Tag Archives: 日本史

食の歴史その36~トマトがなかった昔のケチャップ

2 8月

こんにちは、今日も暇つぶしになればと願ってコラムを書いて見ました。

ビジュアルで分かりやすくするため、画像を沢山使ってみました。

今、ケチャップと言いますと完熟トマトを加熱してから湯剝きで皮を取り、裏ごししてから低温で煮詰めてトマトピューレを作り。砂糖、塩、酢、オールスパイス(ピメント)、シナモン、グローブを加え、タマネギ、セロリなどの野菜も加えて作られます。

ケチャップ状の調味料には歴史があり、古代ローマ時代からあるケチャップは広く「ガルム」という名で知られ、リクアメンと呼ばれていました。

ローマでのガルムの製法

ローマでのガルムの製法

ガルム、またはルリクアメンは世界で最も古い調味料の一つで。酢、オイル、コショウ、干したアンチョビをドロドロにしてから潰して裏ごしにして調味したソースでした。

古代ローマで作られたトマトのないケチャップは鶏肉や魚に良く合うソースとして重宝され、ケチャップ工場で有名な町もありました。

2000年ほど前に火山灰に埋もれたポンペイの遺跡には「最高に滑らかなリクアメン。ウンブリクス・アガトホプス工場製」と書かれた世界で最も古いケチャップの瓶が発掘されています。

しかし、これは現在のケチャップの直接の先祖ではなく。1690年代に中国でやはり鶏肉と魚用のソースとして魚の酢漬け、貝、スパイスを塩水で漬け込んだものがマレーシアやその周辺にも伝わり、ここで「ケチャップ」という言葉が初めて出てきます。

このケチャップを1700年代にイギリス人がマレーシアやシンガポールの原住民が食べているのを見つけ、故郷のイギリスに持ち帰り、イギリスでもその味を懐かしんで料理人に作らせたのですがアジアのスパイスが手に入らなかったので、代用として魚介類ではカキ、アンチョビ、ロブスターを使い、他にはマッシュルーム、インゲンマメ、クルミ、キュウリ、クランベリー、レモン、ブドウなどで作り、現在でもパイやシチューに使われています。

イギリスのキノコから作ったケチャップ

イギリスのキノコから作ったケチャップ

この中国、マレーから伝わってイギリスで独自に作られたケチャップはイギリス人を魅了し、ハリスン夫人の書いた『ハウスキーパーのポケットブック』という人気の高い料理書に、主婦は「このソースを決して切らしてはなりません」と書かれています。

チャールズ・ディケンズ

チャールズ・ディケンズ

ヴィクトリア朝時代のイギリスを代表する『オリバー・ツイスト』などの著書を残した作家チャールズ・ディケンズ(1812~1870年)は『バーナビー・ラッジ』の中で「たっぷりケチャップをかけたラムチョップ」に舌鼓をうち、パイロン卿は彼の詩『ペッポー』の中でケチャップを称えています。

このケチャップにトマトに入ったのは1790年ごろ、アメリカのニューイングランド地方で生まれたとされます。

トマトは今のメキシコに繁栄していたアステカ帝国で食用に品種改良し、栽培されており。そのアステカを征服したスペインのエルナン・コルテスが1519年に種を持ち帰ったのですが、毒草のベラドンナに似ているのと、赤い実だけでなく毒のある葉も間違って食べていたから長い間毒とされ、日本でも江戸時代に長崎から伝わり、貝原益軒の『大和本草』にもトマトについて書かれていたのですが。ここでも偏見があり、日本でも食用になるのは明治を待たなければなりませんでした。

トーマス・ジェファーソン

トーマス・ジェファーソン

こういったトマトの偏見を覆したのがアメリカ建国の父の一人トーマス・ジェファーソン(1743~1826年)でして、アメリカで最初にトマトを栽培し、赤い実だけ食べれば毒は無く、すぐれた食べ物である事を知らせました。

アメリカにパリ仕込みのフライドポテトを持ち込んだりとアメリカの食生活にも影響与えたジェファーソンのトマトとそのケチャップはすぐさま広まり、1792年にリチャード・ブリッグが書いた『新しい料理法』にトマトケチャップの料理法が書かれ、1850年代にもなると、どこの家庭にでも見かけられるようになります。

この頃人気のあった料理書、イザベラ・ビートン著『家政学の書』は、「トマトケチャップ・ソースは経験を積んだ料理人にはもっとも利用価値の高いソースの一つです。作る手間を省いてはなりません」と主婦たちにアドバイスしています。

しかし、家庭ではトマトを湯剝きして、裏ごししたものを絶えずかき回して作るトマトケチャップは大変な手間であり、1876年にドイツ系アメリカ人の料理人兼ビジネスマンのヘンリー・ハインツが世界で初めて瓶詰めケチャップを最初に大量生産されたとき、アメリカの主婦達がしきりに買い求めたのも当然のことでした。

