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食の安全その1~アメリカの食中毒と縦割り行政~

21 6月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと思ってコラムを書いてみました。
携帯やスマホで見る人もいるかと考え、あえて画像は載せていません。

日本では新聞やテレビで役所の縦割り行政の話をすることがしばしばありますが。
この縦割り行政の弊害は日本だけでなく、アメリカにもあったりします。

アメリカでは12の政府機関が食品衛生と安全に関わっており。議会の28の委員会がこの政府機関を監督しています。

所属する省庁も利益も異なる役人が介在するため、食品安全製作の運用に混乱や格差がみられ、不合理な事も数多くあります。

農務省は屠殺(とさつ)した牛には細菌検査を行う権限がありますが。食肉加工場から例えばBSEなどに汚染された牛を排除するために生きた牛を検査する権限がありません。

冷凍チーズピザの製造は、食品医薬品局が取り締まっていますが。このピザにペパローニを載せると管轄が農務省になります。

卵は食品医薬品局が取り締まりますが。卵を産む鶏は農務省の管轄で、この二つの役所は縦割り行政の弊害で連携ができず。サルモネラ菌に感染された卵を取り除く努力が阻害されています。

オランダやスェーデンでは卵の雑菌をほぼ完全に取り除いていますが。アメリカでは年間50万人以上が卵で食中毒になり、年間300人以上がその食中毒で死んでいます。

「ファストフードが世界を食いつぶす」の著者、エリック・シュローサーはアメリカの食品衛生全般を一手に引き受ける役所を作り、徹底的に検査する権限も与えるべきだと主張しています。

エリック・シュローサーの著書では。農務省は農業の促進と監視の二つの業務があるが、両立しえないと主張し。

もう一方の食品医薬品局も病院や薬屋で手に入る医薬品の監視に予算を殆ど使っており。
食品医薬品局の検査官が食肉加工場に訪れるのは平均して10年に1回のみ。

こんな状況なのでアメリカに20万も店舗があるファーストフード店の食品衛生は全く監視されていません。

このせいで悲惨な事が発生しました。
1993年シアトルの病院で血の混じった下痢便のために受診する子供が急激に増えた事に医者が気づきました。

以前は珍しかった「溶血性尿毒症症候群(HUS)」という、腎臓を破壊する病気にかかった子供もいました。

そこから保険職員がすぐに、集団食中毒の原因が地元のジャックインザボックスで出された生焼けのハンバーグであることを突き止めました。

問題のハンバーガーパテを調べたところ、牛を解体する食肉加工の段階で無理して大量生産させた結果、製造ラインの速度が速すぎて雇われた大勢の不法移民がラインのスピードについていけず、誤って胃腸を傷つけ、そこから出た未消化物や糞便が混じった事が原因とされる大腸菌O-157H7が含まれる事が判明しました。

ジャックインザボックスはカルフォルニアのヴォンズ社が製造した汚染ひき肉の回収を、すぐさま宣言しました。

しかし、時既に遅く。少なくとも4つの州で700人以上がジャックインザボックスのハンバーガーを食べて病気になり、200人以上が入院し、4人が死亡しました。

この食中毒の被害者のほとんどが子供でした。

最初に発症したうちのひとり、ローレン・ベス・ルドルフは、クリスマスの1週間前にジャックインザボックスのハンバーガーを食べて1週間後のクリスマスに入院。

ローレンは入院中、激しい痛みに苦しみ、3回心臓発作を起こして1992年12月28日、母親の腕に抱かれて息を引き取りました。

ローレンはまだ6歳でした。

こんな惨事が実は80年代にマクドナルドでも起こっていたにも関わらず、アメリカの農産物の生産、流通、加工、貿易など食に関して多岐にわたって携わるアグリビネジネスの大企業とファーストフード大手は政治家に多額の政治献金をしたおかげで。
「農産物名誉毀損法」
という恐ろしい法律を2001年の段階で13の州に制定させました。

この法律は”正当”な科学的根拠も無しに農産物や食品を批判してはいけないという法律です。

この”正当な”は食品関連の大企業から献金や天下り先を約束されている人たちが決めますので。
消費者にとって公平な判断が出来るのかどうか疑問です。

ドキュメンタリー映画「フード・インク」では。O-157などの細菌が混じった食べ物を食べた子供が死んでしまい。遺族が製造元を批判したところ、大企業から名誉毀損などで訴訟を起こされてしまい。カメラの前でも遺族は、また訴訟が起こされないかビクビクしていたようで歯に物が詰まった物言いでした。

こうやって大企業への批判を圧殺する手口を「まるでソ連の人民委員だ」と例えられてもいます。

日本の食品行政は不勉強なので、わかりませんが。アメリカみたいに杜撰で無い事を願うばかりです。

それと、アメリカから輸入された物もちゃんと検査されている事も願うばかりです。

以上でコラムは終わりですが、いかがでしたでしょうか?

