アーカイブ | 明治時代 RSS feed for this section

食の歴史その50~フィッシュ&チップスと捕鯨・石鹸・冷蔵庫

17 3月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いてみました。

今回もビジュアルで分かりやすくなるよう、画像を沢山使っています。

使用している画像はクリックしますと拡大され、より見やすくなるものもあります。

Matthew_Calbraith_Perry

幕末の1854年にペリー率いる黒船がやってきましたが。その目的は開国によって捕鯨船に水や食糧が補給できるようにする事でした。

img076img077

石油の採掘が始まるまで鯨油(げいゆ)はランプの燃料と潤滑油として大量の需要がありました。
理由は温度が下がっても固まらない、粘結度があまり変わらないので引っ張りだこでした。

1800年代のコルセット

1800年代のコルセット

髭や骨は女性のコルセットやペチコートの材料として使われました。

images81

鯨油は石鹸にも使われ当事の石鹸の包装に鯨の絵が使われている事からもうかがえます。

83R83R83i83b83c83I83C838B8ECA905E

しかし、1800年代半ばから値上がりした鯨油に取って代わってココナッツ・オイルが石鹸の材料に使用されていきます。

img078ruspatsand-soap

石鹸が変わっていくのは材料だけでなく、当事は糸で切り分けていたのが現代の石鹸のように使いやすいサイズへと変わり。

1f1317fd063fd07ced092266acdd4538sunlight-soapgiving_puppy_a_bath_from_pears_soap_postcard-r553a1825464448c6b95f85e1b861f74d_vgbaq_8byvr_512

有名な画家を使って広告にも力を入れた石鹸が洗練されていくと同時に1851年の万国博覧会には727ものメーカーが出品していましたが。石鹸のシェアはナイト、ギブス、ヤードリー。それと新規参入したサンライトとペアーズに半数以上占められました。

img079

競争に敗れた数百もの石鹸メーカーは石鹸を作るための銅鍋をフライパンに、ココナッツオイルを揚げ油に転用する事によってフィッシュ&チップス屋に転業していきます。

石鹸からフィッシュ&チップスへ転業された頃、この料理にとって重大な発明がされています。

冷凍装置の発明者ジェームズ・ハリスン

冷凍装置の発明者ジェームズ・ハリスン

1856年に実用的な冷凍装置をオーストラリアのジェームズ・ハリスンが発明しました。

prince50ogfoodcompany-09070350

この冷凍装置は1864年以降、蒸気トロール漁船にて使われた結果、氷詰めで輸送されたタラがイギリスで安く出回るようになりました。

img08122988-1

こうして、1860年代からロンドンとランカシャーでタラのフライとポテトのフライが組み合わされたフィッシュ&チップスが売り出されると爆発的に広まり、1870年代にはイギリスの他の地方でも労働者の食べ物つぃて広まっていきました。

”世界で最も有名なフィッシュ&チップスの店”のキャッチフレーズでお馴染みハリー・ラムズデンのトレードマーク

”世界で最も有名なフィッシュ&チップスの店”のキャッチフレーズでお馴染みハリー・ラムズデンのトレードマーク

こうして現代では自分は外国にいった事が無いので、伝聞ですが。イギリスはロンドンのヒースロー空港に降りたつや、空港内に”世界で最も有名なフィッシュ&チップスの店”というキャッチフレーズで知られる、ハリー・ラムズデンが迎えてくれますが。創業者のハリー・ラムズデンは石鹸業者ではないらしく。ブラッドフォードの下町マンチェスター・ロードで店を開き、1900年前後にフィッシュ&チップスがイギリスでポピュラーな庶民の味となっていきます。

reチーズソーセージ&チップス

日本でも売られるようになりましたが、ソーセージとポテトを揚げたソーセージ&チップスというのも存在します。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

