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食の歴史その43~古代ローマのソフトドリンク類~

4 9月

おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いて見ました。

今回もビジュアルで分かりやすくするために画像を多用します。

古代ローマとワインは密接で上流階級から奴隷までワインを飲んでおり。店に行けば1アス(45円)からワインが飲めました。

奴隷にもワインの搾りかすから作られる「ロラ」というワインが与えられていました。

今回はそのワイン以外の酒やソフトドリンクなどを紹介してみます。

まずはローマでワインの次にメジャーな酒は「アクア・ムルサ」と呼ばれた蜂蜜酒です。

これは水と蜂蜜とイースト菌を混ぜて発酵させて造るもので。「田舎者の酒」と呼ばれていました。

ローマ人の言う田舎者はブドウが栽培できない、ワインが作れない北方に住むヨーロッパ人を指していました。

自家製ビールを造る女性

自家製ビールを造る女性

他にも「アリカ」と呼ばれたビールも存在しましたが、奴隷用のワイン「ロラ」の半額で売られるほど低級な飲み物で、野蛮人が飲むものとみなされていました。

ソフトドリンクになりますと、果汁を煮詰めたシロップの「テーフルトゥム」という子供用の飲み物がありまして。水や酢で薄めて飲ませていました。

他には鉛または鉛でコーティングされた鍋でブドウの果汁を煮詰めて作った甘味料「サパ」がワインに甘味料、保存料として添加され、鉛中毒になる人が沢山いました。

鉛中毒の症状の一つに難聴があり、ベートーベンの髪の毛から通常の100倍の鉛が検出されたので。耳が聞こえなくなったのはワインに含まれた鉛を大量に摂取したのが原因ではないかと推測されています。

歴代ローマ皇帝には発狂した人、早死にした人が複数いますが。これも鉛中毒ではと推測されています。

狼の乳を飲んでいるのは、双子のロムルス(後のローマ建国の王)とレムス

狼の乳を飲んでいるのは、双子のロムルス(後のローマ建国の王)とレムス

朝の飲み物として定番であり、子供の飲み物とみなされたものにミルクもあります。ローマを建国したロムルスは狼の乳を飲んだという神話と関係してミルクが子供の飲み物とみなされていましたが、大人も朝にコップ1杯のミルクを飲み。時にはミルクにハーブを混ぜて滋養強壮の薬として医者が処方する事もありました。
牛乳が主流の現在と違い、古代ローマ人にはヤギ、羊、馬、ロバのミルクが好まれ。牛のミルクはあまり人気がありませんでした。

その一方、ラクダのミルクは珍しさと滅多に手に入らないからなのか、珍重されていました。

こういったミルクはローマ人に人気のあるチーズの材料にされる他に、「メルカ」と呼ばれる羊やヤギのミルクから作られたヨーグルトも作られ。消化を助ける健康食品とみなされていました。

メルカの食べ方にはコショウとガルムという魚醤(ぎょしょう)。あるいはコリアンダーと塩を加えて食べていました。

他には酢を水で薄めた「ポスカ」があり。スパイスや蜂蜜を混ぜて飲む事もありました。

このポスカは主に酢を生水と混ぜて飲むことで生水を飲んで水当たりする事を避ける目的も兼ねた水分補給源で。主に旅人が活用していました。

キリストにスポンジで含ませた酢を飲ませようとするローマ兵

キリストにスポンジで含ませた酢を飲ませようとするローマ兵

この飲み物はキリスト教にもゆかりがあり、キリストがはりつけにされた時、兵士に飲まされたのがポスカだと言われています。

酢はワインの成れの果てでありますので、ワインの手にはいる所なら気軽にポスカが入手できました。

ローマ水道

ローマ水道

最後に水を紹介しますが。300年かけて建造されたローマ水道は現代の日本でも300万人分の水を供給できるほどの能力があり、ローマに住む100万人以上の人々は212箇所あった公共水槽から水を汲んで運び調達していました。この水運びを代行するアクアリウスというという商売もありました。

トレビの泉

トレビの泉

現在は彫刻もほどこされ、観光名所となったトレビの泉も古代ローマの人々が使っていた公共水槽の一つでした。

ミルクで作ったポリッジ

ミルクで作ったポリッジ

ローマで調達された水はお湯にするなどして最も安いソフトドリンクとして飲まれ。ローマの庶民の中にも朝食にパンと塩味のニンニクと水で済ませたり、小麦粉と水を混ぜた「ポリッジ」という粥を作って食べたりしていました。

