Archive | 江戸時代 RSS feed for this section

食の歴史その36~トマトがなかった昔のケチャップ

2 8月

こんにちは、今日も暇つぶしになればと願ってコラムを書いて見ました。

ビジュアルで分かりやすくするため、画像を沢山使ってみました。

今、ケチャップと言いますと完熟トマトを加熱してから湯剝きで皮を取り、裏ごししてから低温で煮詰めてトマトピューレを作り。砂糖、塩、酢、オールスパイス(ピメント)、シナモン、グローブを加え、タマネギ、セロリなどの野菜も加えて作られます。

ケチャップ状の調味料には歴史があり、古代ローマ時代からあるケチャップは広く「ガルム」という名で知られ、リクアメンと呼ばれていました。

ローマでのガルムの製法

ローマでのガルムの製法

ガルム、またはルリクアメンは世界で最も古い調味料の一つで。酢、オイル、コショウ、干したアンチョビをドロドロにしてから潰して裏ごしにして調味したソースでした。

古代ローマで作られたトマトのないケチャップは鶏肉や魚に良く合うソースとして重宝され、ケチャップ工場で有名な町もありました。

2000年ほど前に火山灰に埋もれたポンペイの遺跡には「最高に滑らかなリクアメン。ウンブリクス・アガトホプス工場製」と書かれた世界で最も古いケチャップの瓶が発掘されています。

しかし、これは現在のケチャップの直接の先祖ではなく。1690年代に中国でやはり鶏肉と魚用のソースとして魚の酢漬け、貝、スパイスを塩水で漬け込んだものがマレーシアやその周辺にも伝わり、ここで「ケチャップ」という言葉が初めて出てきます。

このケチャップを1700年代にイギリス人がマレーシアやシンガポールの原住民が食べているのを見つけ、故郷のイギリスに持ち帰り、イギリスでもその味を懐かしんで料理人に作らせたのですがアジアのスパイスが手に入らなかったので、代用として魚介類ではカキ、アンチョビ、ロブスターを使い、他にはマッシュルーム、インゲンマメ、クルミ、キュウリ、クランベリー、レモン、ブドウなどで作り、現在でもパイやシチューに使われています。

イギリスのキノコから作ったケチャップ

イギリスのキノコから作ったケチャップ

この中国、マレーから伝わってイギリスで独自に作られたケチャップはイギリス人を魅了し、ハリスン夫人の書いた『ハウスキーパーのポケットブック』という人気の高い料理書に、主婦は「このソースを決して切らしてはなりません」と書かれています。

チャールズ・ディケンズ

チャールズ・ディケンズ

ヴィクトリア朝時代のイギリスを代表する『オリバー・ツイスト』などの著書を残した作家チャールズ・ディケンズ(1812~1870年)は『バーナビー・ラッジ』の中で「たっぷりケチャップをかけたラムチョップ」に舌鼓をうち、パイロン卿は彼の詩『ペッポー』の中でケチャップを称えています。

このケチャップにトマトに入ったのは1790年ごろ、アメリカのニューイングランド地方で生まれたとされます。

トマトは今のメキシコに繁栄していたアステカ帝国で食用に品種改良し、栽培されており。そのアステカを征服したスペインのエルナン・コルテスが1519年に種を持ち帰ったのですが、毒草のベラドンナに似ているのと、赤い実だけでなく毒のある葉も間違って食べていたから長い間毒とされ、日本でも江戸時代に長崎から伝わり、貝原益軒の『大和本草』にもトマトについて書かれていたのですが。ここでも偏見があり、日本でも食用になるのは明治を待たなければなりませんでした。

トーマス・ジェファーソン

トーマス・ジェファーソン

こういったトマトの偏見を覆したのがアメリカ建国の父の一人トーマス・ジェファーソン(1743~1826年)でして、アメリカで最初にトマトを栽培し、赤い実だけ食べれば毒は無く、すぐれた食べ物である事を知らせました。

アメリカにパリ仕込みのフライドポテトを持ち込んだりとアメリカの食生活にも影響与えたジェファーソンのトマトとそのケチャップはすぐさま広まり、1792年にリチャード・ブリッグが書いた『新しい料理法』にトマトケチャップの料理法が書かれ、1850年代にもなると、どこの家庭にでも見かけられるようになります。

