アーカイブ | 6月, 2012

食の歴史その21~ハンバーガーとモンゴル帝国~

29 6月

おはよございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと願って、コラムを書いて見ました。

地図で説明する箇所があるので、画像を一枚アップロードします。

ハンバーガーはアメリカの国民食であり、世界のファーストフードの王者となっており。

10年ほど前のデータでは、マクドナルドは世界120カ国に進出し、1日あたりの来客者数はのべ4000万人に達するそうです。

ハンバーグステーキを丸型のパンでくるむというアイデア料理の俗称がハンバーガーだが、その起源はドイツ北部の港町ハンブルグの家庭料理をヒントとしてアメリカで改良され、のちにハンブルグの英語なまりであるハンバーガーtご呼ばれたといわれています。

しかし、この説は現在ではほとんど試みられていません。これはれっきとしたアメリカ生まれのアメリカ料理だからです。

例えば日本語に「日本風天ぷら」という呼び方がないように、「ハンバーグステーキ」もドイツ語には見当たらない言葉です。

地元のドイツでは皿に出されたものを「ドイチェス・ビーフシュテーキ」と言い。牛肉のミンチを丸めて平たくしたもので、つなぎなどを混ぜていないためにポロポロした食感だと言われています。

他にはジャガイモをつなぎに使った「フリカデレ」というドイツのひき肉料理もあります。

フランス料理には馬肉のひき肉、たまねぎ、薬味、生卵をまぜたタルタルステーキがありますが、このタルタルステーキが原型ではないか、という説が注目されているそうです。

タルタルとは生肉をミンチ状に刻んで賞味するいわば、牛肉や馬肉のタタキであり、そもそもタルタルとは1200年代にチンギス・ハーンとその子孫によって征服された中央アジアやロシアに移住したモンゴル系の人たちの総称で、一般にはタタールと言われています。

タタールの由来はギリシャ神話に登場する最悪の死後の世界であり、奈落も意味する「タルタロス」から生まれ、ハンガリーやポーランドにまで攻め入ってヨーロッパ連合軍を殲滅させた強さから野蛮で凶暴と恐れられたモンゴル帝国率いるモンゴル系、トルコ系遊牧民が、タタールと呼ばれるようにjなったのだと言われています。

このタタールと呼ばれた遊牧民は中央アジア平原で放牧された羊や馬などの肉質の硬い生肉を細かく刻んで食べていましたが、1200年代末期にこの料理法がドイツに伝わり、素材を羊や馬から牛に変えて定着したのが、タルタルステーキの源流とされています。

はじめのころは、硬いスジ肉を塩や身近な調味料だけで味付けしていたらしいのですが。

そのご、今日のタルタルステーキのように生卵やピクルス、刻みタマネギなどを添えて深みのある味を出すようになりました。

そして数百年経ちましたら、焼いてハンバーグの原型になるものがイギリスとアメリカに伝わります。

イギリスはジェームズ・ヘンリー・ソールズベリー博士が食事改善運動を行い、全ての食材は細かく切ってから食べると健康にいいと提唱し、南北戦争(1861~1865年)に従軍の際、兵士が下痢をしないよう、消化の悪いステーキではなく、脂身を含まない牛肉の赤味を細かく刻んだステーキを考案。この考案者ソールズベリー博士にちなんでイギリスではソールズベリー・ステーキとも言われているそうです。

ちなみに、第2次世界大戦中のアメリカではハンバーグは敵国ドイツの言葉としてソールズベリー・ステーキと言うようにお上からの指示があったそうです。

さて、ハンバーグ、ハンバーガーという名前を考案し、世界的にその名を広めたアメリカはと言いますと。1850年代からドイツ移民がハンブルクからニューヨークまでのアメリカに至る長い船旅の中で硬くなったり、古くなった燻製肉を細かく刻んで調理していた料理法を伝えたとされ、1884年2月16日のボストン・ジャーナルという新聞に

「ニワトリを1羽捕まえて煮る。冷めたらハンバーグステーキの肉と同じように刻む」

という調理記事が紹介され、これが活字で記録された最も古いハンバーグの記録とされています。

これからアメリカの北部ウィスコンシン州セイモアという小さな田舎町は、ハンバーガー発祥の地として名乗りを上げ、ハンバーガー博物館まで設置していたりするなど、アメリカ各地でハンバーガー発祥の地と名乗りを上げている場所がいくつかあります。

下にハンバーガーとゆかりのある場所を指し示す地図を出します。

上の地図のようにアメリカ各地に広まったハンバーグ、ハンバーガーですが。1900年代初頭になっても評判の悪いものでした。

歴史学者デイヴィット・ジェラード・ホーガンによれば、ハンバーガーは汚くて、口にするのは危険な貧乏人の食べ物と思われていました。

レストランで出される事はほとんどなく、工場のそばにくるランチのワゴン、サーカス、カーニバル、博覧会などで売られる代物でした。

これは今の日本人の感覚で言えば、噂話ですが、地元で夏祭りになると路上の屋台に出す焼きそば、たこ焼き、お好み焼きなどを買ってたべようとしたら親に「屋台のは路上に水道なんてなく、汚い水で作っているからやめなさい」と言われ、食べられなかった思い出がありますが。博覧会で売られたハンバーガーも似た様な認識だったかも知れません。

アメリカに話を戻しますと昔、ひき肉は合成保存料がたっぷり添加された腐った古い肉から出来ていると信じられていました。ですから、

「ハンバーガーを食べるのは、ゴミ箱から取り出した肉を食べるのと同じくらい危険だ」

と、昔のアメリカの食品評論家は論じていました。

それからしばらくして、1920年代に、アメリカ初のハンバーガー・チェーンであるホワイト・キャッスルは、ハンバーガーの悪いイメージを払拭するために、グリルを客が見れるようにした上で1日に2回新鮮なひき肉が搬入されている事を訴え、チェーン店の名前も清潔なイメージを受け付けられるようにとの思いから命名し、さらには、ミネソタ大学の実験のスポンサーとなり、医学生がホワイトキャッスルのハンバーガーと水だけで13週間生きられる事を証明しました。