ハインツ社のトマトケチャップ

ハインツ社のトマトケチャップ

ハインツ社を作ってトマトケチャップの瓶詰めを量産したヘンリー・ハインツは「お母さんがたと家庭を預かる女性に福音!」とレッテルに書いて売れたケチャップは、瓶の形は底が広くて首が細いデザインと中身のケチャップの製法が百年以上の間、ほとんど変わっていません。

アメリカから飛んで日本に向かいますと、カゴメのトマトケチャップが圧倒的なシェアを得ていますが、これは明治になってから西洋野菜としてカゴメの創業者、蟹江一太郎が1899年にトマトを栽培し、数年後豊作で余ったトマトを保存食にするべく、西洋のケチャップの製法には必要なオールスパイス(ピメント)、シナモン、グローブなどのスパイスの調達が難しく、代用で漢方薬を使ったりと試行錯誤を繰り返し。1904年に生産を開始し、今に至ります。

カゴメが国産ケチャップを開発、販売していなければ。チキンライス、オムライス、ナポリタンは生まれていなかったかも知れません。

今日はケチャップでタマネギとピーマンを炒め、ナポリタンを作りたくなってきました。

皆さんもケチャップがあったら何かに使ってみませんでしょうか?フライドポテトにケチャップも美味しいですよね。

それではケチャップをふんだんに使ったナポリタンを食べますので。今日のコラムはこれで終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

広告

食の歴史その35~古代ローマの食卓とパン~

29 7月

こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願い、コラムを書いて見ました。

まずは下の古代ローマ珍味一覧図をどうぞ。

古代ローマの珍味

古代ローマの珍味

イタリアのローマは2000年前にはローマ帝国の中心として栄えギリシャ料理の影響と中東から入ってくる珍しい食材の流入により、上流階級の食卓は贅を凝らしたものとなりました。

映画『サテリコン』

映画『サテリコン』

キリスト教を弾圧した暴君ネロの宮廷に出入りしていたペトロニウスが『サテュリコン』で肉を中心とした美食を飽くことなく語り、その少し前に美食に命を捧げた大金持ちのアピーキウスは、ラクダの踵(かかと)を材料にした料理やフラミンゴの舌、雌豚の子宮などへの嗜好を著作に書き留めています。

大カトー

大カトー

だが、こうした極端な美食はごく一部の上流階級の食べ物であり、大多数はどういったものを食べていたかと言いますと2200年ほどまえの政治家、大カトーが『農業について』で述べており。

ホラティウス

ホラティウス

2000年前の詩人ホラーチウスが『歌章』で書かれている食卓のほうが大多数の古代ローマの食卓を表しています。

d2875eb8137dd35a5b061aebd921ae79DSC01914_convert_20090227174104t01780320_0178032010928612551456821-gorgonzola-parmigiano-pecorino-cheese-with-wine-and-bread-typical-italian-food-piacenza

カトーが友人を招いて楽しい会話が交わされた食卓には、彼の大好物のキャベツをはじめ、穀物スープ、豆、青物野菜、パン、チーズなどが主に出され、肉が出ることは稀でした。

質素ながらも滋養豊富な食卓からは農耕民族らしい植物由来のものであり、古代の食卓ではパン、ワイン、雑穀類・豆類からの粥またはスープ、野菜、それに卵、チーズ、肉がいささか混じれば、それで満足な食卓でした。

シュヴァルツヴァルト

シュヴァルツヴァルト

一方、ローマ帝国を滅ぼす事になるローマの北方に住むゲルマン人の食卓は鬱蒼(うっそう)たる森が広がり、穀物の栽培には向いた土地ではなく、放牧した豚や狩りで得た鳥獣が食事の中心でした。

ローマの歴史家タキトゥスも『ゲルマニア』で

「食事は簡素で、野生の果実、新しい獣の肉、あるいはチーズ」と記しています。

話をローマに戻しますと、古代ローマがイタリアに残した贈り物の一つが「パン」であります。

panyaki

既に古代バビロニアや古代エジプトでパン焼き窯が発明されてからギリシャで質が改善され、発酵パンと無発酵のパンの別があり、小麦のパンのほかに大麦、ライ麦や他の雑穀のパンなど様々なパンが焼かれ、そのパンを焼く技術を携えて2500年ほど前からギリシャ人がイタリアやシチリア島に殖民して住み着き、それまで穀物を粉にしたり、粥にして食べていたローマ人に洗練されたパンの技術が伝わりました。

それ以来、古代ローマのお上はパンの供給を正確かつ十分に行う事が、国家の秩序維持のための一大事と心得ており、パン職人学校を作り、特許の組合組織を定めて厳重な統制を行いました。

そのおかげで「パンがなければケーキをお食べ」という事もなければ、民衆が革命を起こす事もありませんでした。

西暦30年、ローマ帝国には329の良質の製パン所があったと記録されています。この製パンは全てギリシャ人によって経営され、ローマ帝国の発展をギリシャ人が陰から支えていました。

gelman

その後ゲルマン人の侵入とローマ帝国の滅亡によりパンの技術はすたれてしましますが、1600年ほど前にローマの遺産を継承し続けていた東ローマ帝国から発酵パンの作り方を教わり、様々なゲルマン民族に伝わると小麦は中世でもっとも重要な食材となりました。

