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食の歴史その41~古代ローマの食卓その1 朝食編~

29 8月

おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになるようコラムを書いて見ました。

今回もビジュアルで分かりやすくなるよう画像や動画を色々使っていきます。

古代ローマ人は夜明けとともに起きて取る朝食をイェンタークルムと呼び。この朝食を祭壇に捧げて祈ってから食べていました。

ポンペイで発見された古代ローマのパン

ポンペイで発見された古代ローマのパン

朝食の内容は庶民ですと丸くて平らなパンと塩味のニンニク、そして水という内容でした。

こういった質素な朝食でも食べられるだけありがたいという庶民も多数おりました。

しかし、後で詳しく説明する「パトローヌス」から朝食をもらいますと、ローマのミルクの大部分がチーズの加工に使われ、ピンからキリまであり大量に出回っていたものも朝食に加わります。

同じチーズでも普通に加工されたチーズ、燻製にされたチーズ、チーズにドライフルーツとワインを入れて加熱した「イポトゥリマ」、すりおろしたニンニクとスパイスを混ぜた「モリトゥム」などがありました。

他にも果物とミルクかワインも加わり、腐らないよう硬くなっているパンを水でなければミルク、ワインに浸して食べたりしました。

朝食の主食であるパンも蜂蜜入りロールパン、平らなケーキ「プラケンタ」、お供え菓子「リープム」などがありました。

古代ローマの軽食屋 バール

古代ローマの軽食屋 バール

こういった多少手の込んだパンやチーズ、ミルク、ワインなどを当事庶民が島を意味する「インスラ」という水道は通っておらず、ろくな台所も無いに等しい7階建て以上ある高層アパートに住んでいた事情もあって、バールと呼ばれる軽食屋か屋台で買って済ませたりもしました。

このバールではイチジクを固めたもの、ゆで卵、塩漬け魚、ローストチキンも注文でき、飲み物はホットワイン、ホットワインの中でも人気があったのは蜂蜜やスパイスを加えた「ピペラーツゥム」でした。

これだけ豊富にあれば満腹になりますが、朝食をガツガツ食べるのは育ちが悪いとされ。朝食は貴族も庶民も軽く済ませ。バールや屋台などでガツガツ食べられるメニューは昼か夕方に注文しました。

屋台や店で使うお金が無い庶民にはタダで朝食にありつく方法もありました。

それは個人的な保護者を意味し、パトロンの語源でもある「パトローヌス」という貴族、金持ちへ挨拶に行く事でした。

この面倒見のいい親方か先輩的な存在の貴族、金持ちに保護されている庶民を「クリエンテス」と言いますが。保護の対象になった庶民には「スポルトゥラ」というカゴに入った食べ物が与えられることがあります。

もらった朝食は食べてもいいし、売ったり交換してもお咎め無しでした。

「パトローヌス」は朝食だけでなく就職の斡旋、結婚相手探し、借金の保証人などの世話もします。

そうやって世話してもらった庶民たちはこの「パトローヌス」が選挙で立候補したあかつきには投票するだけでなく、熱心に選挙活動したりして日ごろの恩返しをしたりします。

小さな国の国家予算レベルに等しい借金をしているので、転勤しようとしたら借金取りに囲まれて外へ出られない事もあったジュリアス・シーザーや初代ローマ皇帝とされるアウグストスも軍隊を使った実力行使だけでなく、「パトローヌス」として庶民たちを世話した結果できた沢山の支持者の票が背景にあったので君臨できたという話もあります。

さて、様々な手段で得た朝食を食べた後は歯磨きをします。

歯磨き粉の原料は人の尿を原料とした歯磨き粉でした。

尿素は現在でも歯の美白に使われているので意外と合理的なのだそうですが。何故かポルトガル人の尿が特に歯によいと信じられており。時間とお金と労力をかけてローマからはるか遠くポルトガルまで出かけて調達していました。

尿を原料とした歯磨きをしてもローマ庶民が朝から食べるニンニクの匂いが気になるのか、虫歯予防の薬草と匂い消しの効果があった香料のはいった飴を舐めていました。

砂糖も蜂蜜も今より貴重品で博物学者プリニウスが書きのこした文書には「鉛の鍋で腐敗したワインかブドウ汁を煮詰めるとサパが得られる」とあり。サパという鉛を含んで明らかに体に悪い人工甘味料で代用するほど果物以外の甘い物が乏しく。歯を磨いたあと、現代人には想像のつかない不味い飴を舐めていたようでした。