この頃人気のあった料理書、イザベラ・ビートン著『家政学の書』は、「トマトケチャップ・ソースは経験を積んだ料理人にはもっとも利用価値の高いソースの一つです。作る手間を省いてはなりません」と主婦たちにアドバイスしています。

しかし、家庭ではトマトを湯剝きして、裏ごししたものを絶えずかき回して作るトマトケチャップは大変な手間であり、1876年にドイツ系アメリカ人の料理人兼ビジネスマンのヘンリー・ハインツが世界で初めて瓶詰めケチャップを最初に大量生産されたとき、アメリカの主婦達がしきりに買い求めたのも当然のことでした。

ハインツ社のトマトケチャップ

ハインツ社のトマトケチャップ

ハインツ社を作ってトマトケチャップの瓶詰めを量産したヘンリー・ハインツは「お母さんがたと家庭を預かる女性に福音!」とレッテルに書いて売れたケチャップは、瓶の形は底が広くて首が細いデザインと中身のケチャップの製法が百年以上の間、ほとんど変わっていません。

アメリカから飛んで日本に向かいますと、カゴメのトマトケチャップが圧倒的なシェアを得ていますが、これは明治になってから西洋野菜としてカゴメの創業者、蟹江一太郎が1899年にトマトを栽培し、数年後豊作で余ったトマトを保存食にするべく、西洋のケチャップの製法には必要なオールスパイス(ピメント)、シナモン、グローブなどのスパイスの調達が難しく、代用で漢方薬を使ったりと試行錯誤を繰り返し。1904年に生産を開始し、今に至ります。

カゴメが国産ケチャップを開発、販売していなければ。チキンライス、オムライス、ナポリタンは生まれていなかったかも知れません。

今日はケチャップでタマネギとピーマンを炒め、ナポリタンを作りたくなってきました。

皆さんもケチャップがあったら何かに使ってみませんでしょうか?フライドポテトにケチャップも美味しいですよね。

それではケチャップをふんだんに使ったナポリタンを食べますので。今日のコラムはこれで終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その33~食と健康をめぐる迷信を科学する~

22 7月

おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと願って、コラムを書いて見ました。

今日も図で解説しますので、画像を一つ入れようと思います。

 

戦前、戦中生まれの老人ですと、ウナ丼を食べた後に梅干を口に入れるとハッと気がつき、慌てて正露丸を取り出す人が近所にいましたが。

このように、異なる食品を同時に食べると有害と考える事を、古くから「食い合わせ」と呼んできました。

ウナギと梅干をはじめ、天ぷらとスイカ、カニとカキ氷、うどんとスイカ、ドジョウとトロロなどが代表的な食い合わせですが、実際には数え切れないほどあります。

こうした言い伝えは、古くは平安時代にまで遡ると言われ、江戸時代の儒学者である貝原益軒(かいばらえきけん)の健康教訓書『養生訓』の中にも、食い合わせ食品のリストが挙げられています。

これらの食い合わせを検討しますと、熱いものと冷たいもの、消化の良くない食べ物などがある事に気づきます。

しかし、科学的にはほとんど根拠がなく、現在では迷信とされ、ゆとり世代などの層になると食い合わせという言葉自体を知らない人も多い事でしょう。

食い合わせは日本的な食のタブー一種ですが、もともとは古代中国の陰陽思想を端に発しています。

陰陽は宇宙の万物の相反するものを陰と陽に二分、その組み合わせによって吉凶を占う易学の思想で、後にこれが日本に導入されると食生活の面に「食合禁(しょくごうきん)」つまり食い合わせを生んだと見られます。一部では早くから迷信と指摘されていましたが、民間では戦前まで大真面目に信じられていました。

食い合わせと似たような迷信に、中南米や東南アジアなどでみられる「温冷説」があります。

これは、すべての食べ物を温と冷に二分した分類法で、温、冷の基準は体温となります。

つまり、人間の体は非常に繊細に出来ており、熱くなりすぎたり逆に冷たくなりすぎると、ときには死に至る事があるから、食べ物の選択にあたってバランス良く取らなければならないという思想です。

