食の歴史その49~「人類の恩人」と瓶詰め、缶詰

10 2月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願い、コラムを書いてみました。

今回もビジュアルで分かりやすくなるよう画像、写真を多用していきます。

1800年代は食卓にも科学技術の革命が起き。サトウダイコンから砂糖を取り出したり、粉末スープの工業生産が可能となり、ヨーロッパは飢餓から逃れる事に成功します。

ニコラ・アペール

ニコラ・アペール

そんな1800年代の発明で特筆すべきはニコラ・アぺールが発明した瓶詰めと彼の名前を取った「アペルティザシオン」と呼ばれる殺菌消毒法です。

ウィキペディアを見ると情報が少なすぎるので、ニコラ・アペールの生い立ちなどの詳細も書きますと。

1749年11月17日、フランス北部のシャロン=スュル=マルヌ(マルヌ県)に生まれ。父はホテルを経営していました。

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実家のホテルの厨房で料理の手ほどきを受けたアペールはジャム、リキュール、砂糖菓子などを担当する料理人として1772年にクリスチャン4世。1775年にフォルバック公妃のもとに仕え、修行を重ねていました。

修行して腕を上げたアペールは1782年にパリのレ・アル地区のロンバール通りに店を構え。瓶詰めで食品を保存させる研究を行っていきます。

ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』

ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』

ナポレオンが皇帝になった1804年。フランス政府は遠征軍のために長期間の保存が利く方法を発明した者に今の価値で約300万円相当になる12000フランの賞金を約束し、民間からもアイディアを募集していました。

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この募集の話を知って奮起したアペールは塩漬け、酢漬け、アルコール漬け、燻製といった中世からの古い食品保存方に革命を起こすべくグリンピース、サヤインゲン、牛乳などをガラス瓶に入れて密封し、長時間煮沸する殺菌消毒を発見します。

この殺菌消毒が「アペルティザシオン」と呼ばれるものです。

ジャン-アントワーヌ・シャプタル

ジャン-アントワーヌ・シャプタル

この保存方法を科学者であり、当事大臣だったシャプタルがナポレオンに伝え、アペールの店は軍の公式納入業者となり、1809年に皇帝から12000フランの賞金を賜り、3年後の1812年には「人類の恩人」という称号も授かりました。

こうして大もうけして名誉も得たアペールですが、瓶詰めに使われた殺菌消毒と保存法などの特許を取らず、全財産を投げ打って死ぬまで食糧の保存法を研究し。『あらゆる動植物食品を多年にわたり保存する法』を出版し、英語に翻訳されたものはイギリスを経由してアメリカで読まれ、好評を博しました。

 

1824年イギリスの缶詰

1824年イギリスの缶詰

アペールの瓶詰めと保存法から発展していくイギリスのピーター・デュラントが発明してアペールと違い、特許を取得した缶詰は缶切りがまだ発明されておらず、開封はハンマーとたがねなど、大工道具を用いるため長期航海する船員や遠隔の僻地に旅行する人などが利用する程度の特殊な保存食でした。

アメリカ南北戦争 ゲティスバーグの戦い

アメリカ南北戦争 ゲティスバーグの戦い

しかし、アメリカ南北戦争(1861~1865年)で需要が増大して缶詰の大量生産に繋がっていき。1860年代は缶詰の素材に適したブリキと容易に中身を取り出せる缶切りが発明され。南北戦争以降から欧米の庶民の食卓に缶詰食品がのぼりはじめます。

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日本でも明治四年(1871年)に缶詰の製法が伝わり。長い間、軍の保存食として生産されていましたが。明治時代の缶詰の詳細は『食の歴史その47~アメリカの辞書にも載っている「テリヤキ」』をご参照下さい。

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さて、そろそろ夕食の時間なので、さばの水煮缶と大根おろしとレモン汁と薬味でさばのおろし和えでも作って食べようかと思います。

皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その48~古代ローマ庶民の接待ディナー

1 12月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いて見ました。

今回は古代ローマのディナーには金持ちのディナーについての文献は美食を極めたものなど、沢山ありますが。庶民のディナーを書き記したものは珍しいので、庶民のディナーを優先的に取り上げてみようと思います。

童話作家グリム兄弟

グリム兄弟

後にグリム童話を編集するグリム兄弟やシェイクスピアにも影響を与えた古代ローマの詩人オウィディウスが書いた作品に、ロウで作った羽で空を飛び最後は墜落してしまうイカロスの話などの有名なエピソードを複数収めた『変身物語』があります。