3546ef60

しかし、小麦栽培に適しない地域では雑穀のアワやライ麦がパンの原料となりました。ローマ帝国末期から中世にかけて数百年もかけて抵抗力の強いライ麦が、まずはアルプスの山地を経由してヨーロッパ各地に広がりました。こうして黒っぽいライ麦パンが庶民のものでありました。

8957571-delicious-italian-bread-toast-with-tomato-and-basil

こうして、一旦はローマ帝国の崩壊で廃れたけど再び広がったパンが現在でも食べられており、イタリのトスカーナ地方の伝統的な朝食ないし昼食はパンにオリーブオイルを塗り、塩を振るもので、コロンブスが1492年にアメリカ大陸を見つけてトマトが伝わると潰したトマトを潰して塗りつけるようになります。

そして現代でも余って堅くなったパンの再利用として、現在でも人気があるトスカーナ地方の伝統的な料理にリポッリータとアクアコッタがあります。

リボッリータ

リボッリータ

リボッリータは野菜のごった煮スープに古いパンを入れて煮込み直したオジヤ風の一品で、オリーブオイルとチーズを加えて食べます。

アクアコッタ

アクアコッタ

アクアコッタは大きなフライパンの底を塩漬け豚肉のパンチェッタで擦るかまたはオリーブオイルを敷き、そこにタマネギを入れて、とろ火で炒め、水を加えて、塩を少々、もしもあれば唐辛子を少々入れ、それらをスープ皿に入れた古く堅くなった薄切りのパンの上にかけ、ペコリーノチーズを振り掛けます。

Card13

このように古くなって堅くなったパンを再利用するほど、イタリアではパンだけは貴族も庶民も欠かせないという思いが歴史を一貫して強く、使用人にも自分達と同等のパンを大枚はたいて支給している事がわかる領主の帳簿も存在します。

s1186778213s1188995406dsc_0128

1300年前からローマ法王領の中心であるローマでは、パンの供給が保証され、小麦価格の上下に関わらずパンの価格は一定していました。誰にでも丸パンが供給され、緊急時には無料になりました。

こんな歴史もあって、現在でもイタリア人は無類のパン好きで、イタリア人は1日平均230グラム食べるという統計もあります。近年まで南イタリアの貧しい人たちは満腹感を得るべくパンを大量に食べられています。

作家ナタリア・ギンスブルグ

作家ナタリア・ギンスブルグ

ナタリア・ギンスブルグが『ある家族の会話』で長兄のジーノが学生時代、食後に本を読みながら、またパンをボリボリ食べ続け、1キロくらい平らげることがあった、と記しているのも、あながち例外的な話ではなく。ヨーロッパで一番パンの消費量が多く、どんな食事にもパンがついてきます。

da-mimmo-italian-restaurant

レストランでも学食でも必ずパンはかならずつき、おかずはパンと一緒に食べるものとされ、パンなくしておかずもありえないのがイタリアが2500年ほど前にギリシャ人から伝えられたパンに始まって現在に至るイタリアの食文化の歴史となります。

hamkura3

記事を書いていましたら、パンは無いですが、クラッカーがありますので。このクラッカーを古くなったパンの代わりにして、なんちゃってアクアコッタを作ろうかと思います。

以上でコラムは終わりですが、いい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その34~箸の文化と作法~

27 7月

おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと願って、コラムを書いて見ました。

日本における食生活の基本はお箸です。最近は正しく使う人が少なくなった、という声をご老人から、しばしば聞くのも、箸は物を食べる単なる道具ではなく、民族がはぐくんできた文化という思いがあるのだと考えられます。

その背景には箸を使う食べ方が、手で食べる方法を別にすれば最も古い食器を使った作法なのだという事もあります。

箸のルーツは中国でして、およそ3400年前の殷王朝の都から、多くの出土品の中に世界最古の青銅で出来た箸が発掘されていますが、それは日常の食生活に使用したものではなく、祖先に供え物をするための儀式的な道具だったと推測されています。

箸が生まれた背景には、衛生面や熱い料理を取りづらいという問題がありました。

他にも、来客や目上の人とともに食事をする際、手掴みだと飯を丸めてしまい、どうしても多めに取ってしまう傾向があり、すると食をめぐる醜い争いという印象を与えるために、1度に多く取れない食器が必要であった、という内容が孔子の教えを伝える儒教の経典『礼記』に書かれています。