<図表>にも見られるように、肉類などの動物性食品や脂肪の多いものは温に、野菜類や乳製品は冷に分類される事が多いです。

しかし、これは固定化された概念ではなく、地域や民族によって代わる場合も少なくありません。

例えば、卵はタイでは冷のほうに分類されますが、バングラデシュでは温のほうに分類されます。

東南アジアにおける温冷食の習慣は中南米ほど厳格なものではなく、最近では若年層はこだわらない傾向にあります。

もともと血液は温、母乳は冷の性質を持つと考えられていますが、一般に温冷説の背景には、女性の生理サイクルと結びつける事が多いです。

例えば、出産は母体の体温を大きく奪うために、それを補う意味でも出産・授乳期間は積極的に温の食事を取るようにすすめられ、これによって全身の血行をよくして貧血を防ぐ事ができると信じられています。

このような方法は栄養学的に理にかなっている点が多く、一概に迷信だからと言って軽んじるべき物ではありません。

食品を二つに分類する方法論は、ユダヤ教の戒律や中国の陰陽思想とも通じるものがありますが、この思想は古代ギリシャ、古代ローマに発生しアラブ世界に伝えられたと言われています。

のちにイスラム勢力のスペイン侵攻にともない再びヨーロッパ南部に逆輸入され、コロンブスなどが活躍した大航海時代の波に乗る植民地政策で中南米や東南アジアに持ち込まれたと見るのが、現在の定説となっています。

話を日本の食い合わせなどに戻しますと、「秋茄子は嫁に食わすな」ということわざがありますが。文字通りに読めば、秋口のナスは味が良いので憎い嫁に食べさせる道理はない、と世に言う「姑(しゅうとめ)の嫁いびり」となっているが、それだけではない様々な解釈がみられます。

秋茄子はあくが強く体にさわるものなので、かわいい嫁の身を案じて食べさせるなという、まったく逆の例えをする説も根強いです。

ナスはヒスタミンという物質を多く含み、人によってはアレルギー症状を引き起こすとも言われ、味が良いからといって食べすぎると夏の暑さで弱った胃腸をこわしかねない。

こうした点を戒めたことわざと、一般には解釈される事が多いです。

中には、秋茄子は種が少ないので、子種がなくなることを案じた縁起かつぎだとする説もあります。

いずれの説にせよ、ことわざながら迷信のようなものだから本音部分はわからない。

しかし、故事とことわざに引き寄せた食のタブーは世界各地に無数にあります。

なかでも出産や授乳に関する食のタブーが特に多く、殆ど世界中でみられます。

生まれてくる子供にイボがつきやすいから「妊婦はタコを食べてはならない」、双子が生まれやすくなるため「二股ダイコンは食べない方が良い」といった根も葉もない迷信がまかり通っています。

また、スリランカでは「妊婦はネズミなどのげっ歯類やウミガメを食べるな」との迷信がみられます。

食べた動物に外見のよく似た子供が生まれるからというのが禁止の理由ですが、このような肉を本格的に食べる習慣が明治までなかった日本では首をひねる話です。

セックスと結婚にまつわる食のタブーの迷信も少なくありません。

インドで言う「女性は卵を食べない方がいい」は、多産なニワトリの習性から淫乱な女性になりかねないという戒めだとか。

しかし、インドネシアの「未婚の男はニワトリの手羽先を食べると結婚ができない」は現地語の「手羽先」と「拒否」の発音が似てることによる語呂合わせだったりします。

以上でコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

自分は食い合わせを気にしないので、もらったスイカを食べた後、夕食に天ぷら蕎麦でも頂こうと考えています。

食の歴史その29~江戸時代のおかず番付その2~

15 7月

おはようございます。今日は先日書いた江戸時代のおかず番付の続編を書きます。

まずは四季と問わず年中食べられた魚介類のおかずの番付を一部列挙しながら、解説を加えていきます。

最高位の大関はメザシ、イワシとなっています。

メザシは安く保存しやすく栄養豊富といいとこ取りで。

イワシのような青魚にはDHA=ドコサヘキサエン酸や、EPA=エイコサペンタエン酸という舌を噛みそうなな名前の不飽和脂肪酸とやらが含まれていて、これを摂取すると血行がよくなり、頭がが冴え、週に2~3回は食べると良いとされているそうです。

