Tag Archives: 考古学

食の歴史その51~チーズの起源

7 6月

こんばんは。久しぶりに皆さんの暇つぶしになればと思って短文を書いてみました。

皆さんに問いかけますが、チーズはいつから食べられたかご存じでしょうか?

ウィキペディアを見ますと5000年ほど前にエジプトやシュメールで作られた記録がありますが。考古学が発展した結果、ポーランドの遺跡で見つかった7000年前の陶器から山羊のミルクの脂肪分が残っていたのが最も古いチーズの痕跡とされています。

10000年前に羊と山羊が家畜化され、それから1000年後に牛も家畜化されたので、この頃からチーズが作られたのではと推測されています。

最初にチーズが作られた時は容器に陶器ではなく、羊、山羊、牛など、反芻する動物の胃袋の中にミルクを入れてかき回して作ったのだろうと考えられています。

古代人にとってチーズは保存食として必要とされ、生乳より保存が利くヨーグルトやバターと一緒に作られていますが、チーズが作られた理由は保存だけでなく、およそ1万年前の新石器時代人はミルクに含まれる乳糖を消化できず、乳糖を消化できる遺伝子が広まったのは2000~3000年前ですので。ミルク作りの際にミルクの中の乳糖が細菌によって乳酸になって消化されやすくなったのもチーズが重宝され、盛んに作られた理由だと言われています。

最初のチーズがどんなものだったのかはっきり分かりませんが。地理と気候からある程度は推測がつきます。

中東や南アジアなどの暑い地方ではチーズに保存が利くように大量の塩が使われていたものだと思われます。

フェタチーズ

現在でも中東やギリシャなどでは羊のミルクを塩水の中で熟成させたフェタチーズが作られている一方、より涼しいヨーロッパでは保存のための塩分が少なく、微生物のはたらきで特色のある風味があるチーズが各地で作られ。イギリスでは700種類、フランス、イタリアでは400種類ある中、青カビで熟成されたロックフォールチーズ、白カビで熟成されたブリーチーズ、乳酸菌などで熟成され、穴が開いているのが特徴のスイスチーズなどがあります。

ラクレットハイジ ラクレット

話は逸れますが。アニメ「アルプスの少女ハイジ」の中で出てくる料理は「ラクレット」と呼ばれ。スイスはバレー州またはフランスのサヴォワ地方の郷土料理です。

「ラクレット」の作り方はシンプルで、暖炉の熱(今は電熱ヒーターを使用)などで車輪のような形の大きなバレー・チーズを溶かし。その溶けたチーズをナイフで削いで、蒸したジャガイモにかけてからピクルスと一緒に食べ。スイスの地酒の白ワインを飲むのが美味しい食べ方だと言われています。

 

久しぶりに書いたので、リハビリとして短めに書きましたが。皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

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食の歴史その48~古代ローマ庶民の接待ディナー

1 12月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いて見ました。

今回は古代ローマのディナーには金持ちのディナーについての文献は美食を極めたものなど、沢山ありますが。庶民のディナーを書き記したものは珍しいので、庶民のディナーを優先的に取り上げてみようと思います。

童話作家グリム兄弟

グリム兄弟

後にグリム童話を編集するグリム兄弟やシェイクスピアにも影響を与えた古代ローマの詩人オウィディウスが書いた作品に、ロウで作った羽で空を飛び最後は墜落してしまうイカロスの話などの有名なエピソードを複数収めた『変身物語』があります。

フィロモンとバウキスの家の、ジュピターとマーキュリー

バウキスとピレーモーンの家の、ジュピターとマーキュリー

この中に神々が旅人に変身して村人の家でディナーをご馳走になる「バウキスとピレーモーン」という話がありまして。庶民のディナーが描かれていますので、これを中心に取り上げていきます。

天空の神ジュピター

天空の神ジュピター

天空の神ジュピターと、父ジュピターのお供するために翼の着いた靴を脱いだマーキュリーの親子が旅人に化けて。バウキスとピレーモーン老夫婦の家にお邪魔しますと、老夫婦は荒い布をかけた椅子を出し。二人はそこに体を休めます。

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それから囲炉裏の灰を掻き分けて昨晩の火種を見つけ、木の葉や乾いた樹皮に火を移して息を吹きかけ燃え立てたら、その炎で細かく割った薪を燃やし、水を張った銅鍋を暖めていきます。

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鍋の水が温かくなると、菜園で取れたキャベツを取り出して刻んでから煮込むのですが。今も昔もキャベツの芯は捨てています。

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刻んだキャベツと同時に二又のフォークで取ったベーコン細かく刻み、キャベツと一緒に煮込んで柔らかくなるまで待ちます。

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こうしてベーコンとキャベツのシチューが出来るまでの間、客と談笑しつつ桶にお湯を入れて客の手足を温めたりもします。