フィロモンとバウキスの家の、ジュピターとマーキュリー

バウキスとピレーモーンの家の、ジュピターとマーキュリー

この中に神々が旅人に変身して村人の家でディナーをご馳走になる「バウキスとピレーモーン」という話がありまして。庶民のディナーが描かれていますので、これを中心に取り上げていきます。

天空の神ジュピター

天空の神ジュピター

天空の神ジュピターと、父ジュピターのお供するために翼の着いた靴を脱いだマーキュリーの親子が旅人に化けて。バウキスとピレーモーン老夫婦の家にお邪魔しますと、老夫婦は荒い布をかけた椅子を出し。二人はそこに体を休めます。

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それから囲炉裏の灰を掻き分けて昨晩の火種を見つけ、木の葉や乾いた樹皮に火を移して息を吹きかけ燃え立てたら、その炎で細かく割った薪を燃やし、水を張った銅鍋を暖めていきます。

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鍋の水が温かくなると、菜園で取れたキャベツを取り出して刻んでから煮込むのですが。今も昔もキャベツの芯は捨てています。

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刻んだキャベツと同時に二又のフォークで取ったベーコン細かく刻み、キャベツと一緒に煮込んで柔らかくなるまで待ちます。

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こうしてベーコンとキャベツのシチューが出来るまでの間、客と談笑しつつ桶にお湯を入れて客の手足を温めたりもします。

ついでに、古代ローマ時代はシチューの事を「オフエラ」と呼んでいました。

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シチューが出来るまでの前菜のことを指す「プロムルシス」が用意され。この前菜はゆで卵から始まり、オリーブの実、サクランボみたいに実った山グミ、酒かすに漬け込まれた大根、ヤギのチーズなどが皿に盛られて出てきます。

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古代ローマのゆで卵の特徴は貴族も金持ちも庶民も何故かお湯で茹でず、囲炉裏の熱した灰の中で卵を加熱し、ゆで卵を作る事でした。

ワインを水と混ぜる時に使うクラテル

クラテル

前菜が終わるとワインと水をクラテルという器で混ぜて出し。それからシチューが運ばれてメインディッシュを意味する「ケーナ・プリマ」が始まります。

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メインディッシュのシチューが片付けられると。蜂蜜とともにデザートにクルミ、イチジク、ナツメヤシ、スモモ、ブドウが運ばれ、最後のしめにリンゴが出ます。

古代ローマでは前菜の卵から始まって、しめにリンゴを出して終える事から、「初めから終わりまで」という意味で「卵からリンゴまで」という言い方が生まれました。

古代ローマのベッド

古代ローマのベッド

こうしてワインを飲みながらのデザートがなくなるとディナーは終わり。夜明けとともに起きて日没とともに寝るのが普通だった庶民はベッドを用意し、囲炉裏の火で部屋が暖かいうちに客を眠らせます。

古代ローマ庶民のベッドは柳で出来たベッドに綿が詰まって温かい布団をのせ、その上にシーツをかけていました。

古代ローマの詩人オウィディウス

古代ローマの詩人オウィディウス

以上が古代ローマの詩人オウィディウスの描いた庶民のディナーでしたが。彼は同じ時代を生きた他の詩人と違い、パトロンやタニマチを持たず。ギリシャ神話を参考に書いた『恋の歌』があまりにもエロチックだったために実際に読んだ皇帝が激怒し、罰としてローマから地方の田舎へと飛ばされた人なので、そういった立場から田舎の庶民の生活を見て書き残したのでしょう。

以上でコラムは終わりですが。皆さん、いい暇つぶしになったでしょうか?

今夜は冷えますので、自分もキャベツとベーコンでシチューを作って体を暖めるとします。

お知らせ~過去の記事を加筆修正しました。

13 11月

こんばんは。以前に書いた記事に画像を加えてビジュアルで分かりやすくしたり、新たに加筆修正しました。

加筆修正した記事のタイトルとイメージ画像の一覧を下に出します。タイトルをクリックしますと、その記事のURLに移動できます。

世界の食文化その3~イスラム教の食事マナー


食の歴史その36~トマトがなかった昔のケチャップ

世界の食文化その1~世界の4割は直接手で食べている~

食の歴史その18~最初は下品だったフランス料理~

食の歴史その17~パスタのルーツは中国か?~


食の歴史その16~フレンチポテトからポテトチップに至るまで~

食の文化史その2~茶と紅茶とコーヒーの歴史~

以上となります。

また加筆修正したらブログの新着記事にてお知らせします。

食の歴史その47~アメリカの辞書にも載っている「テリヤキ」

3 11月

こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いて見ました。

今回もビジュアルで分かりやすくするために画像を多く使うつもりです。

醤油工場

醤油工場

アメリカで消費される醤油は醤油メーカーのキッコーマンがアメリカで製造している量だけでおよそ10万リットルと言われていますが。アメリカで消費される醤油のほとんどが照り焼きソースになっていると言われています。

