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食の歴史その11~文明開化とコーヒー、紅茶~

21 6月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書きました。
携帯やスマホから見ている人もいると考えて、あえて画像は載せてません。

文明開化の明治になりますと、西洋の様々な食べ物、飲み物が入ってきましたが。
コーヒーも早くから入っており、1878年には内務省でコーヒーを国内で栽培する試みが行われました。

しかし、本州で栽培を試みたせいか失敗し。1年後に鹿児島と沖縄で再び栽培を試みますがうまくいきませんでした。

こうしてコーヒーは輸入に頼るようになり。1880年にはお湯ですぐに飲めることをうたい文句にしたコーヒーの缶詰が販売され、洋食店で出されるようになり。10年くらい経つと次第にコーヒーを飲む人が増えてきました。

コーヒー1杯の値段が当事、5銭でしたが。現在の価値に換算すると1000円に相当するとの調べもあります。

他にも指標として明治時代に売られていた様々な物の物価も少し羅列してみます。

・あんパン=1銭

・うどん、そば=2銭

・カレーライス=5~7銭

・ビール=19銭

上に挙げた様々な値段と比較しますと今のように手軽に飲めるものではありませんでた。

それと現代の都市伝説に、

「メンソールの煙草を吸うとインポになる」

「コカコーラにはコカインが入っている」

「ハンバーガーが安いのはミミズが入っているから」

という外国からやってきた煙草や飲食物に関する都市伝説があるように、明治時代にも長くコーヒーを飲んでいる人の目に光沢が無く、しおれているという都市伝説が生まれました。

この都市伝説からコーヒーは目に害があるから飲むのを止めるよう騒がれていました。しかし、当事は1杯5銭と割高なコーヒーを飲む人は少なかったのであまり問題になりませんでした。

そんな都市伝説を尻目に1888年に華僑が上野で「可否茶館(かっひーさかん)」という名前の喫茶店を開業します。

この喫茶店には本、トランプ、封筒、便箋などが備え付けられており。小説家のたまり場になっていました。

しかし、あまり儲からなかったようで。2年後に浅草で開業した喫茶店とともに間もなく閉店します。

その教訓を経て現存する最古の喫茶店が1910年(明治43年)に明治の近代化と改革を行い、早稲田大学をを設立した大隈重信の協力をうけながら、学生やその他一般人も入れる庶民的な喫茶店。「カフェー・パウリスタ」を創業。

この店の銀座店にはジョン・レノンがよく利用し、他にも芥川龍之介、平塚らいてう、などの著名人も通っていました。

こうして昭和10年(1935年)には東京で喫茶店が1万軒も営業され、女性の給仕がコーヒーや軽食を運び。ある意味メイド喫茶の元祖だったりします。

この女性の給仕や、その喫茶店の光景などを太宰治、谷崎潤一郎などの作家が作品で描かれています。

一方、もう一つの飲み物、紅茶はどうだったのかと言いますと。幕末に開国後、緑茶を輸出していましたが、売れ行きが振るわず。明治になってからは1874年に紅茶を輸出できれば儲かると考え、内務省に製茶掛(せいちゃかかり)が設置され、まずは中国から紅茶の製法を学んで試みたが失敗。

次はインドから製法を学んでインド風紅茶を製造し。外国人に試飲させたところ評判よく。数年後にはオーストラリアにインド風紅茶が輸出されました。

しかし、本物のインド紅茶にシェアを奪われ、思うように外国で売れず。紅茶を生産して輸出産業にする計画は頓挫しました。

現代もその当事の名残として、紅茶専門店に行きますと「べにほまれ」という明治時代に輸出目的で作られた国産紅茶をメニューで見る事ができます。

戦前はコーヒーに比べて普及が遅かったようで。昭和5年(1930年)に日東紅茶が国産ブランド紅茶を発売し、1938年に東京の日比谷でPRして戦後の高度成長期になってやっと家庭でも飲まれるようになったようです。

以上でコラムは終わりですが。皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その10~江戸時代と明治と卵~

21 6月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと思い。コラムを書いてみました。
携帯やスマホから見ている人もいるだろうと考え、あえて画像は入れてません。

日本の鶏と卵の歴史は遡ると2100年ほどまえに朝鮮半島を通じてまず、鶏が伝わったようですが。それ以降、特に鶏や卵を食べたであろう記述や記録を探してみましたが見つかりませんでした。

ただ、神話で天岩戸(あまのいわと)に閉じこもった天照大神(あまてらすおおみかみ)がニワトリの鳴き声で出てきたという話があります。

その後、肉食を禁ずる仏教が伝わり。奈良の大仏を建立した聖武天皇がおよそ1300年ほど前に「殺生禁断の令」を出して肉食を禁じたこともあり、卵を盛んに食べた記録は江戸時代になってやっと出てきます。

江戸時代は井原西鶴が1682年に書かいた「浮世草子(うきよぞうし)」には、
「鶏めしふるまわれる」
といった記述があり、この頃から食べられていたようです。

1837年から書かれた百科辞典、「守貞謾稿(もりさだまんこう)」を要約すると。
「うどんの上に卵焼き、かまぼこ、しいたけ、慈姑(くわい)などを具に食べる」
「卵とじうどんにする」
など書かれており。卵の値段も書かれています。