ついでに、古代ローマ時代はシチューの事を「オフエラ」と呼んでいました。

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シチューが出来るまでの前菜のことを指す「プロムルシス」が用意され。この前菜はゆで卵から始まり、オリーブの実、サクランボみたいに実った山グミ、酒かすに漬け込まれた大根、ヤギのチーズなどが皿に盛られて出てきます。

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古代ローマのゆで卵の特徴は貴族も金持ちも庶民も何故かお湯で茹でず、囲炉裏の熱した灰の中で卵を加熱し、ゆで卵を作る事でした。

ワインを水と混ぜる時に使うクラテル

クラテル

前菜が終わるとワインと水をクラテルという器で混ぜて出し。それからシチューが運ばれてメインディッシュを意味する「ケーナ・プリマ」が始まります。

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メインディッシュのシチューが片付けられると。蜂蜜とともにデザートにクルミ、イチジク、ナツメヤシ、スモモ、ブドウが運ばれ、最後のしめにリンゴが出ます。

古代ローマでは前菜の卵から始まって、しめにリンゴを出して終える事から、「初めから終わりまで」という意味で「卵からリンゴまで」という言い方が生まれました。

古代ローマのベッド

古代ローマのベッド

こうしてワインを飲みながらのデザートがなくなるとディナーは終わり。夜明けとともに起きて日没とともに寝るのが普通だった庶民はベッドを用意し、囲炉裏の火で部屋が暖かいうちに客を眠らせます。

古代ローマ庶民のベッドは柳で出来たベッドに綿が詰まって温かい布団をのせ、その上にシーツをかけていました。

古代ローマの詩人オウィディウス

古代ローマの詩人オウィディウス

以上が古代ローマの詩人オウィディウスの描いた庶民のディナーでしたが。彼は同じ時代を生きた他の詩人と違い、パトロンやタニマチを持たず。ギリシャ神話を参考に書いた『恋の歌』があまりにもエロチックだったために実際に読んだ皇帝が激怒し、罰としてローマから地方の田舎へと飛ばされた人なので、そういった立場から田舎の庶民の生活を見て書き残したのでしょう。

以上でコラムは終わりですが。皆さん、いい暇つぶしになったでしょうか?

今夜は冷えますので、自分もキャベツとベーコンでシチューを作って体を暖めるとします。

番外編 カミソリと脱毛の歴史

26 8月

こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いてみました。

今回もなるべく画像を使って分かりやすくしたいと思っています。

体毛を剃る習慣は10万年以上前から存在しており、20万年前に出現したとされるネアンデルタール人の壁画に二枚貝で挟んでピンセットのように毛を抜く様子が描かれており。しばらくすると灰色の石で研ぎやすく切れ味の良い「フリント」という石で削るように体毛を剃っていたとされています。

何故に10万年以上昔から体毛を処理していたかと言いますと。体にノミ、シラミなどの寄生虫をつかないようにするなどの理由で衛生を保ち、健康面に気を配ったのだろうと推測されています。

それから時代を経て5500年前には金属製の髭剃りが作られており、遺跡から発掘されています。

古代エジプトでは体毛があるのは不潔とされ、上の再現図のようにするため。金や銅で出来たカミソリで体中の体毛を剃ったり、デンプンや油、香料を混ぜたジェルのようなもので全身のムダ毛をはがして脱毛を行い。エジプトの王であるファラオは全身をツルツルにしてからカツラを被っていました。

それを見た古代ギリシャの歴史家ヘロドトスは「エジプト人は暇さえあれば髭剃りしている」と評しています。

古代バビロニアでは5000年前には灰汁と油を混ぜた石鹸の元祖をシェービングクリームのように使い、髭を剃る理容師という職業が既に存在し。腕の良い理容師は政府高官や医者として高い地位にあり。そのバニロニアに征服されバビロン捕囚を経験したヘブライ人の子孫が書いた聖書にも理容に関する記述が見られます。

ヨーロッパでも古代ギリシャで発掘された金属性のピンセットや刃物で体毛を剃ったり抜いたりし。アリストパネスの戯曲『女の平和』では浴場で女性同士が脱毛された下腹部を話題にする描写があり。

具体的には世界各地の美術館にある彫像から古代ギリシャ女性がいかにムダ毛処理を徹底させていたかをうかがい知る事ができます。

こちらは古代ローマ時代に発掘された金属製の髭剃りです。

こちらは発掘された髭剃りで髭剃る様子を再現した図です。

古代ギリシャを征服し、ギリシャ文化が流入した古代ローマでは2200年ほど前から兵士が軽石で髭を剃って清潔を保ち、自由市民は奴隷と区別するために髭を剃らなくてはいけなくなる一方、奴隷は髭を伸ばすよう決められ。ローマ帝国になって巨大な公衆浴場が幾つも建造された時代になりますと、ピンセットや脱毛ジェルなどを使って髭以外のムダ毛を処理する風習が庶民にまで広がりました。

