Tag Archives: 古代史

番外編その2 古代ローマのオシャレ~髪型について~

20 9月

こんばんは。今日は古代ローマのオシャレの一つ、髪型について軽く語ってみようと思います。

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いつの時代も女性が髪型にこだわるのは共通していまして、2000年前の古代ローマでも貴族や金持ちの婦人は炭火で熱した焼きごてでカールさせ、ボリュームのある髪型が流行っていました。

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初代ローマ皇帝アウグストスの姉オクタウィアは額の上の髪の毛をリーゼントのように纏め、これが「オクタウィア風ヘアスタイル」などと呼ばれていました。

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その後、キリスト教を迫害したネロ帝の時代になると三つ編みにした毛で顔を囲む奇抜なヘアスタイルが登場したり、トラヤヌス帝(在位:98~117年)の妻プロティナは髪の毛を逆立てて扇のようなヘアスタイルや王冠のような形に固めた人々もいました。

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このような髪型を作るため、100人以上の女奴隷が女主人一人のために一生懸命働いていたと言われ。相当な労力が必要でした。

古代ローマでは波打つ金髪が最も美しいとされていましたので。ハトの糞、灰汁、ミョウバン、石灰を酢で溶いたもので作った薬剤を髪の毛の脱色に使っていました。

今も昔も脱色の薬剤で髪の毛や頭皮を痛めて頭が薄くなる人がいまして、その場合はゲルマニアという、今のドイツに住んでいた地域の金髪女性の髪の毛で作ったカツラが使われていました。

カツラはたいへん人気があり、インドや中国からも輸入されていましたが、ローマ帝国は高い輸入関税をかけていたため非常に高価でした。

美の追求にお金を惜しまない女性を世の男は風刺してからかい、詩人のオウィディウスは「ローマ女性のヘアスタイルはミツバチの数より多い」と評し。

風刺詩人のマルティリアスは「お前の全身は嘘だらけ」と揶揄していました。

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骨格までいじって整形する現代の美容を見たら「お前の全身は嘘だらけ」などと述べた。古代ローマの詩人たちは、どう風刺したものでしょう?

次は古代ローマのお化粧について語ろうと思います。お時間があったら読んでやってくださいませ。

以上ですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?最後まで読んでくださった皆さん有難うございます。

・参考文献

金森誠也 監修 『一日古代ローマ人』

食の歴史その51~チーズの起源

7 6月

こんばんは。久しぶりに皆さんの暇つぶしになればと思って短文を書いてみました。

皆さんに問いかけますが、チーズはいつから食べられたかご存じでしょうか?

ウィキペディアを見ますと5000年ほど前にエジプトやシュメールで作られた記録がありますが。考古学が発展した結果、ポーランドの遺跡で見つかった7000年前の陶器から山羊のミルクの脂肪分が残っていたのが最も古いチーズの痕跡とされています。

10000年前に羊と山羊が家畜化され、それから1000年後に牛も家畜化されたので、この頃からチーズが作られたのではと推測されています。

最初にチーズが作られた時は容器に陶器ではなく、羊、山羊、牛など、反芻する動物の胃袋の中にミルクを入れてかき回して作ったのだろうと考えられています。

古代人にとってチーズは保存食として必要とされ、生乳より保存が利くヨーグルトやバターと一緒に作られていますが、チーズが作られた理由は保存だけでなく、およそ1万年前の新石器時代人はミルクに含まれる乳糖を消化できず、乳糖を消化できる遺伝子が広まったのは2000~3000年前ですので。ミルク作りの際にミルクの中の乳糖が細菌によって乳酸になって消化されやすくなったのもチーズが重宝され、盛んに作られた理由だと言われています。

最初のチーズがどんなものだったのかはっきり分かりませんが。地理と気候からある程度は推測がつきます。

中東や南アジアなどの暑い地方ではチーズに保存が利くように大量の塩が使われていたものだと思われます。

フェタチーズ

現在でも中東やギリシャなどでは羊のミルクを塩水の中で熟成させたフェタチーズが作られている一方、より涼しいヨーロッパでは保存のための塩分が少なく、微生物のはたらきで特色のある風味があるチーズが各地で作られ。イギリスでは700種類、フランス、イタリアでは400種類ある中、青カビで熟成されたロックフォールチーズ、白カビで熟成されたブリーチーズ、乳酸菌などで熟成され、穴が開いているのが特徴のスイスチーズなどがあります。

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話は逸れますが。アニメ「アルプスの少女ハイジ」の中で出てくる料理は「ラクレット」と呼ばれ。スイスはバレー州またはフランスのサヴォワ地方の郷土料理です。

「ラクレット」の作り方はシンプルで、暖炉の熱(今は電熱ヒーターを使用)などで車輪のような形の大きなバレー・チーズを溶かし。その溶けたチーズをナイフで削いで、蒸したジャガイモにかけてからピクルスと一緒に食べ。スイスの地酒の白ワインを飲むのが美味しい食べ方だと言われています。

 

久しぶりに書いたので、リハビリとして短めに書きましたが。皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その48~古代ローマ庶民の接待ディナー

1 12月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いて見ました。

今回は古代ローマのディナーには金持ちのディナーについての文献は美食を極めたものなど、沢山ありますが。庶民のディナーを書き記したものは珍しいので、庶民のディナーを優先的に取り上げてみようと思います。

童話作家グリム兄弟

グリム兄弟

後にグリム童話を編集するグリム兄弟やシェイクスピアにも影響を与えた古代ローマの詩人オウィディウスが書いた作品に、ロウで作った羽で空を飛び最後は墜落してしまうイカロスの話などの有名なエピソードを複数収めた『変身物語』があります。

フィロモンとバウキスの家の、ジュピターとマーキュリー

バウキスとピレーモーンの家の、ジュピターとマーキュリー

この中に神々が旅人に変身して村人の家でディナーをご馳走になる「バウキスとピレーモーン」という話がありまして。庶民のディナーが描かれていますので、これを中心に取り上げていきます。

天空の神ジュピター

天空の神ジュピター

天空の神ジュピターと、父ジュピターのお供するために翼の着いた靴を脱いだマーキュリーの親子が旅人に化けて。バウキスとピレーモーン老夫婦の家にお邪魔しますと、老夫婦は荒い布をかけた椅子を出し。二人はそこに体を休めます。