以上でコラムは終わりますが、次こそは古代ローマのディナーを書いてみるつもりです。

皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

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番外編 カミソリと脱毛の歴史

26 8月

こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いてみました。

今回もなるべく画像を使って分かりやすくしたいと思っています。

体毛を剃る習慣は10万年以上前から存在しており、20万年前に出現したとされるネアンデルタール人の壁画に二枚貝で挟んでピンセットのように毛を抜く様子が描かれており。しばらくすると灰色の石で研ぎやすく切れ味の良い「フリント」という石で削るように体毛を剃っていたとされています。

何故に10万年以上昔から体毛を処理していたかと言いますと。体にノミ、シラミなどの寄生虫をつかないようにするなどの理由で衛生を保ち、健康面に気を配ったのだろうと推測されています。

それから時代を経て5500年前には金属製の髭剃りが作られており、遺跡から発掘されています。

古代エジプトでは体毛があるのは不潔とされ、上の再現図のようにするため。金や銅で出来たカミソリで体中の体毛を剃ったり、デンプンや油、香料を混ぜたジェルのようなもので全身のムダ毛をはがして脱毛を行い。エジプトの王であるファラオは全身をツルツルにしてからカツラを被っていました。

それを見た古代ギリシャの歴史家ヘロドトスは「エジプト人は暇さえあれば髭剃りしている」と評しています。

古代バビロニアでは5000年前には灰汁と油を混ぜた石鹸の元祖をシェービングクリームのように使い、髭を剃る理容師という職業が既に存在し。腕の良い理容師は政府高官や医者として高い地位にあり。そのバニロニアに征服されバビロン捕囚を経験したヘブライ人の子孫が書いた聖書にも理容に関する記述が見られます。

ヨーロッパでも古代ギリシャで発掘された金属性のピンセットや刃物で体毛を剃ったり抜いたりし。アリストパネスの戯曲『女の平和』では浴場で女性同士が脱毛された下腹部を話題にする描写があり。

具体的には世界各地の美術館にある彫像から古代ギリシャ女性がいかにムダ毛処理を徹底させていたかをうかがい知る事ができます。

こちらは古代ローマ時代に発掘された金属製の髭剃りです。

こちらは発掘された髭剃りで髭剃る様子を再現した図です。

古代ギリシャを征服し、ギリシャ文化が流入した古代ローマでは2200年ほど前から兵士が軽石で髭を剃って清潔を保ち、自由市民は奴隷と区別するために髭を剃らなくてはいけなくなる一方、奴隷は髭を伸ばすよう決められ。ローマ帝国になって巨大な公衆浴場が幾つも建造された時代になりますと、ピンセットや脱毛ジェルなどを使って髭以外のムダ毛を処理する風習が庶民にまで広がりました。

キリスト教を弾圧した暴君とされる皇帝ネロ(37~68年)の家庭教師だった哲学者のセネカは、

「公衆浴場はブチブチ体毛を抜く時のうめき声でうるさい」と評しています。

ローマ帝国が崩壊し、ヨーロッパ各地に侵入したゲルマン人が複数の王国を建てた中世になりますと、理容師は髭剃りだけでなく、怪我の処置や四肢の切断まで行う外科医、虫歯を抜く歯医者も兼務しており。

オペラ『セビリアの理髪師』では金さえ出せば何でもやってみせる便利屋として登場します。

ジレット安全剃刀の特許の図

ジレット安全剃刀の特許の図

古代バビロニアの時代から鋭利で危険な刃物を使って髭をそるのは専門家の仕事でしたが、200年と少し前にフランスのジャン=ジャック・ペレが安全カミソリを発明し、その後イギリスで試行錯誤されたものが製造され。1901年にアメリカの発明家キング・キャンプ・ジレットが使い捨ての替え刃を取り替えるT字型安全カミソリを発明。これによって大多数の人が自分で安全に毛を剃る事ができるようになりました。

第一次世界大戦(1914~1918年)にジレットは安全カミソリを軍と契約して350万本の安全カミソリ本体と3200万本の使い捨て替え刃を供給してアメリカ中の男性に普及しました。

明治になって開国し、文明開化した日本でも日本刀などの刃物を作る刀鍛冶の伝統と歴史のある岐阜県関市で誕生した貝印株式会社が1932年に国産初の安全カミソリを製造し。戦後も安い安全カミソリを全国的に売り、今も国産のカミソリと言ったら「貝印」が有名となっています。

1921年にジェイコブ・シックがアラスカに赴任した際、水が凍って従来のカミソリでは髭が剃れないので電気カミソリを考案してから様々な電気カミソリが製造されていきます。

駆け足で髭剃り脱毛の歴史を紹介していきましたが以上でコラムは終わりです。

皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?最後に日本語字幕つきのオペラ「セビリアの理髪師」序曲をどうぞ。

