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食の歴史その45~古代ローマのディナー準備~

16 9月

こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いて見ました。

今回もビジュアルでわかりやすくするために画像を多用する予定です。

古代ローマでは「ケーナ」と呼ばれたディナーを貴族や金持ちが主催する場合、召使いが家から家を訪問し、口頭や紹介状で日時などの詳細を伝え。出席を確認しますと主催者は忙しくなります。

まずは召使いを集めて予定を伝えるばかりか、屋敷の中を巡って直接監督し。粗相がないよう、恥をかかないよう気配りするものでした。

特に気配りしたのは冷蔵庫のない時代。新鮮な食材とその吟味に神経をすり減らしました。

東京なら上野か浅草にあたるスプラの通りは売り買いの喧騒が激しく。露天や屋台の市場が立ち並び。野菜、魚介類、牛、豚、羊の肉などが並び。ガリア(現在のフランス)から運ばれてきたニワトリ、ガチョウ、アヒル、ウズウなども並んでいました。

スプラは市場だけでなく盛り場、遊び場としてローマ人に認識され。南国的で底抜けに陽気な場所でもありました。

ジュリアス・シーザー

ジュリアス・シーザー

ジュリアス・シーザーはこのスプラ付近に屋敷を構え、庶民と気安く付き合って人心を掌握していきます。

しかし、スプラは貴族や金持ちからしますと。安く仕入れる場所と見なされ、位の高い人にスプラで安く仕入れましたとも言えないし、舌の肥えた美食家なら言わずとも見破られたりしますので、カエサルの市場、トラヤヌスの市場と言われる現在の百貨店に相当する場所で鮮度のいい食材を仕入れるばかりか。時には料理人の組合に頼んで優秀な料理人を出張させてもらったりしました。

トラヤヌスの市場の最上階にあたる5階には海水プールと淡水プールの生簀(いけす)があり、ここではドーバー海峡を越えたイギリスはロンドンの近くの港町ルトゥピアエ(現リッチバラ)から数十日かけて運んできたローマで最上級とされたカキも生のまま仕入れる事ができました。

高級食材は新鮮魚介類ばかりでなく、遠くインドから取り寄せたために100倍の値段で売られていたコショウなどのスパイスなどもありました。

大プリニウス

大プリニウス

この珍しいコショウについてプリニウスは。

「ただピリっとするだけのコショウが珍重されるのは異常なことである。美味しい料理を食べたければ、腹を空かせればいいだけなのに・・・」

と書き記してあります。

ローマでのガルムの製法

ローマでのガルムの製法(文字が見づらい時は画像をクリックして拡大させてください)

コショウのような異国の珍品と違ってディナーに必要不可欠だったのは万能調味料の「ガルム」でした。

「ガルム」はタイのナンブラーのような魚醤(ぎょしょう)の一種で上に乗せたガルムの製法の図にあるように天日で腐らせた様々な魚を合計8ヶ月以上かけて塩水に漬け込むと魚肉のタンパク質が分解されてうま味成分のアミノ酸に変化していきます。

こうして完成したものを麻の布で濾過(ろか)された液体を「ガルム」、濾過した時に残る固形の残りかすを「アレク」と分類され、貧しい庶民は固形のアレクを粥に混ぜて食べていました。

ガルムは種類も豊富でマグロの内臓とエラと血液で作られたガルムが最上級とされ、現在の値段にすると3リットルで600万円近くの値段になりました。

このガルムは元々魚を腐らせたものなので、製品になっても大変魚臭く、古代ローマの料理書を書いたとされるアキピウスは、月桂樹と杉で燻してからブドウの果汁を加えて独特の臭みを消したと言われています。