お腹が空いてきたので、夜食にモルト・ビネガーをたっぷりかけてフィッシュ&チップスを頂こうと思います。

img082

油っぽいものにビールが欲しい方はパブなどへ足を運んでみてはと思います。

皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その49~「人類の恩人」と瓶詰め、缶詰

10 2月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願い、コラムを書いてみました。

今回もビジュアルで分かりやすくなるよう画像、写真を多用していきます。

1800年代は食卓にも科学技術の革命が起き。サトウダイコンから砂糖を取り出したり、粉末スープの工業生産が可能となり、ヨーロッパは飢餓から逃れる事に成功します。

ニコラ・アペール

ニコラ・アペール

そんな1800年代の発明で特筆すべきはニコラ・アぺールが発明した瓶詰めと彼の名前を取った「アペルティザシオン」と呼ばれる殺菌消毒法です。

ウィキペディアを見ると情報が少なすぎるので、ニコラ・アペールの生い立ちなどの詳細も書きますと。

1749年11月17日、フランス北部のシャロン=スュル=マルヌ(マルヌ県)に生まれ。父はホテルを経営していました。

PJB_jam1 balthazarfrenchmartini 331d8242-s

実家のホテルの厨房で料理の手ほどきを受けたアペールはジャム、リキュール、砂糖菓子などを担当する料理人として1772年にクリスチャン4世。1775年にフォルバック公妃のもとに仕え、修行を重ねていました。

修行して腕を上げたアペールは1782年にパリのレ・アル地区のロンバール通りに店を構え。瓶詰めで食品を保存させる研究を行っていきます。

ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』

ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』

ナポレオンが皇帝になった1804年。フランス政府は遠征軍のために長期間の保存が利く方法を発明した者に今の価値で約300万円相当になる12000フランの賞金を約束し、民間からもアイディアを募集していました。

milk3-thumb-640x480-84

この募集の話を知って奮起したアペールは塩漬け、酢漬け、アルコール漬け、燻製といった中世からの古い食品保存方に革命を起こすべくグリンピース、サヤインゲン、牛乳などをガラス瓶に入れて密封し、長時間煮沸する殺菌消毒を発見します。

この殺菌消毒が「アペルティザシオン」と呼ばれるものです。

ジャン-アントワーヌ・シャプタル

ジャン-アントワーヌ・シャプタル

この保存方法を科学者であり、当事大臣だったシャプタルがナポレオンに伝え、アペールの店は軍の公式納入業者となり、1809年に皇帝から12000フランの賞金を賜り、3年後の1812年には「人類の恩人」という称号も授かりました。

こうして大もうけして名誉も得たアペールですが、瓶詰めに使われた殺菌消毒と保存法などの特許を取らず、全財産を投げ打って死ぬまで食糧の保存法を研究し。『あらゆる動植物食品を多年にわたり保存する法』を出版し、英語に翻訳されたものはイギリスを経由してアメリカで読まれ、好評を博しました。

 

1824年イギリスの缶詰

1824年イギリスの缶詰

アペールの瓶詰めと保存法から発展していくイギリスのピーター・デュラントが発明してアペールと違い、特許を取得した缶詰は缶切りがまだ発明されておらず、開封はハンマーとたがねなど、大工道具を用いるため長期航海する船員や遠隔の僻地に旅行する人などが利用する程度の特殊な保存食でした。

アメリカ南北戦争 ゲティスバーグの戦い

アメリカ南北戦争 ゲティスバーグの戦い

しかし、アメリカ南北戦争(1861~1865年)で需要が増大して缶詰の大量生産に繋がっていき。1860年代は缶詰の素材に適したブリキと容易に中身を取り出せる缶切りが発明され。南北戦争以降から欧米の庶民の食卓に缶詰食品がのぼりはじめます。

0010040000372

日本でも明治四年(1871年)に缶詰の製法が伝わり。長い間、軍の保存食として生産されていましたが。明治時代の缶詰の詳細は『食の歴史その47~アメリカの辞書にも載っている「テリヤキ」』をご参照下さい。

