様々な理屈をつけて、

「肉食わない奴は馬鹿だ」

と結論づけて書いてみせたわけです。

他にも腸チフスにかかったが、牛乳を飲んで全快したという話も書きましたが、真相は愛飲した牛乳メーカー宣伝目的で書いていました。

他にも西洋料理店の宣伝、広告を行い。

「西洋料理は栄養価が高く健康にいい、初物を買う金があったら西洋料理にその金を使ったほうがいい」

などと書いていました。

福沢諭吉が明治になって肉食、牛乳、西洋料理を盛んに勧めましたが。その後もなかなか普及しなかった逸話を。

1905年に起こった戦艦ポチョムキンの反乱は昼食のボルシチに腐った肉が入ってた事から始まりこの反乱自体は大したものではないですが、後のロシア革命の伏線になったと言われています。

戦艦ポチョムキンの反乱の前に従順な国民性の日本人も軍艦でちょっとした反乱を起こしていました。

明治の軍艦で朝になり起床の時間になったのだが、誰も起床しない。

これは前日に起床のラッパが鳴っても「死んだフリして起きない」と打ち合わせた日本人なりのストライキでした。

上官は反乱を起こした部下に理由を聞くと、

「軍隊に入ったら白米が食えると思って期待していました。しかし、パンやらビスケットなどのおやつしか出ない。これじゃやってられません」

と答え、これを聞いた上官は上司に内緒で米を取り寄せて部下に食わせる事で解決しました。

この当事の海軍の食事は主食がパン、ビスケット、乾パン。おかずは缶詰肉、塩漬け肉、チーズ、コンデンスミルクなどで作ったスープ、シチューなどを洋食に馴染みのない日本人に無理やり食わせていました。

しかし、日露戦争(1904年~1905年)から数年後の海軍の献立を見ますと。当時の軍艦には冷凍庫があったせいもあって牛肉を材料にした献立だけでも随分充実しています。

1908年に出された「海軍割烹(かっぽう)術参考書」から説明つきでメニューを一部出すと。

・ビーフステーキ
150gの肉で焼いたステーキだったようです。

・ローストビーフ
付け合せは蒸し焼きまたは茹でたジャガイモ。

・ロールキャベツ

・ジャーマンビーフ
牛ひき肉を刻んだたまねぎと一緒に炒めてから半熟卵をかける。

・チーズマカロニ
茹でたマカロニの上に牛ひき肉、チーズの順に敷いていって蒸し焼き。

・シャトー・ブリアン
フランスの美食家、ブリアン子爵(ししゃく)が由来のフランス料理。
肉は牛ヒレ肉に油を塗ってグリル焼きにするだけで終わりだが。
ソースはネギ科の植物エシャロット、ヨモギの一種エストラゴン、タイム、ローリエに白ワインなどを材料としたデミグラスソースと手が込んでいます。

・カレーライス
付け合わせに福神漬けやラッキョウが無く。
マンゴーなどの果物に酢、砂糖、香辛料を加えてジャム状にしたチャツネが付け合わせになっています。

他にもミンチパイ、コロッケ、キュウリの肉詰め、牛タンのシチューなどがあります。

この頃やっと明治の海軍にも福沢諭吉の思想だけでなく、彼が強く勧めた肉食も既に普及していたようです。

ちなみにカレーは今で言う甘口だったようです。

激辛も商品にし、辛口がもてはやされたのは1980年代からで、それ以前の世代は辛口が苦手な人も結構いたりします。

以上でコラムは終わりですが。いい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その11~文明開化とコーヒー、紅茶~

21 6月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書きました。
携帯やスマホから見ている人もいると考えて、あえて画像は載せてません。

文明開化の明治になりますと、西洋の様々な食べ物、飲み物が入ってきましたが。
コーヒーも早くから入っており、1878年には内務省でコーヒーを国内で栽培する試みが行われました。

しかし、本州で栽培を試みたせいか失敗し。1年後に鹿児島と沖縄で再び栽培を試みますがうまくいきませんでした。

こうしてコーヒーは輸入に頼るようになり。1880年にはお湯ですぐに飲めることをうたい文句にしたコーヒーの缶詰が販売され、洋食店で出されるようになり。10年くらい経つと次第にコーヒーを飲む人が増えてきました。

コーヒー1杯の値段が当事、5銭でしたが。現在の価値に換算すると1000円に相当するとの調べもあります。

他にも指標として明治時代に売られていた様々な物の物価も少し羅列してみます。

・あんパン=1銭

・うどん、そば=2銭

・カレーライス=5~7銭

・ビール=19銭

上に挙げた様々な値段と比較しますと今のように手軽に飲めるものではありませんでた。

それと現代の都市伝説に、

「メンソールの煙草を吸うとインポになる」

「コカコーラにはコカインが入っている」

「ハンバーガーが安いのはミミズが入っているから」

という外国からやってきた煙草や飲食物に関する都市伝説があるように、明治時代にも長くコーヒーを飲んでいる人の目に光沢が無く、しおれているという都市伝説が生まれました。

この都市伝説からコーヒーは目に害があるから飲むのを止めるよう騒がれていました。しかし、当事は1杯5銭と割高なコーヒーを飲む人は少なかったのであまり問題になりませんでした。

