Tag Archives: ゲルマン人

番外編その2 古代ローマのオシャレ~髪型について~

20 9月

こんばんは。今日は古代ローマのオシャレの一つ、髪型について軽く語ってみようと思います。

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いつの時代も女性が髪型にこだわるのは共通していまして、2000年前の古代ローマでも貴族や金持ちの婦人は炭火で熱した焼きごてでカールさせ、ボリュームのある髪型が流行っていました。

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初代ローマ皇帝アウグストスの姉オクタウィアは額の上の髪の毛をリーゼントのように纏め、これが「オクタウィア風ヘアスタイル」などと呼ばれていました。

その後、キリスト教を迫害したネロ帝の時代になると三つ編みにした毛で顔を囲む奇抜なヘアスタイルが登場したり、トラヤヌス帝(在位:98~117年)の妻プロティナは髪の毛を逆立てて扇のようなヘアスタイルや王冠のような形に固めた人々もいました。

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このような髪型を作るため、100人以上の女奴隷が女主人一人のために一生懸命働いていたと言われ。相当な労力が必要でした。

古代ローマでは波打つ金髪が最も美しいとされていましたので。ハトの糞、灰汁、ミョウバン、石灰を酢で溶いたもので作った薬剤を髪の毛の脱色に使っていました。

今も昔も脱色の薬剤で髪の毛や頭皮を痛めて頭が薄くなる人がいまして、その場合はゲルマニアという、今のドイツに住んでいた地域の金髪女性の髪の毛で作ったカツラが使われていました。

カツラはたいへん人気があり、インドや中国からも輸入されていましたが、ローマ帝国は高い輸入関税をかけていたため非常に高価でした。

美の追求にお金を惜しまない女性を世の男は風刺してからかい、詩人のオウィディウスは「ローマ女性のヘアスタイルはミツバチの数より多い」と評し。

風刺詩人のマルティリアスは「お前の全身は嘘だらけ」と揶揄していました。

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骨格までいじって整形する現代の美容を見たら「お前の全身は嘘だらけ」などと述べた。古代ローマの詩人たちは、どう風刺したものでしょう?

次は古代ローマのお化粧について語ろうと思います。お時間があったら読んでやってくださいませ。

以上ですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?最後まで読んでくださった皆さん有難うございます。

・参考文献

金森誠也 監修 『一日古代ローマ人』

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食の歴史その35~古代ローマの食卓とパン~

29 7月

こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願い、コラムを書いて見ました。

まずは下の古代ローマ珍味一覧図をどうぞ。

古代ローマの珍味

古代ローマの珍味

イタリアのローマは2000年前にはローマ帝国の中心として栄えギリシャ料理の影響と中東から入ってくる珍しい食材の流入により、上流階級の食卓は贅を凝らしたものとなりました。

映画『サテリコン』

映画『サテリコン』

キリスト教を弾圧した暴君ネロの宮廷に出入りしていたペトロニウスが『サテュリコン』で肉を中心とした美食を飽くことなく語り、その少し前に美食に命を捧げた大金持ちのアピーキウスは、ラクダの踵(かかと)を材料にした料理やフラミンゴの舌、雌豚の子宮などへの嗜好を著作に書き留めています。

大カトー

大カトー

だが、こうした極端な美食はごく一部の上流階級の食べ物であり、大多数はどういったものを食べていたかと言いますと2200年ほどまえの政治家、大カトーが『農業について』で述べており。

ホラティウス

ホラティウス

2000年前の詩人ホラーチウスが『歌章』で書かれている食卓のほうが大多数の古代ローマの食卓を表しています。

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カトーが友人を招いて楽しい会話が交わされた食卓には、彼の大好物のキャベツをはじめ、穀物スープ、豆、青物野菜、パン、チーズなどが主に出され、肉が出ることは稀でした。

質素ながらも滋養豊富な食卓からは農耕民族らしい植物由来のものであり、古代の食卓ではパン、ワイン、雑穀類・豆類からの粥またはスープ、野菜、それに卵、チーズ、肉がいささか混じれば、それで満足な食卓でした。

シュヴァルツヴァルト

シュヴァルツヴァルト

一方、ローマ帝国を滅ぼす事になるローマの北方に住むゲルマン人の食卓は鬱蒼(うっそう)たる森が広がり、穀物の栽培には向いた土地ではなく、放牧した豚や狩りで得た鳥獣が食事の中心でした。

ローマの歴史家タキトゥスも『ゲルマニア』で

「食事は簡素で、野生の果実、新しい獣の肉、あるいはチーズ」と記しています。

話をローマに戻しますと、古代ローマがイタリアに残した贈り物の一つが「パン」であります。

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既に古代バビロニアや古代エジプトでパン焼き窯が発明されてからギリシャで質が改善され、発酵パンと無発酵のパンの別があり、小麦のパンのほかに大麦、ライ麦や他の雑穀のパンなど様々なパンが焼かれ、そのパンを焼く技術を携えて2500年ほど前からギリシャ人がイタリアやシチリア島に殖民して住み着き、それまで穀物を粉にしたり、粥にして食べていたローマ人に洗練されたパンの技術が伝わりました。