こうした努力と成功がハンバーガーの偏見を取り除きましたが、客層はほとんどが都会の男性労働者で、女性や子供も一緒に食べる国民的な食べ物になるには、30年ほど経った1950年代にマクドナルドが家族向けチェーン店として売り出すのを待つしかありませんでした。

こうして現在、スーパーに行きますと安く真空パックのハンバーグが置いてあり。街へ出るとMをかたどった金色アーチの看板をかかげたマクドナルドがあちらこちらにあるようになりました。

最後に一つ蛇足しますと、日本のハンバーグは日本独自の調理法を取っていて。

日本の一般的レシピでは、牛、豚、7対3のミンチと、みじん切りして炒めた玉ネギを加え、塩、胡椒、ナツメグ、全卵、パン粉混ぜを合わせ、表面をしっかり焼いて肉汁を閉じ込め、オーブンで中まで火を通す。仕上げにブラウンソース、またはデミグラスソースをかける。

といった感じで、アメリカやイギリスより手の込んだ代物なのだそうです。

今日のコラムはここで終わりですが、皆さん楽しんで頂けたでしょうか?

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食の歴史その20~かつては辛くなかったキムチ~

27 6月

おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと思ってコラムを書いてみました。

今回も説明のために画像を一つ挟み込みます。

伝統料理というものは、あたかも古来から存在してきたように錯覚されがちである事は、食の歴史その3で書いたすきやきと、食の歴史その4で書いた寿司の話でも紹介しましたが、民族料理と言われる物の多くはこのように、せいぜい200~300年の歴史しかなかったりします。

歴史の錯覚と同じように、朝鮮料理=辛いといった図式がおぱりでしょうが。実際に韓国人一人当たりの年間トウガラシ消費量は約2キロという統計がありますが、世界的にみてもトップクラスとされます。

それでは、古くから朝鮮料理は辛いのかというと、そうでなかったりします。

朝鮮料理が辛い理由はトウガラシを意味する苦椒(コチュ)をふんだんに使用することにあるが、トウガラシの原産地は中南米でして、新大陸アメリカを1492年に発見したコロンブスがヨーロッパに持ち帰りましたが忘れられ、1500年にポルトガル人がブラジルを発見、再確認されてからヨーロッパでも自給自足できるスパイスとしてポルトガル、スペイン、イタリアなどの南ヨーロッパを中心に栽培されていきました。

こうしてヨーロッパや世界各地に広がったトウガラシは地域によって様々な品種がありますが。20年以上前に韓国でトウガラシが不作だったため、急遽ハンガリーから輸入したら辛くなく、騒動になったという報道がされていました。

トウガラシにはスパイス用の辛い品種と、野菜用の辛くない品種がありまして、ハンガリーはヨーロッパでも特にトウガラシを食べる国ですが、辛くない甘いトウガラシを使っておりまして、それを粉末にしたものはパプリカとか言われています。

トウガラシの伝来に話を戻しますと、日本には1552年にポルトガルの宣教師が現在の大分県を拠点とした戦国大名、大友義鎮(おおとも よししげ)にトウガラシの苗ごと献上されたましたが。最初は食用に用いられず。江戸時代初期に書かれた兵法書「雑兵物語」には足袋の中にトウガラシを入れると霜焼け止めになると書かれていたり、または毒薬とされていました。

また、イエスズ会の宣教師は中国にも伝え、麻婆豆腐などを生み出した四川料理へと繋がっていきます。

このトウガラシが朝鮮に伝わった説は2つほどありまして、東アジア沿岸で暴れまわっていた倭寇(わこう)による伝来説と秀吉の朝鮮出兵にともなって渡ったという説があります。

いずれの説にせよ九州から伝わったとされるトウガラシがいまや朝鮮料理の決め手で、切っても切れない関係にあるといっても過言ではありませんが、辛さ代名詞となっているのが漬物の総称であるキムチは。

「汁気が多い漬物」

を意味する沈菜(チムチェ)が語源ですが、これにトウガラシを合わせて漬け込むようになったのは、1800年代にトウガラシを使った料理の記録が少し出てくるようになったと言われているので、比較的最近となります。

それまではニンニク、サンショウ、ショウガ、シソなど自生の薬味類に塩で味付けして発酵させる、どこにでもみられるような漬物に過ぎませんでした。

コショウもあることにはありましたが、東南アジアと南蛮貿易によって結ばれていた日本を経由して輸入される貴重なスパイスで、とても庶民の手に届く代物ではありませんでした。

日本で戦国時代が終わって徳川幕府になって江戸時代が始まった頃の1613年、朝鮮の李晬光(りさいこう)が、『芝峰類説(チボンリュソル)』編纂した百科全書にて朝鮮半島におけるトウガラシの存在に触れた文献なのですが、この文献によりますと、

「南蛮椒(トウガラシの事を指す)には毒がある。最近ではたまにこれが栽培されているのを見かける。酒屋で焼酎に加えて売っており、これを飲んだために死んだ者も少なくない」

と記述され、食用どころか猛毒扱いされていたようです。

当時は、日本人が朝鮮民族を毒殺する目的で恐ろしい毒草を持ち込んだという、まことしやかな都市伝説まで流れていたと言われています。

その後に編纂された朝鮮の料理指南書『飲食知味方』にも、コショウ、サンショウ、ショウガ、ニンニク、タデなどのスパイスは紹介されているものトウガラシについての記述は、一切ありません。

朝鮮半島でトウガラシがどうにか日の目を見るようになったのは、1700年代初期で。1715年に水耕法を体系化した農書『山林経済』では、初めてトウガラシの栽培法が紹介されています。

やがて1700年後半にいたってトウガラシみそのコチュジャン開発され、もともと塩辛い保存食として食されたキムチの変質防止と臭みを除去する目的から、徐々にキムチや塩辛の中に取り入れられるようになるなどの経緯をたどりつつ、トウガラシを使った辛い味付けが庶民の家庭に定着したのはさらに下って1800年代に入ってからとなります。

朝鮮料理は辛いという概念も実は200年足らずの食文化に過ぎず、それ以前の料理の味付けは、少しも辛くなかったのです。

一方、肉食が一般化しなかった日本では、コショウやトウガラシの強い風味にはなかなか馴染めず、長い間観賞用だったり、漢方薬を参考に調合して七味にされるにとどまっていました。