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それから囲炉裏の灰を掻き分けて昨晩の火種を見つけ、木の葉や乾いた樹皮に火を移して息を吹きかけ燃え立てたら、その炎で細かく割った薪を燃やし、水を張った銅鍋を暖めていきます。

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鍋の水が温かくなると、菜園で取れたキャベツを取り出して刻んでから煮込むのですが。今も昔もキャベツの芯は捨てています。

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刻んだキャベツと同時に二又のフォークで取ったベーコン細かく刻み、キャベツと一緒に煮込んで柔らかくなるまで待ちます。

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こうしてベーコンとキャベツのシチューが出来るまでの間、客と談笑しつつ桶にお湯を入れて客の手足を温めたりもします。

ついでに、古代ローマ時代はシチューの事を「オフエラ」と呼んでいました。

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シチューが出来るまでの前菜のことを指す「プロムルシス」が用意され。この前菜はゆで卵から始まり、オリーブの実、サクランボみたいに実った山グミ、酒かすに漬け込まれた大根、ヤギのチーズなどが皿に盛られて出てきます。

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古代ローマのゆで卵の特徴は貴族も金持ちも庶民も何故かお湯で茹でず、囲炉裏の熱した灰の中で卵を加熱し、ゆで卵を作る事でした。

ワインを水と混ぜる時に使うクラテル

クラテル

前菜が終わるとワインと水をクラテルという器で混ぜて出し。それからシチューが運ばれてメインディッシュを意味する「ケーナ・プリマ」が始まります。

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メインディッシュのシチューが片付けられると。蜂蜜とともにデザートにクルミ、イチジク、ナツメヤシ、スモモ、ブドウが運ばれ、最後のしめにリンゴが出ます。

古代ローマでは前菜の卵から始まって、しめにリンゴを出して終える事から、「初めから終わりまで」という意味で「卵からリンゴまで」という言い方が生まれました。

古代ローマのベッド

古代ローマのベッド

こうしてワインを飲みながらのデザートがなくなるとディナーは終わり。夜明けとともに起きて日没とともに寝るのが普通だった庶民はベッドを用意し、囲炉裏の火で部屋が暖かいうちに客を眠らせます。

古代ローマ庶民のベッドは柳で出来たベッドに綿が詰まって温かい布団をのせ、その上にシーツをかけていました。

古代ローマの詩人オウィディウス

古代ローマの詩人オウィディウス

以上が古代ローマの詩人オウィディウスの描いた庶民のディナーでしたが。彼は同じ時代を生きた他の詩人と違い、パトロンやタニマチを持たず。ギリシャ神話を参考に書いた『恋の歌』があまりにもエロチックだったために実際に読んだ皇帝が激怒し、罰としてローマから地方の田舎へと飛ばされた人なので、そういった立場から田舎の庶民の生活を見て書き残したのでしょう。

以上でコラムは終わりですが。皆さん、いい暇つぶしになったでしょうか?

今夜は冷えますので、自分もキャベツとベーコンでシチューを作って体を暖めるとします。

食の歴史46~古代ローマのディナー招待客の準備と公衆浴場

5 10月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いみました。

今回もビジュアルでわかりやすくするために画像を多用する予定です。

古代ローマのディナーは夕方の5時か6時に始まりますが、招待された客はディナー当日の午後2時くらいに着替えを持った奴隷を伴って公衆浴場へと向かいます。

ここで奴隷と書きましたが、現代で言うなら信用できる使用人か執事といった役割です。

ジュリアス・シーザー暗殺の図

ジュリアス・シーザー暗殺の図

ジュリアス・シーザーが暗殺された時もジュリアス・シーザーに付き従っていた3人の奴隷が命がけでシーザーの遺体を自宅にまで運んだと言われています。

ここまで尽くしてもらえれば、主人が長年連れ添った使用人か執事に情が移り、主人の遺言状で自由人として解放される場合もありますし。奴隷にも給料があるので、ある程度貯めてから自分で自由を買い戻す場合もありました。

古代ローマのコイン

古代ローマのコイン

自分で自由を買い戻した場合、自分の値段の20分の1を奴隷解放税として国に払う必要がありました。

他にも役所に主人と一緒に出頭して手続きを行って解放されたり、5年に1度の住民調査で主人が自由にして自由人として住民登録されるなど、奴隷の身分から解放される方法は様々でした。

しかし、奴隷から解放されただけでは死後、財産を国に没収される被解放自由人という身分にとどまり、ローマ市民とはなれませんでした。

ローマ市民になるには前科が無く、5歳以上の子供を持ち。3万セステルティウス、現在の価値で1500万円ほどの財産を持っていないと法律でローマ市民になれませんでした。

元老院と議論する元老院議員

元老院と議論する元老院議員

ただ、古代ローマの政治を動かすエリート集団であるローマの元老院議員の数多くはルーツをたどると奴隷から解放されてローマ市民になった人たちだったりしますので、現代人が考える奴隷制度より柔軟なものだったようです。

古代ローマの図書館

古代ローマの図書館

こういう立場の奴隷に着替えを持たせて向かう先は入場料がパンより安い10円の。女子供や兵士、公務員の仕事をしている奴隷には無料で利用できる公衆浴場ですが。中でもカラカラ帝(在位209~217年)が作った公衆浴場にはスポーツ施設、講義用ホール、ラウンジ、食堂。そして珍しいのが図書館なども併設され。座席1600もあり、1日に8000人も利用できた総合レジャー施設でした。

スポーツする姿を描いた古代ギリシャの壷

スポーツする姿を描いた古代ギリシャの壷

古代ローマでは風呂の入る前にまずスポーツ施設で各種のスポーツを行い汗を流します。

このときに付き人の奴隷が主人の衣服を管理して盗まれたり、慌て者が衣服を間違えないよう番をします。

それから「スタドリウム」言われるサウナに入って汚れた汗を出し切ります。

汗をかいたら「トラクタトレス」と言われ垢すり係が木製、鉄製、もしくば角で出来た「ストリギル」という垢すり用スプーンで体をこすると、「トラクタトレス」と言われるマッサージ係が現れて体中を揉みほぐし、手際よくサーポーという洗剤で洗い流します。

