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食の歴史その43~古代ローマのソフトドリンク類~

4 9月

おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いて見ました。

今回もビジュアルで分かりやすくするために画像を多用します。

古代ローマとワインは密接で上流階級から奴隷までワインを飲んでおり。店に行けば1アス(45円)からワインが飲めました。

奴隷にもワインの搾りかすから作られる「ロラ」というワインが与えられていました。

今回はそのワイン以外の酒やソフトドリンクなどを紹介してみます。

まずはローマでワインの次にメジャーな酒は「アクア・ムルサ」と呼ばれた蜂蜜酒です。

これは水と蜂蜜とイースト菌を混ぜて発酵させて造るもので。「田舎者の酒」と呼ばれていました。

ローマ人の言う田舎者はブドウが栽培できない、ワインが作れない北方に住むヨーロッパ人を指していました。

自家製ビールを造る女性

自家製ビールを造る女性

他にも「アリカ」と呼ばれたビールも存在しましたが、奴隷用のワイン「ロラ」の半額で売られるほど低級な飲み物で、野蛮人が飲むものとみなされていました。

ソフトドリンクになりますと、果汁を煮詰めたシロップの「テーフルトゥム」という子供用の飲み物がありまして。水や酢で薄めて飲ませていました。

他には鉛または鉛でコーティングされた鍋でブドウの果汁を煮詰めて作った甘味料「サパ」がワインに甘味料、保存料として添加され、鉛中毒になる人が沢山いました。

鉛中毒の症状の一つに難聴があり、ベートーベンの髪の毛から通常の100倍の鉛が検出されたので。耳が聞こえなくなったのはワインに含まれた鉛を大量に摂取したのが原因ではないかと推測されています。

歴代ローマ皇帝には発狂した人、早死にした人が複数いますが。これも鉛中毒ではと推測されています。

狼の乳を飲んでいるのは、双子のロムルス(後のローマ建国の王)とレムス

狼の乳を飲んでいるのは、双子のロムルス(後のローマ建国の王)とレムス

朝の飲み物として定番であり、子供の飲み物とみなされたものにミルクもあります。ローマを建国したロムルスは狼の乳を飲んだという神話と関係してミルクが子供の飲み物とみなされていましたが、大人も朝にコップ1杯のミルクを飲み。時にはミルクにハーブを混ぜて滋養強壮の薬として医者が処方する事もありました。
牛乳が主流の現在と違い、古代ローマ人にはヤギ、羊、馬、ロバのミルクが好まれ。牛のミルクはあまり人気がありませんでした。

その一方、ラクダのミルクは珍しさと滅多に手に入らないからなのか、珍重されていました。

こういったミルクはローマ人に人気のあるチーズの材料にされる他に、「メルカ」と呼ばれる羊やヤギのミルクから作られたヨーグルトも作られ。消化を助ける健康食品とみなされていました。

メルカの食べ方にはコショウとガルムという魚醤(ぎょしょう)。あるいはコリアンダーと塩を加えて食べていました。

他には酢を水で薄めた「ポスカ」があり。スパイスや蜂蜜を混ぜて飲む事もありました。

このポスカは主に酢を生水と混ぜて飲むことで生水を飲んで水当たりする事を避ける目的も兼ねた水分補給源で。主に旅人が活用していました。

キリストにスポンジで含ませた酢を飲ませようとするローマ兵

キリストにスポンジで含ませた酢を飲ませようとするローマ兵

この飲み物はキリスト教にもゆかりがあり、キリストがはりつけにされた時、兵士に飲まされたのがポスカだと言われています。

酢はワインの成れの果てでありますので、ワインの手にはいる所なら気軽にポスカが入手できました。

ローマ水道

ローマ水道

最後に水を紹介しますが。300年かけて建造されたローマ水道は現代の日本でも300万人分の水を供給できるほどの能力があり、ローマに住む100万人以上の人々は212箇所あった公共水槽から水を汲んで運び調達していました。この水運びを代行するアクアリウスというという商売もありました。