キリスト教を弾圧した暴君とされる皇帝ネロ(37~68年)の家庭教師だった哲学者のセネカは、

「公衆浴場はブチブチ体毛を抜く時のうめき声でうるさい」と評しています。

ローマ帝国が崩壊し、ヨーロッパ各地に侵入したゲルマン人が複数の王国を建てた中世になりますと、理容師は髭剃りだけでなく、怪我の処置や四肢の切断まで行う外科医、虫歯を抜く歯医者も兼務しており。

オペラ『セビリアの理髪師』では金さえ出せば何でもやってみせる便利屋として登場します。

ジレット安全剃刀の特許の図

ジレット安全剃刀の特許の図

古代バビロニアの時代から鋭利で危険な刃物を使って髭をそるのは専門家の仕事でしたが、200年と少し前にフランスのジャン=ジャック・ペレが安全カミソリを発明し、その後イギリスで試行錯誤されたものが製造され。1901年にアメリカの発明家キング・キャンプ・ジレットが使い捨ての替え刃を取り替えるT字型安全カミソリを発明。これによって大多数の人が自分で安全に毛を剃る事ができるようになりました。

第一次世界大戦(1914~1918年)にジレットは安全カミソリを軍と契約して350万本の安全カミソリ本体と3200万本の使い捨て替え刃を供給してアメリカ中の男性に普及しました。

明治になって開国し、文明開化した日本でも日本刀などの刃物を作る刀鍛冶の伝統と歴史のある岐阜県関市で誕生した貝印株式会社が1932年に国産初の安全カミソリを製造し。戦後も安い安全カミソリを全国的に売り、今も国産のカミソリと言ったら「貝印」が有名となっています。

1921年にジェイコブ・シックがアラスカに赴任した際、水が凍って従来のカミソリでは髭が剃れないので電気カミソリを考案してから様々な電気カミソリが製造されていきます。

駆け足で髭剃り脱毛の歴史を紹介していきましたが以上でコラムは終わりです。

皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?最後に日本語字幕つきのオペラ「セビリアの理髪師」序曲をどうぞ。

食の歴史その37~古代バビロニアと野菜、果物~

9 8月

こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしにと思ってコラムを書いてみました。

今回も画像を使ってビジュアル的に分かりやすくなればと願っています。

ナツメヤシの樹

ナツメヤシの樹

ナツメヤシは古代エジプトや古代バビロニアにて8000年前から栽培されていると考えられており、アラビアで6000年前に栽培されたのが確認され、3000年以上前に栄えたアッシリア帝国の王宮建築の石材に刻まれたレリーフにナツメヤシを人工授粉させる光景があったりと、古代人に馴染み深い植物であります。
これだけ馴染み深いのは炎天と塩害に強く、ナツメヤシの実はビタミンと糖分が豊富で食べ方も生食、パン、酒、家畜の飼料、ジャム、ジュース、ドライフルーツと多種多様で、葉っぱも幹も芽も使えて捨てる所がなく、大きくなると樹高25メートルにもなり、古代バビロニア文明が栄えた場所は雨が少なく、日差しが強く40度を越える事も珍しくないため、野菜を栽培するのに適していない土地ですが、この大樹の木陰でタマネギ、ネギ、ニンニク、キュウリ、カボチャ、レタス、カブなどの野菜を栽培できたため、古代中東では豊穣の象徴や神聖なものとして彫刻にも残されており。『旧約聖書』に出てくる「生命の樹」もナツメヤシの事を指しています。

これだけ利点のあるナツメヤシを3750年ほど前にバビロニアで作られた「目には目を、歯に歯を」で有名なハンムラビ法典でもナツメヤシの果樹園を保護するように法律で決めていました。

ただ、唯一の難点は実をつけるのに5年かかり、成木となるのに10年かかる事です。

アッシリア時代の受粉の儀式 神官とナツメヤシ

アッシリア時代の受粉の儀式 神官とナツメヤシ

このため、古代人は春になると梯子をかけて木に登り、雄の樹の花粉を取っては雌の樹の花につける世界で最も古い人工授粉を行っておりました。
また、メソポタミアでは都市に届く野菜の値段が高い事から、野菜が買えない理由によりビタミン不足で眼病を患う貧民も多く、目の不自由な貧民はナツメヤシの世話をして働く場所として認められていました。

ギルガメシュ叙事詩

ギルガメシュ叙事詩

野菜と果物が不足することによるビタミン欠乏症は昔からの経験則で知られており、健康のために野菜を取る教訓が転じたのか、4000年以上昔に編纂された『ギルガメシュ叙事詩』には不老長寿の薬草として野菜が登場し、野菜は健康維持だけでなく回春の薬ともみなされていました。

3600年前のバビロニアから出土された世界最古のレシピでは40種類ある中で20種類の料理にはタマネギ、ネギ、ニンニクのいずれかが必ず使われており、レタス、カブ、カボチャも好まれていましたが、多くは煮込み料理に使われており、煮込みの料理法も研究され、野菜を煮崩したりパンを加えるなどしてとろみをつけてポタージュのようにするのが流行っていました。