食の歴史その37~古代バビロニアと野菜、果物~

9 8月

こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしにと思ってコラムを書いてみました。

今回も画像を使ってビジュアル的に分かりやすくなればと願っています。

ナツメヤシの樹

ナツメヤシの樹

ナツメヤシは古代エジプトや古代バビロニアにて8000年前から栽培されていると考えられており、アラビアで6000年前に栽培されたのが確認され、3000年以上前に栄えたアッシリア帝国の王宮建築の石材に刻まれたレリーフにナツメヤシを人工授粉させる光景があったりと、古代人に馴染み深い植物であります。
これだけ馴染み深いのは炎天と塩害に強く、ナツメヤシの実はビタミンと糖分が豊富で食べ方も生食、パン、酒、家畜の飼料、ジャム、ジュース、ドライフルーツと多種多様で、葉っぱも幹も芽も使えて捨てる所がなく、大きくなると樹高25メートルにもなり、古代バビロニア文明が栄えた場所は雨が少なく、日差しが強く40度を越える事も珍しくないため、野菜を栽培するのに適していない土地ですが、この大樹の木陰でタマネギ、ネギ、ニンニク、キュウリ、カボチャ、レタス、カブなどの野菜を栽培できたため、古代中東では豊穣の象徴や神聖なものとして彫刻にも残されており。『旧約聖書』に出てくる「生命の樹」もナツメヤシの事を指しています。

これだけ利点のあるナツメヤシを3750年ほど前にバビロニアで作られた「目には目を、歯に歯を」で有名なハンムラビ法典でもナツメヤシの果樹園を保護するように法律で決めていました。

ただ、唯一の難点は実をつけるのに5年かかり、成木となるのに10年かかる事です。

アッシリア時代の受粉の儀式 神官とナツメヤシ

アッシリア時代の受粉の儀式 神官とナツメヤシ

このため、古代人は春になると梯子をかけて木に登り、雄の樹の花粉を取っては雌の樹の花につける世界で最も古い人工授粉を行っておりました。
また、メソポタミアでは都市に届く野菜の値段が高い事から、野菜が買えない理由によりビタミン不足で眼病を患う貧民も多く、目の不自由な貧民はナツメヤシの世話をして働く場所として認められていました。

ギルガメシュ叙事詩

ギルガメシュ叙事詩

野菜と果物が不足することによるビタミン欠乏症は昔からの経験則で知られており、健康のために野菜を取る教訓が転じたのか、4000年以上昔に編纂された『ギルガメシュ叙事詩』には不老長寿の薬草として野菜が登場し、野菜は健康維持だけでなく回春の薬ともみなされていました。

3600年前のバビロニアから出土された世界最古のレシピでは40種類ある中で20種類の料理にはタマネギ、ネギ、ニンニクのいずれかが必ず使われており、レタス、カブ、カボチャも好まれていましたが、多くは煮込み料理に使われており、煮込みの料理法も研究され、野菜を煮崩したりパンを加えるなどしてとろみをつけてポタージュのようにするのが流行っていました。

飲み物では40度を超える暑さのために冷たいソフトドリンクがいち早く作られ。最初はレモン、ザクロ、イチジク、リンゴなどを絞った生ジュースや飲み水に果汁を入れて味と香りをつけ、他にも保存の利く乾燥ナツメヤシやレモンを煮出して作る作ることもありました。

乾燥レモンを煮出したハーモズ

乾燥レモンを煮出したハーモズ

乾燥果物は甘味料やケーキの材料として広く出回っており、各家庭で使いやすく便利だったことから、今でもイラクには熱して潰してから乾燥させたレモンの煮出し汁の「ハーモズ」がありますが、これは古代から受け継がれた文化遺産の一つだったりします。

余談ですが、独特の苦味と酸味のあるハーモズは二日酔いに効くと評判だそうです。

現存する古代の素焼きの壷

現存する古代の素焼きの壷

古代では生ジュース、乾燥果物の煮出し汁を冷たくする工夫として素焼きの瓶に入れて冷暗所で保管し、移動の際には皮袋に移し替えます。

素焼きの瓶や皮袋には少しずつ表面に水分がにじみ出てくる性質があり。滲み出した水分は蒸発して気化し、その気化熱で中身が冷やされるなどの工夫が凝らされていました。

他には夏に振ってきた雹(ひょう)や北方の山にある氷や雪などを集めては地下室の倉に運び、ワラで包んで溶けないよう保存していました。

こうして保存した氷などで涼をとった記録はあちこちにありますが、そんな事が出来たのは大きな地下倉庫を持つ上流階級だけでした。

一般庶民も夏にアイスクリームなどで涼を取れるようになるには1560年、ローマに住んでいたスペイン出身の医者プラシウス・ヴィリャフランカが雪と氷の入った桶に硝石を入れると材料が氷点まで下がる事を発見し、大量のアイスクリームを凍らせる事ができるようになるまで待つしかありませんでした。
今日も暑いので自分はミントチョコアイスで涼を取りたくなってきました。