千年間も愛用されてきたアレッポの石鹸

千年間も愛用されてきたアレッポの石鹸

サーポーは当事ゲルマニアと言われたドイツ周辺から仕入れた洗剤で。ソープ、シャボンの語源であり現代の石鹸の元祖でもあります。しかし、サーポーは途中で廃れてしまい。ヨーロッパで石鹸が本格的に使用されるようになるのはローマ帝国が滅亡してから300年ほど経った中世の時代となります。

羊毛

羊毛

この石鹸が無かった頃は粘土や木炭で洗っていたので、汚れがなかなか落ちず。そこから垢すりをして羊毛の毛ば立ったもので洗うので体がピリピリしてあまり快適ではなかったようです。

ハドリアヌス帝

ハドリアヌス帝

公衆浴場での体洗いにはちょっとした逸話がありまして。ハドリアヌス帝(在位117~138年)は公衆浴場に通って庶民と交流していた人ですが。ある日、大理石の壁に背中をこすりつける逞しい(たくましい)男に目が止まった。どこかで見たと考えてみると、かつて戦陣においてハドリアヌス帝の真っ先を駆け抜けて手柄をあげていた勇士だった。

ローマ皇帝ハドリアヌスのアウレウス金貨

ローマ皇帝ハドリアヌスのアウレウス金貨

ハドリアヌス帝が男を呼び止めて事情を聞くと、男は平和になってから運が悪く貧乏に苦しみ、背中を流す奴隷を一人も持てず、公衆浴場の係の者に背中を流すよう頼む小銭も無い身の上である事を語り。これを聞いて涙したハドリアヌス帝は奴隷二人と大金を与えた。

それから2~3日後、ハドリアヌス帝がまた公衆浴場へ向かうと、彼の目に付くように大勢が壁に背中をこすり付けていたのを見て呆れたハドリアヌス帝は「お互いに背中を洗え」と命じました。

閑話休題。こうして体を洗ってから「カルダリウム」という温かい風呂に入り。それから「フリギダリウム」と言われる冷水のプールで体を引き締めてやっと風呂から上がります。

客たちが入浴を済ませて家に帰ると「トンソレス」という理容師に髪の毛の手入れをさせます。

主な髪の手入れは白髪を抜くことですが、ハゲるのが気になってきますと白髪を黒や黄色に染め。それでも髪の毛が薄くなると、男性も女性もそれぞれカツラやウィッグなども使用しました。

他にはムダ毛の手入れですが、ジュリアス・シーザーは髪の毛と眉毛以外全ての体毛を脱毛させたと言われていますが。これは当事のお洒落でもありました。

当事はひげ剃りなどカミソリを使う作業は理容師に任せていましたが。現在のカミソリに比べて切れ味が悪く、皮膚を傷つける事も多く、そり残しや痛みもひどかったために。

「カミソリで小さな怪我をした場合、オイルと酢で湿らせたクモの巣を塗ると良い」

という対処法が残っています。

初代ローマ皇帝アウグストスの時代になるとプロの理容師でもカミソリで怪我させてしまう事態を考慮して客の顔に傷を負わせた場合の罰金などを制定したりしたほどでした。

男性は髭剃りが終わると、ハサミや毛抜きでヒゲの剃り残しなどを一本一本抜いたり。ロバの脂肪やキスゲの樹脂で作った脱毛ワックスを使って一気に抜いたりしました。

こうして招待客は風呂に入って家に戻り髪の毛の手入れやヒゲを剃ってスッキリさせますと、食べる準備として歯を磨きます。

大プリニウス

大プリニウス

前のコラムで歯を白くする歯磨き粉にポルトガル人の小便から取った尿素を使うと書きましたが。歯磨き粉はそれだけでなく、大プリニウスにの『博物誌』によると。

・野ウサギの頭蓋骨を灰にしたもの。また、それに甘松香(かんしょうこう)を混ぜたもの。

・オス牛の踵(かかと)を焼いた灰とエッセンシャルオイルを混ぜたもの

・オス鹿の角の粉末。または焼いた灰。

などなど、基本的には灰で歯を磨き、歯石を取り除いていました。

古代ローマでは口臭にも気遣っており。大プリニウスは、

「人間の息は質の悪い食べ物、歯の病気、年齢の増加によって臭くなる。経験によると悪臭のする息には、寝る前に純粋なワインで口をすすぐ事、朝、新鮮な水で何度も口をすすぐと良い」

と書き記しています。

初代皇帝アウグストス

初代皇帝アウグストス

古代ローマのセレブはディナーを口にする前、念入りに歯磨きするものですが。例外としてアウグストスは歯磨きに熱心ではなく、歯石は残っていても気にしなかったという話があります。

他にもアウグストス美食と縁が無く、粗末なパンと小魚、湿り気のあるチーズ、イチジクを好んだとされています。

腹が減るといつでもどこでも間食を取るのですが、間食の内容もナツメヤシの実とパン、またはパンに干しブドウをまぶしたものといったように質素な食事で満足していました。

医療も発達していない2000年前にアスグストスが死んだ時は76歳という驚くべき長寿だったのは粗食に秘訣があったのかも知れません。

ジュリアス・シーザー

ジュリアス・シーザー

アウグストスの家系は粗食の家系なのかアウグストスを後継者にする大叔父のジュリアス・シーザーも食事に無頓着とされるエピソードが2つほどあります。

一つは、現在のミラノでワレリウス・レオが食事に招いたとき、アスパラガスにオリーブ油と間違えて香油をかけてしまった。アスパラガスに香水をかけたものなので、普通は食べられたものではないのだが、シーザーは黙々と食べ。友人が文句を言うと、

「気に入らない物は食べなければいい。そういう事を不作法だと小言を言う者こそ不作法だ」

とたしなめました。

もう一つは、ある招待主が新鮮なオリーブ油の代わりに古くなった油を出したので、他の客は見向きもしなかったが。シーザーだけは主人の手落ちや不作法を責めたくないために、いつもよりおいしそうにたくさん食べました。

子豚の丸焼き

子豚の丸焼き

他にはシーザーが酒をあまり飲まない事も伝えられていますが、シーザーもアウグストスも客をもてなす場合は客に豪勢な食事を振舞って出し。シーザーはいっぺんにローマ市民20万人をまとめてディナーに呼び、ローマでも有名な料理人をたくさん呼んできて料理人同士を競い合わせ。それだけでも見物と市民に評判でした。