皆さんのいい暇つぶしになったら幸いです。

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食の文化史その2~茶と紅茶とコーヒーの歴史~

18 6月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶし用にコラムを書いてみました。
ビジュアルで分かりやすくするために画像を沢山使ってみます。

中国、ミャンマーと国境を接するルアンナムター県

中国、ミャンマーと国境を接するルアンナムター県

まず、茶の歴史はミャンマー北部と中国南部に自生していたのを2300年ほど前に飲み物として使うようになったのだけど。最初は漢方薬として使われていました。


それが仏教が伝来し。仏教が酒を戒めると、お茶は酒の代わりに広まっていき。1600年ほど前には茶を栽培して飲むようになりました。

そのお茶も中国では大雑把に三種類ありまして。北部では緑茶、ジャスミンなどを入れた花茶。南部の福建省では烏龍茶。香港の近くにある広東では紅茶が作られて飲まれるようになりました。

長崎の出島とオランダ船

長崎の出島とオランダ船

それから千年以上送れてヨーロッパもお茶を飲むようになったのですが。最初は1610年にオランダが長崎からオランダの首都アムステルダムに運んだ緑茶がヨーロッパに渡った最初のお茶と言われています。この頃はオランダが植民地帝国で世界中に幅を利かせていました。

ウィーンの シェーンブルン宮殿

ウィーンの シェーンブルン宮殿

イギリスもその頃は意外でしょうけれども緑茶を飲んでいました。他にも、沢山の皇帝を輩出したヨーロッパの名門家ハプスブルグ家の本拠地ウィーンでも、不老長寿の薬として飲まれていました。海の交易は最初オランダが独占していましたが。1669年にイギリスが中国からお茶の買い付け に成功していますが、まだ緑茶でした。

ポルトガルから嫁いだキャサリン・オブ・ブラガンザ王女

ポルトガルから嫁いだキャサリン・オブ・ブラガンザ王女

緑茶から紅茶への変化をもたらすきっかけは1662年にポルトガルの王女キャサリンがイギリスに嫁いだ時に持参した紅茶でイギリス王室から紅茶を飲む習慣を広めたことからはじまります。

1600年代のポルトガルの都リスボン

1600年代のポルトガルの都リスボン

イギリスの硬水 の水質では王女キャサリンが故郷ポルトガルの貿易港リスボンから持参したタンニンの多い紅茶が適しており、肉食を好む食生活に濃厚なお茶の風味がマッチしていたのも緑茶に代わって紅茶が席巻していった理由だと言われ ています。

こうして紅茶が緑茶よりも好まれるようになり。ヨーロッパ、中東、アメリカでも飲まれるようになりました。
1800年代にインドやスリランカで紅茶を栽培して世界の紅茶をイギリスが独占しますと。独占しているために高値でふっかけられた値段に嫌気をさしたフランスやアメリカはコーヒーへとシフトしていきます。

こんな事情があって。紅茶はイギリス、コーヒーはアメリカという図式が後々出来ていきます。

エチオピア高原

エチオピア高原

では、次にコーヒーの歴史もさらっと説明してみます。
コーヒーの原産地はエチオピアのカファと言われる標高2400メートルの高原地帯に自生していたのを飲料にしたのが中東に伝わったものです。
コーヒーを飲むきっかけとそのルーツは伝説の領域ではっきり分かってませんが。文献には1100年前にアラビアのラーゼスという医師が茶と同じく薬用で処方したのが一番古いコーヒーに関する記録だと言われています。

コーヒーの実を食べた鳥を観察するシェーク・オマール

コーヒーの実を食べた鳥を観察するシェーク・オマール

あと、1587年に書かれた文献ではイエメンのモカに住むシェーク・オマールというアラブの偉い坊様が山で小鳥がついばんでいる赤い実を食べてみたらカフェインのせいか。心身爽快になったので。飲み物に加工して病人に与えて苦痛を救ったので聖人になったと言われています。

「昔ア~ラブの偉いおぼうさ~まが~♪」で始まるコーヒー・ルンバはこの話が元です。
アラブの偉いお坊様が飲ませたコーヒーはモカだったんですねえ。

昔の中東の喫茶店

昔の中東の喫茶店

しかし、コーヒーは長い間、門外不出の秘薬とされ。一般には出回らなかったけど。1554年にトルコの首都イスタンブールで「文化人の学校」という名前で出したのがコーヒー喫茶店の始まりだったそうです。

そのトルコ人が1615年にイタリアは水の都ベネチアに持ち込み、それがフランスやイギリスにまで飛び火して、イギリスも紅茶が普及するまでは「コーヒーショップ」というものが沢山あったほど流行していました。