飲み物では40度を超える暑さのために冷たいソフトドリンクがいち早く作られ。最初はレモン、ザクロ、イチジク、リンゴなどを絞った生ジュースや飲み水に果汁を入れて味と香りをつけ、他にも保存の利く乾燥ナツメヤシやレモンを煮出して作る作ることもありました。

乾燥レモンを煮出したハーモズ

乾燥レモンを煮出したハーモズ

乾燥果物は甘味料やケーキの材料として広く出回っており、各家庭で使いやすく便利だったことから、今でもイラクには熱して潰してから乾燥させたレモンの煮出し汁の「ハーモズ」がありますが、これは古代から受け継がれた文化遺産の一つだったりします。

余談ですが、独特の苦味と酸味のあるハーモズは二日酔いに効くと評判だそうです。

現存する古代の素焼きの壷

現存する古代の素焼きの壷

古代では生ジュース、乾燥果物の煮出し汁を冷たくする工夫として素焼きの瓶に入れて冷暗所で保管し、移動の際には皮袋に移し替えます。

素焼きの瓶や皮袋には少しずつ表面に水分がにじみ出てくる性質があり。滲み出した水分は蒸発して気化し、その気化熱で中身が冷やされるなどの工夫が凝らされていました。

他には夏に振ってきた雹(ひょう)や北方の山にある氷や雪などを集めては地下室の倉に運び、ワラで包んで溶けないよう保存していました。

こうして保存した氷などで涼をとった記録はあちこちにありますが、そんな事が出来たのは大きな地下倉庫を持つ上流階級だけでした。

一般庶民も夏にアイスクリームなどで涼を取れるようになるには1560年、ローマに住んでいたスペイン出身の医者プラシウス・ヴィリャフランカが雪と氷の入った桶に硝石を入れると材料が氷点まで下がる事を発見し、大量のアイスクリームを凍らせる事ができるようになるまで待つしかありませんでした。
今日も暑いので自分はミントチョコアイスで涼を取りたくなってきました。

以上でコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その31~ピラミッドはタマネギとニンニクで作られた~

17 7月

おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと願って、コラムを書いて見ました。

今日は文章だけで画像は無いので、携帯やスマホからでも読みやすくなっていると思います。

古代ギリシャの歴史家ヘロドトスが「エジプトはナイルの賜物」と記述しましたが。

具体的にはエチオピアのアビシニア高原に5月の雨季になりますと大雨が降ってナイル川が増水し、6月から9月にかけて氾濫した水がナイル川沿いの農地を潤し、アビシニア高原から運ばれてきた豊かな黒土も同時にもたらされます。

この増水の度合いはその年の収穫量に繋がりますので、ナイル川にナイロメーターと言われる水位計で水位を測り、他にもオオイヌ座のシリウスという星が日の出前に東の地平線に出る時期に増水が始まる事を古代エジプト人は知っていたので、天体観測も欠かせませんでした。

そのエジプトを支配したファラオはナイル川を管理し、そのナイル川によってもたされる豊かな土地を維持する存在でした。

これは中国の伝説上の君主、三皇五帝の中に黄河の治水に尽力したという君主の逸話がありますので、大河に沿った文明では東西共通するものがあります。

そのファラオが農閑期(のうかんき)にエジプト人を集めてピラミッドを建設していきますが、建設労働者にはタマネギ、ニンニクを中心に支給し、ヘロドトスによるとピラミッドの壁にラディッシュ、タマネギ、ニンニクを労働者に支給した代金だけで銀40トンにもなると記しています。

銀1グラムが7月17日の時点で1グラム75円なので、40トンにしますと、およそ300億円となります。

他にもピラミッドの近くでパン工房の跡地が発掘され、労働者にパンを配るために焼いていたものとされています。

このエジプトのパンは生地を円錐(えんすい)形の型に入れて焼いたり、生地を平たく延ばして釜の中で焼いたりと様々で中には、動物をかたどったパンもありました。

このパンには果物や蜂蜜で味付け、風味付けされたりもして。

パンに使う粉の種類、ひき方、添加物、形などの違いで少なくとも30種類のパンが古代エジプトにあったと言われています。

パンを主食にニンニクとタマネギを食べ、現在より度数の低いビールも飲み、主要なタンパク源として豆もたくさん食べられていました。

古代エジプトではソラマメ、エンドウマメ、インゲンマメ、ヒヨコマメ、レンズマメなどが食べられ。これらの豆を潰して煮込んだフールという料理やソラマメで作ったコロッケが現代のエジプトでも食べられています。