話がわき道にそれましたが、次こそはディナーの前菜。そしてメインディシュなどを紹介していきたいと思います。
皆さん。いい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その42~古代ローマの食卓その2 昼食編~

4 9月

おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと願って、コラムを書いて見ました。

今回もビジュアルでわかりやすくするよう、画像を多用します。

もともと、古代ローマ人の食事スケジュールは、朝は朝食を意味するイェンタークルム、正午近くにケーナという1日の主となる食事をし、晩に夕食を意味するヴェスペルナをつまむというものでした。

しかし、昼間は暑くて食欲が起きない事と、ローマの勢力が大きくなりギリシャの文化が入って影響を受けると同時に国が豊かになってケーナの内容が次第に豪華になり、ケーナの時間は夕方へ移っていきました。

こうしてケーナ以外の食事は軽食かおやつを意味するようになり、腹が減ったので仕方なくとか、仕事の合間の休憩などに分類されるようになりました。

ケーナで腹いっぱい食べるので。上流階級でもケーナ以外の朝食、昼食を粗食で済ませれば倹約が美徳とされていたので誇るべき事であり。上流階級は昼をパンとワインだけで済ませましたが、肉体労働している人たちはたっぷり昼食を食べました。

時代の移り変わりでヴェスペルナは消え、「2度目の朝食」を意味するプランディウムが導入されました。

古代ローマの人口は100万人以上あり、人口密度は東京23区の5倍以上という過密状態で。一軒家は1700軒ほどしかなく。殆どの庶民が住んでいた七階建てもある賃貸住宅のインスラは机と椅子を広げるのが精一杯で。ベッドを置くスペースが無いので、ワラを袋に詰めたものをベッド代わりするか、直接床に寝ており、水道は皇帝と仲の良いごく限られた人しか家に引くことが出来ず、台所のスペースがあまり無いのでバールという軽食屋またはファーストフード店に分類される所で昼食を済ませるのが一般的でした。

古代ローマ時代に最も多かった食堂の形態 バール

バールは入り口付近にL字型の長いカウンターが置かれ、テーブルと椅子は店の中だけでなく、現在のオープンカフェのように外にもズラりと並べ、大きい店のなかには中庭にも椅子とテーブルを並べ、沢山の客が飲食できるようになっていました。

古代ローマの軽食屋で出された代表的なメニューは豆の入った小麦の粥「プルス」で。それ以外の物を売ることを禁止された時代もありましたが。街頭でこっそり売っていたりと禁止の効果はありませんでした。

プルス以外で人気があったのは豚のゆで肉、豚のもも肉や頭の串焼き、ウナギ、オリーブ、イチジク、ソーセージ、魚肉団子、肉団子、サラダ、ローストチキン、野菜マリネ、ゆで卵、オムレツ、チーズなどが出されましたが。ローストチキンなど肉に火を通した料理を出す事は法律で禁じられていました。

ポンペイで発掘された竈とカウンター

ポンペイで発掘された竈とカウンター

古代ローマは現代の東京23区より過密していて火事が起こりやすかった事情から火を通して調理した肉を出す事は法律で禁じられていましたが。この法律を律儀に守る店はほとんどありませんでした。

共和制ローマの富豪で政治家のクラッスス

共和制ローマの富豪で政治家のクラッスス

そうした事情から厨房や暖房の火の不始末などで火事が起こると、ジュリアス・シーザー、ポンペイウスと組んで3頭政治を行ってローマを牛耳った人物の一人、クラッススは火事になった家の周辺の隣家が延焼を恐れて持ち家や建物・土地を手放すのをいち早く情報を仕入れた上でそれらを買い占め、その後に自らが雇っていた建築に携わる奴隷にそれらを壊させたためにローマの不動産の大部分がクラッススの所有物になったと言われています。

古代の消防用送水ポンプ

古代の消防用送水ポンプ

ローマのトップには何度も起こる火災を座視するだけでなく、初代皇帝アウグストス(紀元前63~西暦14年)は正式な消防隊を組織しました。

この消防隊には2250年前にエジプトのアレキサンドリアで発明された放水ポンプを台車に載せて町中の火消しにまわっていました。

火事の最前線に立つ危険な仕事であるため、奴隷が消防隊にあてがわれていましたが。奴隷が何年も寝ずの番をして消防隊に勤めると。晴れて自由市民になれるので、志願する奴隷が数多くおりました。

この消火用水はローマに引かれた上水道から使われており、この水は普段ローマに大小ふくめて1000軒以上あった公衆浴場に供給されていました。

ローマ市民は用事を午前中に済ませたら「シエスタ」、つまり昼寝をし、起きたら公衆浴場に出かけますが。公衆浴場は浴場、プール、トレーニングジム、マッサージ室、談話室、ゲーム広場、軽食屋などの施設が揃った健康ランドのようなもので入場料は現在の価値にして10円程度でした。

公衆浴場に入りますと。まずはトレーニングジムでレスリング、球技、槍投げ、円盤投げなど練習で汗を流してからマッサージ室で体をほぐしてもらい、それからいよいよ入浴。

入浴は低温サウナと高温サウナの2種類がありまして、体が温まったらプールでひと泳ぎします。

カリグラ帝

カリグラ帝

ちなみに水泳は帝王学の一環であったので、カリグラ帝に関して諸説ありますが、とにかく泳げなかった事が記録に残っているほどです。

プールから上がりますと談話室、ゲーム室へ行ったり。10円の入場料で食べられる軽食屋ではビスケット、油で揚げたスナック、野菜のマリネ、果物とドライフルーツ、肉団子や魚のパテ、ソーセージなどに舌鼓を打っていました。

繰り返しますが、軽食屋の食事は別料金ではなく。10円の入場料で食べる事ができ、不景気な時でも6皿の食事にありつけました。

公衆浴場に来る人たちは様々な思惑を持って訪れ。庶民は金持ちと知り合って豪華なディナーのケーナに招待されるのを期待して訪れ。招待されなければ、また10円払って別の公衆浴場へとハシゴしていました。

一方、元老院の議員や貴族などのケーナに招待する側にとって、ここで投票権を持つ市民を見つけて招待することは、立候補して投票してもらう際、知名度や人気を高める上で意味のあることでした。