本格的に使われるようになったのは、肉料理が好まれるようになった明治時代まで待たなければいけませんでした。

明治になって江戸時代よりは使われるようになりましたが、砂糖を隠し味とする、すきやきや肉じゃがなどが好まれた時代で、カレーも今の基準では甘口しかなかったようなので、大量に使われるようになったのは戦後のようです。

そのせいか、自分の地元でもお年を召した方々はあまり辛いものを口にしなかったりします。

なお、同じ朝鮮半島でも地域によって辛さに対する好みの違いがありまして。

もっとも薄味が好まれるのが朝鮮半島北西部の平安(ピョンアン)地方ですが、南へいくにつれて徐々に辛さが増して、朝鮮半島南東部の慶尚(キョサン)地方に下ると激辛の味付けこそがこそが一番という傾向がみられるようです。

今日のコラムはこれで終わりですが。皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史19~インドにカレーライスは存在しない?~

27 6月

おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと思ってコラムを書いて見ました。

今回も地図を出して説明するので画像を少し使います。

 

日本人でカレーライスが嫌いな人が殆どいないほど国民食となっています。

固形のルーを使ったカレーはライス経済的で調理は手軽、しかも美味しいのだから、ラーメンとともに人気の料理と言えましょう。

平成11年の統計によると、国民一人当たり年間およそ64回カレーライスを食べているそうです。

となると、週に1回以上はカレーライスを食べている計算になります。

カレーライスといえば、あたかもインド料理の代表に見られているように思われている方々もおられるでしょうが、インドにカレーライスという料理はありません。

それどころか、カレーとか大航海時代にポルトガル人が命名カリという言葉さえ、ほとんど死語に近い。

日本にIT関係や留学でやってくるインド人は何かといえばカレーライスという、日本料理を食べさせられてうんざりしたと聞いています。

インド人にとっての日本で出されるカレーライスはベトベトした口当たりで妙に甘ったるく、どこか薬臭いと評判が悪く、

「このとろみがある不思議な日本料理はなんというのか?」

と聞かれた日本人が戸惑ったという話も聞いた事があります。

カレーの語源は諸説ありますが、インド南部のタミル地方で具を意味する「カリ」からとするのが妥当な説だろうと言われています。

1500年代の大航海時代、交易のためにやってきたポルトガル人が、住民の食べている汁をかけたご飯を指差して「これはなんというのか?」とたずねたところ、聞く方は料理名を言ってくれる事を期待していたのだが、聞かれたほうは具の事だと思い「カリだ」と答えたのだろうと推測されています。

こうして、突如カリは料理名とし一人歩きをはじめ、ヨーロッパに紹介されたのち、英語に取り入れられて世界に広まったというのが通説となっています。

ちなみに日本語のカレーは英語のカリーがなまったものだそうです。

インドには約3000種類の調理法が紹介されている「調理辞典」という文献にはカレーと名のつく料理はわずか25種類。

このようにカレーと言う言葉は、本場インドでさえ使われるのはごくまれで、カレーライスはコロッケなどと同じく、西洋料理をもとに手を加えた洋風の日本料理にほかならないのです。

本場インドでカレールーやカレー粉に該当するものを挙げれば、マサラがそれに当たるでしょう。

マサラはターメリック、カルダモン、グローブ、シナモン、コショウなどのスパイスを調合して石臼(いしうす)で潰した調味料、またはこれらを用いて味付けした料理の総称に他ならないのです。

インドでカレー料理という概念が存在しないのは、日本に出汁(だし)料理とか醤油料理がないのと同じ理屈と考えてくださればご理解いただけますでしょうか?

ところで、マサラのブレンドには、調合する分量混ぜ合わせるスパイスの種類が厳密に決まっているわけではなく、家庭ごとに異なり、料理や素材により千差万別の味を生んでいます。

日本の味噌汁や雑煮のように、親から子へ伝授されていく、いわゆる「おふくろの味」なのだそうです。

カレーがヨーロッパに伝わったのは、1772年。ウォーレン・ヘイスティングスがスパイス貿易を行う東インド会社の社員時代に大量のマサラとインディカ米を故郷イギリスに持ち帰ったことにはじまります。

彼はインド人コックを使ってカレーとライスのコンビネーションを作らせ、これをイギリスの宮廷のレセプションで披露したところ大評判だったとされています。

この噂を聞きつけたのが、貴族の宴会を請け負っていたクロス・アンド・ブラックウェル社(C&B)で。早速イギリス人の口に合うような辛さを抑えて調合し直し、商品として世界初のカレー粉の開発に成功しました。

これを使って肉や野菜を調理したものがイギリス風カレーの始まりであり、日本のカレーライスの元祖にもなっています。

しかし、インドにおける味付けは、スパイスと塩、場合によってはヨーグルトを添えるだけで、サラサラした煮汁に近いものが多いが、イギリスではシチューの調理法があるため、小麦粉でを使粘り気の強いベトベトしたソースへ変化した。この時点で、既にイギリスのカレーとインドのそれは、似て異なる料理となりました。

他にもインド、イギリス、日本、それ以外の国々も含めて多種多様に広がった世界各地の主なカレー料理を地図で下に出してみます。

日本でカレー料理の存在を初めて伝えたのは、幕末の1863年にヨーロッパへ使節としてフランスに派遣された三宅秀(みやけしゅう)でした。

彼は同じ船に乗り合わせたインド人の食事風景を

「飯の上にトウガラシを細身に致し、芋のドロドロのような物をかけ、これを手にてかき回して手掴みで食す。至って汚き物なり」

と記しています。

実際に、日本人がカレー料理を初めて口にしたことを記録に残しているのは、それから8年後の明治になって間もない1871年のことで、記念すべき第一号は、当事16歳であった会津藩士の山川健次郎。