先ほどビールに触れましたが、古代エジプトにおいてビールは日常的な飲み物で、栄養があり、日々の食事の中でも重要な位置を占めていました。

古代ギリシャの歴史家ディオドロスは「ワインに匹敵する」と褒めており、既に美味しいビールが作られていました。

ピラミッド建設ではこれらの支給の他にも、祭日になりますと肉や石鹸の代わりになるナトロンが支給され、祭日のために前もってビールを造るために休む事もありました。

これに対して「アニの教訓」という書物では暴飲暴食を戒めていましたので、古代エジプト人が祭日はよく羽目を外していたのがうかがわれます。

このような豊かな食生活が『旧約聖書』でもちらりと伺えることができます。

モーセがヘブライ人を率いてエジプトを出て行った際、ヘブライ人はエジプトで食べたニンニク、タマネギの味を忘れる事ができず、パレスチナで大量のニンニクを栽培して、心ゆくまで食べたとあります。

古代ギリシャではニンニクが宗教的に扱われ、天と冥界をつかさどる女神ヘカテのために十字路に石を積み、新月の夜にニンニクを積み上げたと言われています。ドラキュラが好まないニンニクの背景には古代ギリシャの風習が背景にあるようです。

古代ギリシャではその後アレキサンダー大王が現れ、インドまで征服しに向かいますが、アレキサンダー大王率いる兵士たちはニンニクを常食し、このニンニクは肉の臭みを消すほかに、胃を健やかにし、整腸作用をもたらし、呼吸器や内蔵の薬としても使われ、ニンニクでつけたスタミナで連戦連勝だったと伝えられております。

その後に繁栄したローマ帝国でも兵士が好んで食べ、キリスト教を弾圧した暴君とされる皇帝ネロは「アイオリ」というニンニクの入ったマヨネーズのようなホワイトソースを考案するほど入れ込んでいたと言われています。

このアイオリは、すり潰したニンニクに卵黄を混ぜ、オリーブオイルを少しずつ入れながら空気を入れるように混ぜ、レモン汁、塩コショウで味を調える代物で。

このアイオリはスペインのカタルーニャ地方ですと何にでもアイオリを加え、特に肉のグリルに欠かせない調味料となっています。

フランスのプロバンス地方では茹でた人参、ジャガイモ、さやいんげん、ゆで卵などにかけて食べる料理を「ル・グラン・アイオリ」と呼び、ブイヤベースにも添えられます。

以上でコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

今日はスタミナをつけるべく、昼はペペロンチーノ、夜は餃子でも頂こうと考えています。

皆さんも夏バテしやすいこの季節、ニンニクで精をつけてみてはいかがでしょう?

食の歴史その17~パスタのルーツは中国か?~

23 6月

こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしになればと思ってコラムを書いて見ました。

今日のコラムはいくつか画像を載せています。

よく「中国4000年の歴史」なんてフレーズがありましたが。

歴史をかじってますと。殷(いん)が3600年以上昔にあったかな?という段階で4000年も歴史があるのか疑問が沢山あるのですが。数年前に中国で麺の化石が出てきました。

4000年前の麺の化石

4000年前の麺の化石

写真を見ると現在の麺と変わりない形をしております。

およそ1800年前の後漢という中国の王朝の時代に書かれた語学書「釈名(しゃくみょう)」に麺の記録が現れ。1500年ほど前に書かれた「斉民要術(せいみんようじゅつ)」という世界的に初めて書かれた農業に関する学術書には農業だけでなく、調味料や麺の製法まで書かれています。

現在の湯餅のひとつ

現在の湯餅のひとつ

それによると、湯餅(たんぴん)と呼ばれる小麦粉で作った麺を温かいスープで煮込んだものが現在の麺料理の元祖らしいです。

麺の製法の中で最も古いとされるのは、こねた小麦粉を手でひたす延ばす「手述べ麺」でして、日本ではそうめんが代表的です。

この手述べ麺が中国北部では拉麺(ラーミェン)と呼ばれ、後に日本でラーメンと呼ばれるルーツになったとも言われています。

中国では元々「麺(ミェン)」は小麦粉を意味したものでしたが、穀物を粉にしたもの全てを表す言葉になり、現在の中国では麺類を「麺条(ミェンティアオ)」と呼んで使い分けています。

これが1400年前に出来た一度は教科書で習った「遣唐使(けんとうし)」の時代である、唐王朝の時代になりますと、小麦粉を板状に広げて切っていく「切り麺」が普及していきまして。日本でもこの頃、中国からこの切り麺の製法が伝わり、そば切りやうどんなどに発展していきます。

シルクロードを経由してイタリアに伝わったパスタにもフィットチーネ(幅広パスタ)という切り麺がありまして、カルボナーラなどによく合います。

130年の歴史があるイタリアで初めての押出式パスタマシン

130年の歴史があるイタリアで初めての押出式パスタマシン

イタリアのパスタやマカロニなどでよく行われている製法にトコロテン方式のこねた小麦粉を小さな穴から突き出して麺にするもので、アジアでも冷麺やビーフンがこの製法で作られています。