saba_1 200908052247126ad

さて、そろそろ夕食の時間なので、さばの水煮缶と大根おろしとレモン汁と薬味でさばのおろし和えでも作って食べようかと思います。

皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

お知らせ~過去の記事を加筆修正しました。

13 11月

こんばんは。以前に書いた記事に画像を加えてビジュアルで分かりやすくしたり、新たに加筆修正しました。

加筆修正した記事のタイトルとイメージ画像の一覧を下に出します。タイトルをクリックしますと、その記事のURLに移動できます。

世界の食文化その3~イスラム教の食事マナー


食の歴史その36~トマトがなかった昔のケチャップ

世界の食文化その1~世界の4割は直接手で食べている~

食の歴史その18~最初は下品だったフランス料理~

食の歴史その17~パスタのルーツは中国か?~


食の歴史その16~フレンチポテトからポテトチップに至るまで~

食の文化史その2~茶と紅茶とコーヒーの歴史~

以上となります。

また加筆修正したらブログの新着記事にてお知らせします。

食の歴史その47~アメリカの辞書にも載っている「テリヤキ」

3 11月

こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いて見ました。

今回もビジュアルで分かりやすくするために画像を多く使うつもりです。

醤油工場

醤油工場

アメリカで消費される醤油は醤油メーカーのキッコーマンがアメリカで製造している量だけでおよそ10万リットルと言われていますが。アメリカで消費される醤油のほとんどが照り焼きソースになっていると言われています。

映画『サイン』のワンシーン

映画『サイン』のワンシーン

映画『サイン』でも晩飯にメル・ギブソン演じるパパが家族に「好きなもの食っていいぞ」言うと。まずはチーズバーガー、スパゲッティとアメリカらしい食事を家族がリクエストしていき、最後に筋肉質のあんちゃんが「teriyaki」とさり気無く言うシーンがあるほど、照り焼きという言葉も料理もアメリカでは一般的になっており。アメリカの辞書にも「teriyaki」が載っています。

ブリの照り焼き

ブリの照り焼き

アメリカに伝わる以前の照り焼きは醤油、砂糖、酒で魚を調理したもので。日本ならではの料理、肉じゃが、すき焼き、今も缶詰に使われる大和煮などと共通しているのは調味料に砂糖を使っているところです。

ここからは推測で述べますが。日本料理に醤油と砂糖で煮〆た料理が普及したのは戦前に日本全国から人を集めた軍隊の中で食べ親しまれ全国的に普及したのだと思われます。

吾妻ひでお著 『失踪日記』よりアル中病棟のひとコマ

吾妻ひでお著 『失踪日記』よりアル中病棟のひとコマ

人間は酒が飲めないと、むしょうに甘いものが欲しくなるもので。アル中の体験を小説にした故、中島らも氏も断酒時代は冷凍バナナやあんぱんに凝り出し、桃の天然水をよく飲んでいました。

フランス軍の戦闘糧食に付属する菓子類

フランス軍の戦闘糧食に付属する菓子類

ミリタリーに疎いので、詳しい人の解説が欲しいところですが。軍隊もなかなか酒が飲めないらしく、どこの軍隊でも甘いものが求められ。各国軍隊の携行食糧には菓子や粉末の紅茶、コーヒー、ジュースが付属しているのが、よくあるパターンで。日本も例外ではありません。

大和煮の缶詰

大和煮の缶詰

明治時代の日本軍では醤油と砂糖とその他調味料で煮〆た大和煮の缶詰に人気があり。日清戦争、日露戦争では日本の肉牛が全て大和煮の缶詰になったほどだったといわれています。

京都の福神漬け

京都の福神漬け

もうひとつ、日本の軍隊で人気が高かったのは砂糖で甘口に漬け込んだ福神漬けの缶詰もありました。

このような甘口メニューを軍隊に入って口にし。戦争が終わって故郷に帰った後も海軍名物である肉じゃがのように家庭でも作らせて家庭料理として砂糖と醤油で煮〆た料理、または砂糖で味付けした料理が広まり、砂糖と醤油で味付けするのが共通項の照り焼きも軍隊で食べた大和煮の代わりに生まれたのだろうと推測しています。

海上自衛隊のカレー

海上自衛隊のカレー

話がわき道にそれますが。激辛、辛口がブームになったのは1980年代の事で。昔のカレーも甘口が普通でして、特に軍で出すカレーは辛くて食えない人を出さないようにするためなのか、必ず甘口だったそうですので、今時の辛口カレーが食べられないお年寄りも結構いたりします。

チキンテリヤキ

チキンテリヤキ

閑話休題。こうして戦前には各家庭でおふくろの味となった照り焼きが戦後の1957年に醤油メーカーのキッコーマンがアメリカに進出して醤油を売ろうとした時、キッコーマンの日系二世のセールスマン、タム吉永が彼の母親の調理した和食、魚の照り焼きをヒントに、肉料理に合う醤油ベースの料理法「テリヤキ」を発案。テリヤキソース調理法はキッコーマン主催の料理教室や販売促進用の小冊子などで、ゆっくりとアメリカに定着し、アメリカの辞書に乗るほどの現在の地位を確立してきました。