江戸時代の人はこのような栄養価の高さを知らないわけですが、現代の栄養学的にも最高位の大関に相応しいでしょう。

次の関脇はアサリ、ハマグリなどの剥き身を切り干し大根と一緒に煮たもので、「剥き身切り干し」。

これを美味しく食べるには薄味にするのがコツなんだとか。

前頭筆頭はマグロの赤身を味噌汁にした「まぐろからじる」。

ちなみに江戸時代は冷凍技術がないので、トロといった脂身はすぐ腐敗してしまうので、大正、昭和初期に評価されるまで猫の餌にしか使わなかったと言われています。

そして、次の「たたみいわし」は静岡県と神奈川県沿岸が名産地なので、その他の地方の方にも分かるよう画像を出しますと。

たたみいわし

たたみいわし

この写真はカタクチイワシの稚魚を板状にしたもので、酒の肴にも良いのだとか。

次も「いわしの塩焼き」脂の乗ったイワシの塩焼きもうまいですが、冷蔵庫の無い時代なので、番付が下がったのでしょう。

次はマグロを薄く削いだ魚肉を塩干しにした「まぐろすき身」、カツオの塩漬け「しおカツオ」。塩漬けニシンの「ニシン塩引き」

以上が春夏秋冬関係なく食べられるおかずの番付でしたが、次は春のおかずを一部抜粋してみます。

まず、春の部の最高位である大関が醤油にショウガ汁を入れたタレをつけて約「マグロきじ焼き」。

関脇はまたアサリ、ハマグリですが、ヒジキとの煮付けとなっています。

小結が海老をさっと炒めて、食べる時に調味料を使う「芝海老から炒り」。

次はイワシの刺身に酢味噌を和えた「いわしのぬた」。

「いわしつみいれ」これはイワシのつみれですが、おでんの具としてコンビニでもよく見かける事でしょう。

「サバ味噌漬け」「スルメ付け焼き」スルメを炙ったものは今も酒の肴として今でも食べられています。

夏の部は芝海老と豆腐を一緒に煮た「芝海老豆腐」。

カツオを一回蒸してから干した、カツオのなまり節をヒジキと煮る「ヒジキなまり節」「なまりキュウリもみ」「コハダ煮浸し」「なまり節大根おろし」「クジラ汁」「どじょう鍋」。

殻つきの海老の丸焼き「えび鬼瓦焼き」

秋の部はまず、「蒸しハマグリ」「焼きハマグリ」。

東京湾から千葉県の房総半島へかけての内海沿岸は当事、日本一のハマグリの産地で沢山取れる分、値段も安かったようです。

他はそれぞれ一緒に煮たのであろう「芋煮ダコ」「ハゼ煮大根」。

「酢だこ」「ニシン煮浸し」。そして、今も秋の名物とされる「焼き秋刀魚」

冬の部は文字が潰れて判読できないものが多いのですが、それでも抜粋しますと。

ナマコを酢とショウガで食べる「ナマコ生姜」。「秋刀魚の干物」「しらす干し」。

他にはどの海産物が対象なのかわからない「卵とじ」などもありました。

江戸時代のおかず番付をその1とその2に分けて説明してきましたが、大体の料理は現在でも食卓に出ておかしくない食品で、改めて幕末のおかずが今もなお日本のどこかで食卓に上がっているかと思いますと、明治維新から洋風や中華が沢山取り入れられていてもなお、日本の伝統が残っているのだなと感慨深いものがあります。

家庭科で栄養を勉強しますとたんぱく質、脂肪、炭水化物とビタミンからなる三大栄養素なるものがありますが、先進諸国では食べないコンニャクやトコロテンなどは大腸ガンを予防し、悪玉コルステロールを減らす食物繊維という「第四の栄養素」が豊富なのも江戸のおかずの特徴であります。

ただ、「好事、魔が多し」と例えていいのか分かりませんが。和食の特徴は塩分を摂りすぎてしまいやすい事なので、そこをクリアしつつ江戸時代のおかずを食べ続けていたら立派な健康食となる事でしょう。

大根は切らしていますが、おかず番付その1で紹介した「八杯豆腐」をまた作りに行こうかと思います。

それでは皆さんも紹介したおかずの中で気に入ったものがありましたら今日の食卓にいかがでしょうか?