映画『サイン』のワンシーン

映画『サイン』のワンシーン

映画『サイン』でも晩飯にメル・ギブソン演じるパパが家族に「好きなもの食っていいぞ」言うと。まずはチーズバーガー、スパゲッティとアメリカらしい食事を家族がリクエストしていき、最後に筋肉質のあんちゃんが「teriyaki」とさり気無く言うシーンがあるほど、照り焼きという言葉も料理もアメリカでは一般的になっており。アメリカの辞書にも「teriyaki」が載っています。

ブリの照り焼き

ブリの照り焼き

アメリカに伝わる以前の照り焼きは醤油、砂糖、酒で魚を調理したもので。日本ならではの料理、肉じゃが、すき焼き、今も缶詰に使われる大和煮などと共通しているのは調味料に砂糖を使っているところです。

ここからは推測で述べますが。日本料理に醤油と砂糖で煮〆た料理が普及したのは戦前に日本全国から人を集めた軍隊の中で食べ親しまれ全国的に普及したのだと思われます。

吾妻ひでお著 『失踪日記』よりアル中病棟のひとコマ

吾妻ひでお著 『失踪日記』よりアル中病棟のひとコマ

人間は酒が飲めないと、むしょうに甘いものが欲しくなるもので。アル中の体験を小説にした故、中島らも氏も断酒時代は冷凍バナナやあんぱんに凝り出し、桃の天然水をよく飲んでいました。

フランス軍の戦闘糧食に付属する菓子類

フランス軍の戦闘糧食に付属する菓子類

ミリタリーに疎いので、詳しい人の解説が欲しいところですが。軍隊もなかなか酒が飲めないらしく、どこの軍隊でも甘いものが求められ。各国軍隊の携行食糧には菓子や粉末の紅茶、コーヒー、ジュースが付属しているのが、よくあるパターンで。日本も例外ではありません。

大和煮の缶詰

大和煮の缶詰

明治時代の日本軍では醤油と砂糖とその他調味料で煮〆た大和煮の缶詰に人気があり。日清戦争、日露戦争では日本の肉牛が全て大和煮の缶詰になったほどだったといわれています。

京都の福神漬け

京都の福神漬け

もうひとつ、日本の軍隊で人気が高かったのは砂糖で甘口に漬け込んだ福神漬けの缶詰もありました。

このような甘口メニューを軍隊に入って口にし。戦争が終わって故郷に帰った後も海軍名物である肉じゃがのように家庭でも作らせて家庭料理として砂糖と醤油で煮〆た料理、または砂糖で味付けした料理が広まり、砂糖と醤油で味付けするのが共通項の照り焼きも軍隊で食べた大和煮の代わりに生まれたのだろうと推測しています。

海上自衛隊のカレー

海上自衛隊のカレー

話がわき道にそれますが。激辛、辛口がブームになったのは1980年代の事で。昔のカレーも甘口が普通でして、特に軍で出すカレーは辛くて食えない人を出さないようにするためなのか、必ず甘口だったそうですので、今時の辛口カレーが食べられないお年寄りも結構いたりします。

チキンテリヤキ

チキンテリヤキ

閑話休題。こうして戦前には各家庭でおふくろの味となった照り焼きが戦後の1957年に醤油メーカーのキッコーマンがアメリカに進出して醤油を売ろうとした時、キッコーマンの日系二世のセールスマン、タム吉永が彼の母親の調理した和食、魚の照り焼きをヒントに、肉料理に合う醤油ベースの料理法「テリヤキ」を発案。テリヤキソース調理法はキッコーマン主催の料理教室や販売促進用の小冊子などで、ゆっくりとアメリカに定着し、アメリカの辞書に乗るほどの現在の地位を確立してきました。

ヨシダソース創業者 吉田 潤喜(よしだ じゅんき)