ヨシダソース創業者 吉田 潤喜(よしだ じゅんき)

ヨシダソース創業者 吉田 潤喜(よしだ じゅんき)

それから50年以上経った今のアメリカでは。アメリカ人が好きなバーベキューに照り焼きソースをつけて食べられていますが。そのソースは吉田 潤喜(よしだ じゅんき)が80年代初期に考案して販売し。大成功を収めたヨシダソースが有名です。

ヨシダソース

ヨシダソース

もし、アメリカで照り焼きを食べる機会がありましたら。おそらくはヨシダソースを塗って焼いたものが出されるかと思います。

ブリの照り焼き

ブリの照り焼き

照り焼きの事を書いていましたらお腹が空いてきましたので、魚屋に行ってブリの照り焼きを買って生姜をそえて頂こうと思います。

皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その36~トマトがなかった昔のケチャップ

2 8月

こんにちは、今日も暇つぶしになればと願ってコラムを書いて見ました。

ビジュアルで分かりやすくするため、画像を沢山使ってみました。

今、ケチャップと言いますと完熟トマトを加熱してから湯剝きで皮を取り、裏ごししてから低温で煮詰めてトマトピューレを作り。砂糖、塩、酢、オールスパイス(ピメント)、シナモン、グローブを加え、タマネギ、セロリなどの野菜も加えて作られます。

ケチャップ状の調味料には歴史があり、古代ローマ時代からあるケチャップは広く「ガルム」という名で知られ、リクアメンと呼ばれていました。

ローマでのガルムの製法

ローマでのガルムの製法

ガルム、またはルリクアメンは世界で最も古い調味料の一つで。酢、オイル、コショウ、干したアンチョビをドロドロにしてから潰して裏ごしにして調味したソースでした。

古代ローマで作られたトマトのないケチャップは鶏肉や魚に良く合うソースとして重宝され、ケチャップ工場で有名な町もありました。

2000年ほど前に火山灰に埋もれたポンペイの遺跡には「最高に滑らかなリクアメン。ウンブリクス・アガトホプス工場製」と書かれた世界で最も古いケチャップの瓶が発掘されています。

しかし、これは現在のケチャップの直接の先祖ではなく。1690年代に中国でやはり鶏肉と魚用のソースとして魚の酢漬け、貝、スパイスを塩水で漬け込んだものがマレーシアやその周辺にも伝わり、ここで「ケチャップ」という言葉が初めて出てきます。

このケチャップを1700年代にイギリス人がマレーシアやシンガポールの原住民が食べているのを見つけ、故郷のイギリスに持ち帰り、イギリスでもその味を懐かしんで料理人に作らせたのですがアジアのスパイスが手に入らなかったので、代用として魚介類ではカキ、アンチョビ、ロブスターを使い、他にはマッシュルーム、インゲンマメ、クルミ、キュウリ、クランベリー、レモン、ブドウなどで作り、現在でもパイやシチューに使われています。

イギリスのキノコから作ったケチャップ

イギリスのキノコから作ったケチャップ

この中国、マレーから伝わってイギリスで独自に作られたケチャップはイギリス人を魅了し、ハリスン夫人の書いた『ハウスキーパーのポケットブック』という人気の高い料理書に、主婦は「このソースを決して切らしてはなりません」と書かれています。

チャールズ・ディケンズ

チャールズ・ディケンズ

ヴィクトリア朝時代のイギリスを代表する『オリバー・ツイスト』などの著書を残した作家チャールズ・ディケンズ(1812~1870年)は『バーナビー・ラッジ』の中で「たっぷりケチャップをかけたラムチョップ」に舌鼓をうち、パイロン卿は彼の詩『ペッポー』の中でケチャップを称えています。

このケチャップにトマトに入ったのは1790年ごろ、アメリカのニューイングランド地方で生まれたとされます。

トマトは今のメキシコに繁栄していたアステカ帝国で食用に品種改良し、栽培されており。そのアステカを征服したスペインのエルナン・コルテスが1519年に種を持ち帰ったのですが、毒草のベラドンナに似ているのと、赤い実だけでなく毒のある葉も間違って食べていたから長い間毒とされ、日本でも江戸時代に長崎から伝わり、貝原益軒の『大和本草』にもトマトについて書かれていたのですが。ここでも偏見があり、日本でも食用になるのは明治を待たなければなりませんでした。