それでは厨房に行きますので、この辺で。

食の歴史その28~江戸時代のおかず番付その1~

14 7月

おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと願って、コラムを書いて見ました。

今回もはめこんだ画像をもとにコラムを書いていきます。

まずは幕末に書かれたおかず番付の画像を一つ。

ざっと見て何が何だか分からないでしょうが、参考文献「江戸のまかない」にて現代語に訳した上に補足説明がついたものがありますので、そこから抜粋しますと。

sannentakuan3sisosarabu19

まず、中央の行司の下に沢庵、梅干を中心にぬかづけ、なすび漬け、茎菜漬けと並び。

112daikokuhisior0b01333d5ac0f55b8a411b08c21f2dd5

その下の世話役にでんぶ、ひしお、ざぜん豆、味噌漬け、唐辛子。

zyunbokuhpph01main2

一番下の段には味噌、塩、醤油の三大調味料となっています。

katsuobushiikasiokara-big2 hawa3

その右には年寄の欄があり、かつおぶし、塩辛、佃煮、ごま塩となっています。

これらは現在でも日本料理の基本となる調味料や食材なので、幕末も今も大して変わらないものとなっています。

そして右側が野菜や大豆を使ったメニューの番付で、左側が魚など肉をつかったメニューの番付となります。

この番付は大関までしかありませんが、江戸時代は大関が一番位が高く、横綱は名誉職で番付外でした。

では、右の野菜メニューの番付から解説を。

ただし、全部は列挙しきれないので、それぞれ一部からの抜粋になります。

八杯豆腐

大関に「八はいどうふ」とありますが、これは水6杯と酒1杯を入れて、煮立ったら醤油1杯を入れて煮立てる、そこに絹ごし豆腐を入れて、豆腐がグラグラ動き出したところを、おたまですくいだし、これに大根おろしをかけて食べるというメニューです。