トレビの泉

トレビの泉

現在は彫刻もほどこされ、観光名所となったトレビの泉も古代ローマの人々が使っていた公共水槽の一つでした。

ミルクで作ったポリッジ

ミルクで作ったポリッジ

ローマで調達された水はお湯にするなどして最も安いソフトドリンクとして飲まれ。ローマの庶民の中にも朝食にパンと塩味のニンニクと水で済ませたり、小麦粉と水を混ぜた「ポリッジ」という粥を作って食べたりしていました。

以上でコラムは終わりますが、次こそは古代ローマのディナーを書いてみるつもりです。

皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

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食の歴史その9~ヨーロッパ人は水を飲まない?~

21 6月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと思ってコラムを書いてみました。
携帯やスマホで見る人もいるだろうと考え、あえて画像は載せてません。

日本でコーヒーでも飲もうかと思って喫茶店に入るとまず水が出てきて注文を取りにくる。
あるいはセルフサービスで水が飲み放題などなどありますが。これは世界中でも珍しいものなのだそうです。

世界中で水を良く飲むのは日本人とアメリカ人と相場が決まっているようです。

それ以外では局地的ですが、クリームをたっぷりのせたウィンナーコーヒー発祥の地ウィーンとその周辺でもアルプス山脈から引いてきたと言われる水がコーヒーとともに運ばれてきます。

ヨーロッパではアルプス山脈のあるスイスから北や東などは特に水に無関心でして。その要因としては汗をあまりかかない気候なのと昔から硬水の水が薬用としてしか飲む習慣がない事などもありますが。ヨーロッパ人が水を飲まないのにはちゃんと歴史があります。

ヨーロッパで水が安全に飲めるようになったのはたかだか100年前の事にすぎず。清らかな水がふんだんに湧き、そして流れてくる国土に住む日本人からすれば別世界でした。

クリスチャンに聞くと、聖書に「水を飲む」という言葉は全くないと聞きましたし。古代ギリシャの古典にも水を飲む記述はほとんど出てきません。

ただ、特別の例外が二つほどあり。2400年ほど前に西洋医学の原点となる医学書を作り、今でも医科大学で医者などを志す学生は「ヒポクラテスの誓い」をするなど影響を残しているヒポクラテスの著書に。
「泉から湧き出る水、深く掘った井戸水、貯めた雨水は飲んでも大丈夫」
と書いた事が例外の一つ。

もう一つの例外は古代ローマ帝国の上水道でした。
ローマの公衆トイレは公衆浴場で使ったあとの水を使って流す水洗トイレだったりと下水のほうも発達していました。
それでもローマで生水を飲むという習慣はあまり無かったようです。

こうした例外を除くと生水が飲めず、ビールかワインがずっと水の代わりだったヨーロッパ人が水を飲んだのは1600年代にコーヒーや紅茶が伝わって。水を沸かせば飲める事に気づいてからとなります。

中国はヨーロッパ人より1000年以上前から沸かして飲んでいたので、流石は茶と紅茶のルーツとなった国らしいと言えるでしょう。

1800年代になってもヨーロッパの町や大都会は不潔で、イギリスではテムズ川があまりにも悪臭を漂わせるのでテムズ川沿いにあった議会が閉会された事もありました。

ドイツの言語学者フランツ・ボップが1812年、パリに留学した時は6階の屋根裏部屋で寝泊りし、水の代わりになっていた安物のワインさえ買う金も無いので木炭でろ過した生水を飲んだ事が苦学生の苦労話として残っていたりもします。

都会は不潔で安全な水が確保できない状態が100年前までと書きましたが、一方ドイツやスイスの田舎へ行ってみると。ひなびた町や村の中心にミネラルウォーターが湧いており。古くから住民たちの集いの場でもありました。

こうしたひなびた町や村の中心で湧いているミネラルウォーターが今ではペットボトルに詰め込まれて商品となっています。

こんな安全な水が飲めるようになるのに百年の歴史しかないヨーロッパで働いた事がある武田薬品工業の内林政夫さんの話では。ドイツ北部に駐在して職場を観察しますと。朝から昼までトイレに立つ人がいない。午後も5時まで動かない。そんなわけで、トイレは主に日本人専用になっているとのこと。