いかにも礼儀を重んじる儒教の国らしい発想です。

ともあれ箸は、長い間王侯貴族の宴席に限って使われていましたが、ようやく大衆のものとなったのは2100年ほど前の漢王朝の時代となります。

先の『礼記』には「おかずは箸、飯はサジを使うこと。具の無い吸い物も箸を使わない」と当事の箸使いのマナーが説明されています。

つまり、箸はサジの添え物的な存在で、漢王朝の時代から700年ほど経った唐王朝の時代でもサジと箸の半々で使われていました。

箸が必須の食器となるのは、麺類が庶民の食べ物として人気を呼ぶようになった1000年ほど前の宋王朝の時代以降となります。

説明するまでもありませんが、麺類を食べるときはサジより箸の方がもっと扱いやすく。この風潮が箸文化を大きく後押しし、更には中国の歴史で初めて中国南部を拠点にして、およそ700年前に天下統一した明王朝の時代になりますと、中国南部に流れる長江周辺の粘り気のある米飯は箸にもってこいの食器で、ここにきて箸が主役になっていきます。

わが国の箸文化の始まりについては諸説ありますが、一般には西暦607年に小野妹子(おののいもこ)が隋から持ち帰ったとされ、聖徳太子が朝廷の儀式に初めて採用したと伝えられています。

それ以前は手掴みだったのは言うまでもありません。

箸文化は世界的に見ると、東アジアとベトナムに見られる局地的な食事の作法です。

しかし、同じ箸文化でも色々と違いがあります。

たとえば、中国や朝鮮半島の端は長くてずんどう形でで、先は丸くて尖っていないのが特徴で、日本人には少々扱いづらいものとなっています。

材質も中国は竹か象牙で出来た箸で、朝鮮半島は基本的に金属製の箸です。

先端が丸いのは、凶器として使わせないための配慮だったと言われています。

大皿などに盛られている料理を自分の箸で取る「直(じか)ばし」は、日本ではすき焼きなどの一部を除くと不作法とされているが、中国・朝鮮ではすべて直ばしで逆に「取りばし」というものがありません。

これは食器に対する個人所有の概念が無く、家族を単位とする平等性、共有性といった大家族制な考えから生まれたものらしいです。

日本では図のように箸は横向きに並べるのが礼儀ですが、中国・朝鮮では縦に並べるのが常識になっています。

かつては、目上の人より先に食べ終わったときに謙遜の意を表すため、本家の中国でも横向きに置くのが常識でしたが、宋の時代からモンゴル帝国の中国征服によって生まれた元王朝へと支配者が移り変わっていくと同時に箸の置き方も縦向きに変わっていきます。

その最大の原因は北方の騎馬民族をはじめとする異民族の侵入によって、肉食を中心とした食事へと変わっていったことにあります。

肉食中心の食事に使うナイフはうっかりすると怪我をしかねない、そこで自然とナイフの先を反対側に向けるように縦に置いたマナーがやがて作法として定着してしまったと思われます。

箸の先が丸いのも同じ理由だとされています。

これらは、西洋のフォークやナイフを使う食事マナーと共通する点でもあります。

さらに付け加えますと、中国・朝鮮は必ずしも箸が食器の主役ではありません。

中国ではスプーン状もチリレンゲ、朝鮮半島ではサジをあわせて使用し、箸はおかずをつかむ補助的な食器です。

ですので、箸だけで事足りる日本こそ純粋な箸文化の国と言えるかも知れません。

その日本の伝統的な和食は箸にはじまって箸に終わるといわれるほどです。

日本人の箸に対するマナーは、箸文化圏の中でもっともうるさい国だと思われます。

たとえば、箸袋ひとつ挙げても、まず右手で取り上げ、左手を添えつつ右手で袋から引き出して箸置きに置きます。

その後も箸を取ったり置いたりするたびに、必ず左手を添えるのが基本といったように、正式には細かな作法があります。

現在は多くの人がこのような細かな作法にとらわれていませんが、それでもこれほど箸の扱いにうるさい国は、中国・朝鮮でさえ見られません。

日本人の箸のこだわりは、直ばし、取りばしの区別は言うに及ばず、利休箸、元禄箸、柳箸、天削(てんそげ)箸など形状によるもの、菜(さい)箸、割り箸、塗り箸など用途によるもの、さらに男女別箸、子供用箸といった区別があったりと、実に多種多様にわたっていることからも理解できます。

また、箸への作法はその持ち方にまで及びまして。「箸の上げ下げまで・・・・・・・」という慣用句があるほどですので、当然作法に反した「べからず」スタイルが生まれました。

器の中の料理を箸で探りを入れる「さぐり箸」、料理にあれこれ端を向ける「迷い箸」、椀の上に箸をかけ渡す「渡し箸」などですが、中国や朝鮮でも「渡し箸」は行儀が悪いとされています。

以上でコラムは終わりですが、皆様いい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その33~食と健康をめぐる迷信を科学する~

22 7月

おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと願って、コラムを書いて見ました。

今日も図で解説しますので、画像を一つ入れようと思います。

 