ヨシダソース創業者 吉田 潤喜(よしだ じゅんき)

それから50年以上経った今のアメリカでは。アメリカ人が好きなバーベキューに照り焼きソースをつけて食べられていますが。そのソースは吉田 潤喜(よしだ じゅんき)が80年代初期に考案して販売し。大成功を収めたヨシダソースが有名です。

ヨシダソース

ヨシダソース

もし、アメリカで照り焼きを食べる機会がありましたら。おそらくはヨシダソースを塗って焼いたものが出されるかと思います。

ブリの照り焼き

ブリの照り焼き

照り焼きの事を書いていましたらお腹が空いてきましたので、魚屋に行ってブリの照り焼きを買って生姜をそえて頂こうと思います。

皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史46~古代ローマのディナー招待客の準備と公衆浴場

5 10月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いみました。

今回もビジュアルでわかりやすくするために画像を多用する予定です。

古代ローマのディナーは夕方の5時か6時に始まりますが、招待された客はディナー当日の午後2時くらいに着替えを持った奴隷を伴って公衆浴場へと向かいます。

ここで奴隷と書きましたが、現代で言うなら信用できる使用人か執事といった役割です。

ジュリアス・シーザー暗殺の図

ジュリアス・シーザー暗殺の図

ジュリアス・シーザーが暗殺された時もジュリアス・シーザーに付き従っていた3人の奴隷が命がけでシーザーの遺体を自宅にまで運んだと言われています。

ここまで尽くしてもらえれば、主人が長年連れ添った使用人か執事に情が移り、主人の遺言状で自由人として解放される場合もありますし。奴隷にも給料があるので、ある程度貯めてから自分で自由を買い戻す場合もありました。

古代ローマのコイン

古代ローマのコイン

自分で自由を買い戻した場合、自分の値段の20分の1を奴隷解放税として国に払う必要がありました。

他にも役所に主人と一緒に出頭して手続きを行って解放されたり、5年に1度の住民調査で主人が自由にして自由人として住民登録されるなど、奴隷の身分から解放される方法は様々でした。

しかし、奴隷から解放されただけでは死後、財産を国に没収される被解放自由人という身分にとどまり、ローマ市民とはなれませんでした。

ローマ市民になるには前科が無く、5歳以上の子供を持ち。3万セステルティウス、現在の価値で1500万円ほどの財産を持っていないと法律でローマ市民になれませんでした。

元老院と議論する元老院議員

元老院と議論する元老院議員

ただ、古代ローマの政治を動かすエリート集団であるローマの元老院議員の数多くはルーツをたどると奴隷から解放されてローマ市民になった人たちだったりしますので、現代人が考える奴隷制度より柔軟なものだったようです。

古代ローマの図書館

古代ローマの図書館

こういう立場の奴隷に着替えを持たせて向かう先は入場料がパンより安い10円の。女子供や兵士、公務員の仕事をしている奴隷には無料で利用できる公衆浴場ですが。中でもカラカラ帝(在位209~217年)が作った公衆浴場にはスポーツ施設、講義用ホール、ラウンジ、食堂。そして珍しいのが図書館なども併設され。座席1600もあり、1日に8000人も利用できた総合レジャー施設でした。

スポーツする姿を描いた古代ギリシャの壷

スポーツする姿を描いた古代ギリシャの壷

古代ローマでは風呂の入る前にまずスポーツ施設で各種のスポーツを行い汗を流します。

このときに付き人の奴隷が主人の衣服を管理して盗まれたり、慌て者が衣服を間違えないよう番をします。

それから「スタドリウム」言われるサウナに入って汚れた汗を出し切ります。

汗をかいたら「トラクタトレス」と言われ垢すり係が木製、鉄製、もしくば角で出来た「ストリギル」という垢すり用スプーンで体をこすると、「トラクタトレス」と言われるマッサージ係が現れて体中を揉みほぐし、手際よくサーポーという洗剤で洗い流します。

千年間も愛用されてきたアレッポの石鹸

千年間も愛用されてきたアレッポの石鹸

サーポーは当事ゲルマニアと言われたドイツ周辺から仕入れた洗剤で。ソープ、シャボンの語源であり現代の石鹸の元祖でもあります。しかし、サーポーは途中で廃れてしまい。ヨーロッパで石鹸が本格的に使用されるようになるのはローマ帝国が滅亡してから300年ほど経った中世の時代となります。