以上でまずは古代ローマ人の朝食を紹介してみました。次は古代ローマの昼食、夕食を紹介してみたいと思います。

皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

番外編 カミソリと脱毛の歴史

26 8月

こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いてみました。

今回もなるべく画像を使って分かりやすくしたいと思っています。

体毛を剃る習慣は10万年以上前から存在しており、20万年前に出現したとされるネアンデルタール人の壁画に二枚貝で挟んでピンセットのように毛を抜く様子が描かれており。しばらくすると灰色の石で研ぎやすく切れ味の良い「フリント」という石で削るように体毛を剃っていたとされています。

何故に10万年以上昔から体毛を処理していたかと言いますと。体にノミ、シラミなどの寄生虫をつかないようにするなどの理由で衛生を保ち、健康面に気を配ったのだろうと推測されています。

それから時代を経て5500年前には金属製の髭剃りが作られており、遺跡から発掘されています。

古代エジプトでは体毛があるのは不潔とされ、上の再現図のようにするため。金や銅で出来たカミソリで体中の体毛を剃ったり、デンプンや油、香料を混ぜたジェルのようなもので全身のムダ毛をはがして脱毛を行い。エジプトの王であるファラオは全身をツルツルにしてからカツラを被っていました。

それを見た古代ギリシャの歴史家ヘロドトスは「エジプト人は暇さえあれば髭剃りしている」と評しています。

古代バビロニアでは5000年前には灰汁と油を混ぜた石鹸の元祖をシェービングクリームのように使い、髭を剃る理容師という職業が既に存在し。腕の良い理容師は政府高官や医者として高い地位にあり。そのバニロニアに征服されバビロン捕囚を経験したヘブライ人の子孫が書いた聖書にも理容に関する記述が見られます。

ヨーロッパでも古代ギリシャで発掘された金属性のピンセットや刃物で体毛を剃ったり抜いたりし。アリストパネスの戯曲『女の平和』では浴場で女性同士が脱毛された下腹部を話題にする描写があり。

具体的には世界各地の美術館にある彫像から古代ギリシャ女性がいかにムダ毛処理を徹底させていたかをうかがい知る事ができます。

こちらは古代ローマ時代に発掘された金属製の髭剃りです。

こちらは発掘された髭剃りで髭剃る様子を再現した図です。

古代ギリシャを征服し、ギリシャ文化が流入した古代ローマでは2200年ほど前から兵士が軽石で髭を剃って清潔を保ち、自由市民は奴隷と区別するために髭を剃らなくてはいけなくなる一方、奴隷は髭を伸ばすよう決められ。ローマ帝国になって巨大な公衆浴場が幾つも建造された時代になりますと、ピンセットや脱毛ジェルなどを使って髭以外のムダ毛を処理する風習が庶民にまで広がりました。

キリスト教を弾圧した暴君とされる皇帝ネロ(37~68年)の家庭教師だった哲学者のセネカは、

「公衆浴場はブチブチ体毛を抜く時のうめき声でうるさい」と評しています。

ローマ帝国が崩壊し、ヨーロッパ各地に侵入したゲルマン人が複数の王国を建てた中世になりますと、理容師は髭剃りだけでなく、怪我の処置や四肢の切断まで行う外科医、虫歯を抜く歯医者も兼務しており。

オペラ『セビリアの理髪師』では金さえ出せば何でもやってみせる便利屋として登場します。

ジレット安全剃刀の特許の図

ジレット安全剃刀の特許の図

古代バビロニアの時代から鋭利で危険な刃物を使って髭をそるのは専門家の仕事でしたが、200年と少し前にフランスのジャン=ジャック・ペレが安全カミソリを発明し、その後イギリスで試行錯誤されたものが製造され。1901年にアメリカの発明家キング・キャンプ・ジレットが使い捨ての替え刃を取り替えるT字型安全カミソリを発明。これによって大多数の人が自分で安全に毛を剃る事ができるようになりました。

第一次世界大戦(1914~1918年)にジレットは安全カミソリを軍と契約して350万本の安全カミソリ本体と3200万本の使い捨て替え刃を供給してアメリカ中の男性に普及しました。