以上で古代ローマ人の昼食に関するコラムは終わりですが、次は古代ローマの晩餐を書こうと思います。

皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その41~古代ローマの食卓その1 朝食編~

29 8月

おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになるようコラムを書いて見ました。

今回もビジュアルで分かりやすくなるよう画像や動画を色々使っていきます。

古代ローマ人は夜明けとともに起きて取る朝食をイェンタークルムと呼び。この朝食を祭壇に捧げて祈ってから食べていました。

ポンペイで発見された古代ローマのパン

ポンペイで発見された古代ローマのパン

朝食の内容は庶民ですと丸くて平らなパンと塩味のニンニク、そして水という内容でした。

こういった質素な朝食でも食べられるだけありがたいという庶民も多数おりました。

しかし、後で詳しく説明する「パトローヌス」から朝食をもらいますと、ローマのミルクの大部分がチーズの加工に使われ、ピンからキリまであり大量に出回っていたものも朝食に加わります。

同じチーズでも普通に加工されたチーズ、燻製にされたチーズ、チーズにドライフルーツとワインを入れて加熱した「イポトゥリマ」、すりおろしたニンニクとスパイスを混ぜた「モリトゥム」などがありました。

他にも果物とミルクかワインも加わり、腐らないよう硬くなっているパンを水でなければミルク、ワインに浸して食べたりしました。

朝食の主食であるパンも蜂蜜入りロールパン、平らなケーキ「プラケンタ」、お供え菓子「リープム」などがありました。

古代ローマの軽食屋 バール

古代ローマの軽食屋 バール

こういった多少手の込んだパンやチーズ、ミルク、ワインなどを当事庶民が島を意味する「インスラ」という水道は通っておらず、ろくな台所も無いに等しい7階建て以上ある高層アパートに住んでいた事情もあって、バールと呼ばれる軽食屋か屋台で買って済ませたりもしました。

このバールではイチジクを固めたもの、ゆで卵、塩漬け魚、ローストチキンも注文でき、飲み物はホットワイン、ホットワインの中でも人気があったのは蜂蜜やスパイスを加えた「ピペラーツゥム」でした。

これだけ豊富にあれば満腹になりますが、朝食をガツガツ食べるのは育ちが悪いとされ。朝食は貴族も庶民も軽く済ませ。バールや屋台などでガツガツ食べられるメニューは昼か夕方に注文しました。

屋台や店で使うお金が無い庶民にはタダで朝食にありつく方法もありました。

それは個人的な保護者を意味し、パトロンの語源でもある「パトローヌス」という貴族、金持ちへ挨拶に行く事でした。

この面倒見のいい親方か先輩的な存在の貴族、金持ちに保護されている庶民を「クリエンテス」と言いますが。保護の対象になった庶民には「スポルトゥラ」というカゴに入った食べ物が与えられることがあります。

もらった朝食は食べてもいいし、売ったり交換してもお咎め無しでした。

「パトローヌス」は朝食だけでなく就職の斡旋、結婚相手探し、借金の保証人などの世話もします。

そうやって世話してもらった庶民たちはこの「パトローヌス」が選挙で立候補したあかつきには投票するだけでなく、熱心に選挙活動したりして日ごろの恩返しをしたりします。

小さな国の国家予算レベルに等しい借金をしているので、転勤しようとしたら借金取りに囲まれて外へ出られない事もあったジュリアス・シーザーや初代ローマ皇帝とされるアウグストスも軍隊を使った実力行使だけでなく、「パトローヌス」として庶民たちを世話した結果できた沢山の支持者の票が背景にあったので君臨できたという話もあります。

さて、様々な手段で得た朝食を食べた後は歯磨きをします。

歯磨き粉の原料は人の尿を原料とした歯磨き粉でした。

尿素は現在でも歯の美白に使われているので意外と合理的なのだそうですが。何故かポルトガル人の尿が特に歯によいと信じられており。時間とお金と労力をかけてローマからはるか遠くポルトガルまで出かけて調達していました。

尿を原料とした歯磨きをしてもローマ庶民が朝から食べるニンニクの匂いが気になるのか、虫歯予防の薬草と匂い消しの効果があった香料のはいった飴を舐めていました。

砂糖も蜂蜜も今より貴重品で博物学者プリニウスが書きのこした文書には「鉛の鍋で腐敗したワインかブドウ汁を煮詰めるとサパが得られる」とあり。サパという鉛を含んで明らかに体に悪い人工甘味料で代用するほど果物以外の甘い物が乏しく。歯を磨いたあと、現代人には想像のつかない不味い飴を舐めていたようでした。

以上でまずは古代ローマ人の朝食を紹介してみました。次は古代ローマの昼食、夕食を紹介してみたいと思います。

皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

番外編 カミソリと脱毛の歴史

26 8月

こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いてみました。

今回もなるべく画像を使って分かりやすくしたいと思っています。

体毛を剃る習慣は10万年以上前から存在しており、20万年前に出現したとされるネアンデルタール人の壁画に二枚貝で挟んでピンセットのように毛を抜く様子が描かれており。しばらくすると灰色の石で研ぎやすく切れ味の良い「フリント」という石で削るように体毛を剃っていたとされています。

何故に10万年以上昔から体毛を処理していたかと言いますと。体にノミ、シラミなどの寄生虫をつかないようにするなどの理由で衛生を保ち、健康面に気を配ったのだろうと推測されています。

それから時代を経て5500年前には金属製の髭剃りが作られており、遺跡から発掘されています。

古代エジプトでは体毛があるのは不潔とされ、上の再現図のようにするため。金や銅で出来たカミソリで体中の体毛を剃ったり、デンプンや油、香料を混ぜたジェルのようなもので全身のムダ毛をはがして脱毛を行い。エジプトの王であるファラオは全身をツルツルにしてからカツラを被っていました。

それを見た古代ギリシャの歴史家ヘロドトスは「エジプト人は暇さえあれば髭剃りしている」と評しています。

古代バビロニアでは5000年前には灰汁と油を混ぜた石鹸の元祖をシェービングクリームのように使い、髭を剃る理容師という職業が既に存在し。腕の良い理容師は政府高官や医者として高い地位にあり。そのバニロニアに征服されバビロン捕囚を経験したヘブライ人の子孫が書いた聖書にも理容に関する記述が見られます。