それ以来、古代ローマのお上はパンの供給を正確かつ十分に行う事が、国家の秩序維持のための一大事と心得ており、パン職人学校を作り、特許の組合組織を定めて厳重な統制を行いました。

そのおかげで「パンがなければケーキをお食べ」という事もなければ、民衆が革命を起こす事もありませんでした。

西暦30年、ローマ帝国には329の良質の製パン所があったと記録されています。この製パンは全てギリシャ人によって経営され、ローマ帝国の発展をギリシャ人が陰から支えていました。

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その後ゲルマン人の侵入とローマ帝国の滅亡によりパンの技術はすたれてしましますが、1600年ほど前にローマの遺産を継承し続けていた東ローマ帝国から発酵パンの作り方を教わり、様々なゲルマン民族に伝わると小麦は中世でもっとも重要な食材となりました。

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しかし、小麦栽培に適しない地域では雑穀のアワやライ麦がパンの原料となりました。ローマ帝国末期から中世にかけて数百年もかけて抵抗力の強いライ麦が、まずはアルプスの山地を経由してヨーロッパ各地に広がりました。こうして黒っぽいライ麦パンが庶民のものでありました。

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こうして、一旦はローマ帝国の崩壊で廃れたけど再び広がったパンが現在でも食べられており、イタリのトスカーナ地方の伝統的な朝食ないし昼食はパンにオリーブオイルを塗り、塩を振るもので、コロンブスが1492年にアメリカ大陸を見つけてトマトが伝わると潰したトマトを潰して塗りつけるようになります。

そして現代でも余って堅くなったパンの再利用として、現在でも人気があるトスカーナ地方の伝統的な料理にリポッリータとアクアコッタがあります。

リボッリータ

リボッリータ

リボッリータは野菜のごった煮スープに古いパンを入れて煮込み直したオジヤ風の一品で、オリーブオイルとチーズを加えて食べます。

アクアコッタ

アクアコッタ

アクアコッタは大きなフライパンの底を塩漬け豚肉のパンチェッタで擦るかまたはオリーブオイルを敷き、そこにタマネギを入れて、とろ火で炒め、水を加えて、塩を少々、もしもあれば唐辛子を少々入れ、それらをスープ皿に入れた古く堅くなった薄切りのパンの上にかけ、ペコリーノチーズを振り掛けます。

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このように古くなって堅くなったパンを再利用するほど、イタリアではパンだけは貴族も庶民も欠かせないという思いが歴史を一貫して強く、使用人にも自分達と同等のパンを大枚はたいて支給している事がわかる領主の帳簿も存在します。

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1300年前からローマ法王領の中心であるローマでは、パンの供給が保証され、小麦価格の上下に関わらずパンの価格は一定していました。誰にでも丸パンが供給され、緊急時には無料になりました。

こんな歴史もあって、現在でもイタリア人は無類のパン好きで、イタリア人は1日平均230グラム食べるという統計もあります。近年まで南イタリアの貧しい人たちは満腹感を得るべくパンを大量に食べられています。

作家ナタリア・ギンスブルグ

作家ナタリア・ギンスブルグ

ナタリア・ギンスブルグが『ある家族の会話』で長兄のジーノが学生時代、食後に本を読みながら、またパンをボリボリ食べ続け、1キロくらい平らげることがあった、と記しているのも、あながち例外的な話ではなく。ヨーロッパで一番パンの消費量が多く、どんな食事にもパンがついてきます。

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レストランでも学食でも必ずパンはかならずつき、おかずはパンと一緒に食べるものとされ、パンなくしておかずもありえないのがイタリアが2500年ほど前にギリシャ人から伝えられたパンに始まって現在に至るイタリアの食文化の歴史となります。

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記事を書いていましたら、パンは無いですが、クラッカーがありますので。このクラッカーを古くなったパンの代わりにして、なんちゃってアクアコッタを作ろうかと思います。

以上でコラムは終わりですが、いい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その22~ハネムーンと蜂蜜酒~

3 7月

おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと願って、コラムを書いて見ました。

今回、画像はありません。

2300年ほど前にアレキサンダー大王の軍勢がインドまで遠征し、

「インドにはミツバチ無しに出来る蜜があった」

とサトウキビの存在を伝えました。

この砂糖は900年ほど前に始まった十字軍が中東に遠征した頃から、ヨーロッパに広く知られるようになったが、それまでのヨーロッパの甘味はもっぱら蜂蜜でした。

ヨーロッパでは1万年前から蜂蜜を採取されていたとされており、スペインにある、およそ9000年前の洞窟に「女性の蜂蜜狩り」の壁画が残されています。

蜂蜜は水で薄めておくと簡単に発酵するので、蜂蜜酒が自然作られました。

イタリア、フランス、スペイン、ギリシャなどのワイン文化圏をより北の地域で最初に作った酒も蜂蜜酒だとされています。

ジューンブライドが6月となると、ちょうど7月は新婚早々のハネムーンの最中となりましょうが、2000年近く昔の北欧でハネムーンの語源が生まれますが、それは「隔離」を意味していました。