他にも内林さんが言うには。ヨーロッパで他所の会社の人たちと会議するとき、日本人は昼食前に1度はトイレで席を立つ。昼まで待たずにトイレで席を立つと話の腰を折ってしまうので。朝は紅茶一杯だけにして午前中は一切水分を取らないよう努めたそうです。

内林さんは仕事場だけでなく、生活にまつわる話も残しており。ドイツはカルシウム、マグネシウムが沢山含まれている硬水なので石鹸が泡立たず、やかんを沸かすとやかんの口に白い固形物がすぐにつく。そればかりか水滴がついたままのグラスが乾くと白い斑点が残る。ウィスキーの水割りでも白い沈殿物が出来る。ドイツ人にこれらの話をすると決まって「ここはドイツですよ」と返されたと述べております。

この鉱物が沢山含まれた水を飲んだりして長年体に入れていると、涙腺が詰まってしまい。涙腺に溜まったカルシウムやマグネシムを取り除く手術をスイスやドイツで行われる事がしばしばあるそうです。

それに比べて日本は軟水の質の高さと清潔さでは天国のようなもので。720年に書かれた日本書紀にも清らかな湧き水「好井(しみず)」が現れます。

日本は世界に比べ、年間を通じて降水量が多く。雨季に降った水が山野に蓄えられ地下水となって列島をくまなく潤し。

また、湧き水は清らかな流れを作り、大きな河川となって日本人の生活を支えてきました。雨による浄化作用で江戸時代に世界一の大都市だった江戸も不潔なヨーロッパと別世界でした。

水をテーマに思いついた事を書いてきましたが、しめくくりに水と歴史のエピソードを一つ。

日露戦争の日本海海戦での勝利を祝って東郷平八郎司令長官を主賓とする晩餐会が開かれ。たまたま来日中のアメリカの政治家ウィリアム・ジェニングスも招待されて出席しました。

しかし、ジェニングスは禁酒活動家で、乾杯の時もシャンパングラスを伏せて、水で乾杯しました。

そのあとスピーチで言うには、

「閣下、わたくしは禁酒家でありますので。ご健康を祝うために水で乾杯しましたところ、お国の風習では祝いの席に水は禁物と聞いてあります。ですが、閣下は水の上で大勝利を収められました。もしも、今後シャンパンの上で大勝利をなされたら。わたくしもシャンパンで乾杯いたすでありましょう」

とスピーチしたところ拍手喝采であったと言います。

食の文化史その2~茶と紅茶とコーヒーの歴史~

18 6月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶし用にコラムを書いてみました。
ビジュアルで分かりやすくするために画像を沢山使ってみます。

中国、ミャンマーと国境を接するルアンナムター県

中国、ミャンマーと国境を接するルアンナムター県

まず、茶の歴史はミャンマー北部と中国南部に自生していたのを2300年ほど前に飲み物として使うようになったのだけど。最初は漢方薬として使われていました。


それが仏教が伝来し。仏教が酒を戒めると、お茶は酒の代わりに広まっていき。1600年ほど前には茶を栽培して飲むようになりました。

そのお茶も中国では大雑把に三種類ありまして。北部では緑茶、ジャスミンなどを入れた花茶。南部の福建省では烏龍茶。香港の近くにある広東では紅茶が作られて飲まれるようになりました。

長崎の出島とオランダ船

長崎の出島とオランダ船

それから千年以上送れてヨーロッパもお茶を飲むようになったのですが。最初は1610年にオランダが長崎からオランダの首都アムステルダムに運んだ緑茶がヨーロッパに渡った最初のお茶と言われています。この頃はオランダが植民地帝国で世界中に幅を利かせていました。

ウィーンの シェーンブルン宮殿

ウィーンの シェーンブルン宮殿

イギリスもその頃は意外でしょうけれども緑茶を飲んでいました。他にも、沢山の皇帝を輩出したヨーロッパの名門家ハプスブルグ家の本拠地ウィーンでも、不老長寿の薬として飲まれていました。海の交易は最初オランダが独占していましたが。1669年にイギリスが中国からお茶の買い付け に成功していますが、まだ緑茶でした。