明治になって開国し、文明開化した日本でも日本刀などの刃物を作る刀鍛冶の伝統と歴史のある岐阜県関市で誕生した貝印株式会社が1932年に国産初の安全カミソリを製造し。戦後も安い安全カミソリを全国的に売り、今も国産のカミソリと言ったら「貝印」が有名となっています。

1921年にジェイコブ・シックがアラスカに赴任した際、水が凍って従来のカミソリでは髭が剃れないので電気カミソリを考案してから様々な電気カミソリが製造されていきます。

駆け足で髭剃り脱毛の歴史を紹介していきましたが以上でコラムは終わりです。

皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?最後に日本語字幕つきのオペラ「セビリアの理髪師」序曲をどうぞ。

食の歴史その40~砂糖と爪楊枝~

19 8月

こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いてみました。

今回もビジュアルで分かりやすくすべく、画像を多用してみます。

砂糖の原料サトウキビはインド原産で2500年ほど前には製糖されていたとされています。

アレキサンダー大王(紀元前356~紀元前323年)がサトウキビの産地インドまで遠征し、「蜜の葦」の存在を伝えた頃にヨーロッパにも砂糖は伝わっており、古代ローマにて使われていましたがローマ帝国が崩壊し中世になるとヨーロッパへの砂糖の供給が滞ります。

イスラム帝国の勢力範囲

イスラム帝国の勢力範囲

砂糖の生産地はイスラム帝国のアラブ人が入植したスペインとシチリア。そして中近東であり。サトウキビが育たないヨーロッパではヴェネチアに運ばれて再び製糖された砂糖を大変な高値で取り引きされていました。しかし、1096年からそれを覆す事件が起きます。

十字軍征服路

1096年から始まった十字軍が砂糖の生産地を占領し、再びヨーロッパへ直接供給されていきますが、1300年頃から勢いの増したオスマントルコ帝国に駆逐され、千年にわたって東ローマ帝国の帝都だったコンスタンティノポリスが1453年に陥落してから砂糖の供給がほとんど無くなってしまいました。

マデイラ島とカナリア諸島

マデイラ諸島とカナリア諸島

ところが、1419年に大西洋のマデイラ諸島が、1480年にカナリア諸島が発見され、技術者を送り込んで砂糖の生産が始まりました。

こうして生産された砂糖が値崩れしないようヨーロッパに供給する数は制限され、イギリスでは450グラムの砂糖でレモン240個が買えたましたので、現代の価格に相当しますと、約14000円相当となります。

イギリス女王エリザベス1世

イギリス女王エリザベス1世

そんな高値でも砂糖がヨーロッパ中に出回り、砂糖を使った様々な菓子が考案され洗練されていきます。

砂糖を使った菓子類が大好物のエリザベス1世(1533~1603年)は歯が虫歯で真っ黒だったと伝えられています。

爪楊枝を使う右端の女性

爪楊枝を使う右端の女性

当時は黒くなった歯に石灰で磨いたり硝酸で漂白などを行い、虫歯を抜くために歯医者という職業も出現し。古代インド発祥の爪楊枝で上の食卓風景の絵にある右端の女性のように歯をほじるのがステータスとなり、爪楊枝には金属製ブローチのように彫刻や宝石がついていました。

1700年代ヨーロッパの三角貿易

1700年代ヨーロッパの三角貿易

しかし、時代は進みイギリスなどがカリブ海やアメリカ大陸に植民地を持ちますと、上の図に見られるような三角貿易によって西アフリカから連れてきた奴隷をカリブ海などへ砂糖を作るための労働力として送り、砂糖の大量生産が行われヨーロッパにもっと安く供給されるようになりました。

イギリス産業革命

イギリス産業革命

こうして庶民にまで砂糖を入れたコーヒーや紅茶が広まり、産業革命にも陰ながら貢献していきます。

それまでの労働者は水の代わりにビールやワインを飲んでいたので、酔っ払って作業効率が悪くなりましたが。コーヒーや紅茶は逆にカフェインで目が冴え、一緒に入れた砂糖から手っ取り早くカロリーが摂取できるので、素早く体を動かすエネルギーが得られ、労働効率が上がっていきました。