かけそばが16文だった時代に、水煮したゆで卵が1個20文とありますので。
かけそばがおよそ280円と考えると、今の感覚では卵が1個350円した計算となるでしょう。
ですので、卵の値段は今と比べて随分高かったようです。

他の江戸時代の文献でも、
「卵焼きは毎日食べる」「茶碗蒸しにする」といった記述も見られます。

そして、江戸時代の具体的な卵料理のレシピは1785年に書かれた「万宝料理秘密箱」(まんぽうりょうりひみつばこ)の中にある「卵百珍(たまごひゃくちん)」の中に103種類のレシピが並んでいます。

「卵百珍」の中から一部抜粋しますと。「黄身返し卵」という普通は黄身の周りに白身があるのを、逆転させて、ゆで卵の形にした珍しいものもあります。

他にも卵素麺、カステラ、卵豆腐。

あと、自分が風邪を引いた時にお婆ちゃんが作ってくれた卵酒の原型かも知れない「卵の甘酒漬け」。

そして、個人的に特筆すべきは「麦飯卵」という卵かけご飯の原型と思われる料理などもあります。

こうして卵を様々な料理にして発展させた江戸時代から明治に変わると明治20年(1888年)にアメリカからやってきた品種の鶏などを利用して、より卵を産むよう品種改良していきました。

明治26年(1894年)にはマヨネーズやカスタードケーキなどの調理法が紹介され。特に熱心に調理法を考案したのがオムレツでした。

この頃はゆで卵もありましたが、半熟が多く。固く茹でた卵は老人や病人は食べないよう注意していたと言われています。

それから明治30年(1898年)になると、中国から国産より安い卵が輸入され。「上海卵」と呼ばれてよく食べられていました。

それから銀座の洋食屋でエビフライやトンカツとともに生まれたオムライス、卵をとじたカツ丼など。もっと日本人に人気のあるメニューが日本各地のデパートの洋食屋などでも出されるようになり、もっと卵が身近なものになっていき現代に至ります。

ここでコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その9~ヨーロッパ人は水を飲まない?~

21 6月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと思ってコラムを書いてみました。
携帯やスマホで見る人もいるだろうと考え、あえて画像は載せてません。

日本でコーヒーでも飲もうかと思って喫茶店に入るとまず水が出てきて注文を取りにくる。
あるいはセルフサービスで水が飲み放題などなどありますが。これは世界中でも珍しいものなのだそうです。

世界中で水を良く飲むのは日本人とアメリカ人と相場が決まっているようです。

それ以外では局地的ですが、クリームをたっぷりのせたウィンナーコーヒー発祥の地ウィーンとその周辺でもアルプス山脈から引いてきたと言われる水がコーヒーとともに運ばれてきます。

ヨーロッパではアルプス山脈のあるスイスから北や東などは特に水に無関心でして。その要因としては汗をあまりかかない気候なのと昔から硬水の水が薬用としてしか飲む習慣がない事などもありますが。ヨーロッパ人が水を飲まないのにはちゃんと歴史があります。

ヨーロッパで水が安全に飲めるようになったのはたかだか100年前の事にすぎず。清らかな水がふんだんに湧き、そして流れてくる国土に住む日本人からすれば別世界でした。

クリスチャンに聞くと、聖書に「水を飲む」という言葉は全くないと聞きましたし。古代ギリシャの古典にも水を飲む記述はほとんど出てきません。

ただ、特別の例外が二つほどあり。2400年ほど前に西洋医学の原点となる医学書を作り、今でも医科大学で医者などを志す学生は「ヒポクラテスの誓い」をするなど影響を残しているヒポクラテスの著書に。
「泉から湧き出る水、深く掘った井戸水、貯めた雨水は飲んでも大丈夫」
と書いた事が例外の一つ。

もう一つの例外は古代ローマ帝国の上水道でした。
ローマの公衆トイレは公衆浴場で使ったあとの水を使って流す水洗トイレだったりと下水のほうも発達していました。
それでもローマで生水を飲むという習慣はあまり無かったようです。

こうした例外を除くと生水が飲めず、ビールかワインがずっと水の代わりだったヨーロッパ人が水を飲んだのは1600年代にコーヒーや紅茶が伝わって。水を沸かせば飲める事に気づいてからとなります。

中国はヨーロッパ人より1000年以上前から沸かして飲んでいたので、流石は茶と紅茶のルーツとなった国らしいと言えるでしょう。

1800年代になってもヨーロッパの町や大都会は不潔で、イギリスではテムズ川があまりにも悪臭を漂わせるのでテムズ川沿いにあった議会が閉会された事もありました。

ドイツの言語学者フランツ・ボップが1812年、パリに留学した時は6階の屋根裏部屋で寝泊りし、水の代わりになっていた安物のワインさえ買う金も無いので木炭でろ過した生水を飲んだ事が苦学生の苦労話として残っていたりもします。

都会は不潔で安全な水が確保できない状態が100年前までと書きましたが、一方ドイツやスイスの田舎へ行ってみると。ひなびた町や村の中心にミネラルウォーターが湧いており。古くから住民たちの集いの場でもありました。