トーマス・ジェファーソン

トーマス・ジェファーソン

こういったトマトの偏見を覆したのがアメリカ建国の父の一人トーマス・ジェファーソン(1743~1826年)でして、アメリカで最初にトマトを栽培し、赤い実だけ食べれば毒は無く、すぐれた食べ物である事を知らせました。

アメリカにパリ仕込みのフライドポテトを持ち込んだりとアメリカの食生活にも影響与えたジェファーソンのトマトとそのケチャップはすぐさま広まり、1792年にリチャード・ブリッグが書いた『新しい料理法』にトマトケチャップの料理法が書かれ、1850年代にもなると、どこの家庭にでも見かけられるようになります。

この頃人気のあった料理書、イザベラ・ビートン著『家政学の書』は、「トマトケチャップ・ソースは経験を積んだ料理人にはもっとも利用価値の高いソースの一つです。作る手間を省いてはなりません」と主婦たちにアドバイスしています。

しかし、家庭ではトマトを湯剝きして、裏ごししたものを絶えずかき回して作るトマトケチャップは大変な手間であり、1876年にドイツ系アメリカ人の料理人兼ビジネスマンのヘンリー・ハインツが世界で初めて瓶詰めケチャップを最初に大量生産されたとき、アメリカの主婦達がしきりに買い求めたのも当然のことでした。

ハインツ社のトマトケチャップ

ハインツ社のトマトケチャップ

ハインツ社を作ってトマトケチャップの瓶詰めを量産したヘンリー・ハインツは「お母さんがたと家庭を預かる女性に福音!」とレッテルに書いて売れたケチャップは、瓶の形は底が広くて首が細いデザインと中身のケチャップの製法が百年以上の間、ほとんど変わっていません。

アメリカから飛んで日本に向かいますと、カゴメのトマトケチャップが圧倒的なシェアを得ていますが、これは明治になってから西洋野菜としてカゴメの創業者、蟹江一太郎が1899年にトマトを栽培し、数年後豊作で余ったトマトを保存食にするべく、西洋のケチャップの製法には必要なオールスパイス(ピメント)、シナモン、グローブなどのスパイスの調達が難しく、代用で漢方薬を使ったりと試行錯誤を繰り返し。1904年に生産を開始し、今に至ります。

カゴメが国産ケチャップを開発、販売していなければ。チキンライス、オムライス、ナポリタンは生まれていなかったかも知れません。

今日はケチャップでタマネギとピーマンを炒め、ナポリタンを作りたくなってきました。

皆さんもケチャップがあったら何かに使ってみませんでしょうか?フライドポテトにケチャップも美味しいですよね。

それではケチャップをふんだんに使ったナポリタンを食べますので。今日のコラムはこれで終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その30~ジャガイモと大正日本とコロッケ~

16 7月

こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願って、コラムを書いて見ました。

今日は画像をふんだんに使ってビジュアル的にも理解しやすくなればと願っています。

大正6年(1971年)は、外国では第1次世界大戦がまだ終わらず、ロシア革命など歴史的な出来事が起こっていましたが。日本の帝国劇場や東京の下町、浅草オペラで「コロッケの歌」が上演され、目新しいものが好きな江戸っ子がコロッケに興味を持ち、次第に家庭での手軽なおかずになっていきました。

ホワイトアスパラのクロケット、トリュフマヨネーズと共に

ホワイトアスパラのクロケット、トリュフマヨネーズと共に

このコロッケは元々はフランス料理の付け合せで、正しくは「クロケット」と言いまして。

このクロケットはジャガイモを使わず、肉や海老を主な材料で作り、ホワイトソースで和えてから、形を整え、フライパンで焼いた付け合せ料理でして。日本人のイメージにあるコロッケとは程遠いもののようです。

フランス料理のレシピを見ますと、デザートとしてリンゴを使ったクロケットや作り方を見てるだけでうんざりするほど面倒な手順で作ったりして、とても庶民の料理とは思えない代物だったりします。

日本では明治の文明開化とともにクロケットが入ってきますが、明治5年(1872年)に書かれた『西洋料理指南』では、ジャガイモとひき肉を使って牛脂で揚げるとあるので、今の肉じゃがコロッケに近いものが紹介されています。