こうして200年ほど前になりますと。麺類はアジア、中近東、イタリアに分布しますが。これらは独自にうまれたのか、アジアから伝わったのか、確認する方法は今のところ無いみたいですが。東南アジアの麺料理は200年ほど前に東南アジアのあちこちに住み着いた華僑(かきょう)と言われる中国人と関係があると言われています。

マルコ・ポーロ

マルコ・ポーロ

一方、イタリアのパスタ、マカロニに関して古くからある論争に「東方見聞録」を1298年ごろに書いたマルコ・ポーロが中国から伝えたという説についての論争がありますが。ヨーロッパの学者達でさえ、このマルコ・ポーロが本当に中国へ行った事があるのか疑念を抱いています。

大英図書館

大英図書館

イギリス国立図書館のフランシス・ウッドは「東方見聞録」では中国に長く滞在した事になっているが。もし、そうだとしたら後に中国へ本当に滞在した人なら必ず珍しがって記録する中国の文化面が致命的に抜けていると指摘しています。

台湾の飲茶(ヤムチャ)

台湾の飲茶(ヤムチャ)

たとえば、コーヒー、紅茶が伝わり。沸騰させた水が飲める事にヨーロッパ人がやっと気づいたのが400年前ですが。それ以上前に中国に行ったのであれば、茶を飲む習慣を書いていなければおかしいと指摘していますし。中国で長期間滞在したら、お茶を飲みながら点心を食べる飲茶(ヤムチャ)も見たはずです。

その時に食器として箸を使う習慣も、今から300年ほど前にベルサイユ宮殿に君臨していたルイ14世がフォークやスプーンを使わずに手づかみだった事を考えれば、物珍しいものとして書いていなければおかしいと指摘。

万里の長城

万里の長城

他にもアルファベットや中東の文字と全く違う文字である漢字の存在や木版画、女性が行う纏足(てんそく)、観光客を圧倒させる万里の長城などを書いていない事を挙げ。マルコ・ポーロは家族が貿易やっていたので、ヨーロッパにいながら中国の産物を運んでくるペルシャやアラビアの商人から情報を仕入れて、さも中国に行ったように書いたのではなかろうか?と言われています。

そして、マルコ・ポーロが帰国したのが1295年とされていますが。それより前の1279年の記録にマカロニと書かれたものが出てきています。

ジョヴァンニ・ボッカッチョ

ジョヴァンニ・ボッカッチョ

それから数十年経ってイタリアの詩人である作家であるジョヴァンニ・ボッカチオが書いた10日間を意味するタイトルの「デカメロン」が出版された1353年には、パスタやマカロニがもうしっかりイタリアの定番料理になっていたようです。

「デカメロン」の中には2種類のパスタが書かれており、上にかけるソースやチーズについても書かれています。一部を抜粋しますと、

「イタリアのベンゴディ地方にはブドウのつるをソーセージで結ぶ。そこにはおろしたチーズの山があって、その上で一日中男達は、スパゲッティとラビオリを作っては、チキンのソースをかけて食べる」

とあります。

さて、フォークは1700年代頃まで普及していなかったので、どうやって食べたかと言いますと。

下の図のように長い間手づかみで食べていました。

フォークが普及する300年以上昔のパスタの食事風景

手づかみでパスタを食べる300年以上前の人たち

こんな食べ方を長い事していたものですから、中国のように温かいスープに入れて箸で食べるのではなく、手掴みが前提でバターやチーズをまぶして食べるタイプになったのも当然の成り行きなのでしょう。

パスタを手掴みで食べる光景を写した20世紀初頭の絵葉書用写真

パスタを手掴みで食べる光景を写した20世紀初頭の絵葉書用写真

このような手掴みで食べる伝統イタリアでは20世紀初期までありまして。絵葉書の写真にもされています。

イタリア南部を支配したシチリア王国

イタリア南部を支配したシチリア王国

パスタにはもっと古い記録もありまして、1140年代にイタリア南部を支配していたシチリア王国のロジェル2世に仕えた北アフリカはモロッコ出身の地理学者アリ・イドリーシが書いた「ロジェルの書」によりますと、イタリア半島の南にあるシチリア島の北西部にあるトラビアの町にはパスタの一種イットリーヤが作られ、各地に積み出されている事が記録されています。

中世のアラブ人が書いた本によると、イットリーヤはキシメンに似た手打ちの乾麺だったと記録され、

イスラム圏の麺類リシュタ

イスラム圏の麺類リシュタ

1000年前のペルシャで活躍した哲学者イブン・シーナもイットリーヤはペルシャ語で「糸」を意味するリシュタと同じ食べ物であると記録しています。

イブン・シーナはペルシャからはるか北の中央アジアからやってきたイスラム教徒である事などから、麺を食べる文化が東から中央アジア、中東、北アフリカとはるか昔に広まっていたようです。