こうしたひなびた町や村の中心で湧いているミネラルウォーターが今ではペットボトルに詰め込まれて商品となっています。

こんな安全な水が飲めるようになるのに百年の歴史しかないヨーロッパで働いた事がある武田薬品工業の内林政夫さんの話では。ドイツ北部に駐在して職場を観察しますと。朝から昼までトイレに立つ人がいない。午後も5時まで動かない。そんなわけで、トイレは主に日本人専用になっているとのこと。

他にも内林さんが言うには。ヨーロッパで他所の会社の人たちと会議するとき、日本人は昼食前に1度はトイレで席を立つ。昼まで待たずにトイレで席を立つと話の腰を折ってしまうので。朝は紅茶一杯だけにして午前中は一切水分を取らないよう努めたそうです。

内林さんは仕事場だけでなく、生活にまつわる話も残しており。ドイツはカルシウム、マグネシウムが沢山含まれている硬水なので石鹸が泡立たず、やかんを沸かすとやかんの口に白い固形物がすぐにつく。そればかりか水滴がついたままのグラスが乾くと白い斑点が残る。ウィスキーの水割りでも白い沈殿物が出来る。ドイツ人にこれらの話をすると決まって「ここはドイツですよ」と返されたと述べております。

この鉱物が沢山含まれた水を飲んだりして長年体に入れていると、涙腺が詰まってしまい。涙腺に溜まったカルシウムやマグネシムを取り除く手術をスイスやドイツで行われる事がしばしばあるそうです。

それに比べて日本は軟水の質の高さと清潔さでは天国のようなもので。720年に書かれた日本書紀にも清らかな湧き水「好井(しみず)」が現れます。

日本は世界に比べ、年間を通じて降水量が多く。雨季に降った水が山野に蓄えられ地下水となって列島をくまなく潤し。

また、湧き水は清らかな流れを作り、大きな河川となって日本人の生活を支えてきました。雨による浄化作用で江戸時代に世界一の大都市だった江戸も不潔なヨーロッパと別世界でした。

水をテーマに思いついた事を書いてきましたが、しめくくりに水と歴史のエピソードを一つ。

日露戦争の日本海海戦での勝利を祝って東郷平八郎司令長官を主賓とする晩餐会が開かれ。たまたま来日中のアメリカの政治家ウィリアム・ジェニングスも招待されて出席しました。

しかし、ジェニングスは禁酒活動家で、乾杯の時もシャンパングラスを伏せて、水で乾杯しました。

そのあとスピーチで言うには、

「閣下、わたくしは禁酒家でありますので。ご健康を祝うために水で乾杯しましたところ、お国の風習では祝いの席に水は禁物と聞いてあります。ですが、閣下は水の上で大勝利を収められました。もしも、今後シャンパンの上で大勝利をなされたら。わたくしもシャンパンで乾杯いたすでありましょう」

とスピーチしたところ拍手喝采であったと言います。

食の歴史その8~歴史から見る関東と中部と関西の醤油の違い~

21 6月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと思ってコラムを書いてみます。
携帯やスマホから見る人もいるだろうと考え、あえて画像は載せていません。

関西の方が東京に来られるとうどんの汁が真っ黒なのに驚き。
そして食すと「醤油の主張が強すぎてダシが負けている」などと評されたりします。

一方関西のしょうゆは味が薄かったりします。

この関東と関西の醤油の違いには歴史がありまして。江戸時代にまで遡る事ができます。

まず、関東の濃口醤油は大豆、小麦、塩を主な原料とし。
江戸時代に関東の濃口醤油の一大生産地であった千葉県の銚子では大豆と小麦の比率を1対1とし。大豆は蒸して煮て、小麦は炒ってから砕き、これに種麹(こうじ)を混ぜて熟成させて麹を作ります。

そして仕込蔵で桶に入れた食塩水を入れて麹と混ぜ合わせ、諸味(もろみ)として1年熟成させます。

最後に諸味を袋に入れて絞り火と言う、火であぶって雑菌を殺しつつ焦げた匂いも風味としてつける工程を経て樽に詰め込み出荷されます。

これに対して関西の醤油は米の甘(甘酒)を用いた淡口醤油でありました。

あと、中部地方では大豆、塩を原料として。大豆を煮て種麹を混ぜて発酵させた豆麹に塩水を加えて熟成させ。底に溜まった汁を溜り(たまり)として醤油の代わりに使っていました。

江戸と大阪を往来していた喜田川守貞が1837年に書かれた百科時点「守貞漫稿(もりさだまんこう)」の記述を要約すると。
「今でも愛知などの中部地方では溜りを使い、醤油を使わない」
とあるので、中部の溜り醤油は醤油と別口に分類されていたようです。

現代ではブランドになっている醤油の名前にヤマサ、ヒゲタ、キッコーマンが江戸時代から存在し。

銚子のヤマサ、ヒゲタ。これまた千葉県の野田で作られたキッコーマンなどは江戸でも有名な醤油でした。

原料の大豆は茨城県から、小麦は神奈川県から、塩は千葉県や忠臣蔵に地名が出てくる兵庫県は赤穂(あこう)から、大豆の蒸し煮に使われる木材、木炭は群馬県、栃木県から運ばれて関東の醤油製造は成り立ちました。