しかし、キリスト教の敵であるイスラム教徒の飲み物を喜ぶなんてとんでもないという声もあり。反対派と擁護派で乱闘騒ぎになるほどヒートアップ。

ローマ法王クレメンス8世

ローマ法王クレメンス8世

この論争は当事のローマ法王クレメンス8世(1536~1605年)が「こんな美味しいものをイスラム教徒に独り占めさせておくことはない」と発言して一件落着。

カプチン修道会の修道士たち

カプチン修道会の修道士たち

ローマ法王が擁護するほど教会はコーヒー寄りで。カプチン修道会ではスパイスを混ぜたコーヒーを作って寝ずに修行していました。
これがカプチーノの始まりです。

コーヒーに砂糖とミルクを入れるスタイルを考案したのは音楽の都、ウィーンの人だと言われています。

トルコ帝国は音楽の都ウィーンを2回包囲して結局攻略できずに去って行ったのですが。トルコ人が去って行った時に山ほどコーヒーを残していったので。それを目端の利く人がタダ同然で買い付けてカフェを開いて一攫千金したそうです。
カフェではカップに粉が入らないよう布で濾してクリームを入れたウィンナーコーヒーも考案しました。

1668年ロンドンのコーヒーショップ

1668年ロンドンのコーヒーショップ

このカフェがヨーロッパの歴史を大きく変えていきます。
フランスやイギリスにコーヒーショップが出来ますと。イギリスでは1ペニーの入場料と1ペニーのコーヒーで雑誌や新聞読み放題。雑誌や新聞を読んだ知識をコーヒー片手に議論できたので通称「ペニー大学」とも言われました。
その「ペニー大学」の議論からイギリスでは損害保険、生命保険の概念が生まれます。

ロンドンのロイズ本社ビル

ロンドンのロイズ本社ビル

イギリスの保険組合といえばロイズが有名ですけど。もとはコーヒーショップの談義から生まれたものなんですね。

バスティーユ襲撃

バスティーユ襲撃

一方フランスでは政治家、学者、芸術家などが集まってサロンとなり。コーヒー片手に新しい思想が生まれ。それがフランス革命の原動力となっていきます。

コーヒーが無ければイギリスの議会制もフランスの共和制も出来なかった事でしょう。

さて、アメリカのほうでは1669年にニューヨークでコーヒーショップが開かれ。1730年頃には一般家庭にまで広まっていました。


しかし、西部開拓民はコーヒーが満足に無いので。代わりに黒パン、大麦、タンポポの根、嗅ぎ煙草などを煮出して。「むくんだコーヒー」と言われる代用品を作っていました。

そんなアメリカも当事はイギリスの植民地でしたので。紅茶は伝わっていたのですが。高い関税がかけられて高値でした。


その上アメリカと関係の無い所でイギリスとフランスが戦争を起こし。その戦費調達に印紙税をアメリカから取りました。
その名残が日本でも文書に収入印紙を押す形で残っています。

アメリカからすると、アメリカ人はイギリスの領土なのに、イギリスの議会に参加できない。ロンドンの政治に参加できず勝手に決められた税金なのです。

ボストン茶会事件

ボストン茶会事件

そこで、アメリカの有識者が「代表なくして関税なし」と言い出しました。
そこからイギリスの関税の象徴である紅茶を攻撃しようとインディアンの格好して乱入し。紅茶の箱を次々と海に投げ込む事件が起こりました。

これがアメリカ独立戦争のきっかけになった「ボストン茶会事件」です。

アメリカは紅茶を独占するイギリスと何度も戦い。時にはホワイトハウスを燃やされた時もあった程なので。紅茶は廃れ、コーヒーが主流になりました。

しかし、1800年代が終わろうとする頃に大きな変化が起こります。

トーマス・リプトン

トーマス・リプトン

イギリスはスコットランドのグラスゴーに生まれたトーマス・リプトン(1845~1931年)がアメリカに渡り、食料品店を開きます。その時にスリランカともセイロン島とも呼ばれる場所で紅茶を栽培してから、大量に輸送し。商標をつけて安全性も確保し、信頼を得られるブランドとなりました。
それと、リプトンがセイロン島から大量に持ち込んだ紅茶のおかげで紅茶の値段が半分になったのもアメリカでも売れた大きな要因と言われています。

リプトンの缶などにパイプをくわえ、ヒゲを生やしたおじさんの顔が書かれていますが。あれがトーマス・リプトンです。

ヴィクトリア女王

ヴィクトリア女王

紅茶で財を成したリプトンは慈善事業も展開し。そのせいもあってかビクトリア女王からサーの称号を貰っています。

もし、イギリスのグラスゴーなどへ行ってみる時はリプトンの創始者。トーマス・リプトンさんの歴史も念頭に入れるとより旅行が楽しめるかも知れません。

さて、長々とした文章ですが。いい暇つぶしになったでしょうか?

楽しんでもらえたら幸いです。