皇帝ネロ

皇帝ネロ

このアキピウスは皇帝ネロの時代に大勢の料理人を雇い洗練された料理を創造したりもしていました。

自分の料理の知識を人にも伝えようと料理学校を開き、『ラルス・マギリカ』という古代ローマの料理書も残します。

アキピウスの料理書には卵料理も多く、カスタードプリンもアキピウスのアイディアだと言われています。

しかし、皇帝ネロの家庭教師セネカによりますと、ローマの大火事のあと黄金宮でネロが行った饗宴にならってアキピウスも当事のセレブを呼んだ大規模な晩餐会を開き、数十億円もの財産が湯水のように費やされました。

そしてある日。残った金額が現代の金額にして10億円相当の1千万セルティウスになった時。もはや宴を続ける事が出来ないと悟り、友人を招いて晩餐会をしたあと、財産がなくなり飢え死にする事を恐れて毒を飲み自殺したという伝説を残し、後世にはアキピウスの名を借りてペンネームにもされました。

古代ローマ人がいかに際限なくお金と労力をつぎ込んで食材、料理人の調達を行ったか書いてみましたが、次回は「ケーナ」というディナーに招かれた客の方のマナーなども書いていきたいと思います。

皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

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食の歴史その43~古代ローマのソフトドリンク類~

4 9月

おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いて見ました。

今回もビジュアルで分かりやすくするために画像を多用します。

古代ローマとワインは密接で上流階級から奴隷までワインを飲んでおり。店に行けば1アス(45円)からワインが飲めました。

奴隷にもワインの搾りかすから作られる「ロラ」というワインが与えられていました。

今回はそのワイン以外の酒やソフトドリンクなどを紹介してみます。

まずはローマでワインの次にメジャーな酒は「アクア・ムルサ」と呼ばれた蜂蜜酒です。

これは水と蜂蜜とイースト菌を混ぜて発酵させて造るもので。「田舎者の酒」と呼ばれていました。

ローマ人の言う田舎者はブドウが栽培できない、ワインが作れない北方に住むヨーロッパ人を指していました。

自家製ビールを造る女性

自家製ビールを造る女性

他にも「アリカ」と呼ばれたビールも存在しましたが、奴隷用のワイン「ロラ」の半額で売られるほど低級な飲み物で、野蛮人が飲むものとみなされていました。

ソフトドリンクになりますと、果汁を煮詰めたシロップの「テーフルトゥム」という子供用の飲み物がありまして。水や酢で薄めて飲ませていました。

他には鉛または鉛でコーティングされた鍋でブドウの果汁を煮詰めて作った甘味料「サパ」がワインに甘味料、保存料として添加され、鉛中毒になる人が沢山いました。

鉛中毒の症状の一つに難聴があり、ベートーベンの髪の毛から通常の100倍の鉛が検出されたので。耳が聞こえなくなったのはワインに含まれた鉛を大量に摂取したのが原因ではないかと推測されています。

歴代ローマ皇帝には発狂した人、早死にした人が複数いますが。これも鉛中毒ではと推測されています。

狼の乳を飲んでいるのは、双子のロムルス(後のローマ建国の王)とレムス

狼の乳を飲んでいるのは、双子のロムルス(後のローマ建国の王)とレムス

朝の飲み物として定番であり、子供の飲み物とみなされたものにミルクもあります。ローマを建国したロムルスは狼の乳を飲んだという神話と関係してミルクが子供の飲み物とみなされていましたが、大人も朝にコップ1杯のミルクを飲み。時にはミルクにハーブを混ぜて滋養強壮の薬として医者が処方する事もありました。
牛乳が主流の現在と違い、古代ローマ人にはヤギ、羊、馬、ロバのミルクが好まれ。牛のミルクはあまり人気がありませんでした。

その一方、ラクダのミルクは珍しさと滅多に手に入らないからなのか、珍重されていました。

こういったミルクはローマ人に人気のあるチーズの材料にされる他に、「メルカ」と呼ばれる羊やヤギのミルクから作られたヨーグルトも作られ。消化を助ける健康食品とみなされていました。