ポルトガルから嫁いだキャサリン・オブ・ブラガンザ王女

ポルトガルから嫁いだキャサリン・オブ・ブラガンザ王女

緑茶から紅茶への変化をもたらすきっかけは1662年にポルトガルの王女キャサリンがイギリスに嫁いだ時に持参した紅茶でイギリス王室から紅茶を飲む習慣を広めたことからはじまります。

1600年代のポルトガルの都リスボン

1600年代のポルトガルの都リスボン

イギリスの硬水 の水質では王女キャサリンが故郷ポルトガルの貿易港リスボンから持参したタンニンの多い紅茶が適しており、肉食を好む食生活に濃厚なお茶の風味がマッチしていたのも緑茶に代わって紅茶が席巻していった理由だと言われ ています。

こうして紅茶が緑茶よりも好まれるようになり。ヨーロッパ、中東、アメリカでも飲まれるようになりました。
1800年代にインドやスリランカで紅茶を栽培して世界の紅茶をイギリスが独占しますと。独占しているために高値でふっかけられた値段に嫌気をさしたフランスやアメリカはコーヒーへとシフトしていきます。

こんな事情があって。紅茶はイギリス、コーヒーはアメリカという図式が後々出来ていきます。

エチオピア高原

エチオピア高原

では、次にコーヒーの歴史もさらっと説明してみます。
コーヒーの原産地はエチオピアのカファと言われる標高2400メートルの高原地帯に自生していたのを飲料にしたのが中東に伝わったものです。
コーヒーを飲むきっかけとそのルーツは伝説の領域ではっきり分かってませんが。文献には1100年前にアラビアのラーゼスという医師が茶と同じく薬用で処方したのが一番古いコーヒーに関する記録だと言われています。

コーヒーの実を食べた鳥を観察するシェーク・オマール

コーヒーの実を食べた鳥を観察するシェーク・オマール

あと、1587年に書かれた文献ではイエメンのモカに住むシェーク・オマールというアラブの偉い坊様が山で小鳥がついばんでいる赤い実を食べてみたらカフェインのせいか。心身爽快になったので。飲み物に加工して病人に与えて苦痛を救ったので聖人になったと言われています。

「昔ア~ラブの偉いおぼうさ~まが~♪」で始まるコーヒー・ルンバはこの話が元です。
アラブの偉いお坊様が飲ませたコーヒーはモカだったんですねえ。

昔の中東の喫茶店

昔の中東の喫茶店

しかし、コーヒーは長い間、門外不出の秘薬とされ。一般には出回らなかったけど。1554年にトルコの首都イスタンブールで「文化人の学校」という名前で出したのがコーヒー喫茶店の始まりだったそうです。

そのトルコ人が1615年にイタリアは水の都ベネチアに持ち込み、それがフランスやイギリスにまで飛び火して、イギリスも紅茶が普及するまでは「コーヒーショップ」というものが沢山あったほど流行していました。

しかし、キリスト教の敵であるイスラム教徒の飲み物を喜ぶなんてとんでもないという声もあり。反対派と擁護派で乱闘騒ぎになるほどヒートアップ。

ローマ法王クレメンス8世

ローマ法王クレメンス8世

この論争は当事のローマ法王クレメンス8世(1536~1605年)が「こんな美味しいものをイスラム教徒に独り占めさせておくことはない」と発言して一件落着。

カプチン修道会の修道士たち

カプチン修道会の修道士たち

ローマ法王が擁護するほど教会はコーヒー寄りで。カプチン修道会ではスパイスを混ぜたコーヒーを作って寝ずに修行していました。
これがカプチーノの始まりです。

コーヒーに砂糖とミルクを入れるスタイルを考案したのは音楽の都、ウィーンの人だと言われています。

トルコ帝国は音楽の都ウィーンを2回包囲して結局攻略できずに去って行ったのですが。トルコ人が去って行った時に山ほどコーヒーを残していったので。それを目端の利く人がタダ同然で買い付けてカフェを開いて一攫千金したそうです。
カフェではカップに粉が入らないよう布で濾してクリームを入れたウィンナーコーヒーも考案しました。