ヨーロッパでも古代ギリシャで発掘された金属性のピンセットや刃物で体毛を剃ったり抜いたりし。アリストパネスの戯曲『女の平和』では浴場で女性同士が脱毛された下腹部を話題にする描写があり。

具体的には世界各地の美術館にある彫像から古代ギリシャ女性がいかにムダ毛処理を徹底させていたかをうかがい知る事ができます。

こちらは古代ローマ時代に発掘された金属製の髭剃りです。

こちらは発掘された髭剃りで髭剃る様子を再現した図です。

古代ギリシャを征服し、ギリシャ文化が流入した古代ローマでは2200年ほど前から兵士が軽石で髭を剃って清潔を保ち、自由市民は奴隷と区別するために髭を剃らなくてはいけなくなる一方、奴隷は髭を伸ばすよう決められ。ローマ帝国になって巨大な公衆浴場が幾つも建造された時代になりますと、ピンセットや脱毛ジェルなどを使って髭以外のムダ毛を処理する風習が庶民にまで広がりました。

キリスト教を弾圧した暴君とされる皇帝ネロ(37~68年)の家庭教師だった哲学者のセネカは、

「公衆浴場はブチブチ体毛を抜く時のうめき声でうるさい」と評しています。

ローマ帝国が崩壊し、ヨーロッパ各地に侵入したゲルマン人が複数の王国を建てた中世になりますと、理容師は髭剃りだけでなく、怪我の処置や四肢の切断まで行う外科医、虫歯を抜く歯医者も兼務しており。

オペラ『セビリアの理髪師』では金さえ出せば何でもやってみせる便利屋として登場します。

ジレット安全剃刀の特許の図

ジレット安全剃刀の特許の図

古代バビロニアの時代から鋭利で危険な刃物を使って髭をそるのは専門家の仕事でしたが、200年と少し前にフランスのジャン=ジャック・ペレが安全カミソリを発明し、その後イギリスで試行錯誤されたものが製造され。1901年にアメリカの発明家キング・キャンプ・ジレットが使い捨ての替え刃を取り替えるT字型安全カミソリを発明。これによって大多数の人が自分で安全に毛を剃る事ができるようになりました。

第一次世界大戦(1914~1918年)にジレットは安全カミソリを軍と契約して350万本の安全カミソリ本体と3200万本の使い捨て替え刃を供給してアメリカ中の男性に普及しました。

明治になって開国し、文明開化した日本でも日本刀などの刃物を作る刀鍛冶の伝統と歴史のある岐阜県関市で誕生した貝印株式会社が1932年に国産初の安全カミソリを製造し。戦後も安い安全カミソリを全国的に売り、今も国産のカミソリと言ったら「貝印」が有名となっています。

1921年にジェイコブ・シックがアラスカに赴任した際、水が凍って従来のカミソリでは髭が剃れないので電気カミソリを考案してから様々な電気カミソリが製造されていきます。

駆け足で髭剃り脱毛の歴史を紹介していきましたが以上でコラムは終わりです。

皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?最後に日本語字幕つきのオペラ「セビリアの理髪師」序曲をどうぞ。

食の歴史その40~砂糖と爪楊枝~

19 8月

こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いてみました。

今回もビジュアルで分かりやすくすべく、画像を多用してみます。

砂糖の原料サトウキビはインド原産で2500年ほど前には製糖されていたとされています。

アレキサンダー大王(紀元前356~紀元前323年)がサトウキビの産地インドまで遠征し、「蜜の葦」の存在を伝えた頃にヨーロッパにも砂糖は伝わっており、古代ローマにて使われていましたがローマ帝国が崩壊し中世になるとヨーロッパへの砂糖の供給が滞ります。

イスラム帝国の勢力範囲

イスラム帝国の勢力範囲

砂糖の生産地はイスラム帝国のアラブ人が入植したスペインとシチリア。そして中近東であり。サトウキビが育たないヨーロッパではヴェネチアに運ばれて再び製糖された砂糖を大変な高値で取り引きされていました。しかし、1096年からそれを覆す事件が起きます。

十字軍征服路

1096年から始まった十字軍が砂糖の生産地を占領し、再びヨーロッパへ直接供給されていきますが、1300年頃から勢いの増したオスマントルコ帝国に駆逐され、千年にわたって東ローマ帝国の帝都だったコンスタンティノポリスが1453年に陥落してから砂糖の供給がほとんど無くなってしまいました。

マデイラ島とカナリア諸島

マデイラ諸島とカナリア諸島

ところが、1419年に大西洋のマデイラ諸島が、1480年にカナリア諸島が発見され、技術者を送り込んで砂糖の生産が始まりました。

こうして生産された砂糖が値崩れしないようヨーロッパに供給する数は制限され、イギリスでは450グラムの砂糖でレモン240個が買えたましたので、現代の価格に相当しますと、約14000円相当となります。

イギリス女王エリザベス1世

イギリス女王エリザベス1世

そんな高値でも砂糖がヨーロッパ中に出回り、砂糖を使った様々な菓子が考案され洗練されていきます。

砂糖を使った菓子類が大好物のエリザベス1世(1533~1603年)は歯が虫歯で真っ黒だったと伝えられています。

爪楊枝を使う右端の女性

爪楊枝を使う右端の女性

当時は黒くなった歯に石灰で磨いたり硝酸で漂白などを行い、虫歯を抜くために歯医者という職業も出現し。古代インド発祥の爪楊枝で上の食卓風景の絵にある右端の女性のように歯をほじるのがステータスとなり、爪楊枝には金属製ブローチのように彫刻や宝石がついていました。

1700年代ヨーロッパの三角貿易

1700年代ヨーロッパの三角貿易

しかし、時代は進みイギリスなどがカリブ海やアメリカ大陸に植民地を持ちますと、上の図に見られるような三角貿易によって西アフリカから連れてきた奴隷をカリブ海などへ砂糖を作るための労働力として送り、砂糖の大量生産が行われヨーロッパにもっと安く供給されるようになりました。