以上でコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その31~ピラミッドはタマネギとニンニクで作られた~

17 7月

おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと願って、コラムを書いて見ました。

今日は文章だけで画像は無いので、携帯やスマホからでも読みやすくなっていると思います。

古代ギリシャの歴史家ヘロドトスが「エジプトはナイルの賜物」と記述しましたが。

具体的にはエチオピアのアビシニア高原に5月の雨季になりますと大雨が降ってナイル川が増水し、6月から9月にかけて氾濫した水がナイル川沿いの農地を潤し、アビシニア高原から運ばれてきた豊かな黒土も同時にもたらされます。

この増水の度合いはその年の収穫量に繋がりますので、ナイル川にナイロメーターと言われる水位計で水位を測り、他にもオオイヌ座のシリウスという星が日の出前に東の地平線に出る時期に増水が始まる事を古代エジプト人は知っていたので、天体観測も欠かせませんでした。

そのエジプトを支配したファラオはナイル川を管理し、そのナイル川によってもたされる豊かな土地を維持する存在でした。

これは中国の伝説上の君主、三皇五帝の中に黄河の治水に尽力したという君主の逸話がありますので、大河に沿った文明では東西共通するものがあります。

そのファラオが農閑期(のうかんき)にエジプト人を集めてピラミッドを建設していきますが、建設労働者にはタマネギ、ニンニクを中心に支給し、ヘロドトスによるとピラミッドの壁にラディッシュ、タマネギ、ニンニクを労働者に支給した代金だけで銀40トンにもなると記しています。

銀1グラムが7月17日の時点で1グラム75円なので、40トンにしますと、およそ300億円となります。

他にもピラミッドの近くでパン工房の跡地が発掘され、労働者にパンを配るために焼いていたものとされています。

このエジプトのパンは生地を円錐(えんすい)形の型に入れて焼いたり、生地を平たく延ばして釜の中で焼いたりと様々で中には、動物をかたどったパンもありました。

このパンには果物や蜂蜜で味付け、風味付けされたりもして。

パンに使う粉の種類、ひき方、添加物、形などの違いで少なくとも30種類のパンが古代エジプトにあったと言われています。

パンを主食にニンニクとタマネギを食べ、現在より度数の低いビールも飲み、主要なタンパク源として豆もたくさん食べられていました。

古代エジプトではソラマメ、エンドウマメ、インゲンマメ、ヒヨコマメ、レンズマメなどが食べられ。これらの豆を潰して煮込んだフールという料理やソラマメで作ったコロッケが現代のエジプトでも食べられています。

先ほどビールに触れましたが、古代エジプトにおいてビールは日常的な飲み物で、栄養があり、日々の食事の中でも重要な位置を占めていました。

古代ギリシャの歴史家ディオドロスは「ワインに匹敵する」と褒めており、既に美味しいビールが作られていました。

ピラミッド建設ではこれらの支給の他にも、祭日になりますと肉や石鹸の代わりになるナトロンが支給され、祭日のために前もってビールを造るために休む事もありました。

これに対して「アニの教訓」という書物では暴飲暴食を戒めていましたので、古代エジプト人が祭日はよく羽目を外していたのがうかがわれます。

このような豊かな食生活が『旧約聖書』でもちらりと伺えることができます。

モーセがヘブライ人を率いてエジプトを出て行った際、ヘブライ人はエジプトで食べたニンニク、タマネギの味を忘れる事ができず、パレスチナで大量のニンニクを栽培して、心ゆくまで食べたとあります。

古代ギリシャではニンニクが宗教的に扱われ、天と冥界をつかさどる女神ヘカテのために十字路に石を積み、新月の夜にニンニクを積み上げたと言われています。ドラキュラが好まないニンニクの背景には古代ギリシャの風習が背景にあるようです。

古代ギリシャではその後アレキサンダー大王が現れ、インドまで征服しに向かいますが、アレキサンダー大王率いる兵士たちはニンニクを常食し、このニンニクは肉の臭みを消すほかに、胃を健やかにし、整腸作用をもたらし、呼吸器や内蔵の薬としても使われ、ニンニクでつけたスタミナで連戦連勝だったと伝えられております。

その後に繁栄したローマ帝国でも兵士が好んで食べ、キリスト教を弾圧した暴君とされる皇帝ネロは「アイオリ」というニンニクの入ったマヨネーズのようなホワイトソースを考案するほど入れ込んでいたと言われています。

このアイオリは、すり潰したニンニクに卵黄を混ぜ、オリーブオイルを少しずつ入れながら空気を入れるように混ぜ、レモン汁、塩コショウで味を調える代物で。

このアイオリはスペインのカタルーニャ地方ですと何にでもアイオリを加え、特に肉のグリルに欠かせない調味料となっています。

フランスのプロバンス地方では茹でた人参、ジャガイモ、さやいんげん、ゆで卵などにかけて食べる料理を「ル・グラン・アイオリ」と呼び、ブイヤベースにも添えられます。

以上でコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

今日はスタミナをつけるべく、昼はペペロンチーノ、夜は餃子でも頂こうと考えています。

皆さんも夏バテしやすいこの季節、ニンニクで精をつけてみてはいかがでしょう?