その昔、北欧や北ヨーロッパでは略奪婚が行われており、花嫁を近くの村から略奪した男は彼女を連れてしばらく身を隠さなければならなかった。

安全を確保するために居場所は新郎の付添い人以外の誰にも知らせず、花嫁の家族が捜索を諦めるまで、自分の村に帰らず隠れていた。

これが民俗学者のいうハネムーンの始まりです。

それからやがて部族の上流階級が1ヶ月間「ミード」と呼ばれる香料、薬物を添加した蜂蜜酒を1ヶ月間、毎日飲み交わした。

この蜂蜜酒は特にゲルマン人たちに親しまれ。ゲルマン神話、北欧神話、またはそのごの散文物語で蜂蜜酒にちなんだ話が出てきます。

これらゲルマン、北欧神話などから蜂蜜酒にまつわる話を2つ3つ出してみますと。

神話では蜂蜜酒が飲むと詩人と賢者になれる神秘的な酒でありました。これを最高神オーディンは巨人族の王が所有する神秘的な蜂蜜酒を盗み出して詩と知恵の守護神となったという物語がアイルランドの神話エッダで語られています。

蜂蜜酒は神々、英雄たちの飲み物として欠かせないものでした。

ヴァイキング・サガ(散文物語)では、

「黄金の経てで作られた屋根の下、大広間で豪勢な饗宴に列座して絶えず神のイノシシ肉を賞味した。飲み物は沢山の樽に詰まった甘い蜂蜜酒、お酌をするのは戦いの女神」

という一節があったりします。

では、神話でも飲まれている蜂蜜酒がどんなものかといいますと、蜂蜜に大麦を加えて発酵を促進させていまして、「あわ立つ蜂蜜酒」という言葉が出てきますので、発酵を止めずに飲んでいたらしいです。

一般農民には高値で非常に貴重な蜂蜜の甘さによる舌の喜びとされていますが、上流階級の饗宴では湯水のように飲まれ、生贄の儀式で位の高い人を生贄にするときは「蜂蜜酒の樽の中に浸して殺された」というくらい大量に作られていました。

1500年以上前にローマ帝国に東から攻め込んできたフン族のアッチラは西暦450年、ローマ皇帝の妹と結婚したが、その祝宴の席蜂蜜を蒸留してから香料と薬品を添加したミードを知り、大いに気に入ってジョッキでガブガブ飲んだ。

それから三年後、別の女性との結婚式の祝宴で再び蜂蜜酒のミードが出され、アッチラはまたガブガブ飲んだが、ついに意識不明で死んでしまう。

このアッチラの死は蜂蜜酒のミードは香料と薬品をいれるものなので、その薬品に毒を入れて殺したのでは?という話もあります。

北欧やゲルマン人の生活に必須であった蜂蜜酒もワインを知ることによって次第に飲まれなくなっていきますが、現在でもドイツの自然食品店特店や特定の薬局で食事用とデザート用の2種類が売られています。

この蜂蜜酒のアルコール濃度は11~12%で、ドイツではハネムーンに飲まれることは無く、カーニバルや村の祭り、古代ゲルマン風の特別ディナーの時などに飲まれるとのことだそうです。

現在売られている蜂蜜酒のデザートワインを飲んだ方の感想では、甘い以外に特別の風味を感じなかったそうです。

ちなみに、スイスのホテルでバイキング形式の朝食を食べられた方の話では、ジャムと一緒に蜂蜜の壷が並んでおり、それぞれ「花」、「アカシア」、「牧場」、「アルプス」、「菩提樹」など同じ蜂蜜でも様々な種類から選んでいるとのことです。

最後に酒を多人数で飲む時は乾杯をしますが、英語ではスコールと言います。

スコールの語源は古くはバイキングの時代に、殺した敵の頭蓋骨を杯にして酒を注ぎ、勝利を祝った名残とされています。

英語で頭蓋骨をスカルと言いますが、これはフランスのノルマンディーに住み着いたバイキングがイギリスに攻め込んで征服したノルマン王朝(1066~1154年)や、デンマークとイギリスの王を兼務していたカヌート大王(1018~1035年)など、バイキングの末裔に支配された時代の名残りかも知れません。

今日のコラムはこれで終わりですが、いかがだったでしょうか?

いい暇つぶしになれば幸いです。