自分もこのメニューを作りますが、感想としては安くて簡単であっさりしていて美味しいメニューです。

大根おろしがなくても、この一品で酒のつまみにもなるだろうと思っています。

昆布と油揚げの煮物

昆布と油揚げの煮物

関脇は「昆布油揚げ」昆布と油揚げの煮物です。小結はきんぴらごぼう、これはコンビニにもありますので、説明する必要もないでしょう。

前頭筆頭は煮豆で、食物繊維の王様なのだそうです。

前頭二枚目は焼き豆腐を具にしたおすまし。

008760_2

前頭三枚目はひじきの白和え、ひじきの煮物に砕いた豆腐を和えたもので、海草と豆腐の取り合わせという長寿食のイメージがあります。

四枚目は切り干し大根を薄味で煮た素朴なおかず。

五枚目はサトイモの仲間、「唐の芋」の茎を使った芋がらと油揚げの煮物。

j3SLZfQY

六枚目は油揚げに醤油をつけてあぶるだけ、刻みネギをつけると酒の肴にもうってつけだったりします。

七枚目は小松菜のおひたし。

ここまでが四季を問わずに食べられるおかずで、次は四季折々のおかずの番付を。

春の部も一部抜粋しますと、油で炒めた豆腐、笹がきゴボウ、麻の実を入れた「けんちん」というすまし汁。

わかめに酢味噌をかけた「わかめのぬた」「ニンジンの白和え」

油揚げ、大根、シイタケを葛(くず)でとろみをつけた「のっぺい(能平汁)」

レンコンを酢味噌とサンショウの若芽で和えた「蓮の木の芽和え」。

「ほうれんそうのおひたし」「海苔とウドの吸い物」。

わらびとがんもどきを煮付けた「わらびがんもどき」。

「たんぽぽの味噌和え」たんぽぽはサラダにしても美味しかったりします。

夏の部の抜粋は「地元ナスうま煮」「ささげごぼうの和え物」「いんげんごまひたし」「そら豆煮付」。

他にも「茄子の刺身」ゴマ油で軽く揚げた「茄子の揚げだし」。「かぼちゃゴマ汁」「フキの煮付」。

花が落ちて10日ほどの若いへちまの実を食べる「へちま煮浸し」。

白瓜(しろうり)をらせん状に細長く切って塩につけて干した「かみなり漬け」

最後にとりあげるのは茄子をマツタケの形に切って炒め煮にした「まつもどき」などのように多少凝った料理もあります。

秋の部の抜粋は「若菜汁」「サトイモころがし」「ふろふき大根」「とろろ汁」。

豆腐にとろろをかけた「山かけ豆腐」。「焼きしょうが」。

水気を切ってくずした豆腐に味をつけて炒る「炒り(いり)豆腐」。「あんかけ豆腐」。

「長いもおでん」「山芋のぐつぐつ煮」。

冬の部の抜粋は「湯豆腐」「こんにゃくおでん」「納豆汁」「かぶ菜汁」「輪切りゴボウ」「こんにゃく白和え」「ねぎ南蛮」「こんにゃく刺身」「ごま味噌」。

0902n_03

大根、こんにゃく、コボウ、人参、豆腐などを入れた味噌汁で、旧暦の12月8日に、その年の農作業の終わりである「お事終い(おことじまい)」を祝って食べた「お事汁」。

他にも「うど白和え」。鍋に材料を入れて焦げ付かないように水分を飛ばす「こんにゃく炒りつけ」。

「切干し大根白和え」。

などなど、今でも通用しそうなメニューが沢山あります。

明日は江戸時代の魚を使ったメニューの番付を書いて見ます。

皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?暇つぶしだけでなく、簡単なメニューもありますので、今日の献立の参考にもなれば幸いです。

食の歴史その12~肉食と海軍と福沢諭吉~

21 6月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと思ってコラムを書いてみました。
携帯やスマホから見ている人もいると考え、あえて画像は載せていません。

江戸時代に外国との窓口だった長崎には中華料理とオランダから伝わった料理をかけあわせて日本流にアレンジした「卓袱料理(しっぽくりょうり)」と言われるものが長崎から京都、大阪。そして江戸へと伝わっていきます。

幕末になると牛鍋も登場します。その幕末に大阪の牛鍋屋に若い頃頻繁に通っていたのが、一万円札の顔で知られている慶応義塾を開き、いち早く新聞を出版して戦前の大マスコミを作り出した福沢諭吉でした。

彼の自伝を要約しますと。

「まず、たびたび行くのは鶏肉屋。それよりもっと便利なのは牛鍋屋。大阪には牛鍋屋が2軒だけで。1軒は難波橋(なにわばし)。もう一軒は新町の風俗街の近くにあって、最下級の店だから出入りする客は刺青を入れたゴロツキと貧乏学生ばっかり。肉も何処から取り寄せたのか分からない怪しい肉なので安く満腹にはなるけど牛肉は硬くて臭かった。」

と書いてありますが。この牛鍋屋には相当頻繁に通っていたようで。店の親父に頼まれて豚を水で溺れ死にさせて屠殺してから、オランダ医学を学んでいたので「解剖」と理屈をつけて豚の頭を持ち帰り、バラバラにしてから煮て食ったというエピソードもあります。

その後、福沢諭吉は英語を学び。幕府の使節としてアメリカとヨーロッパへ行って欧米と江戸幕府の日本との違いを体感して西洋の学問を日本がもっと取り入れないと思うようになり。

明治になると外国の学問や外国語を慶応義塾などで教えつつ新聞を書く著名な知識人でした。

彼の開いた慶応義塾には後に海軍のお偉方になるひとが複数いまして。海軍がイギリスを模範としたのは福沢諭吉の影響もあったことでしょう。

肉じゃがのルーツか?と思われる海軍の献立を書いた新聞も福沢諭吉が出版した新聞での掲載だったりするので、自分の門下生だった人たちがいる海軍との仲は良かったようです。

彼は新聞にキャッチコピーを書く才能もあり。明治になったとはいえ。まだ、卵でさえ食べたら氏神様の祟りにあるといって村人が卵を食べた男性を追い出そうとした事もあった頃、築地の食肉業者から何かいいキャッチコピーをと頼まれるとすぐさま。

「数千年の久しき、一国の風俗を成し、肉食を穢(けが)れたるものの如く云いなし、妄り(みだり)に之を嫌う者多し。畢(ひつ)異人の天性を知らず人身の窮理を弁え(わきまえ)ざる無学文盲の空論なり」