食の歴史その26~ユダヤ教と食のタブー~

8 7月

おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いてみました。

図表で説明もするため、今回も画像を載せます。

 

世界には様々な宗教と食のタブーがあります。

世界三大宗教と言われるユダヤ教も例外ではなく、興味深い食のタブーもあったりします。

ユダヤ教で食に関する戒律を「適正な」を意味するカシェールを語源とするコシェルと呼びまして、神によって定められた約束事とされており、『旧約聖書』の「レビ記」第11章の中で次のように述べられています。

「……獣のうち、全てひづめの分かれたもの、すなわち、ひづめの全く切れたもの、反芻するものは、これを食べる事が出来る。ただし、反芻するもの、またはひづめの分かれたもののうち、次のものは食べてはならない。すなわち、ラクダ…岩タヌキ…野ウサギ…これらは反芻するけど、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。豚、これはひづめが分かれており、ひづめが全く切れているけれども、反芻することをしないから、汚れたものである」

このあと魚、虫、と各カテゴリーごとに目録が続きますが長いので割愛して下に食べてもいいもの、いけないもののリストを出しておきます。

獣についてもう少し述べますと、ひづめがわかれていない馬、肉球とも言う、足の裏のふくらみで歩く猫や狐なども食べてはいけないものとされています。

なぜ神は食肉には食べてよいものといけないものと細かく分類し、どんな基準によって分けたのかをい文化人類学者のマービン・ハリスは次のように説明しています。

食べてよいとされた獣を整理すると、ひづめが分かれていて反芻する哺乳類であり、さらに付け加えれば、乳が搾り取れ、食料が人間と競合しないうえに、おおむね群れをなしているので、家畜にしやすいなどの合理的な理由もあると説明しています。

反芻する哺乳類はすべて草食動物ですが、これらは人間の食用に適さない固い繊維質の植物、たとえば草やワラ、切り株、木の葉などを食べて大きくなります。

飼育のために人間にとって大切な穀物を与える必要がないばかりか、肉やミルク、皮を提供してくれる上に移動や農作業などの労働力としても十分に使えます。

このような特性は食べてよいとされる動物とされるにあたって極めて重要で、肉を得るための家畜化が簡単で、雑食や肉食獣の動物に比べたら元手がほとんど掛からないなどがあって、ひづめが分かれて反芻する動物は食べても良いとされた最大の理由と考えられています。

最初は反芻するかしないかが条件でしたが、ひづめ云々は後付けで加わったとされてあり、その理由としてはラクダを食べてはいけないほうに分類するためだったと考えられています。

定住した農耕民であるユダヤ人は、ラクダをほとんど使わず、その代用として牛や羊を利用してきました。

ラクダはきわめて繁殖が遅く、しかも産むのは一頭で離乳期間も1年近くに及ぶなど、食肉にするには効率が悪いので、反芻以外にも複雑な条件を持ち込んでタブーとしたのは古代ユダヤ人の経験から基づく比較的合理的な理由を神の言葉として『旧約聖書』に書いたのだろうと推測されています。

コシェルは上に出した図表に示したように、哺乳類以外にもおよんでいます。

魚では、ヒレとウロコがあるものと限定され、これによってイカやタコ、カキ、ハマグリなどが禁止されています。この点からボンゴレやグラムチャウダーが好きな自分としては絶対にユダヤ教には改宗できないと思っています。

鳥は羽毛があって空を飛び、かぎ爪がないものが食べても良いとされ、逆にワシ、ハヤブサ、カラスなど20種類が食べるのを禁じられていますが、それらの大半は肉食の猛禽類(もうきんるい)や雑食性であります。

虫の中でイナゴが食べてよいとされたのは、比較的体が大きく、1度に大量に捕まえる事ができるため、効率が極めて良い点を評価されたのでしょう。

しかも、穀物を食い荒らす虫なので、害虫駆除となって一石二鳥でもあります。

また、食材ばかりでなく、調理法殺し方にもややこしい規定があります。

調理法では、魚をのぞく肉類と乳製品を同じ道具で煮炊きしてはならないとされています。

獣とそれが生み出したミルクは親子関係にあると規定され、「子ヤギをその母ヤギの乳で煮てはならない」が拡大解釈されて肉料理にバターを使ったり、クリームソース入りのソースを添えたりも出来ません。