このような広範囲からの調達ができたのは江戸時代に海や川を船で運ぶ流通が発達したためと言われています。

いつ頃から流通が発達して醤油が作られたのかは定かでは無い所が多いですが。ヒゲタの伝承では。兵庫県西宮の真宜(さなぎ)家から製法を教わり、1670~80年代に作られたと言われています。

ヤマサの場合は和歌山県の醤油の産地として名高い湯浅から近所の広村に伝わり、それを広屋義兵衛が故郷を出て銚子に渡り、1700年に製造を開始したと言われています。

キッコーマンは分かりませんが。ヤマサとヒゲタは兵庫や和歌山など関西がルーツとなっているようです。

ここでコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その7~世界的調味料 醤油~

21 6月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶし用にコラムを書いてみました。
携帯やスマホで見ている人もいるでしょうから、あえて画像は載せません。

醤油とは大豆、小麦、食塩を原料に麹(こうじ)菌の働きによって発酵、熟成させて作られますが。ルーツは醤(ひしお)にまで遡ります。

醤とは穀物、鳥獣魚肉、野菜などの素材を塩漬けにして熟成させたもので。それぞれ「穀醤(こくしょう)」
「漁醤(ぎょしょう)」「草醤(そうしょう)」と呼ばれます。

日本では穀物を使った穀醤が好まれ、太古から使われてきたと考えられています。

この穀醤に使われた大豆は歴史が古く、大豆のもとになる種は昔は満州と言われた中国北東部、朝鮮、日本で自生していたツルマメと言われます。

ツルマメは昔から食用に使われていましたが。本格的な栽培は中国北東部とロシアの国境に至るアムール川流域で4000~5000年前から始まり。2000年以上前には中国北部で重要な作物となりました。

この大豆が2200年ほど前に稲作とともに伝わりましたが、当初は煮豆や煎り豆にして食べられていました。

その後、大陸から穀醤などの技術が伝わり、本格的な醸造が600年代に確立し。701年の大宝律令には大豆で作った醤油の記録が見られます。

それから数百年後の1254年の鎌倉時代には中国の宋から「経山寺(きんざんじ)味噌」の製法が伝わり。味噌樽の底にたまった汁から「溜り(たまり)じょうゆ」なるものが考案されています。

この溜りじょうゆから現代の醤油へと変化していくのは1500年代半ば以降でして。江戸時代になると関西の西宮(にしのみや)や龍野(たつの)、関東では野田や銚子(ちょうし)などで本格的な醤油作りがされていきます。

江戸時代初期は醤油が贅沢品でして。米一升(1.8リットル)が26文だったのに対し。醤油一升は銚子の醤油が60文、大阪の河内屋の108文までありました。
ここから勘定すると、現代の感覚では醤油一本が数千円から1万円ほどになっていたようなものでしょう。

この贅沢品であった醤油は1647年、江戸時代に長崎からオランダの船に乗って東南アジア、インド、ヨーロッパへと運ばれていました。

長崎から海外に運ばれた醤油は最初アジア各地に住む華僑が中国の醤油より質が高い評価して消費されていました。

この輸出された醤油は「ゲルテル瓶」という商品名がついていましたが。醤油のオランダ訛りである「ソヤ」「ゾヤ」という通称で呼ばれるようになりました。

このヨーロッパに運ばれた醤油は美食王として名高いルイ14世がそのうまさを愛でていて。ベルサイユ宮殿の食卓にものぼりました。

その後、20世紀後半以降のアメリカで醤油をソイソースと呼ばれ。2000年の統計によると、年間10万リットルの消費があるほどになりました。

アメリカを筆頭にヨーロッパでも消費されるようになったのは。肉、野菜などあらゆる食材を焼き物、煮物、揚げ物、生物などいずれの調理法にもなじむ調味料で。料理用と食卓用療法にも使える利便性からも海外でもてはやされています。

以上でコラムは終わりですが、いい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その4~寿司の歴史~

21 6月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしにコラムを書いてみました。
携帯やスマホで見ている人もいるかと考え、あえて画像はつけていません。

日本における「酸し(すし)」「熟すし(なれすじ)」の歴史は長く。塩漬けにした魚を米に漬け込んで発酵させた保存食として発展したすしは東南アジアから稲作とともに日本に伝わったとされています。

それらは酢を使わない熟すしと呼ばれる古いもので、今もその名残が琵琶湖名物の鮒(ふな)寿司に残しています。

だが、この方法では発酵などで半年はかかるため、より手っ取り早くより美味しく食べたい需要が高まり。酢の醸造技術が発展した江戸時代は1700年頃までに酢を使った人工ずしが発案されました。

酢を使った人工ずしは「押しずし」「一夜漬けずし」などと呼ばれ。その後、大阪では箱ずしと呼ばれる押しずしが、江戸では散らし寿司が相次いで生まれ、庶民の人気となりました。

しかし、現在は寿司と言えば日本でも外国でも。板前さんが酢飯の上にネタを載せて握って出す江戸前寿司とも握り寿司とも言われる物ですが。

短気でせっかちな江戸っ子を魅了したこの即席すしの原型を作ったのは1825年ころに華屋与兵衛(はなやよへい)が江戸は両国に店を構えて「与兵衛すし」として出したのが始まりと言われています。