羊毛

羊毛

この石鹸が無かった頃は粘土や木炭で洗っていたので、汚れがなかなか落ちず。そこから垢すりをして羊毛の毛ば立ったもので洗うので体がピリピリしてあまり快適ではなかったようです。

ハドリアヌス帝

ハドリアヌス帝

公衆浴場での体洗いにはちょっとした逸話がありまして。ハドリアヌス帝(在位117~138年)は公衆浴場に通って庶民と交流していた人ですが。ある日、大理石の壁に背中をこすりつける逞しい(たくましい)男に目が止まった。どこかで見たと考えてみると、かつて戦陣においてハドリアヌス帝の真っ先を駆け抜けて手柄をあげていた勇士だった。

ローマ皇帝ハドリアヌスのアウレウス金貨

ローマ皇帝ハドリアヌスのアウレウス金貨

ハドリアヌス帝が男を呼び止めて事情を聞くと、男は平和になってから運が悪く貧乏に苦しみ、背中を流す奴隷を一人も持てず、公衆浴場の係の者に背中を流すよう頼む小銭も無い身の上である事を語り。これを聞いて涙したハドリアヌス帝は奴隷二人と大金を与えた。

それから2~3日後、ハドリアヌス帝がまた公衆浴場へ向かうと、彼の目に付くように大勢が壁に背中をこすり付けていたのを見て呆れたハドリアヌス帝は「お互いに背中を洗え」と命じました。

閑話休題。こうして体を洗ってから「カルダリウム」という温かい風呂に入り。それから「フリギダリウム」と言われる冷水のプールで体を引き締めてやっと風呂から上がります。

客たちが入浴を済ませて家に帰ると「トンソレス」という理容師に髪の毛の手入れをさせます。

主な髪の手入れは白髪を抜くことですが、ハゲるのが気になってきますと白髪を黒や黄色に染め。それでも髪の毛が薄くなると、男性も女性もそれぞれカツラやウィッグなども使用しました。

他にはムダ毛の手入れですが、ジュリアス・シーザーは髪の毛と眉毛以外全ての体毛を脱毛させたと言われていますが。これは当事のお洒落でもありました。

当事はひげ剃りなどカミソリを使う作業は理容師に任せていましたが。現在のカミソリに比べて切れ味が悪く、皮膚を傷つける事も多く、そり残しや痛みもひどかったために。

「カミソリで小さな怪我をした場合、オイルと酢で湿らせたクモの巣を塗ると良い」

という対処法が残っています。

初代ローマ皇帝アウグストスの時代になるとプロの理容師でもカミソリで怪我させてしまう事態を考慮して客の顔に傷を負わせた場合の罰金などを制定したりしたほどでした。

男性は髭剃りが終わると、ハサミや毛抜きでヒゲの剃り残しなどを一本一本抜いたり。ロバの脂肪やキスゲの樹脂で作った脱毛ワックスを使って一気に抜いたりしました。

こうして招待客は風呂に入って家に戻り髪の毛の手入れやヒゲを剃ってスッキリさせますと、食べる準備として歯を磨きます。

大プリニウス

大プリニウス

前のコラムで歯を白くする歯磨き粉にポルトガル人の小便から取った尿素を使うと書きましたが。歯磨き粉はそれだけでなく、大プリニウスにの『博物誌』によると。

・野ウサギの頭蓋骨を灰にしたもの。また、それに甘松香(かんしょうこう)を混ぜたもの。

・オス牛の踵(かかと)を焼いた灰とエッセンシャルオイルを混ぜたもの

・オス鹿の角の粉末。または焼いた灰。

などなど、基本的には灰で歯を磨き、歯石を取り除いていました。

古代ローマでは口臭にも気遣っており。大プリニウスは、

「人間の息は質の悪い食べ物、歯の病気、年齢の増加によって臭くなる。経験によると悪臭のする息には、寝る前に純粋なワインで口をすすぐ事、朝、新鮮な水で何度も口をすすぐと良い」

と書き記しています。

初代皇帝アウグストス

初代皇帝アウグストス

古代ローマのセレブはディナーを口にする前、念入りに歯磨きするものですが。例外としてアウグストスは歯磨きに熱心ではなく、歯石は残っていても気にしなかったという話があります。