そういった事情からか、1800年代に「世界の工場」と言われた頃のイギリスでは温かいミルクティーが1度の食事と同等の扱いをされていました。

カフェ・プロコープのヴォルテール

一方、同じく砂糖が安く手に入るようになったフランスでは1674年からカフェが始まり。家に閉じ込められていた女性たちもカフェに出入りする事が許され。カフェではコーヒー、紅茶、ココアなどの飲み物の他にお菓子、果物の砂糖漬け、シャーベットが出されました。

1721年にはパリに300軒ものカフェが営まれ、フランス革命後の1800年になると2000軒を越えるまでになりました。

パリの数あるカフェの中でも「カフェ・プロコープ」はすぐ近くの劇場で劇が終わると貴族や金持ち、知識人がやってきて。イギリスのコーヒーハウス同様、貼り出されたその日のニュースなどを見て情報交換や討論を行い、噂の発生源ともなりました。

この由緒ある「カフェ・プロコープ」に出入りした客の中に宗教と科学の分離を促す啓蒙思想の大家ヴォルテール。

絶対王政に反対し、権力を司法、立法、行政の3つに分ける三権分立を説いたモンテスキュー。

「人民主権」を提唱し、後の民主制や選挙制度に影響を与えたルソー。

などが出入りし、彼らによって後のフランス革命に繋がる革命思想が芽生えました。

こういった知識人が出入りしたカフェについて1721年にモンテスキューはこう書いています。

「もし私がこの国の統治者だったら、カフェなど閉めてしまうだろう。なぜなら、ここに集まってくる人々は頭にひどく血が上っている。居酒屋で酔っ払わせているほうがずっとましだ。少なくとも、酒に酔っても自分にしか害を及ぼさないが、カフェで議論に酔った連中は、国の将来にとって危険なものになる。」

こうしてコーヒーや紅茶に入れられた砂糖は陰ながら近代思想にも影響を与えたりもしました。

もし、ヨーロッパに砂糖がなければ現代につながる近代国家も産業革命も生まれなかったことでしょう。

以上でコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その39~大航海時代の食卓~

16 8月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いて見ました。

今回もビジュアルでわかりやすくするために画像を沢山使う予定です。

 

スパイスは厳密には「香辛料」と言い。料理の風味を引き立て、食欲をうながす調味料の一つとなっています。

麺類だけでもソバなら唐辛子かワサビ、ラーメンにはコショウ、そうめんにはショウガといったようにセットになっているのでわかるように現代の食生活にスパイスは欠かせない物となっています。
このスパイスを使った歴史は古く、人類がスパイスの存在を知ったのは5万年前からだとされています。

ミケランジェロ作「天地創造」

ミケランジェロ作「天地創造」

聖書にある天地創造の天上会議で出されたワインにゴマが入っていたという伝説がありますが、これがスパイスの始まりとも言われています。

2300年ほど前にギリシャからインドまで遠征したアレキサンダー大王がペルシャの皇帝と戦う前に、ペルシャからアレキサンダー大王に宛ててゴマの実を送られたのに対し、マスタードをペルシャに宛てて送り返したという逸話もありますので、昔から王侯貴族や金持ちはスパイスで食卓を彩っていましたが大変高価で。

インドネシア西部のマラッカ諸島

インドネシア西部のマラッカ諸島

大航海時代以前のクローブの価格だけでも原産地のインドネシアにあるマラッカ諸島からヨーロッパに運ばれまでにインドや中東のアラビア商人、イタリアのヴェネチア商人を経由してヨーロッパ各地に至ると原価の360倍にもなっていました。

このような暴利に音を上げたヨーロッパ諸国はヴェネチア商人も中東のアラビア商人も介さずに直接スパイスを手に入れる独自ルートを手に入れるためにインドや中国、聖書に出てくる東の楽園エデンの園だとみなされていたマラッカ諸島へ向かうべく船を出して探しに出て行き、大航海時代が始まります。

アメリカへ向かったコロンブスのサンタマリア号

アメリカへ向かったコロンブスのサンタマリア号

マルコ・ポーロの「東方見聞録」を信じてジパング、中国を目指したコロンブスが1492年にアメリカを発見。1498年にバスコ・ダ・ガマがアフリカ最南端の喜望峰を経由して直接インドへ向かう航路を発見。1522年にはマゼラン率いる船団がマラッカ諸島を発見し、世界1週をして帰ってきました。