明治31年(1898年)には日本橋の浜町にあった吉田という蕎麦屋のメニューに鶏肉たたきを材料にしたコロッケを乗せた「コロッケそば」が出てきます。

東京ではそばに冷たくなったコロッケを乗せて食べるメニューが立ち食いそばに当たり前のようにありますが、考えれば100年以上前からあった伝統的なメニューだったりします。

そして、大正5年には民間の料理書に洋食の雰囲気がある立派なコロッケの作り方が出てきます。

下に作り方を書きますと、

「牛肉のひき肉200g近く、ジャガイモ5個、小麦粉少々、卵1個、パン粉少々、牛脂、ウスターソース、バター少々、塩を用意。

牛肉のひき肉をバターで炒め、塩で味付けし、ジャガイモは皮をむいて茹でてから裏漉し(うらごし)にかけ、牛肉のひき肉と混ぜてちょうどいい大きさに丸め、小麦粉をまぶし、卵をつけ、パン粉をつけて牛脂で揚げ、ウスターソースを添えて出す。」

そうして出来上がったコロッケは下の画像のようになります。既に現在のコロッケと変わりないです。

肉じゃがコロッケ ウスターソース添え

肉じゃがコロッケ ウスターソース添え

こういった西洋の料理を日本風にアレンジしたもののパイオニア(先駆者)は戦前ですと、海軍だったりします。

明治41年(1908年)発行の『海軍割烹(かっぽう)術参考書』にはフィッシュコロッケ、ビーフコロッケ、エッグコロッケなど3種類のコロッケが登場してきます。

3つめのエッグコロッケは皮をむいたゆで卵に合いひき肉を味付けしたもので包んでパン粉または砕いたポテトチップをまぶして揚げるスコッチエッグです。

研究家にとってもスコッチエッグを基にしたエッグコロッケの作り方が珍しいようで、図になっていますので、下に出してみます。

このようにコロッケの普及が明治時代になったばかりの頃に北海道で男爵様がイギリスからもちこんで栽培してみた男爵イモはデンプンが多く、ほくほくした食感があり、煮崩れしやすいのでコロッケなどに使われ、東日本で主流の品種であります。

いっぽう、大正時代にイギリスから持ち込まれたメークイーンは荷崩れしずらいので、カレーやシチューに適し、皮もむきやすい品種で、こちらは西日本で主流の品種であります。

こういった男爵イモとメークイーンを代表としたジャガイモの栽培とコロッケ、カレーの普及から、明治時代は25万トンだったジャガイモ生産量が、大正時代には4倍の100万トンにまで膨れ上がります。

そして、日露戦争の日本海海戦でロシアの艦隊を撃破した海軍大将の東郷平八郎がビーフシチューを作らせようとしたらワインやバターが無かったので、醤油と砂糖で代わりを作らせたら肉じゃがができたという伝説があります。

この伝説は出所がはっきりしないので、この話は眉唾ですけど。昭和13年(1938年)の海軍の教科書にある「甘煮」という名前で肉じゃがの原型が登場します。甘煮のレシピを下に出しますと、

「材料は牛肉、こんにゃく、じゃがいも、たまねぎ、ゴマ油、砂糖、醤油。

作り方

1. 油を入れて熱する

2. 3分後牛肉を入れる

3. 7分目に砂糖を入れる

4. 10分目に醤油を入れる

5. 14分目にコンニャクを入れる

6. 31分目にタマネギを入れる

7.こうして35分くらいで甘煮こと肉じゃがが完成」

この海軍の教科書には「醤油を早く入れると、醤油臭くて味を悪くすることがある」とまで補足されており、何分目にどんな食材を入れるかまで時間を細かく指定していますので、おそらく誰が作っても失敗しないようマニュアル化させたものなのだと思います。

最後にトリとして出した肉じゃがですが、各家庭では「おふくろの味」になっていたりと日本人に馴染み深い和食となっている肉じゃがが決定打となったのか。現在の日本のジャガイモ生産量は275万トンまで跳ね上がり。

275万トンのジャガイモのうち、78%を占める215万トンが北海道で作られ、2位が長崎で11万トン、3位が鹿児島となっています。

こうしてスーパーのお惣菜コーナーにはジャガイモを原料にしたお惣菜が沢山並ぶにまで至ります。

最後に、長野県の方とコロッケの話をしていたら「野菜コロッケ知らないの?」と言われ、よく聞きますと、長野県では野菜コロッケがコロッケのコーナーの半分を占めるほどになっていて、冷凍野菜のミックスベジタブルの野菜が具に入っています。

野菜コロッケ

野菜コロッケ

写真を探してきましたが、上の写真のような感じのコロッケです。東京でも野菜コロッケがあったら試しに食べてみたいと思います。

それでは、今日の夕食のおかずは肉じゃがコロッケとカニクリームコロッケにしようかと思います。

以上でコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

皆さんも気が向いたら夕食にコロッケはいかがでしょう?