国費留学生としてパシフィックメイル号でアメリカへ渡る途中、船中で食したのが最初であると言われています。

翌年出された「西洋料理指南」では、早くもカレーの調理法が紹介されています。

調理内容を要約しますと。

「ネギ一本、しょうが半分、ニンジンを少しみじん切りにし、バターを大さじ一杯で炒め、水を約270CCを加え、鶏肉、エビ、タイ、カキ、赤ガエルまどを入れてよく煮たのち、カレー粉小さじ一杯加えて1時間ほど煮る。よく煮あがったら塩を加え、更に小麦粉大さじ2杯を水に溶いて入れるべし」

といったものだった。

現在の調理法とかなり異なっているし、具といえば、ニンジン、ジャガイモ、タマネギといういわば定番三点セットがどこにも見当たらない。赤ガエルが入っている意外性もありますが、今ならシーフードカレーといった所なのでしょう。ただし、調理法から見て現代のカレーライスと風味も相当かけ離れているに違いないでしょう。

日本にはカレーライスとライスカレーの二つの言葉がありますが、この二つは、果たして同じ料理か、それとも微妙な違いがあるのかについて様々な説が飛び交っております。

たとえば、カレーの具の多いほうがカレーライス、米飯が多いほうがライスカレーという分量説。

具ち米飯が別々になったのがカレーライス、米飯の上に具をかけたのがライスカレーというスタイル説。

また皿で出されるのがカレーライス、丼がライスカレーという器説。

あるいは関東がカレーライス、関西がライスカレーというように単なる地域呼称説など、様々な説があります。

カレーライスは英語のカレー・アンド・ライスの略ですが、ライスカレーという英語は見当たらない。

このライスカレーの起源の一つに、「少年よ大志を抱け」で有名なクラーク博士が札幌農学校で学生たちの体格向上を第一とした博士は、全寮制の寮の食事を肉類中心の洋食としたが、これとは別に、

「生徒は米飯を食すべからず。ただし、ライスカレーはこの限りにあらず」という特別なルールを作ったと伝えられています。

それ以来ライスカレーという言葉が世に広まったと言われていますが、これも確かな根拠があるわけでもなく、真相は藪の中のようです。

最後に日本ではカレーのお供に欠かせない福神漬けとラッキョウについて軽く語ります。

福神漬けは明治になってまだ日が浅い頃、上野の高級漬物店の15代目、野田清右衛門が開発して売り出したところ評判になり。時は過ぎて大正時代の1902年とも1903年とも言われていますが、ヨーロッパ行きの船の中でカレーライスに福神漬けを添えたのが始まりと言われています。

もう一方のラッキョウは歴史が古く平安時代以前に中国から伝わり、東南アジアでも塩と酢で漬けてカレーと一緒に食べたのを参考にして福神漬けがカレーに添えられたのとほぼ同時期にカレーの付け合せになったようです。

カレーの事を書いていましたらこれを書いているのが朝10時ですが、もうお腹が空いてきました。

今日はツナの入ったタイカレーをお昼に食べようかと思います。

これでコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その18~最初は下品だったフランス料理~

26 6月

おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと思ってコラムを書いて見ました。

今回も文章だけでは説明しきれないので地図などを載せさせてもらいます。

メディチ家の紋章

メディチ家の紋章

世界的に名声があるフランス料理は料理のテクニック、調理法、食事作法、食器などが洗練されていると言われたりしますが、それらはルネッサンス時代のイタリアはフィレンツェの大富豪メディチ家からもたらされました。

シャルル5世

シャルル5世

メディチ家の影響がやってくる前のフランス料理の原型は14世紀、シャルル5世(在位:1364~1380年)の時代に始まったのが定説とされ、王の料理番だったタイユバンによって本格的な料理体系がつくられ、同時に調理の分業も確立されたと言われています。

1460年の写本より

1460年の写本より

しかし、その頃のフランス料理は白鳥、クジャク、アオサギ、鹿と食材は一級品でしたが、肝心の料理はスープ、ポタージュなどの煮込み、パイ料理が中心で、それも素材がわからなくなるほどすり潰し、シナモンやチョウジといった当事は貴重なスパイスを手当たり次第に振りかけていたもので、現在のような洗練されたフランス料理とは似ても似つかぬ代物でした。

ただ、当時ヨーロッパで洗練されていないのはイタリア以外全部といっても過言ではなく、当事のドイツなどでは、一頭丸ごと焼いた豚や牛がテーブルにドンと出される程度なので、量はあっても質はお粗末な代物でした。

カトリーヌ・ド・メディチ

カトリーヌ・ド・メディチ

このフランス料理が躍進するのは1533年、既に述べたイタリアのメディチ家からカトリーヌが後のフランス国王アンリ2世に嫁いだ際にお抱えの料理人たちと給仕人をはじめに、多彩な調理方法から料理道具、フォークやグラスなどの食器類、50にわたる食事作法にいたるまで、料理全般のABCをイタリアからフランスに持ち込んできました。

この頃にジャム、砂糖菓子、ケーキ類、アイスクリーム、トリュフ、各種ソースといった新趣向の料理や調味料の製法も大量に伝えられました。

それまでのフランスはナイフを振り回す程度で、フォークはもちろんスプーンもろくにない手掴みの食事スタイルが一般的なので文化的に遅れた国でして、ルネッサンスが花開いたイタリアに比べると雲泥の差でした。

これを見て嘆いたイタリア出身のカトリーヌは、食とファッションに情熱を注ぎ、城で日夜晩餐会を繰り広げて料理の向上に努めたといわれています。

当事の宴会メニューを見ますと、西洋のすり身団子クネル、ニワトリのとさか、子牛や豚の肝臓の大網膜や脳味噌のシチュー、アーティチョークの芯の衣揚げなど、数々の珍しい料理を出していました。

それまで量ばかりで大味な焼肉の塊やドロドロのシチュー、付け合わせ程度のそら豆しか食べた事のない会食者のフランス人たちはイタリアからもたされ、フランスの食材も洗練させた料理を食べて大変なカルチャーショックを受けました。

アンリ4世

アンリ4世

その後料理に造詣(ぞうけい)の深いアンリ4世(在位:1589~1610年)。

ルイ14世

ルイ14世

彼の孫で日本の醤油も愛用していた美食王ルイ14世(在位:1643~1710年)が出現するに及んで、絢爛豪華なフランス料理の花開いていきます。

しかし、ルイ14世はフォークの扱いに苦労していたようで、相変わらず手掴みで食事をしていたと言われます。

ルイ14世の時代にベルサイユ宮殿お抱えの料理人達は競って腕をふるい、盛り付け方も工夫が凝らされて美食を追及する姿勢はますます高まり、フランスの周辺諸国の料理にも大きな影響を与えました。