メルカの食べ方にはコショウとガルムという魚醤(ぎょしょう)。あるいはコリアンダーと塩を加えて食べていました。

他には酢を水で薄めた「ポスカ」があり。スパイスや蜂蜜を混ぜて飲む事もありました。

このポスカは主に酢を生水と混ぜて飲むことで生水を飲んで水当たりする事を避ける目的も兼ねた水分補給源で。主に旅人が活用していました。

キリストにスポンジで含ませた酢を飲ませようとするローマ兵

キリストにスポンジで含ませた酢を飲ませようとするローマ兵

この飲み物はキリスト教にもゆかりがあり、キリストがはりつけにされた時、兵士に飲まされたのがポスカだと言われています。

酢はワインの成れの果てでありますので、ワインの手にはいる所なら気軽にポスカが入手できました。

ローマ水道

ローマ水道

最後に水を紹介しますが。300年かけて建造されたローマ水道は現代の日本でも300万人分の水を供給できるほどの能力があり、ローマに住む100万人以上の人々は212箇所あった公共水槽から水を汲んで運び調達していました。この水運びを代行するアクアリウスというという商売もありました。

トレビの泉

トレビの泉

現在は彫刻もほどこされ、観光名所となったトレビの泉も古代ローマの人々が使っていた公共水槽の一つでした。

ミルクで作ったポリッジ

ミルクで作ったポリッジ

ローマで調達された水はお湯にするなどして最も安いソフトドリンクとして飲まれ。ローマの庶民の中にも朝食にパンと塩味のニンニクと水で済ませたり、小麦粉と水を混ぜた「ポリッジ」という粥を作って食べたりしていました。

以上でコラムは終わりますが、次こそは古代ローマのディナーを書いてみるつもりです。

皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その22~ハネムーンと蜂蜜酒~

3 7月

おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと願って、コラムを書いて見ました。

今回、画像はありません。

2300年ほど前にアレキサンダー大王の軍勢がインドまで遠征し、

「インドにはミツバチ無しに出来る蜜があった」

とサトウキビの存在を伝えました。

この砂糖は900年ほど前に始まった十字軍が中東に遠征した頃から、ヨーロッパに広く知られるようになったが、それまでのヨーロッパの甘味はもっぱら蜂蜜でした。

ヨーロッパでは1万年前から蜂蜜を採取されていたとされており、スペインにある、およそ9000年前の洞窟に「女性の蜂蜜狩り」の壁画が残されています。

蜂蜜は水で薄めておくと簡単に発酵するので、蜂蜜酒が自然作られました。

イタリア、フランス、スペイン、ギリシャなどのワイン文化圏をより北の地域で最初に作った酒も蜂蜜酒だとされています。

ジューンブライドが6月となると、ちょうど7月は新婚早々のハネムーンの最中となりましょうが、2000年近く昔の北欧でハネムーンの語源が生まれますが、それは「隔離」を意味していました。

その昔、北欧や北ヨーロッパでは略奪婚が行われており、花嫁を近くの村から略奪した男は彼女を連れてしばらく身を隠さなければならなかった。

安全を確保するために居場所は新郎の付添い人以外の誰にも知らせず、花嫁の家族が捜索を諦めるまで、自分の村に帰らず隠れていた。

これが民俗学者のいうハネムーンの始まりです。

それからやがて部族の上流階級が1ヶ月間「ミード」と呼ばれる香料、薬物を添加した蜂蜜酒を1ヶ月間、毎日飲み交わした。

この蜂蜜酒は特にゲルマン人たちに親しまれ。ゲルマン神話、北欧神話、またはそのごの散文物語で蜂蜜酒にちなんだ話が出てきます。

これらゲルマン、北欧神話などから蜂蜜酒にまつわる話を2つ3つ出してみますと。

神話では蜂蜜酒が飲むと詩人と賢者になれる神秘的な酒でありました。これを最高神オーディンは巨人族の王が所有する神秘的な蜂蜜酒を盗み出して詩と知恵の守護神となったという物語がアイルランドの神話エッダで語られています。