これが珍しいものや目新しいものが好きな江戸っ子に大人気となり。行列も出来て。
「こみあいて、待ちくたびれる与兵衛ずし、客ももろ手を握りたりけり」
と狂歌が残るほどの大人気でした。

華屋与兵衛の考案した握り寿司は市民権を得ましたが。それが稲荷ずしや散らし寿司をおしのけ、都市部で主流になったのは第2次世界大戦後からとなります。

地方でも食べられるようになったのは魚介類が地方にも流通したのと、冷蔵庫の普及により1970年代からとなります。

ですので、寿司がどこでも食べられるようになったのはつい最近の出来事だったりします。

ここでコラムは終わりですが。いい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その3~関東にすきやきが無かった?~

21 6月

今日も暇つぶし用コラムを書いてみました。
携帯やスマホで見る人もいるだろうと考え、画像はつけておりません。

肉を鍋にして食べた歴史は幕末からあり。明治が確か1868年からですから、それから30年以上前からイノシシや鹿を食べており。桜田門外の変で暗殺される井伊直弼の地元の彦根藩では滋養強壮目的のお薬として牛肉を売っていました。

しかし、井伊直弼が殺生はいけないという考えから牛肉の販売をやめてしまい、最後の将軍、徳川慶喜の父、徳川斉彬は何度も牛肉をくれと手紙を書いていたと言われ。あくまでも俗説ですが、水戸藩出身の浪人が桜田門外の変で井伊直弼を襲撃したのは肉をくれないばかりか、死ぬまで軟禁させられた徳川斉彬の恨みも関係が?なんて話があります。

もし本当だとしたら昔から言われてますが。「食い物の恨みは恐ろしい」といったところでしょうか。

「パンが無ければケーキを食えばいいのに」言って逆鱗に触れてフランス革命が起こったとも言われるし。ロシア帝国はパンの配給が出来なくなったら飢えて怒りに満ちた民衆が皇帝のいるダブリーダ宮殿に押しかけて革命が起こったとか聞いてますし。食べ物の恨みが怖い事例は古今東西どこでもあるようです。

さて、話が逸れたので日本の肉食の話へ。

明治は1872年に出た「安愚楽鍋(あぐらなべ)」という本には要約すると。
「牛肉を食べるのがこれからのトレンド。牛肉を食べたら昔からのイノシシや鹿なんて食べなくなる」
と牛肉をもてはやし。1年後には明治天皇も肉食を推奨し、坊主の肉食と妻帯も許可されました。

これと同時並行して新聞などで「牛乳を飲もう」というキャンペーンも繰り広げられています。

さて、ここからすきやきが始まるかと思いきや「牛鍋」というものが出てきます。

この牛鍋は肉を角切りにしてネギを添え。味噌と醤油を混ぜて煮込むという現在のすきやきとはかけ離れたものでした。

現在のように牛肉にネギ、しらたき、豆腐を具に醤油と砂糖などで味付けするすきやきは大正時代に関西で生まれます。

それでも関東では1930年代半ばまでずっと味噌と醤油を混ぜて煮込む牛鍋でした。

それと、すきやきのルーツは農具の鋤(すき)で焼いたからという説がありますが。これが正しいすきやきのルーツではないようです。

しかし、幕末は1822年の「料理早指南」という本を要約すると。

「雁(がん)、鴨(かも)、鹿を醤油に漬け込み。古く使い古した鋤の上に置いて柚子(ゆず)も加えて鉄板焼きにして色が変わるほど焼けたら食べ頃」
とありますから。すき焼きの名前は昔からあったようですが。いつから現代のすき焼きになっていったかの過程と何故関西から広まったのかも分からないままとなっています。

以上、日本料理の伝統は思ったほど古くなかったりしたりします。
明日は伝統ある日本料理の代表だと思われる寿司の歴史も結構歴史が古くない事をかいつまんでコラムに書こうと思います。

ここでコラムは終わりですが、楽しんで頂けたでしょうか?

食の文化史その2~茶と紅茶とコーヒーの歴史~

18 6月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶし用にコラムを書いてみました。
ビジュアルで分かりやすくするために画像を沢山使ってみます。

中国、ミャンマーと国境を接するルアンナムター県

中国、ミャンマーと国境を接するルアンナムター県

まず、茶の歴史はミャンマー北部と中国南部に自生していたのを2300年ほど前に飲み物として使うようになったのだけど。最初は漢方薬として使われていました。


それが仏教が伝来し。仏教が酒を戒めると、お茶は酒の代わりに広まっていき。1600年ほど前には茶を栽培して飲むようになりました。

そのお茶も中国では大雑把に三種類ありまして。北部では緑茶、ジャスミンなどを入れた花茶。南部の福建省では烏龍茶。香港の近くにある広東では紅茶が作られて飲まれるようになりました。

長崎の出島とオランダ船

長崎の出島とオランダ船

それから千年以上送れてヨーロッパもお茶を飲むようになったのですが。最初は1610年にオランダが長崎からオランダの首都アムステルダムに運んだ緑茶がヨーロッパに渡った最初のお茶と言われています。この頃はオランダが植民地帝国で世界中に幅を利かせていました。