戦前、戦中生まれの老人ですと、ウナ丼を食べた後に梅干を口に入れるとハッと気がつき、慌てて正露丸を取り出す人が近所にいましたが。

このように、異なる食品を同時に食べると有害と考える事を、古くから「食い合わせ」と呼んできました。

ウナギと梅干をはじめ、天ぷらとスイカ、カニとカキ氷、うどんとスイカ、ドジョウとトロロなどが代表的な食い合わせですが、実際には数え切れないほどあります。

こうした言い伝えは、古くは平安時代にまで遡ると言われ、江戸時代の儒学者である貝原益軒(かいばらえきけん)の健康教訓書『養生訓』の中にも、食い合わせ食品のリストが挙げられています。

これらの食い合わせを検討しますと、熱いものと冷たいもの、消化の良くない食べ物などがある事に気づきます。

しかし、科学的にはほとんど根拠がなく、現在では迷信とされ、ゆとり世代などの層になると食い合わせという言葉自体を知らない人も多い事でしょう。

食い合わせは日本的な食のタブー一種ですが、もともとは古代中国の陰陽思想を端に発しています。

陰陽は宇宙の万物の相反するものを陰と陽に二分、その組み合わせによって吉凶を占う易学の思想で、後にこれが日本に導入されると食生活の面に「食合禁(しょくごうきん)」つまり食い合わせを生んだと見られます。一部では早くから迷信と指摘されていましたが、民間では戦前まで大真面目に信じられていました。

食い合わせと似たような迷信に、中南米や東南アジアなどでみられる「温冷説」があります。

これは、すべての食べ物を温と冷に二分した分類法で、温、冷の基準は体温となります。

つまり、人間の体は非常に繊細に出来ており、熱くなりすぎたり逆に冷たくなりすぎると、ときには死に至る事があるから、食べ物の選択にあたってバランス良く取らなければならないという思想です。

<図表>にも見られるように、肉類などの動物性食品や脂肪の多いものは温に、野菜類や乳製品は冷に分類される事が多いです。

しかし、これは固定化された概念ではなく、地域や民族によって代わる場合も少なくありません。

例えば、卵はタイでは冷のほうに分類されますが、バングラデシュでは温のほうに分類されます。

東南アジアにおける温冷食の習慣は中南米ほど厳格なものではなく、最近では若年層はこだわらない傾向にあります。

もともと血液は温、母乳は冷の性質を持つと考えられていますが、一般に温冷説の背景には、女性の生理サイクルと結びつける事が多いです。

例えば、出産は母体の体温を大きく奪うために、それを補う意味でも出産・授乳期間は積極的に温の食事を取るようにすすめられ、これによって全身の血行をよくして貧血を防ぐ事ができると信じられています。

このような方法は栄養学的に理にかなっている点が多く、一概に迷信だからと言って軽んじるべき物ではありません。

食品を二つに分類する方法論は、ユダヤ教の戒律や中国の陰陽思想とも通じるものがありますが、この思想は古代ギリシャ、古代ローマに発生しアラブ世界に伝えられたと言われています。

のちにイスラム勢力のスペイン侵攻にともない再びヨーロッパ南部に逆輸入され、コロンブスなどが活躍した大航海時代の波に乗る植民地政策で中南米や東南アジアに持ち込まれたと見るのが、現在の定説となっています。

話を日本の食い合わせなどに戻しますと、「秋茄子は嫁に食わすな」ということわざがありますが。文字通りに読めば、秋口のナスは味が良いので憎い嫁に食べさせる道理はない、と世に言う「姑(しゅうとめ)の嫁いびり」となっているが、それだけではない様々な解釈がみられます。

秋茄子はあくが強く体にさわるものなので、かわいい嫁の身を案じて食べさせるなという、まったく逆の例えをする説も根強いです。

ナスはヒスタミンという物質を多く含み、人によってはアレルギー症状を引き起こすとも言われ、味が良いからといって食べすぎると夏の暑さで弱った胃腸をこわしかねない。

こうした点を戒めたことわざと、一般には解釈される事が多いです。

中には、秋茄子は種が少ないので、子種がなくなることを案じた縁起かつぎだとする説もあります。

いずれの説にせよ、ことわざながら迷信のようなものだから本音部分はわからない。

しかし、故事とことわざに引き寄せた食のタブーは世界各地に無数にあります。

なかでも出産や授乳に関する食のタブーが特に多く、殆ど世界中でみられます。

生まれてくる子供にイボがつきやすいから「妊婦はタコを食べてはならない」、双子が生まれやすくなるため「二股ダイコンは食べない方が良い」といった根も葉もない迷信がまかり通っています。