日本の親子丼も拡大解釈されたらご法度になるかも知れません。

そんな戒律のため、イスラエルのマクドナルドでユダヤ教の戒律を守っている店は青い看板で、チーズバーガーを注文しますと、ご丁寧に「チーズをつけますか?」と言われるとの事です。

どうしても肉を食べた後に牛乳が飲みたかったら、牛肉を食べてから6時間待てばよしとされ。

反対に乳製品を食べたら30分間は牛肉を食べてはいけない。

しかも、調理は別々に行うのが原則ですから、チーズ用のまな板と牛肉用のまな板と別々に用意しなければならず、日本人にとってややこしいことこの上ありません。

より熱心なユダヤ教徒になりますと、牛乳と牛肉を同じ冷蔵庫に入れず、食材ごとに使用する調理器具も使い分けています。人によってはミルク入りコーヒーさえ遠ざけているそうです。

他にも観光者の話として、土曜日に煙草を吸ったら何故か怒られまして、それはユダヤ教の休日が土曜日で日曜日は普通に働きに行く日なので、その休日である土曜日は喫煙さえ戒律で禁じられているようです。

以上でコラムは終わりですが、いい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その24~イスラム教はなぜ豚肉を禁じるのか?~

6 7月

おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと願って、コラムを書いて見ました。

また、説明に地図を使うので。画像を出します。

古来、世界各地でいわれなき偏見やタブーにさらされた肉は少なくありません。

豚肉はそれらの筆頭にあげられ、豚肉を食べる事を禁じるユダヤ教、特に広く分布しているイスラム教での忌み嫌われぶりも半端ではないです。

たとえば厳格なイスラム教徒となりますと、豚肉が鍋や包丁などの調理器具に触れているかも知れない可能性を恐れ、一般のレストランを避けて、わざわざイスラム教徒専用レストランで食事を取るなど徹底しています。

イスラムの戒律が比較的ゆるいインドネシアでも10年ほど前、味の素の製造過程に豚の成分を使用したという事実が発覚して逮捕者が出たりと大騒ぎになった事もあります。

科学的には味の素という製品になった時点で豚の成分は消滅しているのですが、イスラム教では食用禁止にあたるのだそうです。

ではなぜ、そこまで豚を嫌うのか聞くと、豚を嫌う当事者であるユダヤ教徒、イスラム教徒も明快な答えを出せなかったりします。

そういった事情から生理的な嫌悪感や食わず嫌いとも言えるでしょう。

イスラム教の開祖マホメットによる『コーラン第五章の食卓の章には、

「死んだ獣の肉、血、豚肉、それからアッラーならぬ邪心に捧げられたもの、絞め殺された動物、撃ち殺された動物、また猛獣の食らったもの」

などは食べてはならないとされてあり、第六章の家畜の章にも「死肉、流れ出た血、豚の肉、これらはまったくのけがれもの」などとタブーであることを強調しています。

イスラム教徒が豚肉を嫌う最大の理由は、これらの戒めを遵守しているからにほかならないのです。

ちなみに、イスラム世界で禁じられた肉は「ハラム」と呼ばれ、逆に食用にしていい肉は「ハラール」と言われています。

ユダヤ教の聖典『旧約聖書』の「レビ記」「申命記(しんめいき)」の中でも、全知全能の神ヤハウェ(エホバ)は事細かに食肉のタブーを命じています。

数ある動物のなかでも、

「ひづめが分かれたもの、ひづめが二つにきれたもの、反芻(はんすう)するもの」

という条件をクリアしないといけませんが、豚は反芻しないという理由で、けがれた獣としてタブーにされてしまいました。

ユダヤ教を母体とするイスラム教は『旧約聖書』の教えの一部を受け継いでいるものなので、タブーとした根源が『旧約聖書』が由来とみても差し支えないと言われています。

このような背景から、豚を禁じるのは宗教に根ざしたものと思われるが、ではなにゆえにヤハウェやマホメットが豚を禁じてしまったのだろうかと言いますと。

豚は人糞も含むあらゆるものをむさぼり食う大食漢で、鈍重なうえに、発情期が21日周期で年中繰り返すといった性欲のを持つ習性が、不潔で汚らわしいというイメージをかきたてられ、ブクブクと醜く肥え太り、どうひいきめに見てもスマートさとは程遠い。

「この豚野郎!」

という感じの、ののしりの言葉が世界共通の代名詞にもなっているほどなので、比較的に禁欲主義的なユダヤ教やイスラム教とは相容れない家畜と、そうそうに決められてしまったのかも知れません。