イギリス産業革命

イギリス産業革命

こうして庶民にまで砂糖を入れたコーヒーや紅茶が広まり、産業革命にも陰ながら貢献していきます。

それまでの労働者は水の代わりにビールやワインを飲んでいたので、酔っ払って作業効率が悪くなりましたが。コーヒーや紅茶は逆にカフェインで目が冴え、一緒に入れた砂糖から手っ取り早くカロリーが摂取できるので、素早く体を動かすエネルギーが得られ、労働効率が上がっていきました。

そういった事情からか、1800年代に「世界の工場」と言われた頃のイギリスでは温かいミルクティーが1度の食事と同等の扱いをされていました。

カフェ・プロコープのヴォルテール

一方、同じく砂糖が安く手に入るようになったフランスでは1674年からカフェが始まり。家に閉じ込められていた女性たちもカフェに出入りする事が許され。カフェではコーヒー、紅茶、ココアなどの飲み物の他にお菓子、果物の砂糖漬け、シャーベットが出されました。

1721年にはパリに300軒ものカフェが営まれ、フランス革命後の1800年になると2000軒を越えるまでになりました。

パリの数あるカフェの中でも「カフェ・プロコープ」はすぐ近くの劇場で劇が終わると貴族や金持ち、知識人がやってきて。イギリスのコーヒーハウス同様、貼り出されたその日のニュースなどを見て情報交換や討論を行い、噂の発生源ともなりました。

この由緒ある「カフェ・プロコープ」に出入りした客の中に宗教と科学の分離を促す啓蒙思想の大家ヴォルテール。

絶対王政に反対し、権力を司法、立法、行政の3つに分ける三権分立を説いたモンテスキュー。

「人民主権」を提唱し、後の民主制や選挙制度に影響を与えたルソー。

などが出入りし、彼らによって後のフランス革命に繋がる革命思想が芽生えました。

こういった知識人が出入りしたカフェについて1721年にモンテスキューはこう書いています。

「もし私がこの国の統治者だったら、カフェなど閉めてしまうだろう。なぜなら、ここに集まってくる人々は頭にひどく血が上っている。居酒屋で酔っ払わせているほうがずっとましだ。少なくとも、酒に酔っても自分にしか害を及ぼさないが、カフェで議論に酔った連中は、国の将来にとって危険なものになる。」

こうしてコーヒーや紅茶に入れられた砂糖は陰ながら近代思想にも影響を与えたりもしました。

もし、ヨーロッパに砂糖がなければ現代につながる近代国家も産業革命も生まれなかったことでしょう。

以上でコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その37~古代バビロニアと野菜、果物~

9 8月

こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしにと思ってコラムを書いてみました。

今回も画像を使ってビジュアル的に分かりやすくなればと願っています。

ナツメヤシの樹

ナツメヤシの樹

ナツメヤシは古代エジプトや古代バビロニアにて8000年前から栽培されていると考えられており、アラビアで6000年前に栽培されたのが確認され、3000年以上前に栄えたアッシリア帝国の王宮建築の石材に刻まれたレリーフにナツメヤシを人工授粉させる光景があったりと、古代人に馴染み深い植物であります。
これだけ馴染み深いのは炎天と塩害に強く、ナツメヤシの実はビタミンと糖分が豊富で食べ方も生食、パン、酒、家畜の飼料、ジャム、ジュース、ドライフルーツと多種多様で、葉っぱも幹も芽も使えて捨てる所がなく、大きくなると樹高25メートルにもなり、古代バビロニア文明が栄えた場所は雨が少なく、日差しが強く40度を越える事も珍しくないため、野菜を栽培するのに適していない土地ですが、この大樹の木陰でタマネギ、ネギ、ニンニク、キュウリ、カボチャ、レタス、カブなどの野菜を栽培できたため、古代中東では豊穣の象徴や神聖なものとして彫刻にも残されており。『旧約聖書』に出てくる「生命の樹」もナツメヤシの事を指しています。

これだけ利点のあるナツメヤシを3750年ほど前にバビロニアで作られた「目には目を、歯に歯を」で有名なハンムラビ法典でもナツメヤシの果樹園を保護するように法律で決めていました。

ただ、唯一の難点は実をつけるのに5年かかり、成木となるのに10年かかる事です。

アッシリア時代の受粉の儀式 神官とナツメヤシ

アッシリア時代の受粉の儀式 神官とナツメヤシ

このため、古代人は春になると梯子をかけて木に登り、雄の樹の花粉を取っては雌の樹の花につける世界で最も古い人工授粉を行っておりました。
また、メソポタミアでは都市に届く野菜の値段が高い事から、野菜が買えない理由によりビタミン不足で眼病を患う貧民も多く、目の不自由な貧民はナツメヤシの世話をして働く場所として認められていました。

ギルガメシュ叙事詩

ギルガメシュ叙事詩

野菜と果物が不足することによるビタミン欠乏症は昔からの経験則で知られており、健康のために野菜を取る教訓が転じたのか、4000年以上昔に編纂された『ギルガメシュ叙事詩』には不老長寿の薬草として野菜が登場し、野菜は健康維持だけでなく回春の薬ともみなされていました。

3600年前のバビロニアから出土された世界最古のレシピでは40種類ある中で20種類の料理にはタマネギ、ネギ、ニンニクのいずれかが必ず使われており、レタス、カブ、カボチャも好まれていましたが、多くは煮込み料理に使われており、煮込みの料理法も研究され、野菜を煮崩したりパンを加えるなどしてとろみをつけてポタージュのようにするのが流行っていました。

飲み物では40度を超える暑さのために冷たいソフトドリンクがいち早く作られ。最初はレモン、ザクロ、イチジク、リンゴなどを絞った生ジュースや飲み水に果汁を入れて味と香りをつけ、他にも保存の利く乾燥ナツメヤシやレモンを煮出して作る作ることもありました。

乾燥レモンを煮出したハーモズ

乾燥レモンを煮出したハーモズ

乾燥果物は甘味料やケーキの材料として広く出回っており、各家庭で使いやすく便利だったことから、今でもイラクには熱して潰してから乾燥させたレモンの煮出し汁の「ハーモズ」がありますが、これは古代から受け継がれた文化遺産の一つだったりします。