ウィーンの シェーンブルン宮殿

ウィーンの シェーンブルン宮殿

イギリスもその頃は意外でしょうけれども緑茶を飲んでいました。他にも、沢山の皇帝を輩出したヨーロッパの名門家ハプスブルグ家の本拠地ウィーンでも、不老長寿の薬として飲まれていました。海の交易は最初オランダが独占していましたが。1669年にイギリスが中国からお茶の買い付け に成功していますが、まだ緑茶でした。

ポルトガルから嫁いだキャサリン・オブ・ブラガンザ王女

ポルトガルから嫁いだキャサリン・オブ・ブラガンザ王女

緑茶から紅茶への変化をもたらすきっかけは1662年にポルトガルの王女キャサリンがイギリスに嫁いだ時に持参した紅茶でイギリス王室から紅茶を飲む習慣を広めたことからはじまります。

1600年代のポルトガルの都リスボン

1600年代のポルトガルの都リスボン

イギリスの硬水 の水質では王女キャサリンが故郷ポルトガルの貿易港リスボンから持参したタンニンの多い紅茶が適しており、肉食を好む食生活に濃厚なお茶の風味がマッチしていたのも緑茶に代わって紅茶が席巻していった理由だと言われ ています。

こうして紅茶が緑茶よりも好まれるようになり。ヨーロッパ、中東、アメリカでも飲まれるようになりました。
1800年代にインドやスリランカで紅茶を栽培して世界の紅茶をイギリスが独占しますと。独占しているために高値でふっかけられた値段に嫌気をさしたフランスやアメリカはコーヒーへとシフトしていきます。

こんな事情があって。紅茶はイギリス、コーヒーはアメリカという図式が後々出来ていきます。

エチオピア高原

エチオピア高原

では、次にコーヒーの歴史もさらっと説明してみます。
コーヒーの原産地はエチオピアのカファと言われる標高2400メートルの高原地帯に自生していたのを飲料にしたのが中東に伝わったものです。
コーヒーを飲むきっかけとそのルーツは伝説の領域ではっきり分かってませんが。文献には1100年前にアラビアのラーゼスという医師が茶と同じく薬用で処方したのが一番古いコーヒーに関する記録だと言われています。

コーヒーの実を食べた鳥を観察するシェーク・オマール

コーヒーの実を食べた鳥を観察するシェーク・オマール

あと、1587年に書かれた文献ではイエメンのモカに住むシェーク・オマールというアラブの偉い坊様が山で小鳥がついばんでいる赤い実を食べてみたらカフェインのせいか。心身爽快になったので。飲み物に加工して病人に与えて苦痛を救ったので聖人になったと言われています。

「昔ア~ラブの偉いおぼうさ~まが~♪」で始まるコーヒー・ルンバはこの話が元です。
アラブの偉いお坊様が飲ませたコーヒーはモカだったんですねえ。

昔の中東の喫茶店

昔の中東の喫茶店

しかし、コーヒーは長い間、門外不出の秘薬とされ。一般には出回らなかったけど。1554年にトルコの首都イスタンブールで「文化人の学校」という名前で出したのがコーヒー喫茶店の始まりだったそうです。

そのトルコ人が1615年にイタリアは水の都ベネチアに持ち込み、それがフランスやイギリスにまで飛び火して、イギリスも紅茶が普及するまでは「コーヒーショップ」というものが沢山あったほど流行していました。

しかし、キリスト教の敵であるイスラム教徒の飲み物を喜ぶなんてとんでもないという声もあり。反対派と擁護派で乱闘騒ぎになるほどヒートアップ。

ローマ法王クレメンス8世

ローマ法王クレメンス8世

この論争は当事のローマ法王クレメンス8世(1536~1605年)が「こんな美味しいものをイスラム教徒に独り占めさせておくことはない」と発言して一件落着。

カプチン修道会の修道士たち

カプチン修道会の修道士たち

ローマ法王が擁護するほど教会はコーヒー寄りで。カプチン修道会ではスパイスを混ぜたコーヒーを作って寝ずに修行していました。
これがカプチーノの始まりです。

コーヒーに砂糖とミルクを入れるスタイルを考案したのは音楽の都、ウィーンの人だと言われています。

トルコ帝国は音楽の都ウィーンを2回包囲して結局攻略できずに去って行ったのですが。トルコ人が去って行った時に山ほどコーヒーを残していったので。それを目端の利く人がタダ同然で買い付けてカフェを開いて一攫千金したそうです。
カフェではカップに粉が入らないよう布で濾してクリームを入れたウィンナーコーヒーも考案しました。

1668年ロンドンのコーヒーショップ

1668年ロンドンのコーヒーショップ

このカフェがヨーロッパの歴史を大きく変えていきます。
フランスやイギリスにコーヒーショップが出来ますと。イギリスでは1ペニーの入場料と1ペニーのコーヒーで雑誌や新聞読み放題。雑誌や新聞を読んだ知識をコーヒー片手に議論できたので通称「ペニー大学」とも言われました。
その「ペニー大学」の議論からイギリスでは損害保険、生命保険の概念が生まれます。