他にもアウグストス美食と縁が無く、粗末なパンと小魚、湿り気のあるチーズ、イチジクを好んだとされています。

腹が減るといつでもどこでも間食を取るのですが、間食の内容もナツメヤシの実とパン、またはパンに干しブドウをまぶしたものといったように質素な食事で満足していました。

医療も発達していない2000年前にアスグストスが死んだ時は76歳という驚くべき長寿だったのは粗食に秘訣があったのかも知れません。

ジュリアス・シーザー

ジュリアス・シーザー

アウグストスの家系は粗食の家系なのかアウグストスを後継者にする大叔父のジュリアス・シーザーも食事に無頓着とされるエピソードが2つほどあります。

一つは、現在のミラノでワレリウス・レオが食事に招いたとき、アスパラガスにオリーブ油と間違えて香油をかけてしまった。アスパラガスに香水をかけたものなので、普通は食べられたものではないのだが、シーザーは黙々と食べ。友人が文句を言うと、

「気に入らない物は食べなければいい。そういう事を不作法だと小言を言う者こそ不作法だ」

とたしなめました。

もう一つは、ある招待主が新鮮なオリーブ油の代わりに古くなった油を出したので、他の客は見向きもしなかったが。シーザーだけは主人の手落ちや不作法を責めたくないために、いつもよりおいしそうにたくさん食べました。

子豚の丸焼き

子豚の丸焼き

他にはシーザーが酒をあまり飲まない事も伝えられていますが、シーザーもアウグストスも客をもてなす場合は客に豪勢な食事を振舞って出し。シーザーはいっぺんにローマ市民20万人をまとめてディナーに呼び、ローマでも有名な料理人をたくさん呼んできて料理人同士を競い合わせ。それだけでも見物と市民に評判でした。

話がわき道にそれましたが、次こそはディナーの前菜。そしてメインディシュなどを紹介していきたいと思います。
皆さん。いい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その45~古代ローマのディナー準備~

16 9月

こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いて見ました。

今回もビジュアルでわかりやすくするために画像を多用する予定です。

古代ローマでは「ケーナ」と呼ばれたディナーを貴族や金持ちが主催する場合、召使いが家から家を訪問し、口頭や紹介状で日時などの詳細を伝え。出席を確認しますと主催者は忙しくなります。

まずは召使いを集めて予定を伝えるばかりか、屋敷の中を巡って直接監督し。粗相がないよう、恥をかかないよう気配りするものでした。

特に気配りしたのは冷蔵庫のない時代。新鮮な食材とその吟味に神経をすり減らしました。

東京なら上野か浅草にあたるスプラの通りは売り買いの喧騒が激しく。露天や屋台の市場が立ち並び。野菜、魚介類、牛、豚、羊の肉などが並び。ガリア(現在のフランス)から運ばれてきたニワトリ、ガチョウ、アヒル、ウズウなども並んでいました。

スプラは市場だけでなく盛り場、遊び場としてローマ人に認識され。南国的で底抜けに陽気な場所でもありました。

ジュリアス・シーザー

ジュリアス・シーザー

ジュリアス・シーザーはこのスプラ付近に屋敷を構え、庶民と気安く付き合って人心を掌握していきます。

しかし、スプラは貴族や金持ちからしますと。安く仕入れる場所と見なされ、位の高い人にスプラで安く仕入れましたとも言えないし、舌の肥えた美食家なら言わずとも見破られたりしますので、カエサルの市場、トラヤヌスの市場と言われる現在の百貨店に相当する場所で鮮度のいい食材を仕入れるばかりか。時には料理人の組合に頼んで優秀な料理人を出張させてもらったりしました。

トラヤヌスの市場の最上階にあたる5階には海水プールと淡水プールの生簀(いけす)があり、ここではドーバー海峡を越えたイギリスはロンドンの近くの港町ルトゥピアエ(現リッチバラ)から数十日かけて運んできたローマで最上級とされたカキも生のまま仕入れる事ができました。

高級食材は新鮮魚介類ばかりでなく、遠くインドから取り寄せたために100倍の値段で売られていたコショウなどのスパイスなどもありました。

大プリニウス

大プリニウス

この珍しいコショウについてプリニウスは。

「ただピリっとするだけのコショウが珍重されるのは異常なことである。美味しい料理を食べたければ、腹を空かせればいいだけなのに・・・」

と書き記してあります。

ローマでのガルムの製法

ローマでのガルムの製法(文字が見づらい時は画像をクリックして拡大させてください)