また、スリランカでは「妊婦はネズミなどのげっ歯類やウミガメを食べるな」との迷信がみられます。

食べた動物に外見のよく似た子供が生まれるからというのが禁止の理由ですが、このような肉を本格的に食べる習慣が明治までなかった日本では首をひねる話です。

セックスと結婚にまつわる食のタブーの迷信も少なくありません。

インドで言う「女性は卵を食べない方がいい」は、多産なニワトリの習性から淫乱な女性になりかねないという戒めだとか。

しかし、インドネシアの「未婚の男はニワトリの手羽先を食べると結婚ができない」は現地語の「手羽先」と「拒否」の発音が似てることによる語呂合わせだったりします。

以上でコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

自分は食い合わせを気にしないので、もらったスイカを食べた後、夕食に天ぷら蕎麦でも頂こうと考えています。

食の歴史その32~ホテルやレストランの「バイキング」のルーツ~

19 7月

こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いて見ました。

今回は画像が無いので、携帯やスマホからも見やすいかと思います。

 

ホテルの朝食では好きなものを好きなだけ食べてよいバイキング形式が無駄の無い食事法であり、ホテル側にも利用者側にも好都合な形式です。

言うまでもなくなくバイキングは「入り江に住む人」の意味で西暦700年代から1000年代までイギリス、オランダ、フランス、ロシアなどへ積極的に進出し、中には地中海に入ってイタリアの南にあるシチリア島に王国を築いたり、東ローマ帝国やイスラム帝国とも盛んに貿易をしたノルウェー、デンマーク、スウェーデンの人たちを指します。

話がわき道に逸れますが、映画にもなったロビン・フッドはフランスのノルマンディーに定着したバイキングの末裔がフランスからイギリスへ上陸して征服したノルマン王朝の時代のお話で、十字軍で活躍したイギリスのリチャード獅子王もノルマン王朝の系譜の人です。

話を戻して、バイキングは船首につけた飾りから「ドラッガール(竜)」、「スネッカール(蛇)」と呼ばれる幅5メートル程度の船を操り、沿岸地域のみならず、ロシアの川を遡って中東まで向かい、西にはアイスランド、グリーンランドまで殖民したりと広範囲で活躍した民族で、アメリカの東海岸をコロンブスより数百年早く発見したという説もあります。

このバイキングたちの故郷である北欧は寒さのために収穫の少ない麦が貴重品で、パンを薄く切ってバターを塗り、50種類の多種多様な具を乗せ、酒を飲み、談笑しながらずっと日の沈まない白夜の夜を楽しむ習慣があります。

スウェーデンではそれを「スモーガスボード」と呼びます。

「スモーガス」はバターつきパンを意味し、「ボード」はテーブルを意味します。

この北欧独特の食事に目をつけて日本にこの「スモーガスボード」スタイルとも「ビュッフェスタイル」とも言われる形式を日本に持ち込んだのは東京は帝国ホテルの犬丸徹三社長でした。

彼は、1957年の北欧視察の時に、「スモーガスボード」の方法に接して関心し、日本に取り入れました。

この食事形式のネーミングは帝国ホテルで社内公募され、時同じくして日本でも上映されていたカーク・ダグラス主演の映画「ヴァイキング」の中に、船の上で飲み放題、食べ放題のシーンにヒントを得て「バイキング」という名前が採用されました。

この短いコラムを書いていましたら、ある意味お惣菜がバイキング形式で選んで買えるオリジン弁当にでも向かい、海老とブロッコリーのサラダとポテトサラダなどを好きなだけ取って買い、今日の夕食のおかずにしようかと思います。

今日はこの辺でコラムを終えますが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

最後に映画「ヴァイキング」の映像をYou Tubeから、

英語が分からなくても映像見ていると何となくわかります。そこが映画のいいところですね。

食の歴史その30~ジャガイモと大正日本とコロッケ~

16 7月

こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願って、コラムを書いて見ました。

今日は画像をふんだんに使ってビジュアル的にも理解しやすくなればと願っています。

大正6年(1971年)は、外国では第1次世界大戦がまだ終わらず、ロシア革命など歴史的な出来事が起こっていましたが。日本の帝国劇場や東京の下町、浅草オペラで「コロッケの歌」が上演され、目新しいものが好きな江戸っ子がコロッケに興味を持ち、次第に家庭での手軽なおかずになっていきました。

ホワイトアスパラのクロケット、トリュフマヨネーズと共に

ホワイトアスパラのクロケット、トリュフマヨネーズと共に

このコロッケは元々はフランス料理の付け合せで、正しくは「クロケット」と言いまして。

このクロケットはジャガイモを使わず、肉や海老を主な材料で作り、ホワイトソースで和えてから、形を整え、フライパンで焼いた付け合せ料理でして。日本人のイメージにあるコロッケとは程遠いもののようです。

フランス料理のレシピを見ますと、デザートとしてリンゴを使ったクロケットや作り方を見てるだけでうんざりするほど面倒な手順で作ったりして、とても庶民の料理とは思えない代物だったりします。

日本では明治の文明開化とともにクロケットが入ってきますが、明治5年(1872年)に書かれた『西洋料理指南』では、ジャガイモとひき肉を使って牛脂で揚げるとあるので、今の肉じゃがコロッケに近いものが紹介されています。