1700年代に入りますと、のちにマヨネーズと呼ばれる「マオンのソース」やフォアグラが登場し、フランスが独自に開発した伝統料理がほぼ完成し、内容的にもこの頃に芸術の域に達したと言われています。

こうして洗練されたフランスの宮廷料理は「オートキュイジーヌ」とよばれ、こんにちのフランス料理の原型が出来上がりました。

しかし、それらはあくまで王侯貴族などの特権階級が食べるだけにとどまり、市民も食べるようになるにはフランス革命の後となります。

宮廷料理だけがフランス料理の全てではなく、農産物や海産物に恵まれたフランスは下に出す地図

にあるように古くからの地方料理の伝統も受け継がれていましたが、主流にならなかっただけです。

フランス地方料理の特色

ちなみに、ナポレオン(在位:1804~1814)が活躍する前の庶民や農民たちの一般的な夕食といえば、塩漬け豚肉と野菜を煮込んだスープを中心に、とれたての卵とチーズ、ライ麦パンと安のワイン程度の貧しい内容だったようです。

バターを塗ったそば製のパンケーキがご馳走だったので、どの程度の水準かこのコラムを読んでいる皆さんも容易に想像できるかと思います。

いっぽう、1789年に起きたフランス革命によって、それまで王侯貴族に仕えていたお抱えシェフが失業する事になり、自らレストランを開いたり、名の知れた料理店の雇われコックになり、パリをはじめとする大都市で一流のレストランの開業が相次ぎ、グルメをうならせるフランス料理が1800年代後半には庶民の口に入るようになります。

洗練されたフランス料理が庶民の口に入るまでの間にナポレオン、ロシア皇帝アレクサンドル1世、オーストリア皇帝フランツ1世、財閥のロスチャイルド家など仕え、料理のレシピの百科事典などを書き、欧米では「近代料理最高の巨匠」と呼ばれるアントナン・カレーム。

ブリア・サハラン

ブリア・サハラン

天下の美食家で日本海軍の料理にもその名前が由来する献立があるブリア・サハランといった食の天才たちが活躍するにおよんで、文化と料理の関係を考察するガストロノミーという新しい分野が生まれるまでにいたります。

そして、1800年代半ばから後半に活躍したユルバン・デュボアは、ロシア貴族に仕えていた経験から食卓に全ての料理をずらりと並べる昔ながらのスタイルを改め、味を損ねないようにメインディッシュ、チーズ、デザート、コーヒーまたはハーブティーといった流れで料理を順次一品ずつ出すロシア式サービスのオードブルを取り入れるなど給仕法においても近代化がされていきました。

ベルサイユ宮殿の晩餐会

ベルサイユ宮殿の晩餐会

このような歴史を経て完成したフランス料理は各国へ普及、やがて欧米では中華料理、トルコ料理とともにフランス料理も世界三大料理の一つとされ、称えられるようになりました。
以上、駆け足でフランス料理の歴史を紹介してみましたが。皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

・参考文献

プーラン,ジャン=ピエール ネランク,エドモン 山内秀文 著

『プロのためのフランス料理の歴史―時代を変えたスーパーシェフと食通の系譜』

辻原康夫 著 『世界地図から食の歴史を読む方法』

高平鳴海 著 『図解 食の歴史』

食の歴史その17~パスタのルーツは中国か?~

23 6月

こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしになればと思ってコラムを書いて見ました。

今日のコラムはいくつか画像を載せています。

よく「中国4000年の歴史」なんてフレーズがありましたが。

歴史をかじってますと。殷(いん)が3600年以上昔にあったかな?という段階で4000年も歴史があるのか疑問が沢山あるのですが。数年前に中国で麺の化石が出てきました。

4000年前の麺の化石

4000年前の麺の化石

写真を見ると現在の麺と変わりない形をしております。

およそ1800年前の後漢という中国の王朝の時代に書かれた語学書「釈名(しゃくみょう)」に麺の記録が現れ。1500年ほど前に書かれた「斉民要術(せいみんようじゅつ)」という世界的に初めて書かれた農業に関する学術書には農業だけでなく、調味料や麺の製法まで書かれています。

現在の湯餅のひとつ

現在の湯餅のひとつ

それによると、湯餅(たんぴん)と呼ばれる小麦粉で作った麺を温かいスープで煮込んだものが現在の麺料理の元祖らしいです。

麺の製法の中で最も古いとされるのは、こねた小麦粉を手でひたす延ばす「手述べ麺」でして、日本ではそうめんが代表的です。

この手述べ麺が中国北部では拉麺(ラーミェン)と呼ばれ、後に日本でラーメンと呼ばれるルーツになったとも言われています。

中国では元々「麺(ミェン)」は小麦粉を意味したものでしたが、穀物を粉にしたもの全てを表す言葉になり、現在の中国では麺類を「麺条(ミェンティアオ)」と呼んで使い分けています。

これが1400年前に出来た一度は教科書で習った「遣唐使(けんとうし)」の時代である、唐王朝の時代になりますと、小麦粉を板状に広げて切っていく「切り麺」が普及していきまして。日本でもこの頃、中国からこの切り麺の製法が伝わり、そば切りやうどんなどに発展していきます。

シルクロードを経由してイタリアに伝わったパスタにもフィットチーネ(幅広パスタ)という切り麺がありまして、カルボナーラなどによく合います。

130年の歴史があるイタリアで初めての押出式パスタマシン

130年の歴史があるイタリアで初めての押出式パスタマシン

イタリアのパスタやマカロニなどでよく行われている製法にトコロテン方式のこねた小麦粉を小さな穴から突き出して麺にするもので、アジアでも冷麺やビーフンがこの製法で作られています。

こうして200年ほど前になりますと。麺類はアジア、中近東、イタリアに分布しますが。これらは独自にうまれたのか、アジアから伝わったのか、確認する方法は今のところ無いみたいですが。東南アジアの麺料理は200年ほど前に東南アジアのあちこちに住み着いた華僑(かきょう)と言われる中国人と関係があると言われています。