ロンドンのロイズ本社ビル

ロンドンのロイズ本社ビル

イギリスの保険組合といえばロイズが有名ですけど。もとはコーヒーショップの談義から生まれたものなんですね。

バスティーユ襲撃

バスティーユ襲撃

一方フランスでは政治家、学者、芸術家などが集まってサロンとなり。コーヒー片手に新しい思想が生まれ。それがフランス革命の原動力となっていきます。

コーヒーが無ければイギリスの議会制もフランスの共和制も出来なかった事でしょう。

さて、アメリカのほうでは1669年にニューヨークでコーヒーショップが開かれ。1730年頃には一般家庭にまで広まっていました。


しかし、西部開拓民はコーヒーが満足に無いので。代わりに黒パン、大麦、タンポポの根、嗅ぎ煙草などを煮出して。「むくんだコーヒー」と言われる代用品を作っていました。

そんなアメリカも当事はイギリスの植民地でしたので。紅茶は伝わっていたのですが。高い関税がかけられて高値でした。


その上アメリカと関係の無い所でイギリスとフランスが戦争を起こし。その戦費調達に印紙税をアメリカから取りました。
その名残が日本でも文書に収入印紙を押す形で残っています。

アメリカからすると、アメリカ人はイギリスの領土なのに、イギリスの議会に参加できない。ロンドンの政治に参加できず勝手に決められた税金なのです。

ボストン茶会事件

ボストン茶会事件

そこで、アメリカの有識者が「代表なくして関税なし」と言い出しました。
そこからイギリスの関税の象徴である紅茶を攻撃しようとインディアンの格好して乱入し。紅茶の箱を次々と海に投げ込む事件が起こりました。

これがアメリカ独立戦争のきっかけになった「ボストン茶会事件」です。

アメリカは紅茶を独占するイギリスと何度も戦い。時にはホワイトハウスを燃やされた時もあった程なので。紅茶は廃れ、コーヒーが主流になりました。

しかし、1800年代が終わろうとする頃に大きな変化が起こります。

トーマス・リプトン

トーマス・リプトン

イギリスはスコットランドのグラスゴーに生まれたトーマス・リプトン(1845~1931年)がアメリカに渡り、食料品店を開きます。その時にスリランカともセイロン島とも呼ばれる場所で紅茶を栽培してから、大量に輸送し。商標をつけて安全性も確保し、信頼を得られるブランドとなりました。
それと、リプトンがセイロン島から大量に持ち込んだ紅茶のおかげで紅茶の値段が半分になったのもアメリカでも売れた大きな要因と言われています。

リプトンの缶などにパイプをくわえ、ヒゲを生やしたおじさんの顔が書かれていますが。あれがトーマス・リプトンです。

ヴィクトリア女王

ヴィクトリア女王

紅茶で財を成したリプトンは慈善事業も展開し。そのせいもあってかビクトリア女王からサーの称号を貰っています。

もし、イギリスのグラスゴーなどへ行ってみる時はリプトンの創始者。トーマス・リプトンさんの歴史も念頭に入れるとより旅行が楽しめるかも知れません。

さて、長々とした文章ですが。いい暇つぶしになったでしょうか?

楽しんでもらえたら幸いです。

食の文化史その1~フレンチポテトとコーラとアメリカ~

18 6月

こんにちは。皆さんの暇つぶし用に長めのコラムを書いて見ました。
携帯やスマホで見ている人もいるだろうと考え、あえて画像は入れてません。

フレンチポテトが広まった歴史は比較的新しく。1914年から1918年まで起こっていた第1次世界大戦にて、ヨーロッパに派遣されたアメリカ兵がベル ギー人からフライドポテトをお裾分けしてもらったのですが。ベルギー人がフランス語を話すので、フランスのポテトだと思い込み、そこから「フレンチポテ ト」という名前になったようです。

そのベルギーではフライドポテトの歴史がある程度あり。昔、ベルギーの漁村では川で取れた小さな魚を揚げて食べていた。しかし、冬になると川が凍って魚が取れないので代わりにポテトを揚げてみたのが始まりらしいです。

ヨーロッパで本格的にジャガイモが食用になったのはフランス革命が起こった時、パンが不足していたので革命政府が代用として家畜の飼料にしか使われていな かったジャガイモを配給したのが始まりだと言われるので。ベルギーでもジャガイモが食べられたのは。おそらく、フランス革命が起こった1789年以降かも 知れません。

ベルギーでは現在、フライドポテトをフリッツと呼んでおり。これが主食となっているほどです。
フリッツにつけるソースも独特で「サムライソース」というマヨネーズにハリッサという唐辛子とニンニクとその他香辛料を加えた調味料とレモンで味付けしたものをつけて食べるのが一般的らしいです。

フライドポテト先進国であり、偶然にも「フレンチポテト」名付け親となったベルギーからアメリカに渡ったフレンチポテトがアメリカで普及するには時間がかかっており。
ジャガイモ王、フライドポテトの王とも言われる。ジョン・リチャード・シンプロットというアメリカの田舎はアイダホで戦前は農場を営んでいた男が第2次世界大戦後に所有するジャガイモの大農場と巨大な加工工場を使って1950年代に売り込みます。