明治31年(1898年)には日本橋の浜町にあった吉田という蕎麦屋のメニューに鶏肉たたきを材料にしたコロッケを乗せた「コロッケそば」が出てきます。

東京ではそばに冷たくなったコロッケを乗せて食べるメニューが立ち食いそばに当たり前のようにありますが、考えれば100年以上前からあった伝統的なメニューだったりします。

そして、大正5年には民間の料理書に洋食の雰囲気がある立派なコロッケの作り方が出てきます。

下に作り方を書きますと、

「牛肉のひき肉200g近く、ジャガイモ5個、小麦粉少々、卵1個、パン粉少々、牛脂、ウスターソース、バター少々、塩を用意。

牛肉のひき肉をバターで炒め、塩で味付けし、ジャガイモは皮をむいて茹でてから裏漉し(うらごし)にかけ、牛肉のひき肉と混ぜてちょうどいい大きさに丸め、小麦粉をまぶし、卵をつけ、パン粉をつけて牛脂で揚げ、ウスターソースを添えて出す。」

そうして出来上がったコロッケは下の画像のようになります。既に現在のコロッケと変わりないです。

肉じゃがコロッケ ウスターソース添え

肉じゃがコロッケ ウスターソース添え

こういった西洋の料理を日本風にアレンジしたもののパイオニア(先駆者)は戦前ですと、海軍だったりします。

明治41年(1908年)発行の『海軍割烹(かっぽう)術参考書』にはフィッシュコロッケ、ビーフコロッケ、エッグコロッケなど3種類のコロッケが登場してきます。

3つめのエッグコロッケは皮をむいたゆで卵に合いひき肉を味付けしたもので包んでパン粉または砕いたポテトチップをまぶして揚げるスコッチエッグです。

研究家にとってもスコッチエッグを基にしたエッグコロッケの作り方が珍しいようで、図になっていますので、下に出してみます。

このようにコロッケの普及が明治時代になったばかりの頃に北海道で男爵様がイギリスからもちこんで栽培してみた男爵イモはデンプンが多く、ほくほくした食感があり、煮崩れしやすいのでコロッケなどに使われ、東日本で主流の品種であります。

いっぽう、大正時代にイギリスから持ち込まれたメークイーンは荷崩れしずらいので、カレーやシチューに適し、皮もむきやすい品種で、こちらは西日本で主流の品種であります。

こういった男爵イモとメークイーンを代表としたジャガイモの栽培とコロッケ、カレーの普及から、明治時代は25万トンだったジャガイモ生産量が、大正時代には4倍の100万トンにまで膨れ上がります。

そして、日露戦争の日本海海戦でロシアの艦隊を撃破した海軍大将の東郷平八郎がビーフシチューを作らせようとしたらワインやバターが無かったので、醤油と砂糖で代わりを作らせたら肉じゃがができたという伝説があります。

この伝説は出所がはっきりしないので、この話は眉唾ですけど。昭和13年(1938年)の海軍の教科書にある「甘煮」という名前で肉じゃがの原型が登場します。甘煮のレシピを下に出しますと、

「材料は牛肉、こんにゃく、じゃがいも、たまねぎ、ゴマ油、砂糖、醤油。

作り方

1. 油を入れて熱する

2. 3分後牛肉を入れる

3. 7分目に砂糖を入れる

4. 10分目に醤油を入れる

5. 14分目にコンニャクを入れる

6. 31分目にタマネギを入れる

7.こうして35分くらいで甘煮こと肉じゃがが完成」

この海軍の教科書には「醤油を早く入れると、醤油臭くて味を悪くすることがある」とまで補足されており、何分目にどんな食材を入れるかまで時間を細かく指定していますので、おそらく誰が作っても失敗しないようマニュアル化させたものなのだと思います。

最後にトリとして出した肉じゃがですが、各家庭では「おふくろの味」になっていたりと日本人に馴染み深い和食となっている肉じゃがが決定打となったのか。現在の日本のジャガイモ生産量は275万トンまで跳ね上がり。

275万トンのジャガイモのうち、78%を占める215万トンが北海道で作られ、2位が長崎で11万トン、3位が鹿児島となっています。

こうしてスーパーのお惣菜コーナーにはジャガイモを原料にしたお惣菜が沢山並ぶにまで至ります。

最後に、長野県の方とコロッケの話をしていたら「野菜コロッケ知らないの?」と言われ、よく聞きますと、長野県では野菜コロッケがコロッケのコーナーの半分を占めるほどになっていて、冷凍野菜のミックスベジタブルの野菜が具に入っています。

野菜コロッケ

野菜コロッケ

写真を探してきましたが、上の写真のような感じのコロッケです。東京でも野菜コロッケがあったら試しに食べてみたいと思います。

それでは、今日の夕食のおかずは肉じゃがコロッケとカニクリームコロッケにしようかと思います。

以上でコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

皆さんも気が向いたら夕食にコロッケはいかがでしょう?