こうして東からイタリアへ伝わったであろうイットリーヤなどは大量生産される事なく、今ほどありふれた食べ物ではありませんでした。

大量生産されたのは1800年代にナポリで木製のねじ式の押し出し機を使って細長いパスタが大量に出来上がっては天日干しにされ、手で練っていた生地も1830年代に発明された機械で練られ、イタリア中に広く普及しました。

そして、イタリア系移民がアメリカに大勢住みつき、1920年代になりますと。ニューヨークはマンハッタンのプラザホテルでコックをしていたヘクター・ボイアーディがアメリカ人にもっとイタリア料理を知ってもらいたい思いからトマトソース味のパスタを瓶詰めにしてみました。

この便利なパスタの瓶詰めがA&Pフードの重役ジョン・ハートフォードの目に止まり。アメリカ中の食品店にソースで味付けされたパスタの瓶詰めや缶詰が置かれれるようになり、1940年代に今も量だけは多いけど貧相なアメリカ料理に革命がもたされ、イタリア系じゃないアメリカ人にもパスタが普及しました。

今でもトマトソースで味付けされたパスタを詰め込んだ缶詰がケチャップで有名なハインツ社によってイギリスで作って売られているようですが、フォークでクルクル巻こうとする前にブチブチ切れるほど伸びている代物なので、微妙な味ですが。興味ある方は「缶詰パスタ」とgoogleにキーワードを入れて検索しますと実際に缶詰パスタの中身を写した写真や食べた感想などが書かれている記事を読む事ができます。

検索するのが面倒臭い。そんな人のためにパスタの缶詰の画像を2つほど出しておきます。

イギリスのパスタの缶詰

イギリスのパスタの缶詰

パスタの缶詰を皿に移したもの
パスタの缶詰を皿に移したもの

それから第2次世界大戦後、日本にやってきた米軍が接収していた横浜のニューグランドホテルで今のナポリタンの原型が開発され、1950年代半ば以降から学校給食にケチャップとソーセージで作ったナポリタンが出されるようになり、日本人にも馴染み深い麺料理となりました。

ただ、ナポリタンとミートソース以外のパスタは1980年代のイタメシと言われたイタリア料理ブームが来るまで待たなければなりませんでした。

ここでコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

自分はケチャップとソーセージと乾麺のスパゲッティがあるので、ナポリタンを作ってタバスコと粉チーズをかけてこれから昼飯を楽しもうと思います。

では、ご拝読有難うございました。

・参考文献

辻原康夫 著 『世界地図から食の歴史を読む方法』

池上俊一 『世界の食文化15 イタリア』

チャールズ・パナティ 著 バベル・インターナショナル訳

『はじまりコレクション 1』

アレックス・バーザ 著 小林浩子 訳  『嘘の歴史博物館』

ウィキペディア 『ナポリタン』

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食の歴史その15~ビール6000年の歴史~

21 6月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶし用にコラムを書いてみました。
携帯やスマホで見る人もいるだろうと考え、あえて画像は載せていません。

ワインと同じくビールの歴史も大変古く。既に6000年前から飲まれていました。

十二進法の数字、数学やそれを書くための楔(くさび)形文字を発明したメソポタミアのシュメール人が、大麦の粥を外に放置しておいたところ、そこへ酵母が入り込み、自然に発酵したのが始まりだろうと推測されています。

シュメール人が書き残した最も古い記録を見ますと、当時はビールは「シカル」という名前で、農業の女神ニン・ハラに捧げられていた事が記されています。

しかし、現代のビールとは程遠く、ホップの代わりに薬草を放り込んで味付けした異様な匂いがするドロドロした液体だったようで、当事の人はこれをストローで飲んでいました。

残された記録から古代のビールの醸造法をたどると、

①水に浸して大麦を発酵させ、これを天日で干す、

②うすでひいて水を加えてこねる、

③軽く焼いて砕き、水に浸した大がめに入れて足で踏んで発酵しやすくする、

④発酵してドロドロになったところを布で濾(こ)す、

といった順序で作られていました。

作業は主に女性が行っていましたが、メソポタミアこと現代のイラクの夏の高温では貯蔵しても腐るようなので、出来上がったらすぐ飲んでいたそうです。

今から3700年以上前にバビロニアの「目には目を」「歯には歯を」で有名なハンムラビ法典には、世界で最も古いビールに関する法律も書かれています。

その法律の日本語訳を抜粋しますと。

「お寺の尼さんがビール酒場を開いたり酒場に立ち寄ったりすると火あぶりの刑」

「ビールの代金を麦で受け取るが、銀貨で支払ったり、麦で支払った人より安くビールを提供した女性は水中に投げ込まれる」

などと物騒な刑罰が用意されていました。

先ほど説明したように原始的な手順で作られていたため、粗悪品のビールも多くでまわっていたようで、2300年以上前にアレキサンダー大王の家庭教師をやっていた哲学者のアリストテレスは、