蜂蜜酒は神々、英雄たちの飲み物として欠かせないものでした。

ヴァイキング・サガ(散文物語)では、

「黄金の経てで作られた屋根の下、大広間で豪勢な饗宴に列座して絶えず神のイノシシ肉を賞味した。飲み物は沢山の樽に詰まった甘い蜂蜜酒、お酌をするのは戦いの女神」

という一節があったりします。

では、神話でも飲まれている蜂蜜酒がどんなものかといいますと、蜂蜜に大麦を加えて発酵を促進させていまして、「あわ立つ蜂蜜酒」という言葉が出てきますので、発酵を止めずに飲んでいたらしいです。

一般農民には高値で非常に貴重な蜂蜜の甘さによる舌の喜びとされていますが、上流階級の饗宴では湯水のように飲まれ、生贄の儀式で位の高い人を生贄にするときは「蜂蜜酒の樽の中に浸して殺された」というくらい大量に作られていました。

1500年以上前にローマ帝国に東から攻め込んできたフン族のアッチラは西暦450年、ローマ皇帝の妹と結婚したが、その祝宴の席蜂蜜を蒸留してから香料と薬品を添加したミードを知り、大いに気に入ってジョッキでガブガブ飲んだ。

それから三年後、別の女性との結婚式の祝宴で再び蜂蜜酒のミードが出され、アッチラはまたガブガブ飲んだが、ついに意識不明で死んでしまう。

このアッチラの死は蜂蜜酒のミードは香料と薬品をいれるものなので、その薬品に毒を入れて殺したのでは?という話もあります。

北欧やゲルマン人の生活に必須であった蜂蜜酒もワインを知ることによって次第に飲まれなくなっていきますが、現在でもドイツの自然食品店特店や特定の薬局で食事用とデザート用の2種類が売られています。

この蜂蜜酒のアルコール濃度は11~12%で、ドイツではハネムーンに飲まれることは無く、カーニバルや村の祭り、古代ゲルマン風の特別ディナーの時などに飲まれるとのことだそうです。

現在売られている蜂蜜酒のデザートワインを飲んだ方の感想では、甘い以外に特別の風味を感じなかったそうです。

ちなみに、スイスのホテルでバイキング形式の朝食を食べられた方の話では、ジャムと一緒に蜂蜜の壷が並んでおり、それぞれ「花」、「アカシア」、「牧場」、「アルプス」、「菩提樹」など同じ蜂蜜でも様々な種類から選んでいるとのことです。

最後に酒を多人数で飲む時は乾杯をしますが、英語ではスコールと言います。

スコールの語源は古くはバイキングの時代に、殺した敵の頭蓋骨を杯にして酒を注ぎ、勝利を祝った名残とされています。

英語で頭蓋骨をスカルと言いますが、これはフランスのノルマンディーに住み着いたバイキングがイギリスに攻め込んで征服したノルマン王朝(1066~1154年)や、デンマークとイギリスの王を兼務していたカヌート大王(1018~1035年)など、バイキングの末裔に支配された時代の名残りかも知れません。

今日のコラムはこれで終わりですが、いかがだったでしょうか?

いい暇つぶしになれば幸いです。

食の歴史その13~蒸留酒の始まり~

21 6月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと思ってコラムを書きました。
携帯、スマホで見ている人もいるだろうと考え、あえて画像は入れてません。