事実、現在のイスラム法学者たちの多くは、

「アッラーが豚肉を禁じた第一の理由はそのいやしい習性と食べ物がきわめて不潔である豚の生態そのものにある」

と解釈する傾向が強いそうです。

しかし、豚は清潔好きな動物で知られており、悪しき本章とみられるのは飼育する側に問題があるためです。糞を食べるという理由にしても好んで食べるわけではないし、場合によってはニワトリ、ヤギ、ウサギ、イヌも糞を食べる習性があったりしますので、根拠が弱かったりします。

いっぽう、牛やヤギはミルクをはじめとする乳製品を、羊は羊毛を、ニワトリは卵をといったように、肉だけにとどまらず、様々な副産物を提供してくれる家畜ですが、豚は労働力にもならなければ、毛も繊維には向かない。

結局、豚は肉以外に利用価値がないから差別の対象になったのだろうとする意見もあります。

これらの動物の習性論に取って代わったのが、食衛生と生態環境の両面から解釈しようとする試みでして、要約しますと。

第1に、中東のような暑くて乾燥した地域では、豚肉は腐りやすく、これを食べると食中毒にかかりやすい。

第2点は、不潔な食べ物を摂取する豚は病気に感染している危険性が高い。

第3には、絶えず移動を強いられる遊牧中心の中東では、定住性の家畜である豚は生態環境に適さない、

などといったものです。

これらの点を案じた古代の人たちは、生活を合理的に営む知恵として、神の啓示という建前を駆りながら豚肉を食べる事をタブーにしたと考えられております。

豚の祖先は適度な湿度と大量の水に恵まれた河岸を住みかととしてきたと言われています。

このため、豚の体温調節システムは高温で乾燥した場所で生息には適していない事だけは確かです。

そもそも、汗を出す汗腺をほとんど持っていないため、自ら体温を調節することが出来ない。

豚が泥の中を転げまわっている光景も汗を流す事ができない豚の体温冷却のための生理的な動作だったりします。

したがって、中東で養豚業を営もうとすると、風通しの良い場所を選び、直射日光をさえぎるための日陰や水を蓄えた土地を人工的に作る必要があり、飼育してもコストが大変悪い。

飼育するコストが大変悪いのは中東に限った話ではなく、乾燥地帯の遊牧民全てに当てはまる法則だとも言われています。

だが、3000年ほど前まで古代の中東では豚を抵抗無く食べていたことは、各地の遺跡による大量の骨の発掘で証明されていますので、環境条件だけを、タブーにされ続けてきた根拠とするには、根拠が弱かったりします。

諸説入り乱れる中で、最近では古代ユダヤ人による善悪二元論的な世界観に基づいた「肉食可否の分類法」が有力説として浮上してきています。

これは自分達の食体験にのっとって、食べていいもの悪いものを振り分けておけば食生活の安全上の目安になるうえ、肉を得るための家畜化する判断基準にもなりうると考えた一種の○×法です。

この法則によって、草食動物はOKだが肉食動物は駄目という単純な図式が定着したのですが、雑食性とあいまいな動物、とりわけ豚は○か×か判断に迷う正体不明な動物と見られたのでは?と言われています。

一方、乾燥地帯の中東には不向きでコストが高い豚の飼育は中東では重要な農牧とは言えず、タブーになったからといって経済面でもそれほどマイナス要因にならなかっただろうと推測されています。

コラムは以上ですが、いかがでしたでしょうか?

次はヒンズー教やユダヤ教の食のタブーについてもとりあげてみようと思います。

食の歴史その14~神々とワイン~

21 6月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと思ってコラムを書いてみました。
携帯やスマホで見ている方もいるだろうと考え、あえて画像は入れていません。

聖書では人類が初めて口にした酒はワインとされています。
「旧約聖書」にはワインの記述が500箇所ほどあり。
その中でノアの大洪水の話では洪水が終わって箱舟から出てくると。
「ここにノア、農夫となりて、ブドウ畑をつくることはじめしが、ワインを飲みて酔い、天幕のうちにありて裸になれり」
と「旧約聖書」ではノアが初めてブドウを栽培し、ワインを作った事になっています。

「新約聖書」では、最後の晩餐にてキリストが、
「お前達のために流す私の血」
と言って弟子達に分け与えて以来、教会のミサに欠かせないものとなりました。

また、ギリシャ神話では酒の神ディオニソスの血とされ、古代ローマでは酒の神バッカスへのささげ物でした。

古代ギリシャではディオニューシア祭という。酒の神ディオニソスにちなんだ祭りがありましたが。
この日に限っては酒の席だからなのだろうか、階級や男女問わず、からかったり冷やかしても許され。