「ワインを飲むと四方に倒れてうつ伏せになるが、ビールを飲むとなぜか後ろに倒れて仰向けになる」
といってビールの悪酔いをこきおろしています。

実際、古代ギリシャ人や古代ローマ人は、ワインは神々の飲み物として称えましたが、ビールはギリシャやローマの文明が及ばない田舎の野蛮な人たちが飲む低俗な酒と考え、一般市民もほとんど口にしませんでした。

それと蛇足ですが、古代から酔い覚ましにはキャベツが効果あると説かれていました。

現在のようなビール文化を生み出したのは、古代ローマ帝国を滅ぼしてヨーロッパ各地を支配したゲルマン人によるものでした。

そのゲルマン人らは風味がよく、腐敗も防ぐ効果があることから、ビールにホップを使うようになったのは西暦700年代ごろから、と言われていますが、これによって格段にビールの品質が向上しました。

ドイツなどヨーロッパ北部では、当初、農民が自家製ビールを作っていましたが、1200年前にカール大帝がローマ法王とその教会を援助して法王から西ローマ帝国皇帝として戴冠(たいかん)されたころから、修道院でのビール作りが盛んになっていきます。

この頃、教会は10分の1税として農民から年貢を取っていたので、年貢として集めた大麦などの穀物が大量にある修道院は、一度に大量のビールを作るにはうってつけの環境でした。

ちなみに、最初の修道院ビールはスイスのザンクトガレン修道院で、西暦820年ころに作られたと言われています。

ドイツでは古くから身分や男女関係無く自由に集まってビールを飲む風習がありました。

このため、カール大帝では泥酔して堕落したと見なした国民をとりしまる目的で、裁判所に原告や証人が酔っ払った状態でやってくるのを禁止し、裁判の判決をくだす貴族もしらふでないと、裁く事は出来ないというお触れを出しました。

同時に酔っ払いの兵士は反省したのち、お上に許しをもらうまでは水以外飲んではいけないというお触れも添えられていました。

カール大帝のお触れは効果がなかったようで罰金刑にしたり、牢屋に三日入れられるなど厳しい罰も下しましたが、今も昔も酒と酔っ払いを取り締まるのは至難の業(わざ)のようです。

カール大帝の時代から百年以上経った中世ドイツの飲酒のマナーはことのほか厳しく、飲むほうもそれなりの心得を持って飲んでいたようです。

たとえば、貴族と商人が一緒にビールを飲むのは禁じられていましたが、学生と飲むのは許されました。

また、若い娘が真面目な青年とプラトニックな関係で飲む事は公に認められていましたが、たとえそのような人物だと思ってなかったにしても、下心がある男と飲んだ場合大いに非難されました。

いっぽう、乾杯にも様々な掟がありました。

本来は不在の人に捧げるのが乾杯の慣わしですが、たまたま不在の人の恋人が居る場合はその女性に捧げて乾杯する事が認められていました。

乾杯してからは一気飲みで全部飲み干すのが礼儀で、飲み干したらジョッキをひっくり返して一滴のビールも残っていない事を示すのが粋とされました。

飲み仲間に新しい客が入ると、各人が客にビールを献上するのですが、客がこれを断ると死をも意味するルール違反とみなされました。

このルールによって中世ヨーロッパではビールの席での流血沙汰がしばしば起こっています。

また、客が同席者と気が合わなかったり、ビールを飲み干せない時は隣の席の女性に限って、助けを求め、代わりに飲んでもらう事ができました。

こうしたルールがあるために貴族など育ちのいい人は若い頃からビールを一気飲みで全部飲み干せるよう鍛錬していました。

ビールは教会の洗礼式、葬式、商談、集会、あらゆる社交や儀式に必要な潤滑油だったので、多くの人が真面目に酒が強くなるよう努力していました。

西暦1500年代になると、都市部の中間層によって本格的なビール作りが行われ、この頃から立派なアルコール飲料になったと言われます。

1516年にはドイツのバイエルン公国のヴィルヘルム4世が、大麦麦芽、ホップ、酵母、水以外のものでビールを作ってはいけないとする「ビール純粋令」なる法律を打ち出しましたが、これが食品管理に関する最も古い法律とされています。

にもかかわらず、1700年代までは庶民や貧乏人が飲むものというレッテルが貼られ、偏見が根強く残っていました。

その後イギリスでビールの原料であるホップと麦芽に税金をかけたのをきっかけにアーサー・ギネスが発芽させてない麦を使って税金取られないように酒を作り、これがギネス・ビールの始まりとなります。

そして新大陸アメリカにビール文化が渡っていくと小麦などを使う余裕が無かったので、代わりにトウモロコシや米などで作った飲み口の軽いアメリカン・ラガーが生まれていきます。

そして1840年代からは産業革命で安く大量にガラスも作られるようになり、今のようなガラスのジョッキにビールを注いで飲む事ができるようになり、今に至ります。

コラムはこれで終わりですが、皆さん楽しんで頂けたでしょうか?

それでは良い1週間を。