1950年代に売れるまでの間、シンプロットは第2次世界大戦中に乾燥ジャガイモや乾燥タマネギを軍に納入して莫大な儲けを得ては農場と加工工場を拡大していき。冷凍庫が家庭にも普及した1950年代になると冷凍食品に目をつけます。

実は1920年代にクラレンス・バーズアイと言う人が急速冷凍の特許を取り。冷凍食品を売り込んだのですが、当事はスーパーや食料品店にも冷凍庫がなかったので全然売れませんでした。

それから家庭にも冷凍庫が普及した30年後にクラレンス・バーズアイが考案したアイディアにジャガイモ王シンプロットが目をつけました。

1950年代は「食品加工の黄金時代」と言われ。冷凍TVディナー(これは1960年の映画「アパートの鍵貸します」に出てくる都会で一人暮らししている サラリーマンが家に帰るとテレビ見ながらマッチで火をつけたコンロで解凍したTVディナーを食べているシーンが出てきます)に始まり、袋から出てくるポテ トサラダ、冷凍オレンジジュース、スプーンで簡単にすくえるほど柔らかいチーズが詰まったチーズウィズ(アメリカではこれを使ったチーズマカロニがお袋の 味のようです)などなどが最先端の食料品としてもてはやされ。レストランでは誇らしげに缶詰スープを出し、冷凍食品を出すのが売りのレストランもありまし た。

ここでシンプロットは家庭がどんな加工食品を欲しているのかリサーチを開始します。
その結果、アメリカ建国の父トーマス・ジェファーソンが1802年にパリ仕込みの「ポム・フリッド」という正真正銘なフレンチポテトのレシピを持ち込み、 第1次世界大戦後にアメリカで庶民に流行したフレンチポテトを冷凍食品にして売ったら儲かるとのリサーチ結果が出ました。

そして、1965年にマクドナルドがフライドポテトをシンプロットが売り込んだ冷凍ポテトに切り替えてより爆発的に広がって今に至ります。

マクドナルドのフライドポテトの味の秘訣は揚げる油にありました。
それは7%の大豆油と93%牛脂という割合で混ぜた混合油にありました。
しかし、フライドポテトのコルステロールの高さに非難が高まり。1990年に100%植物油へと切り替えます。
この時に使えなくなった牛脂で出していた風味をどうやって出すか考えた結果。
「香料」とも「人工香料」とも言われる添加物を使って風味をつけました。

もし、この「香料」がなかったらファーストフードは存在しなかっただろう。と言われるほど大変重要なものです。

加工食品は洗浄、カット、詰め込み、乾燥、冷凍、貯蔵、輸送などの過程で風味が殆ど失われるため、人工香料で風味をつけざるおえないのです。

スーパーで食品の添加物の表示を注意して見ると、さりげなく「香料」と書かれている割合が高いのに気づく事でしょう。

これらの香料は製法が門外不出で限りられた場所のラボで科学者たちが調合して常に新たな風味をつける香料を開発しています。

匂いは食べ物の味の90%を決めるほど重要な要素で。この香料さえあれば、誰でも美味しい料理を簡単に作れてしまいます。

これまでラボで開発された香料を一部だけ羅列しますと。ポップコーン、ポテトチップ、パン、クラッカー、朝食用シリアル、スポーツドリンク、紅茶、天然オーガニック食品全般、醸造酒、ビールなど。どんな食品の風味も香料で作れてしまいます。

ノンアルコールビールを飲んでもビールの味がするのは香料で人工的に作られたビールの香りのおかげです。

こうした人工、天然を問わず。「心地よい食べ物」の匂いが脳に記憶されると。特定の食べ物を無意識に食べたくなるようなります。こうしてアメリカでは週に4~5回以上マクドナルドなどに通う。業界用語では「ヘビーユーザー」と言われる客層を産み出しました。

そんなヘビーユーザーの一人らしい有名人がいます。元アメリカ大統領のビル・クリントンです。

彼はアレルギーが多く。牛乳やら花粉やら様々なアレルギーがあるので、チーズバーガーは食べないようですが。フライドポテトを食べながらコーラを飲むのが 大好きで。その結果心臓病になり、手術を受けることになって一命を取り留めましたが。それ以来コーラは飲んでもフライドポテトは控えるようになったと言わ れています。

このコーラも中毒者が多く。まだ元気で「バック・トゥー・ザ・ヒューチャー」に出演中だったマイケル・J・フォックスにインタビューしたライターのガモ川口さんが言うには彼がやたらダイエットコーラをがぶがぶ飲む姿が印象的だったと語っています。

他にもエルトン・ジョンは演奏しながらダイエットコーラを飲む姿が有名なほどのコーラ愛好者です。

カロリー0のダイエットコーラは一見、悪くないように見えますが。カロリーを0にするために使う人工甘味料が肝臓やすい臓を悪くするという話もあります。

こうした話の結論か言わせてもらうと、アメリカ人はコーラとフライドポテトの組み合わせで中毒になっている人が多い。

そういった人ほど肥満がひどく、糖尿病や心臓病の割合が高い。

なので、お子様が炭酸飲料全般とポテトチップ、フライドポテトの組み合わせが病みつきにならないよう、食育が必要となりますでしょう。

ここでコラムは終わりですが。いい暇つぶしになったでしょうか?

楽しんでもらえたら幸いです。