食の歴史19~インドにカレーライスは存在しない?~

27 6月

おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと思ってコラムを書いて見ました。

今回も地図を出して説明するので画像を少し使います。

 

日本人でカレーライスが嫌いな人が殆どいないほど国民食となっています。

固形のルーを使ったカレーはライス経済的で調理は手軽、しかも美味しいのだから、ラーメンとともに人気の料理と言えましょう。

平成11年の統計によると、国民一人当たり年間およそ64回カレーライスを食べているそうです。

となると、週に1回以上はカレーライスを食べている計算になります。

カレーライスといえば、あたかもインド料理の代表に見られているように思われている方々もおられるでしょうが、インドにカレーライスという料理はありません。

それどころか、カレーとか大航海時代にポルトガル人が命名カリという言葉さえ、ほとんど死語に近い。

日本にIT関係や留学でやってくるインド人は何かといえばカレーライスという、日本料理を食べさせられてうんざりしたと聞いています。

インド人にとっての日本で出されるカレーライスはベトベトした口当たりで妙に甘ったるく、どこか薬臭いと評判が悪く、

「このとろみがある不思議な日本料理はなんというのか?」

と聞かれた日本人が戸惑ったという話も聞いた事があります。

カレーの語源は諸説ありますが、インド南部のタミル地方で具を意味する「カリ」からとするのが妥当な説だろうと言われています。

1500年代の大航海時代、交易のためにやってきたポルトガル人が、住民の食べている汁をかけたご飯を指差して「これはなんというのか?」とたずねたところ、聞く方は料理名を言ってくれる事を期待していたのだが、聞かれたほうは具の事だと思い「カリだ」と答えたのだろうと推測されています。

こうして、突如カリは料理名とし一人歩きをはじめ、ヨーロッパに紹介されたのち、英語に取り入れられて世界に広まったというのが通説となっています。

ちなみに日本語のカレーは英語のカリーがなまったものだそうです。

インドには約3000種類の調理法が紹介されている「調理辞典」という文献にはカレーと名のつく料理はわずか25種類。

このようにカレーと言う言葉は、本場インドでさえ使われるのはごくまれで、カレーライスはコロッケなどと同じく、西洋料理をもとに手を加えた洋風の日本料理にほかならないのです。

本場インドでカレールーやカレー粉に該当するものを挙げれば、マサラがそれに当たるでしょう。

マサラはターメリック、カルダモン、グローブ、シナモン、コショウなどのスパイスを調合して石臼(いしうす)で潰した調味料、またはこれらを用いて味付けした料理の総称に他ならないのです。

インドでカレー料理という概念が存在しないのは、日本に出汁(だし)料理とか醤油料理がないのと同じ理屈と考えてくださればご理解いただけますでしょうか?

ところで、マサラのブレンドには、調合する分量混ぜ合わせるスパイスの種類が厳密に決まっているわけではなく、家庭ごとに異なり、料理や素材により千差万別の味を生んでいます。

日本の味噌汁や雑煮のように、親から子へ伝授されていく、いわゆる「おふくろの味」なのだそうです。

カレーがヨーロッパに伝わったのは、1772年。ウォーレン・ヘイスティングスがスパイス貿易を行う東インド会社の社員時代に大量のマサラとインディカ米を故郷イギリスに持ち帰ったことにはじまります。

彼はインド人コックを使ってカレーとライスのコンビネーションを作らせ、これをイギリスの宮廷のレセプションで披露したところ大評判だったとされています。

この噂を聞きつけたのが、貴族の宴会を請け負っていたクロス・アンド・ブラックウェル社(C&B)で。早速イギリス人の口に合うような辛さを抑えて調合し直し、商品として世界初のカレー粉の開発に成功しました。