中東のイスラム教は酒を禁じていますが。現在では建前になっているようで、影でこっそりビールを少したしなむ程度なら大丈夫だったりします。

1000年ほど前のペルシャの詩人も月夜を眺めながらワインを飲む優雅さを詩にしていますので、この頃からプライベートで一人酒する程度なら大目にみられたようです。

そんな中東はワイン、ビール、蒸留酒の発祥の地でもあったりします。

今日は蒸留酒の歴史を辿っていってみようと思います。

蒸留酒がいつから作られたか調べますと。2700年ほど前に今のイラクで誕生したメソポタミア文明の人でした。

蒸留酒は果実、サトウキビ、イモ、ヤシなどを原料としますが。世界最古の蒸留酒はナツメヤシの実を原料に度数の強い蒸留酒を作っていたと推測されています。

東南アジア、インド、中東、バルカン半島、北アフリカ、スペインまでの広い地域に。アラック、ラク、アラキ、ラキ、オラカと言われる名前の蒸留酒がありまして。

原料や呼び方はそれぞれ違いますが。これは世界最古の蒸留酒の名前である「アラック」が広く伝わった名残とされています。

エジプトをはじめとする中東ではナツメヤシの実、トルコやバルカン半島ではブドウ、インドやスリランカではココヤシ樹液のトデー、東南アジアでは米やサトウキビなど原料は様々ですが。いずれも自然発酵させてから蒸留する手順は共通しています。

アルコール度数は作りたてなら40度、古い酒ですと70度ありまして。不純物のはいった安い蒸留酒を飲むと二日酔いが酷いそうです。

ちなみにオスマントルコ帝国から近代的なトルコ共和国を建国したケマル・アタチュルクはアラックを毎日およそ1?ほど飲んでおり。それで肝臓を悪くして病死しました。

そのため、酒を禁じるイスラム教の人からは建国の父ケマル・アタチュルクが大酒のみだったことから「背教者」と呼んだりする事もあったりします。

そのアラックは無色透明ですが。カシの木で作った樽に詰めて貯蔵するため、樽の色が染み出して淡い黄褐色のものが多いです。

一般には酸味があってクセがありますが。インドのスパイスをふんだんに使った料理や脂っこい中東の料理には不思議と合うそうです。

また、香り付けのために香草アニスの種などを加えますが。水で割ると酒に溶け出したアニス油の成分が化学反応を起こして白く濁るのが特徴です。

水が少ないと薄桃色に近い白色ですが、水を沢山入れて割ると灰色になったりします。

こうした色の変化を楽しむ点ではニガヨモギを使ったヨーロッパの蒸留酒アブサンに似ているかと思います。

この中東で生まれた蒸留酒アラックはアラビア商人を通じてインド、東南アジア、ヨーロッパへと広がっていきます。

日本史では鎌倉時代に元寇と言われ、日本にも攻め込んできた元の皇帝フビライがビルマへ遠征した1277年には中国にも蒸留酒のアラックが伝わりました。

そのため、モンゴル語やウイグル語では今でも蒸留酒の事をアラキと言います。

日本には江戸幕府が出来て間もない頃に長崎からオランダ人が東南アジアのジャワを経由して持ち込んできます。

オランダ人もアラキと呼んでいたせいか、江戸時代の日本人は「荒気酒」と記しています。

明治時代になりますと蒸留酒のアラックはワインとともにエキゾチックなものと認識されており。詩人北原白秋もそういった詩を書いています。

このアラックの語源ですが。古代ペルシャ語で「乳」を意味する「ラク」が由来だとされています。

このラクはローマ帝国の言葉だったラテン語にも取り入れられ。乳酸を意味するラクトや乳糖を意味するラクトースなど、様々な言葉に引用されました。

ものの本によると、日本語の酪農もじつはラクの当て字で。一説には乳を発酵させて乳酒を作ったことからラクまたはラケが「酒」という言葉になったという説もあります。

コラムはこれで終わりですが。皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その6~バーボンとフランス~