マルコ・ポーロ

マルコ・ポーロ

一方、イタリアのパスタ、マカロニに関して古くからある論争に「東方見聞録」を1298年ごろに書いたマルコ・ポーロが中国から伝えたという説についての論争がありますが。ヨーロッパの学者達でさえ、このマルコ・ポーロが本当に中国へ行った事があるのか疑念を抱いています。

大英図書館

大英図書館

イギリス国立図書館のフランシス・ウッドは「東方見聞録」では中国に長く滞在した事になっているが。もし、そうだとしたら後に中国へ本当に滞在した人なら必ず珍しがって記録する中国の文化面が致命的に抜けていると指摘しています。

台湾の飲茶(ヤムチャ)

台湾の飲茶(ヤムチャ)

たとえば、コーヒー、紅茶が伝わり。沸騰させた水が飲める事にヨーロッパ人がやっと気づいたのが400年前ですが。それ以上前に中国に行ったのであれば、茶を飲む習慣を書いていなければおかしいと指摘していますし。中国で長期間滞在したら、お茶を飲みながら点心を食べる飲茶(ヤムチャ)も見たはずです。

その時に食器として箸を使う習慣も、今から300年ほど前にベルサイユ宮殿に君臨していたルイ14世がフォークやスプーンを使わずに手づかみだった事を考えれば、物珍しいものとして書いていなければおかしいと指摘。

万里の長城

万里の長城

他にもアルファベットや中東の文字と全く違う文字である漢字の存在や木版画、女性が行う纏足(てんそく)、観光客を圧倒させる万里の長城などを書いていない事を挙げ。マルコ・ポーロは家族が貿易やっていたので、ヨーロッパにいながら中国の産物を運んでくるペルシャやアラビアの商人から情報を仕入れて、さも中国に行ったように書いたのではなかろうか?と言われています。

そして、マルコ・ポーロが帰国したのが1295年とされていますが。それより前の1279年の記録にマカロニと書かれたものが出てきています。

ジョヴァンニ・ボッカッチョ

ジョヴァンニ・ボッカッチョ

それから数十年経ってイタリアの詩人である作家であるジョヴァンニ・ボッカチオが書いた10日間を意味するタイトルの「デカメロン」が出版された1353年には、パスタやマカロニがもうしっかりイタリアの定番料理になっていたようです。

「デカメロン」の中には2種類のパスタが書かれており、上にかけるソースやチーズについても書かれています。一部を抜粋しますと、

「イタリアのベンゴディ地方にはブドウのつるをソーセージで結ぶ。そこにはおろしたチーズの山があって、その上で一日中男達は、スパゲッティとラビオリを作っては、チキンのソースをかけて食べる」

とあります。

さて、フォークは1700年代頃まで普及していなかったので、どうやって食べたかと言いますと。

下の図のように長い間手づかみで食べていました。

フォークが普及する300年以上昔のパスタの食事風景

手づかみでパスタを食べる300年以上前の人たち

こんな食べ方を長い事していたものですから、中国のように温かいスープに入れて箸で食べるのではなく、手掴みが前提でバターやチーズをまぶして食べるタイプになったのも当然の成り行きなのでしょう。

パスタを手掴みで食べる光景を写した20世紀初頭の絵葉書用写真

パスタを手掴みで食べる光景を写した20世紀初頭の絵葉書用写真

このような手掴みで食べる伝統イタリアでは20世紀初期までありまして。絵葉書の写真にもされています。

イタリア南部を支配したシチリア王国

イタリア南部を支配したシチリア王国

パスタにはもっと古い記録もありまして、1140年代にイタリア南部を支配していたシチリア王国のロジェル2世に仕えた北アフリカはモロッコ出身の地理学者アリ・イドリーシが書いた「ロジェルの書」によりますと、イタリア半島の南にあるシチリア島の北西部にあるトラビアの町にはパスタの一種イットリーヤが作られ、各地に積み出されている事が記録されています。

中世のアラブ人が書いた本によると、イットリーヤはキシメンに似た手打ちの乾麺だったと記録され、

イスラム圏の麺類リシュタ

イスラム圏の麺類リシュタ

1000年前のペルシャで活躍した哲学者イブン・シーナもイットリーヤはペルシャ語で「糸」を意味するリシュタと同じ食べ物であると記録しています。

イブン・シーナはペルシャからはるか北の中央アジアからやってきたイスラム教徒である事などから、麺を食べる文化が東から中央アジア、中東、北アフリカとはるか昔に広まっていたようです。

こうして東からイタリアへ伝わったであろうイットリーヤなどは大量生産される事なく、今ほどありふれた食べ物ではありませんでした。

大量生産されたのは1800年代にナポリで木製のねじ式の押し出し機を使って細長いパスタが大量に出来上がっては天日干しにされ、手で練っていた生地も1830年代に発明された機械で練られ、イタリア中に広く普及しました。

そして、イタリア系移民がアメリカに大勢住みつき、1920年代になりますと。ニューヨークはマンハッタンのプラザホテルでコックをしていたヘクター・ボイアーディがアメリカ人にもっとイタリア料理を知ってもらいたい思いからトマトソース味のパスタを瓶詰めにしてみました。

この便利なパスタの瓶詰めがA&Pフードの重役ジョン・ハートフォードの目に止まり。アメリカ中の食品店にソースで味付けされたパスタの瓶詰めや缶詰が置かれれるようになり、1940年代に今も量だけは多いけど貧相なアメリカ料理に革命がもたされ、イタリア系じゃないアメリカ人にもパスタが普及しました。

今でもトマトソースで味付けされたパスタを詰め込んだ缶詰がケチャップで有名なハインツ社によってイギリスで作って売られているようですが、フォークでクルクル巻こうとする前にブチブチ切れるほど伸びている代物なので、微妙な味ですが。興味ある方は「缶詰パスタ」とgoogleにキーワードを入れて検索しますと実際に缶詰パスタの中身を写した写真や食べた感想などが書かれている記事を読む事ができます。