これを使って肉や野菜を調理したものがイギリス風カレーの始まりであり、日本のカレーライスの元祖にもなっています。

しかし、インドにおける味付けは、スパイスと塩、場合によってはヨーグルトを添えるだけで、サラサラした煮汁に近いものが多いが、イギリスではシチューの調理法があるため、小麦粉でを使粘り気の強いベトベトしたソースへ変化した。この時点で、既にイギリスのカレーとインドのそれは、似て異なる料理となりました。

他にもインド、イギリス、日本、それ以外の国々も含めて多種多様に広がった世界各地の主なカレー料理を地図で下に出してみます。

日本でカレー料理の存在を初めて伝えたのは、幕末の1863年にヨーロッパへ使節としてフランスに派遣された三宅秀(みやけしゅう)でした。

彼は同じ船に乗り合わせたインド人の食事風景を

「飯の上にトウガラシを細身に致し、芋のドロドロのような物をかけ、これを手にてかき回して手掴みで食す。至って汚き物なり」

と記しています。

実際に、日本人がカレー料理を初めて口にしたことを記録に残しているのは、それから8年後の明治になって間もない1871年のことで、記念すべき第一号は、当事16歳であった会津藩士の山川健次郎。

国費留学生としてパシフィックメイル号でアメリカへ渡る途中、船中で食したのが最初であると言われています。

翌年出された「西洋料理指南」では、早くもカレーの調理法が紹介されています。

調理内容を要約しますと。

「ネギ一本、しょうが半分、ニンジンを少しみじん切りにし、バターを大さじ一杯で炒め、水を約270CCを加え、鶏肉、エビ、タイ、カキ、赤ガエルまどを入れてよく煮たのち、カレー粉小さじ一杯加えて1時間ほど煮る。よく煮あがったら塩を加え、更に小麦粉大さじ2杯を水に溶いて入れるべし」

といったものだった。

現在の調理法とかなり異なっているし、具といえば、ニンジン、ジャガイモ、タマネギといういわば定番三点セットがどこにも見当たらない。赤ガエルが入っている意外性もありますが、今ならシーフードカレーといった所なのでしょう。ただし、調理法から見て現代のカレーライスと風味も相当かけ離れているに違いないでしょう。

日本にはカレーライスとライスカレーの二つの言葉がありますが、この二つは、果たして同じ料理か、それとも微妙な違いがあるのかについて様々な説が飛び交っております。

たとえば、カレーの具の多いほうがカレーライス、米飯が多いほうがライスカレーという分量説。

具ち米飯が別々になったのがカレーライス、米飯の上に具をかけたのがライスカレーというスタイル説。

また皿で出されるのがカレーライス、丼がライスカレーという器説。

あるいは関東がカレーライス、関西がライスカレーというように単なる地域呼称説など、様々な説があります。

カレーライスは英語のカレー・アンド・ライスの略ですが、ライスカレーという英語は見当たらない。

このライスカレーの起源の一つに、「少年よ大志を抱け」で有名なクラーク博士が札幌農学校で学生たちの体格向上を第一とした博士は、全寮制の寮の食事を肉類中心の洋食としたが、これとは別に、

「生徒は米飯を食すべからず。ただし、ライスカレーはこの限りにあらず」という特別なルールを作ったと伝えられています。

それ以来ライスカレーという言葉が世に広まったと言われていますが、これも確かな根拠があるわけでもなく、真相は藪の中のようです。

最後に日本ではカレーのお供に欠かせない福神漬けとラッキョウについて軽く語ります。

福神漬けは明治になってまだ日が浅い頃、上野の高級漬物店の15代目、野田清右衛門が開発して売り出したところ評判になり。時は過ぎて大正時代の1902年とも1903年とも言われていますが、ヨーロッパ行きの船の中でカレーライスに福神漬けを添えたのが始まりと言われています。

もう一方のラッキョウは歴史が古く平安時代以前に中国から伝わり、東南アジアでも塩と酢で漬けてカレーと一緒に食べたのを参考にして福神漬けがカレーに添えられたのとほぼ同時期にカレーの付け合せになったようです。

カレーの事を書いていましたらこれを書いているのが朝10時ですが、もうお腹が空いてきました。

今日はツナの入ったタイカレーをお昼に食べようかと思います。

これでコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?