1668年ロンドンのコーヒーショップ

1668年ロンドンのコーヒーショップ

このカフェがヨーロッパの歴史を大きく変えていきます。
フランスやイギリスにコーヒーショップが出来ますと。イギリスでは1ペニーの入場料と1ペニーのコーヒーで雑誌や新聞読み放題。雑誌や新聞を読んだ知識をコーヒー片手に議論できたので通称「ペニー大学」とも言われました。
その「ペニー大学」の議論からイギリスでは損害保険、生命保険の概念が生まれます。

ロンドンのロイズ本社ビル

ロンドンのロイズ本社ビル

イギリスの保険組合といえばロイズが有名ですけど。もとはコーヒーショップの談義から生まれたものなんですね。

バスティーユ襲撃

バスティーユ襲撃

一方フランスでは政治家、学者、芸術家などが集まってサロンとなり。コーヒー片手に新しい思想が生まれ。それがフランス革命の原動力となっていきます。

コーヒーが無ければイギリスの議会制もフランスの共和制も出来なかった事でしょう。

さて、アメリカのほうでは1669年にニューヨークでコーヒーショップが開かれ。1730年頃には一般家庭にまで広まっていました。


しかし、西部開拓民はコーヒーが満足に無いので。代わりに黒パン、大麦、タンポポの根、嗅ぎ煙草などを煮出して。「むくんだコーヒー」と言われる代用品を作っていました。

そんなアメリカも当事はイギリスの植民地でしたので。紅茶は伝わっていたのですが。高い関税がかけられて高値でした。


その上アメリカと関係の無い所でイギリスとフランスが戦争を起こし。その戦費調達に印紙税をアメリカから取りました。
その名残が日本でも文書に収入印紙を押す形で残っています。

アメリカからすると、アメリカ人はイギリスの領土なのに、イギリスの議会に参加できない。ロンドンの政治に参加できず勝手に決められた税金なのです。

ボストン茶会事件

ボストン茶会事件

そこで、アメリカの有識者が「代表なくして関税なし」と言い出しました。
そこからイギリスの関税の象徴である紅茶を攻撃しようとインディアンの格好して乱入し。紅茶の箱を次々と海に投げ込む事件が起こりました。

これがアメリカ独立戦争のきっかけになった「ボストン茶会事件」です。

アメリカは紅茶を独占するイギリスと何度も戦い。時にはホワイトハウスを燃やされた時もあった程なので。紅茶は廃れ、コーヒーが主流になりました。

しかし、1800年代が終わろうとする頃に大きな変化が起こります。

トーマス・リプトン

トーマス・リプトン

イギリスはスコットランドのグラスゴーに生まれたトーマス・リプトン(1845~1931年)がアメリカに渡り、食料品店を開きます。その時にスリランカともセイロン島とも呼ばれる場所で紅茶を栽培してから、大量に輸送し。商標をつけて安全性も確保し、信頼を得られるブランドとなりました。
それと、リプトンがセイロン島から大量に持ち込んだ紅茶のおかげで紅茶の値段が半分になったのもアメリカでも売れた大きな要因と言われています。

リプトンの缶などにパイプをくわえ、ヒゲを生やしたおじさんの顔が書かれていますが。あれがトーマス・リプトンです。

ヴィクトリア女王

ヴィクトリア女王

紅茶で財を成したリプトンは慈善事業も展開し。そのせいもあってかビクトリア女王からサーの称号を貰っています。

もし、イギリスのグラスゴーなどへ行ってみる時はリプトンの創始者。トーマス・リプトンさんの歴史も念頭に入れるとより旅行が楽しめるかも知れません。

さて、長々とした文章ですが。いい暇つぶしになったでしょうか?

楽しんでもらえたら幸いです。