21 6月

こんばんは。今日も暇つぶし用のコラムを書いてみました。
携帯やスマホで見ている人もいるだろうと考え、あえて画像は入れてません。

アメリカ生まれで西部劇の映画でも良く飲まれているバーボンはアメリカ人にとってフライドポテトとコーラとハンバーガーと同じくらい好かれているものです。

1830年代にはアメリカ全土の大人がバーボンを年間に750ミリリットル瓶で30本飲んでいる計算になるほど飲んでいました。

この計算には飲酒の習慣が無い女性やイスラム教でないけど宗派の問題で飲まない人も含めた数字なので、実際は大人の男性がもっと飲んでいるとみられます。

バーボンの由来はアメリカ独立戦争に対してイギリスに宣戦布告してまで援助したフランスはブルボン朝の国王ルイ16世に対する感謝の意をこめてフランスとそのブルボン朝にちなんだ地名をアメリカ各地に命名していきます。

後にバーボンが盛んに製造されるケンタッキー州バーボン郡の地名はブルボン朝のアメリカ訛りですし、他にもパリから取った「パリス」、ルイ16世にちなんで「ルイビル」、ベルサイユにちなんで「ベーセールズ」などの地名がアメリカにあります。

このバーボン地方ジョージタウンで最初にバーボンの原型を作ったのはバプテスト教会の牧師エライジャ・クレイグでして。後に「バーボンの父」と称えられています。

クレイグは「ケグ」というホワイトオークの内側を焦がした小さな木樽を使ってスモーキーな独特の香りと、まろみを出す事に成功しました。

しかし、バーボン醸造はもう少し経って。アメリカ国内での動乱がきっかけになってさらに発展していきます。

そのきっかけはイギリスの植民地だった頃のウィスキーに対する高い課税を独立したアメリカもためらいもなく重税を課したため。ライ麦ウィスキー製造の中心地だったペンシルバニア州を中心に「ウィスキー一揆」が起こり。政府は独立戦争時よりも数多い兵力を投じて鎮圧しました。

そして、行き場のなくなったウィスキー製造業者たちは当時辺境でアメリカの法律が行き渡っていなかったケンタッキー州のバーボン郡などへ移り、高い税金から逃れてライ麦ウィスキーを製造します。

しかし、ライ麦が凶作で仕方なく場繋ぎでトウモロコシを原料に使って蒸留酒を作ってみた所、口当たりの良い酒が生まれました。

他にもケンタッキー州は色々とウィスキー製造に恵まれた土地でした。
水を浄化してウィスキーの酸を中和してくれるライムストーンと呼ばれる石灰岩層が広がり。
牧草地帯はトウモロコシの栽培に適し。
山へ行くと樽の材料になるホワイトオークもにも恵まれており。
寒すぎず、暑すぎずの気候がバーボンのための特殊な酵母を作るにも適しており。
まさにバーボンを作るためにあるような土地なので。アメリカの法律や税金が及んでもウィスキー製造業者は留まってバーボンを作り続けました。

しかし、最初は現在のように厳格なバーボンの基準もなく、粗悪品もあったりと品質がまちまちでした。

それを変えたのはスコットランドからやってきた外科医ジェームズ・クローでした。

クローはトウモロコシや麦芽、水などの配分の比率を定め。製造手順を定め、衛生管理も徹底させるなど努力した結果、1835年に高品質のバーボンが製造されるようになりました。

こうしてバーボンと名乗れる厳密な条件も出来上がって生きます。
どんな条件か挙げますと。

1、原料のトウモロコシが全体の51~79%を占める。
2、樽から出された時のアルコール度数が40~62.5度であること。
3、蒸留後、ホワイトオークの内側を焦がした木樽である「ケグ」の中で2年以上寝かせること。
4、ケンタッキー州で製造されている事。

この4つの条件に合格していないと現在はバーボンと名乗れないほど厳密な規定となっております。
ジャックダニエルの製法はバーボンとあまり変わりないのですが、テネシー州で製造されているので。「テネシー・ウィスキー」に分類されます。

以上でコラムは終わりです。皆さん、いい暇つぶしになったでしょうか?