自分でも読み解くのが難しい言葉だけど自分なりに要約すると。様々な理屈をつけて、

「肉食わない奴は馬鹿だ」

と結論づけて書いてみせたわけです。

他にも腸チフスにかかったが、牛乳を飲んで全快したという話も書きましたが、真相は愛飲した牛乳メーカー宣伝目的で書いていました。

他にも西洋料理店の宣伝、広告を行い。

「西洋料理は栄養価が高く健康にいい、初物を買う金があったら西洋料理にその金を使ったほうがいい」

などと書いていました。

福沢諭吉が明治になって肉食、牛乳、西洋料理を盛んに勧めましたが。その後もなかなか普及しなかった逸話を。

1905年に起こった戦艦ポチョムキンの反乱は昼食のボルシチに腐った肉が入ってた事から始まりこの反乱自体は大したものではないですが、後のロシア革命の伏線になったと言われています。

戦艦ポチョムキンの反乱の前に従順な国民性の日本人も軍艦でちょっとした反乱を起こしていました。

明治の軍艦で朝になり起床の時間になったのだが、誰も起床しない。

これは前日に起床のラッパが鳴っても「死んだフリして起きない」と打ち合わせた日本人なりのストライキでした。

上官は反乱を起こした部下に理由を聞くと、

「軍隊に入ったら白米が食えると思って期待していました。しかし、パンやらビスケットなどのおやつしか出ない。これじゃやってられません」

と答え、これを聞いた上官は上司に内緒で米を取り寄せて部下に食わせる事で解決しました。

この当事の海軍の食事は主食がパン、ビスケット、乾パン。おかずは缶詰肉、塩漬け肉、チーズ、コンデンスミルクなどで作ったスープ、シチューなどを洋食に馴染みのない日本人に無理やり食わせていました。

しかし、日露戦争(1904年~1905年)から数年後の海軍の献立を見ますと。当時の軍艦には冷凍庫があったせいもあって牛肉を材料にした献立だけでも随分充実しています。

1908年に出された「海軍割烹(かっぽう)術参考書」から説明つきでメニューを一部出すと。

・ビーフステーキ
150gの肉で焼いたステーキだったようです。

・ローストビーフ
付け合せは蒸し焼きまたは茹でたジャガイモ。

・ロールキャベツ

・ジャーマンビーフ
牛ひき肉を刻んだたまねぎと一緒に炒めてから半熟卵をかける。

・チーズマカロニ
茹でたマカロニの上に牛ひき肉、チーズの順に敷いていって蒸し焼き。

・シャトー・ブリアン
フランスの美食家、ブリアン子爵(ししゃく)が由来のフランス料理。
肉は牛ヒレ肉に油を塗ってグリル焼きにするだけで終わりだが。
ソースはネギ科の植物エシャロット、ヨモギの一種エストラゴン、タイム、ローリエに白ワインなどを材料としたデミグラスソースと手が込んでいます。

・カレーライス
付け合わせに福神漬けやラッキョウが無く。
マンゴーなどの果物に酢、砂糖、香辛料を加えてジャム状にしたチャツネが付け合わせになっています。

他にもミンチパイ、コロッケ、キュウリの肉詰め、牛タンのシチューなどがあります。

この頃やっと明治の海軍にも福沢諭吉の思想だけでなく、彼が強く勧めた肉食も既に普及していたようです。

ちなみにカレーは今で言う甘口だったようです。

激辛も商品にし、辛口がもてはやされたのは1980年代からで、それ以前の世代は辛口が苦手な人も結構いたりします。

以上でコラムは終わりですが。いい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その10~江戸時代と明治と卵~

21 6月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと思い。コラムを書いてみました。
携帯やスマホから見ている人もいるだろうと考え、あえて画像は入れてません。

日本の鶏と卵の歴史は遡ると2100年ほどまえに朝鮮半島を通じてまず、鶏が伝わったようですが。それ以降、特に鶏や卵を食べたであろう記述や記録を探してみましたが見つかりませんでした。

ただ、神話で天岩戸(あまのいわと)に閉じこもった天照大神(あまてらすおおみかみ)がニワトリの鳴き声で出てきたという話があります。

その後、肉食を禁ずる仏教が伝わり。奈良の大仏を建立した聖武天皇がおよそ1300年ほど前に「殺生禁断の令」を出して肉食を禁じたこともあり、卵を盛んに食べた記録は江戸時代になってやっと出てきます。

江戸時代は井原西鶴が1682年に書かいた「浮世草子(うきよぞうし)」には、
「鶏めしふるまわれる」
といった記述があり、この頃から食べられていたようです。

1837年から書かれた百科辞典、「守貞謾稿(もりさだまんこう)」を要約すると。
「うどんの上に卵焼き、かまぼこ、しいたけ、慈姑(くわい)などを具に食べる」
「卵とじうどんにする」
など書かれており。卵の値段も書かれています。