コショウのような異国の珍品と違ってディナーに必要不可欠だったのは万能調味料の「ガルム」でした。

「ガルム」はタイのナンブラーのような魚醤(ぎょしょう)の一種で上に乗せたガルムの製法の図にあるように天日で腐らせた様々な魚を合計8ヶ月以上かけて塩水に漬け込むと魚肉のタンパク質が分解されてうま味成分のアミノ酸に変化していきます。

こうして完成したものを麻の布で濾過(ろか)された液体を「ガルム」、濾過した時に残る固形の残りかすを「アレク」と分類され、貧しい庶民は固形のアレクを粥に混ぜて食べていました。

ガルムは種類も豊富でマグロの内臓とエラと血液で作られたガルムが最上級とされ、現在の値段にすると3リットルで600万円近くの値段になりました。

このガルムは元々魚を腐らせたものなので、製品になっても大変魚臭く、古代ローマの料理書を書いたとされるアキピウスは、月桂樹と杉で燻してからブドウの果汁を加えて独特の臭みを消したと言われています。

皇帝ネロ

皇帝ネロ

このアキピウスは皇帝ネロの時代に大勢の料理人を雇い洗練された料理を創造したりもしていました。

自分の料理の知識を人にも伝えようと料理学校を開き、『ラルス・マギリカ』という古代ローマの料理書も残します。

アキピウスの料理書には卵料理も多く、カスタードプリンもアキピウスのアイディアだと言われています。

しかし、皇帝ネロの家庭教師セネカによりますと、ローマの大火事のあと黄金宮でネロが行った饗宴にならってアキピウスも当事のセレブを呼んだ大規模な晩餐会を開き、数十億円もの財産が湯水のように費やされました。

そしてある日。残った金額が現代の金額にして10億円相当の1千万セルティウスになった時。もはや宴を続ける事が出来ないと悟り、友人を招いて晩餐会をしたあと、財産がなくなり飢え死にする事を恐れて毒を飲み自殺したという伝説を残し、後世にはアキピウスの名を借りてペンネームにもされました。

古代ローマ人がいかに際限なくお金と労力をつぎ込んで食材、料理人の調達を行ったか書いてみましたが、次回は「ケーナ」というディナーに招かれた客の方のマナーなども書いていきたいと思います。

皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その44~古代ローマの夜とディナーに招かれるまで~

12 9月

こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いて見ました。

今回もビジュアルで分かりやすくするよう画像を多用する予定です。

古代ローマでは庶民も貴族も日の出に起きて日没には家に帰って横になるのが普通でした。

古代ローマ時代にもタイマツやランプなどがあり、その明かりで夜のローマを出かける事も可能でしたが、警察組織が無い時代のローマの夜はスリ、強盗、殺人が横行していたので護衛もつかずに無事帰れたら神に感謝するほどでした。

他にも夜の街では東京23区の5倍人口密度で、7階建ての高層アパートがひしめいており。そこにはトイレも無ければ、ごみ収集もないので、窓から食い残し、糞尿、ゴミが何の掛け声も無く降って来たので、何か特別な用事がない限り、犯罪がなくとも古代ローマの夜道を歩き回らないのが当たり前でした。

古代ローマには現代の横断歩道もあり、人と馬車、大八車の交通を区別していましたが、夜になるとローマが征服したヨーロッパほぼ全土とエジプト、北アフリカ、中東から運ばれた産物などを運ぶべく一晩中狭くデコボコした道を車両が通行するため、その騒音で高層アパートに住む住民は慢性的な睡眠不足だったと言われています。

ジュリアス・シーザー

ジュリアス・シーザー

夜に車両が行きかう背景にはジュリアス・シーザーなどの政治家が交通渋滞を解消するべく。荷馬車、大八車が日中のローマ市内に入る事を禁止したため、日没から夜明けまでに荷物を運び終えて車両を市外に出さなければいけなくなった事情などもありました。

これを風刺詩人のユウェナリスは「ひどい騒ぎだローマの夜は、貧乏人を安眠させない」と風刺しています。

そうした事情から「ケーナ」と言われるディナーは貴族も庶民も夕方4時か5時に行い。暗くなったら早々に帰ったりしました。

このケーナというディナーは貴族や金持ちが主催し、庶民も招待され。招待された庶民はディナーに出た料理を包んで家族のために持ち帰ったりする場合もあれば、特定の記念日に庶民たちが集まり、仲間同士でつつましく行うものと大体2種類ありました。