ディオニューシア祭のメインイベントである演劇の上演も普段は言えない反戦のメッセージや体制批判などを表立って行える貴重な場でもありました。

ワインがいつから飲まれたのかについては諸説ありますが。6000年前のメソポタミア文明があった所の遺跡からワインを醸造していた痕跡がありますし。このメソポタミアは「ギルガメシュ叙事詩」にて「旧約聖書」よりもはるか昔に洪水伝説が発祥した所でもあります。

ちなみに、ワインという言葉はラテン語の「ウィヌム」、古代ギリシャ語の「オイノス」に由来しています。
このラテン人や古代ギリシャ人が参考にしたもっとも古いワインを指す言葉「ウィヤナス」はトルコのアナトリア半島に勢力を持った世界最古の製鉄民、ヒッタイト帝国の言葉であるとの説があります。

こうして古代からヒッタイト人、ラテン人、古代ギリシャ人がそれぞれ命名したワインは3700年ほど前にエジプトや中東からギリシャに伝わり、さらにギリシャが植民地を拡大していきますと。イタリアにも広まり、そこから南フランス、スペインへと広まっていきました。

この当事はワインをまず宴会を行う家の主人が最初に飲み、これを時計周りと逆の順番で回し飲みするマナーなどもありました。

他にも古代ギリシャ、古代ローマではワインを水で割って飲むのが常識でした。

割る割合もワイン1に対して水が3で割ると決まっておりました。

割らずに飲むと野蛮人の飲み方とされました。

こうした水で割って飲む習慣はワインがまだ大量生産されず貴重品だったので、生のまま浴びるほど飲む余裕が無かったのと。アンフォラという素焼きのかめの中に保存していると水分が蒸発して濃縮され甘みも酸味も強くなってしまう事が多々ありました。

そこで、濃縮されたワインが発酵しないよう松ヤニや塩水を加えましたが。それでも味が濃縮されているので、水で割って飲みやすいよう工夫したとも言われています。

その後、ローマ帝国の時代である西暦300年代にはフランスのボルドーやブルゴーニュ、シャンパーニュ、そしてドイツのライン川沿いなど、現在でもワインの名産地とされている場所でブドウの栽培と同時にワインの製造も行われていたようでした。

それからも少し時代を経て、ローマ皇帝がキリスト教を帝国の宗教とし、布教が広まると。教会では僧侶がワイン作りを熱心に取り組み技術も向上させ、「聖なるキリストの血」の研究に没頭していきました。

こうして教会の僧侶が努力して醸造していったワインは上質なものを醸造するためには品質、気象、土壌、地形などに左右され。あらゆる面で繊細さを求められるので、ワインが文化と呼ばれてきたゆえんでもあります。

欧米のアルコール文化は、
フランス、イタリア、スペイン、ポルトガル、ギリシャなどの南ヨーロッパを中心とした「ワイン文化圏」

イギリス、オランダ、北欧を中心とした「ウイスキー文化圏」

ドイツ、オーストリア、チェコとアメリカを加えた「ビール文化圏」
に大きく区別されます。

ワイン文化圏では、基本的にワインを飲みながら食事をします。

なかでもフランス人はワインと食事の調和になみなみならぬ情熱を注ぎ、料理の味を引き出すために、ワインの銘柄や種類にこだわります。

これは和食と日本酒との関係にも共通するところがあり。

例えば本膳料理や会席料理などの和食の多くは酒のためのおかずという意味合いが強く、肴(さかな)と言う字も、元々は「酒菜」、つまり酒を飲みながら食べるおかずという意味合いから生まれた言葉なのだと言われています。

晩酌という言葉がありますが、これは厳密には食事の前にお酒を軽く楽しむもので。以外に新しい習慣で。平安時代から食事と酒を一緒に味わうものでした。

ワインの話に戻しますと。ワインは食事中の酒ですが。ウイスキーやビールは食前の酒とされてきました。

ウイスキー文化圏ではカクテルも含めて酒を楽しんでからメインディッシュにかかるのが伝統とされているようです。

おもしろいことに、ワイン文化圏は食生活が豊かで農耕もいち早く発展し。産業革命後もそれほど工業が発展せず。宗教はカトリック文化圏と重なります。

逆に食生活が貧弱で産業革命が急速に進んだイギリスやドイツなどのプロテスタント文化圏ではウイスキーやビールを好む傾向があります。

これには、ブドウが暖かい所でしか栽培できないのに対し、ウイスキーの原料の大麦などが寒いところでも育つ事。

さらに気候的に寒い条件では度数の強いアルコールが好まれる事。

儀礼を重視してワイン作りに情熱を傾けるカトリックと、儀礼を軽視するプロテスタントの宗旨の違いなども深く関係していると思われます。

ここでコラムは終わりですが。皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

それではよい週末を。