そんな都市伝説を尻目に1888年に華僑が上野で「可否茶館(かっひーさかん)」という名前の喫茶店を開業します。

この喫茶店には本、トランプ、封筒、便箋などが備え付けられており。小説家のたまり場になっていました。

しかし、あまり儲からなかったようで。2年後に浅草で開業した喫茶店とともに間もなく閉店します。

その教訓を経て現存する最古の喫茶店が1910年(明治43年)に明治の近代化と改革を行い、早稲田大学をを設立した大隈重信の協力をうけながら、学生やその他一般人も入れる庶民的な喫茶店。「カフェー・パウリスタ」を創業。

この店の銀座店にはジョン・レノンがよく利用し、他にも芥川龍之介、平塚らいてう、などの著名人も通っていました。

こうして昭和10年(1935年)には東京で喫茶店が1万軒も営業され、女性の給仕がコーヒーや軽食を運び。ある意味メイド喫茶の元祖だったりします。

この女性の給仕や、その喫茶店の光景などを太宰治、谷崎潤一郎などの作家が作品で描かれています。

一方、もう一つの飲み物、紅茶はどうだったのかと言いますと。幕末に開国後、緑茶を輸出していましたが、売れ行きが振るわず。明治になってからは1874年に紅茶を輸出できれば儲かると考え、内務省に製茶掛(せいちゃかかり)が設置され、まずは中国から紅茶の製法を学んで試みたが失敗。

次はインドから製法を学んでインド風紅茶を製造し。外国人に試飲させたところ評判よく。数年後にはオーストラリアにインド風紅茶が輸出されました。

しかし、本物のインド紅茶にシェアを奪われ、思うように外国で売れず。紅茶を生産して輸出産業にする計画は頓挫しました。

現代もその当事の名残として、紅茶専門店に行きますと「べにほまれ」という明治時代に輸出目的で作られた国産紅茶をメニューで見る事ができます。

戦前はコーヒーに比べて普及が遅かったようで。昭和5年(1930年)に日東紅茶が国産ブランド紅茶を発売し、1938年に東京の日比谷でPRして戦後の高度成長期になってやっと家庭でも飲まれるようになったようです。

以上でコラムは終わりですが。皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その10~江戸時代と明治と卵~

21 6月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと思い。コラムを書いてみました。
携帯やスマホから見ている人もいるだろうと考え、あえて画像は入れてません。

日本の鶏と卵の歴史は遡ると2100年ほどまえに朝鮮半島を通じてまず、鶏が伝わったようですが。それ以降、特に鶏や卵を食べたであろう記述や記録を探してみましたが見つかりませんでした。

ただ、神話で天岩戸(あまのいわと)に閉じこもった天照大神(あまてらすおおみかみ)がニワトリの鳴き声で出てきたという話があります。

その後、肉食を禁ずる仏教が伝わり。奈良の大仏を建立した聖武天皇がおよそ1300年ほど前に「殺生禁断の令」を出して肉食を禁じたこともあり、卵を盛んに食べた記録は江戸時代になってやっと出てきます。

江戸時代は井原西鶴が1682年に書かいた「浮世草子(うきよぞうし)」には、
「鶏めしふるまわれる」
といった記述があり、この頃から食べられていたようです。

1837年から書かれた百科辞典、「守貞謾稿(もりさだまんこう)」を要約すると。
「うどんの上に卵焼き、かまぼこ、しいたけ、慈姑(くわい)などを具に食べる」
「卵とじうどんにする」
など書かれており。卵の値段も書かれています。

かけそばが16文だった時代に、水煮したゆで卵が1個20文とありますので。
かけそばがおよそ280円と考えると、今の感覚では卵が1個350円した計算となるでしょう。
ですので、卵の値段は今と比べて随分高かったようです。

他の江戸時代の文献でも、
「卵焼きは毎日食べる」「茶碗蒸しにする」といった記述も見られます。

そして、江戸時代の具体的な卵料理のレシピは1785年に書かれた「万宝料理秘密箱」(まんぽうりょうりひみつばこ)の中にある「卵百珍(たまごひゃくちん)」の中に103種類のレシピが並んでいます。

「卵百珍」の中から一部抜粋しますと。「黄身返し卵」という普通は黄身の周りに白身があるのを、逆転させて、ゆで卵の形にした珍しいものもあります。

他にも卵素麺、カステラ、卵豆腐。

あと、自分が風邪を引いた時にお婆ちゃんが作ってくれた卵酒の原型かも知れない「卵の甘酒漬け」。

そして、個人的に特筆すべきは「麦飯卵」という卵かけご飯の原型と思われる料理などもあります。

こうして卵を様々な料理にして発展させた江戸時代から明治に変わると明治20年(1888年)にアメリカからやってきた品種の鶏などを利用して、より卵を産むよう品種改良していきました。

明治26年(1894年)にはマヨネーズやカスタードケーキなどの調理法が紹介され。特に熱心に調理法を考案したのがオムレツでした。

この頃はゆで卵もありましたが、半熟が多く。固く茹でた卵は老人や病人は食べないよう注意していたと言われています。

それから明治30年(1898年)になると、中国から国産より安い卵が輸入され。「上海卵」と呼ばれてよく食べられていました。

それから銀座の洋食屋でエビフライやトンカツとともに生まれたオムライス、卵をとじたカツ丼など。もっと日本人に人気のあるメニューが日本各地のデパートの洋食屋などでも出されるようになり、もっと卵が身近なものになっていき現代に至ります。

ここでコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?