検索するのが面倒臭い。そんな人のためにパスタの缶詰の画像を2つほど出しておきます。

イギリスのパスタの缶詰

イギリスのパスタの缶詰

パスタの缶詰を皿に移したもの
パスタの缶詰を皿に移したもの

それから第2次世界大戦後、日本にやってきた米軍が接収していた横浜のニューグランドホテルで今のナポリタンの原型が開発され、1950年代半ば以降から学校給食にケチャップとソーセージで作ったナポリタンが出されるようになり、日本人にも馴染み深い麺料理となりました。

ただ、ナポリタンとミートソース以外のパスタは1980年代のイタメシと言われたイタリア料理ブームが来るまで待たなければなりませんでした。

ここでコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

自分はケチャップとソーセージと乾麺のスパゲッティがあるので、ナポリタンを作ってタバスコと粉チーズをかけてこれから昼飯を楽しもうと思います。

では、ご拝読有難うございました。

・参考文献

辻原康夫 著 『世界地図から食の歴史を読む方法』

池上俊一 『世界の食文化15 イタリア』

チャールズ・パナティ 著 バベル・インターナショナル訳

『はじまりコレクション 1』

アレックス・バーザ 著 小林浩子 訳  『嘘の歴史博物館』

ウィキペディア 『ナポリタン』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%BF%E3%83%B3#.E5.8D.A0.E9.A0.98.E4.B8.8B.E3.81.AE.E6.97.A5.E6.9C.AC

食の歴史その16~フレンチポテトからポテトチップに至るまで~

21 6月

おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと願って、コラムを書いて見ました。

ビジュアルで分かりやすくなればと思って画像を幾つか入れていきます。

米、小麦、トウモロコシ並んで世界の4大作物とされているジャガイモは寒冷地や痩せた土地でも育ち。

イギリスの経済学者 アダム・スミス

イギリスの経済学者 アダム・スミス

「国富論」を書いた経済学者アダム・スミスも「ジャガイモは小麦の3倍収穫量がある」と評されています。

そのジャガイモ薄切りにして塩味つけてから揚げたポテトチップはある男が閃きや発明ではなく、腹立ち紛れに作ったものでした。

1853年の夏、ネイティブアメリカンのジョージ・クラムは、ニューヨーク州の高級リゾート、サラトガ・スプリングズのムーン・レーク・ロッジというレストランでコックをしていました。

そのレストランのメニューにはフレンチポテトがありました。

トーマス・ジェファーソン

トーマス・ジェファーソン

アメリカ建国の父で3代目大統領のトーマス・ジェファーソンが1785年からフランス革命が起こる1789年までフランス大使だった頃からフレンチフライが大好物で。1802年に「ポム・フリット」というパリ仕込みなフレンチフライのレシピを取り寄せ、来客者に出してから広まり、そのご本核的なディナー料理になりました。

そのフレンチフライをクラムが作って出したところ、客は厚すぎて好みに合わないと注文を取り消しました。

そこでクラムは薄く切って揚げたが、これも客は気に入らなかった。

腹を立てたクラムはこれでもかというほど薄く切ったジャガイモをフォークで刺せないほどカリカリに揚げて、客を困らせてやろうとしました。

ところが、紙のように薄くパリパリのジャガイモを食べた客は美味いと大喜び。それを見た他の客も競ってポテトチップを注文しました。

こうしてポテトチップはムーン・レーク・ロッジ特性のサラトガ・チップとしてメニューに載りました。

間もなくポテトチップは包装されて近所に売り出されましたら、最初は近所だけでしたが。次第にアメリカ東海岸のニューイングランド地方全域にまで広まりました。

この流れにのって腹立ち紛れにポテトチップを世界で最初に作ったクラムはポテトチップを呼び物にして自分でレストランを開きました。

当事はジャガイモを皮むきして薄切りにするうんざりする手作業でしたが。1920年代に皮むき機が発明されると、少量しか出回らない特製品だったポテトチップがアメリカで一番売れるスナックになる道が開かれていきます。

ハーマン・レイ Herman W. Lay 

ハーマン・レイ Herman W. Lay

ポテトチップは1853年に発明されてから数十年間主にアメリカ北部のディナー料理でしたが。1920年代にセールスマンのハーマン・レイが車のトランクに詰め込んでアメリカ南部を回り、食料品店を行商し、取引しては名前を広め。レイのポテトチップはブランドとなりました。

レイのポテトチップ lay's classic potato chips

レイのポテトチップ lay’s classic potato chips

そして、1961年にはコーンチップを作っていた会社を併合してよりアメリカ全土にポテトチップを生産して売り込むほどになりました。

一方日本ではコイケヤの創業者、小池和夫が飲みに行ったお店でポテトチップに出会い、「こんな美味しいものがあったとは」と感動し。もっと広くこの美味しさを伝えたいと思い、1962年に日本人の口に合うようにと、のり塩のポテトチップを売り出しました。

アメリカでは昔、ジャガイモは食べる寿命が縮むという迷信を信じて豚の餌にしていましたが。ポテトチップにするために油で揚げて塩をまぶした事から、高血圧と心臓病の原因の一つとなり。迷信ではなく本当に体に悪い食べ物となってしまいました。

皆さんもポテトチップを食べるときはお体にお気をつけて。

コラムは以上で終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その15~ビール6000年の歴史~

21 6月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶし用にコラムを書いてみました。
携帯やスマホで見る人もいるだろうと考え、あえて画像は載せていません。

ワインと同じくビールの歴史も大変古く。既に6000年前から飲まれていました。

十二進法の数字、数学やそれを書くための楔(くさび)形文字を発明したメソポタミアのシュメール人が、大麦の粥を外に放置しておいたところ、そこへ酵母が入り込み、自然に発酵したのが始まりだろうと推測されています。

シュメール人が書き残した最も古い記録を見ますと、当時はビールは「シカル」という名前で、農業の女神ニン・ハラに捧げられていた事が記されています。

しかし、現代のビールとは程遠く、ホップの代わりに薬草を放り込んで味付けした異様な匂いがするドロドロした液体だったようで、当事の人はこれをストローで飲んでいました。