庶民が集まってつつましく行うディナーと違い。貴族、金持ちのディナーには面倒なマナーや習慣がありました。

まず、ディナーを主催する場合。召使を客の一人一人に差し向け、家から家へと訪れては優雅かつ丁寧な物腰でディナーの日取りと正確な時間、集まってくる客の数、相席する客の名前も知らせ了解を取る事から始まります。

召使は口頭で伝えるだけでなく、招待状を手渡す時もあり。具体的な招待状が『マルティリアス詩集』に載ってあるので一部抜粋しますと。

ローマの詩人マルティリアス

ローマの詩人マルティリアス

「ユリウス・ケリアリス君、私の家で素晴らしい晩飯が食べられるぞ。もっとよい先約がなければ是非うちに来て欲しい。午後3時ならどうだろう?まず一緒に風呂へ行こう。近所に浴場があるのは君もよく知っているはず。

料理の最初はお通じを良くするレタスとニラのみじん切り。シラスよりちょっと大きめなマグロの稚魚の塩漬けには香りのいいハーブをあしらって卵とじにするつもりだよ。程よく茹で上がったゆで卵もきっと出す。上等のチーズにオリーブ。前菜はこんなところ。

何、次に出す料理を教えろ?

では君を逃がさないために大嘘を書くぞ。

魚にカキに牝豚の乳房、それによく肥えたニワトリ、アヒル、沼の野鳥を色々。

あのグルメのステラさんだってめったに出さない珍味ばかりだ。

そうそう肝心な事を約束する。

僕は君に何も朗読しないから安心したまえ。君が苦心して作った長編などを読み上げるのはOKだよ。」

と、古代ローマ人はこんな感じの招待状を書いていたようです。

さて、人気者は複数のディナーに招待されたりするので、ディナーに出ると約束しておきながら、他のもっと豪華で肩肘張らない別のディナーに出る者もよくいまして。博物学者のプリニウスが出席すると約束しておきながらドタキャンしてよそのディナーに出た客に書いた怒りの手紙を書き残しています。

その手紙を一部抜粋しますと。

博物学者プリニウス

博物学者プリニウス

「おい君、晩飯に来ると約束しておいて、何で来てくれなかったんだ。裁判所に訴えるぞ。賠償金をたっぷり取られても知らないよ。

うちのコックたちが用意していたのはレタス1個、カタツムリ3匹、卵2個、大麦のポタージュ。それに雪で冷やした蜂蜜酒つきだ。

オリーブ、キュウリ、玉ねぎ、その他たくさんあるけど、けっして安くない。

それに芝居、講談、歌、どれか一つを聴けた。出来る限りのサービスをさせてもらえば3つ一緒に聞かせることだってできたんだ。

それなのに、君は誰か知らないが、カキ、牝豚の乳房、ウニ、スペインのダンサーを出してくれる人の方を選んだ。

高くつくぞ、はっきりいくらとは言わないが。薄情な事をしてくれたもんだ。

われわれは存分に遊び、談笑して豆知識を耳に入れる事も出来たのだよ。

なるほど君は方々で、もっと豪華な晩飯にありつけるかも知れない。

しかしだ、僕のところほど陽気に、のびのびと、ひとの口など気にせずに済むところは決してない。

論より証拠だ、実験してみたまえ。

そのあとで、どうしてもよその招待を断る口実が見つからないのなら、僕のところはいつでも構わない、断ってくれたまえ。」

この怒りの文章はプリニウスが書いた他の文書とまったく調子が違うので、プリニウスが社会風刺のつもりで創作した文書だろうと言われております。

カティリナ(右端)を追及するキケロ(左側手前)

カティリナ(右端)を追及するキケロ(左側手前)

あと、補足しますと。古代ローマは現代のアメリカのような訴訟大国で。記録に残っている訴訟を列挙しますと。

・乗船中に女性が産気づき、子供が生まれた。そのため、その子供の船代が欲しいと船のオーナーが訴えた。

・逮捕を免れた泥棒が店に逃げ込んだところ、番犬に手を噛まれた。泥棒は、飼い主への怠慢によるものと訴えた。

・蛇使いの芸人が見物料を払わなかった見物人をヘビで脅したのは罰にあたるかどうか。

などなど下らない事まで裁判になっていたので、プリニウスが手紙に「訴えてやる」と書いているのは日常茶飯事のありきたりな書き出しだったのかも知れません。

以上でコラムは終わりますが。次は「ケーナ」と言われるディナー本番について触れてみたいと思います。

皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?