余談ですが、独特の苦味と酸味のあるハーモズは二日酔いに効くと評判だそうです。

現存する古代の素焼きの壷

現存する古代の素焼きの壷

古代では生ジュース、乾燥果物の煮出し汁を冷たくする工夫として素焼きの瓶に入れて冷暗所で保管し、移動の際には皮袋に移し替えます。

素焼きの瓶や皮袋には少しずつ表面に水分がにじみ出てくる性質があり。滲み出した水分は蒸発して気化し、その気化熱で中身が冷やされるなどの工夫が凝らされていました。

他には夏に振ってきた雹(ひょう)や北方の山にある氷や雪などを集めては地下室の倉に運び、ワラで包んで溶けないよう保存していました。

こうして保存した氷などで涼をとった記録はあちこちにありますが、そんな事が出来たのは大きな地下倉庫を持つ上流階級だけでした。

一般庶民も夏にアイスクリームなどで涼を取れるようになるには1560年、ローマに住んでいたスペイン出身の医者プラシウス・ヴィリャフランカが雪と氷の入った桶に硝石を入れると材料が氷点まで下がる事を発見し、大量のアイスクリームを凍らせる事ができるようになるまで待つしかありませんでした。
今日も暑いので自分はミントチョコアイスで涼を取りたくなってきました。

以上でコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その31~ピラミッドはタマネギとニンニクで作られた~

17 7月

おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと願って、コラムを書いて見ました。

今日は文章だけで画像は無いので、携帯やスマホからでも読みやすくなっていると思います。

古代ギリシャの歴史家ヘロドトスが「エジプトはナイルの賜物」と記述しましたが。

具体的にはエチオピアのアビシニア高原に5月の雨季になりますと大雨が降ってナイル川が増水し、6月から9月にかけて氾濫した水がナイル川沿いの農地を潤し、アビシニア高原から運ばれてきた豊かな黒土も同時にもたらされます。

この増水の度合いはその年の収穫量に繋がりますので、ナイル川にナイロメーターと言われる水位計で水位を測り、他にもオオイヌ座のシリウスという星が日の出前に東の地平線に出る時期に増水が始まる事を古代エジプト人は知っていたので、天体観測も欠かせませんでした。

そのエジプトを支配したファラオはナイル川を管理し、そのナイル川によってもたされる豊かな土地を維持する存在でした。

これは中国の伝説上の君主、三皇五帝の中に黄河の治水に尽力したという君主の逸話がありますので、大河に沿った文明では東西共通するものがあります。

そのファラオが農閑期(のうかんき)にエジプト人を集めてピラミッドを建設していきますが、建設労働者にはタマネギ、ニンニクを中心に支給し、ヘロドトスによるとピラミッドの壁にラディッシュ、タマネギ、ニンニクを労働者に支給した代金だけで銀40トンにもなると記しています。

銀1グラムが7月17日の時点で1グラム75円なので、40トンにしますと、およそ300億円となります。

他にもピラミッドの近くでパン工房の跡地が発掘され、労働者にパンを配るために焼いていたものとされています。

このエジプトのパンは生地を円錐(えんすい)形の型に入れて焼いたり、生地を平たく延ばして釜の中で焼いたりと様々で中には、動物をかたどったパンもありました。

このパンには果物や蜂蜜で味付け、風味付けされたりもして。

パンに使う粉の種類、ひき方、添加物、形などの違いで少なくとも30種類のパンが古代エジプトにあったと言われています。

パンを主食にニンニクとタマネギを食べ、現在より度数の低いビールも飲み、主要なタンパク源として豆もたくさん食べられていました。

古代エジプトではソラマメ、エンドウマメ、インゲンマメ、ヒヨコマメ、レンズマメなどが食べられ。これらの豆を潰して煮込んだフールという料理やソラマメで作ったコロッケが現代のエジプトでも食べられています。

先ほどビールに触れましたが、古代エジプトにおいてビールは日常的な飲み物で、栄養があり、日々の食事の中でも重要な位置を占めていました。

古代ギリシャの歴史家ディオドロスは「ワインに匹敵する」と褒めており、既に美味しいビールが作られていました。

ピラミッド建設ではこれらの支給の他にも、祭日になりますと肉や石鹸の代わりになるナトロンが支給され、祭日のために前もってビールを造るために休む事もありました。

これに対して「アニの教訓」という書物では暴飲暴食を戒めていましたので、古代エジプト人が祭日はよく羽目を外していたのがうかがわれます。

このような豊かな食生活が『旧約聖書』でもちらりと伺えることができます。

モーセがヘブライ人を率いてエジプトを出て行った際、ヘブライ人はエジプトで食べたニンニク、タマネギの味を忘れる事ができず、パレスチナで大量のニンニクを栽培して、心ゆくまで食べたとあります。

古代ギリシャではニンニクが宗教的に扱われ、天と冥界をつかさどる女神ヘカテのために十字路に石を積み、新月の夜にニンニクを積み上げたと言われています。ドラキュラが好まないニンニクの背景には古代ギリシャの風習が背景にあるようです。

古代ギリシャではその後アレキサンダー大王が現れ、インドまで征服しに向かいますが、アレキサンダー大王率いる兵士たちはニンニクを常食し、このニンニクは肉の臭みを消すほかに、胃を健やかにし、整腸作用をもたらし、呼吸器や内蔵の薬としても使われ、ニンニクでつけたスタミナで連戦連勝だったと伝えられております。

その後に繁栄したローマ帝国でも兵士が好んで食べ、キリスト教を弾圧した暴君とされる皇帝ネロは「アイオリ」というニンニクの入ったマヨネーズのようなホワイトソースを考案するほど入れ込んでいたと言われています。

このアイオリは、すり潰したニンニクに卵黄を混ぜ、オリーブオイルを少しずつ入れながら空気を入れるように混ぜ、レモン汁、塩コショウで味を調える代物で。

このアイオリはスペインのカタルーニャ地方ですと何にでもアイオリを加え、特に肉のグリルに欠かせない調味料となっています。

フランスのプロバンス地方では茹でた人参、ジャガイモ、さやいんげん、ゆで卵などにかけて食べる料理を「ル・グラン・アイオリ」と呼び、ブイヤベースにも添えられます。

以上でコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

今日はスタミナをつけるべく、昼はペペロンチーノ、夜は餃子でも頂こうと考えています。

皆さんも夏バテしやすいこの季節、ニンニクで精をつけてみてはいかがでしょう?