食の歴史その29~江戸時代のおかず番付その2~

15 7月

おはようございます。今日は先日書いた江戸時代のおかず番付の続編を書きます。

まずは四季と問わず年中食べられた魚介類のおかずの番付を一部列挙しながら、解説を加えていきます。

最高位の大関はメザシ、イワシとなっています。

メザシは安く保存しやすく栄養豊富といいとこ取りで。

イワシのような青魚にはDHA=ドコサヘキサエン酸や、EPA=エイコサペンタエン酸という舌を噛みそうなな名前の不飽和脂肪酸とやらが含まれていて、これを摂取すると血行がよくなり、頭がが冴え、週に2~3回は食べると良いとされているそうです。

江戸時代の人はこのような栄養価の高さを知らないわけですが、現代の栄養学的にも最高位の大関に相応しいでしょう。

次の関脇はアサリ、ハマグリなどの剥き身を切り干し大根と一緒に煮たもので、「剥き身切り干し」。

これを美味しく食べるには薄味にするのがコツなんだとか。

前頭筆頭はマグロの赤身を味噌汁にした「まぐろからじる」。

ちなみに江戸時代は冷凍技術がないので、トロといった脂身はすぐ腐敗してしまうので、大正、昭和初期に評価されるまで猫の餌にしか使わなかったと言われています。

そして、次の「たたみいわし」は静岡県と神奈川県沿岸が名産地なので、その他の地方の方にも分かるよう画像を出しますと。

たたみいわし

たたみいわし

この写真はカタクチイワシの稚魚を板状にしたもので、酒の肴にも良いのだとか。

次も「いわしの塩焼き」脂の乗ったイワシの塩焼きもうまいですが、冷蔵庫の無い時代なので、番付が下がったのでしょう。

次はマグロを薄く削いだ魚肉を塩干しにした「まぐろすき身」、カツオの塩漬け「しおカツオ」。塩漬けニシンの「ニシン塩引き」

以上が春夏秋冬関係なく食べられるおかずの番付でしたが、次は春のおかずを一部抜粋してみます。

まず、春の部の最高位である大関が醤油にショウガ汁を入れたタレをつけて約「マグロきじ焼き」。

関脇はまたアサリ、ハマグリですが、ヒジキとの煮付けとなっています。

小結が海老をさっと炒めて、食べる時に調味料を使う「芝海老から炒り」。

次はイワシの刺身に酢味噌を和えた「いわしのぬた」。

「いわしつみいれ」これはイワシのつみれですが、おでんの具としてコンビニでもよく見かける事でしょう。

「サバ味噌漬け」「スルメ付け焼き」スルメを炙ったものは今も酒の肴として今でも食べられています。

夏の部は芝海老と豆腐を一緒に煮た「芝海老豆腐」。

カツオを一回蒸してから干した、カツオのなまり節をヒジキと煮る「ヒジキなまり節」「なまりキュウリもみ」「コハダ煮浸し」「なまり節大根おろし」「クジラ汁」「どじょう鍋」。

殻つきの海老の丸焼き「えび鬼瓦焼き」

秋の部はまず、「蒸しハマグリ」「焼きハマグリ」。

東京湾から千葉県の房総半島へかけての内海沿岸は当事、日本一のハマグリの産地で沢山取れる分、値段も安かったようです。

他はそれぞれ一緒に煮たのであろう「芋煮ダコ」「ハゼ煮大根」。

「酢だこ」「ニシン煮浸し」。そして、今も秋の名物とされる「焼き秋刀魚」

冬の部は文字が潰れて判読できないものが多いのですが、それでも抜粋しますと。

ナマコを酢とショウガで食べる「ナマコ生姜」。「秋刀魚の干物」「しらす干し」。

他にはどの海産物が対象なのかわからない「卵とじ」などもありました。

江戸時代のおかず番付をその1とその2に分けて説明してきましたが、大体の料理は現在でも食卓に出ておかしくない食品で、改めて幕末のおかずが今もなお日本のどこかで食卓に上がっているかと思いますと、明治維新から洋風や中華が沢山取り入れられていてもなお、日本の伝統が残っているのだなと感慨深いものがあります。

家庭科で栄養を勉強しますとたんぱく質、脂肪、炭水化物とビタミンからなる三大栄養素なるものがありますが、先進諸国では食べないコンニャクやトコロテンなどは大腸ガンを予防し、悪玉コルステロールを減らす食物繊維という「第四の栄養素」が豊富なのも江戸のおかずの特徴であります。

ただ、「好事、魔が多し」と例えていいのか分かりませんが。和食の特徴は塩分を摂りすぎてしまいやすい事なので、そこをクリアしつつ江戸時代のおかずを食べ続けていたら立派な健康食となる事でしょう。

大根は切らしていますが、おかず番付その1で紹介した「八杯豆腐」をまた作りに行こうかと思います。

それでは皆さんも紹介したおかずの中で気に入ったものがありましたら今日の食卓にいかがでしょうか?

それでは厨房に行きますので、この辺で。