残された記録から古代のビールの醸造法をたどると、

①水に浸して大麦を発酵させ、これを天日で干す、

②うすでひいて水を加えてこねる、

③軽く焼いて砕き、水に浸した大がめに入れて足で踏んで発酵しやすくする、

④発酵してドロドロになったところを布で濾(こ)す、

といった順序で作られていました。

作業は主に女性が行っていましたが、メソポタミアこと現代のイラクの夏の高温では貯蔵しても腐るようなので、出来上がったらすぐ飲んでいたそうです。

今から3700年以上前にバビロニアの「目には目を」「歯には歯を」で有名なハンムラビ法典には、世界で最も古いビールに関する法律も書かれています。

その法律の日本語訳を抜粋しますと。

「お寺の尼さんがビール酒場を開いたり酒場に立ち寄ったりすると火あぶりの刑」

「ビールの代金を麦で受け取るが、銀貨で支払ったり、麦で支払った人より安くビールを提供した女性は水中に投げ込まれる」

などと物騒な刑罰が用意されていました。

先ほど説明したように原始的な手順で作られていたため、粗悪品のビールも多くでまわっていたようで、2300年以上前にアレキサンダー大王の家庭教師をやっていた哲学者のアリストテレスは、

「ワインを飲むと四方に倒れてうつ伏せになるが、ビールを飲むとなぜか後ろに倒れて仰向けになる」
といってビールの悪酔いをこきおろしています。

実際、古代ギリシャ人や古代ローマ人は、ワインは神々の飲み物として称えましたが、ビールはギリシャやローマの文明が及ばない田舎の野蛮な人たちが飲む低俗な酒と考え、一般市民もほとんど口にしませんでした。

それと蛇足ですが、古代から酔い覚ましにはキャベツが効果あると説かれていました。

現在のようなビール文化を生み出したのは、古代ローマ帝国を滅ぼしてヨーロッパ各地を支配したゲルマン人によるものでした。

そのゲルマン人らは風味がよく、腐敗も防ぐ効果があることから、ビールにホップを使うようになったのは西暦700年代ごろから、と言われていますが、これによって格段にビールの品質が向上しました。

ドイツなどヨーロッパ北部では、当初、農民が自家製ビールを作っていましたが、1200年前にカール大帝がローマ法王とその教会を援助して法王から西ローマ帝国皇帝として戴冠(たいかん)されたころから、修道院でのビール作りが盛んになっていきます。

この頃、教会は10分の1税として農民から年貢を取っていたので、年貢として集めた大麦などの穀物が大量にある修道院は、一度に大量のビールを作るにはうってつけの環境でした。

ちなみに、最初の修道院ビールはスイスのザンクトガレン修道院で、西暦820年ころに作られたと言われています。

ドイツでは古くから身分や男女関係無く自由に集まってビールを飲む風習がありました。

このため、カール大帝では泥酔して堕落したと見なした国民をとりしまる目的で、裁判所に原告や証人が酔っ払った状態でやってくるのを禁止し、裁判の判決をくだす貴族もしらふでないと、裁く事は出来ないというお触れを出しました。

同時に酔っ払いの兵士は反省したのち、お上に許しをもらうまでは水以外飲んではいけないというお触れも添えられていました。

カール大帝のお触れは効果がなかったようで罰金刑にしたり、牢屋に三日入れられるなど厳しい罰も下しましたが、今も昔も酒と酔っ払いを取り締まるのは至難の業(わざ)のようです。

カール大帝の時代から百年以上経った中世ドイツの飲酒のマナーはことのほか厳しく、飲むほうもそれなりの心得を持って飲んでいたようです。

たとえば、貴族と商人が一緒にビールを飲むのは禁じられていましたが、学生と飲むのは許されました。

また、若い娘が真面目な青年とプラトニックな関係で飲む事は公に認められていましたが、たとえそのような人物だと思ってなかったにしても、下心がある男と飲んだ場合大いに非難されました。

いっぽう、乾杯にも様々な掟がありました。

本来は不在の人に捧げるのが乾杯の慣わしですが、たまたま不在の人の恋人が居る場合はその女性に捧げて乾杯する事が認められていました。

乾杯してからは一気飲みで全部飲み干すのが礼儀で、飲み干したらジョッキをひっくり返して一滴のビールも残っていない事を示すのが粋とされました。

飲み仲間に新しい客が入ると、各人が客にビールを献上するのですが、客がこれを断ると死をも意味するルール違反とみなされました。

このルールによって中世ヨーロッパではビールの席での流血沙汰がしばしば起こっています。

また、客が同席者と気が合わなかったり、ビールを飲み干せない時は隣の席の女性に限って、助けを求め、代わりに飲んでもらう事ができました。

こうしたルールがあるために貴族など育ちのいい人は若い頃からビールを一気飲みで全部飲み干せるよう鍛錬していました。

ビールは教会の洗礼式、葬式、商談、集会、あらゆる社交や儀式に必要な潤滑油だったので、多くの人が真面目に酒が強くなるよう努力していました。

西暦1500年代になると、都市部の中間層によって本格的なビール作りが行われ、この頃から立派なアルコール飲料になったと言われます。

1516年にはドイツのバイエルン公国のヴィルヘルム4世が、大麦麦芽、ホップ、酵母、水以外のものでビールを作ってはいけないとする「ビール純粋令」なる法律を打ち出しましたが、これが食品管理に関する最も古い法律とされています。

にもかかわらず、1700年代までは庶民や貧乏人が飲むものというレッテルが貼られ、偏見が根強く残っていました。

その後イギリスでビールの原料であるホップと麦芽に税金をかけたのをきっかけにアーサー・ギネスが発芽させてない麦を使って税金取られないように酒を作り、これがギネス・ビールの始まりとなります。

そして新大陸アメリカにビール文化が渡っていくと小麦などを使う余裕が無かったので、代わりにトウモロコシや米などで作った飲み口の軽いアメリカン・ラガーが生まれていきます。

そして1840年代からは産業革命で安く大量にガラスも作られるようになり、今のようなガラスのジョッキにビールを注いで飲む事ができるようになり、今に至ります。

コラムはこれで終わりですが、皆さん楽しんで頂けたでしょうか?

それでは良い1週間を。