かけそばが16文だった時代に、水煮したゆで卵が1個20文とありますので。
かけそばがおよそ280円と考えると、今の感覚では卵が1個350円した計算となるでしょう。
ですので、卵の値段は今と比べて随分高かったようです。

他の江戸時代の文献でも、
「卵焼きは毎日食べる」「茶碗蒸しにする」といった記述も見られます。

そして、江戸時代の具体的な卵料理のレシピは1785年に書かれた「万宝料理秘密箱」(まんぽうりょうりひみつばこ)の中にある「卵百珍(たまごひゃくちん)」の中に103種類のレシピが並んでいます。

「卵百珍」の中から一部抜粋しますと。「黄身返し卵」という普通は黄身の周りに白身があるのを、逆転させて、ゆで卵の形にした珍しいものもあります。

他にも卵素麺、カステラ、卵豆腐。

あと、自分が風邪を引いた時にお婆ちゃんが作ってくれた卵酒の原型かも知れない「卵の甘酒漬け」。

そして、個人的に特筆すべきは「麦飯卵」という卵かけご飯の原型と思われる料理などもあります。

こうして卵を様々な料理にして発展させた江戸時代から明治に変わると明治20年(1888年)にアメリカからやってきた品種の鶏などを利用して、より卵を産むよう品種改良していきました。

明治26年(1894年)にはマヨネーズやカスタードケーキなどの調理法が紹介され。特に熱心に調理法を考案したのがオムレツでした。

この頃はゆで卵もありましたが、半熟が多く。固く茹でた卵は老人や病人は食べないよう注意していたと言われています。

それから明治30年(1898年)になると、中国から国産より安い卵が輸入され。「上海卵」と呼ばれてよく食べられていました。

それから銀座の洋食屋でエビフライやトンカツとともに生まれたオムライス、卵をとじたカツ丼など。もっと日本人に人気のあるメニューが日本各地のデパートの洋食屋などでも出されるようになり、もっと卵が身近なものになっていき現代に至ります。

ここでコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その4~寿司の歴史~

21 6月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしにコラムを書いてみました。
携帯やスマホで見ている人もいるかと考え、あえて画像はつけていません。

日本における「酸し(すし)」「熟すし(なれすじ)」の歴史は長く。塩漬けにした魚を米に漬け込んで発酵させた保存食として発展したすしは東南アジアから稲作とともに日本に伝わったとされています。

それらは酢を使わない熟すしと呼ばれる古いもので、今もその名残が琵琶湖名物の鮒(ふな)寿司に残しています。

だが、この方法では発酵などで半年はかかるため、より手っ取り早くより美味しく食べたい需要が高まり。酢の醸造技術が発展した江戸時代は1700年頃までに酢を使った人工ずしが発案されました。

酢を使った人工ずしは「押しずし」「一夜漬けずし」などと呼ばれ。その後、大阪では箱ずしと呼ばれる押しずしが、江戸では散らし寿司が相次いで生まれ、庶民の人気となりました。

しかし、現在は寿司と言えば日本でも外国でも。板前さんが酢飯の上にネタを載せて握って出す江戸前寿司とも握り寿司とも言われる物ですが。

短気でせっかちな江戸っ子を魅了したこの即席すしの原型を作ったのは1825年ころに華屋与兵衛(はなやよへい)が江戸は両国に店を構えて「与兵衛すし」として出したのが始まりと言われています。

これが珍しいものや目新しいものが好きな江戸っ子に大人気となり。行列も出来て。
「こみあいて、待ちくたびれる与兵衛ずし、客ももろ手を握りたりけり」
と狂歌が残るほどの大人気でした。

華屋与兵衛の考案した握り寿司は市民権を得ましたが。それが稲荷ずしや散らし寿司をおしのけ、都市部で主流になったのは第2次世界大戦後からとなります。

地方でも食べられるようになったのは魚介類が地方にも流通したのと、冷蔵庫の普及により1970年代からとなります。

ですので、寿司がどこでも食べられるようになったのはつい最近の出来事だったりします。

ここでコラムは終わりですが。いい暇つぶしになったでしょうか?