このような華々しい成果の陰には船乗りの厳しい食生活がありました。

1度の航海に3ヶ月分の食糧を積み込みますが、その内容は今よりも硬く味気の無いビスケット、塩漬け肉、塩漬け魚、干し魚、乾燥した豆やニンニク、チーズ、玉ねぎ、果物、ビール、ワイン、真水、油、酢、塩などですが。船出して数日で新鮮な野菜、果物は無くなり、その後はひたすら塩漬けの肉類とビスケットを食べ続けるほかありませんでした。

何週間もするとビスケットにもコクゾウムシが湧き、ネズミにかじられその糞も付着し。塩漬け肉もウジが湧いてドロドロになっていきます。水も黄ばんで汚水となり、ワインやビールを飲むほかありません。

こうした食生活で沢山の船乗りの命を奪ったのがビタミンC不足による壊血病でした。

壊血病は倦怠感の顔色の悪化に始まり、歯茎や口の粘膜からの出血、皮膚内出血、手足のむくみなどが起こり最悪は衰弱死します。

ある船乗りの日誌の中には、壊血病の身の毛のよだつような内容が記録されています。

「俺の歯茎はすっかり腐ってしまった。真っ黒な腐った血が流れ出ている。太ももは壊疽を起こしていて、俺はナイフでこの腐った肉を削り取って、どす黒い 血を無理やり流しだす。土気色になった歯茎もナイフで削り、腐った血をしぼり出す。俺は小便で口をゆすぎ、強くこする。ものを噛めないので、飲み込むしか ない。毎日この病気で仲間が次々と死んでゆく。包みや戸棚の裏でいつの間にか死んでいて、発見された時は目や指はネズミにかじり取られてなくなってい る・・・・。」

バスコ・ダ・ガマの10ヶ月にのぼる長期航海でもこのような地獄絵図が船乗りに起こり、出発した時は170人いましたが壊血病で次々と死んでゆき、ヨーロッパに帰ってきたときは44人しか残っていませんでした。

キャプテン・クックことジェームズ・クック

キャプテン・クックことジェームズ・クック

この壊血病による船乗りの死人を出さないようになったのは大航海時代が始まって250年以上も経ってイギリスのキャプテン・クックことジェームズ・クックの登場を待たなければなりませんでした。

ザワークラウトとソーセージ

ザワークラウトとソーセージ

1753年にイギリス海軍省のジェームズ・リンドが新鮮な野菜を食べたら壊血病が防げる事を発見し、キャプテン・クックが1768~1771年にかけての長期航海にて1500年代から1700年代にかけてヨーロッパ全土に伝わった千切りキャベツと塩を瓶に詰めて発酵させた漬け物ザワークラウトを積み込ませ、船乗りに食べさせたところ、壊血病で死ぬ者が一人も出さなかったという功績を残しました。

その後、イギリスの軍艦には壊血病予防にライムが詰まれ、長い航海中ひたすらライムをかじっていたのでイギリス人の事を「ライミー」と呼んだりします。

今も「ライミー」という言葉が使われていまして、邦題『イギリスから来た男』という映画も原題はイギリス人を意味する『THE LIMEY』です。

最後にその『THE LIMEY』からテレンス・スタンプ演じるイギリスから来たおじいちゃんの話すコテコテのイギリス英語をどうぞ。

よく聞けば、英語わからなくても何とくアクセントや話しかたがアメリカ英語と違うなあと感覚でわかるかと思います。

以上でコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

 

食の歴史その38~長い間高貴であり続けたチョコレート

11 8月

こんばんは、今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いて見ました。
ビジュアルで分かりやすくするために画像をいくつか使ってみます。

メキシコのカカオの実

メキシコのカカオの実

チョコレート、ココアの原料はカカオですが。原産地の中南米では3900年ほど前から利用され、栽培されている事がマヤ文明、アステカ文明の遺跡から明らかになっております。

当時カカオは貴重品でお金の代わりにもなっており。マヤ人の間ではカカオの断片10個でウサギ一頭、カカオ4粒でカボチャ1個、100粒で奴隷が買えました。

今でも偽札を作る人は沢山おりますが、カカオの皮に灰を詰めた偽物を作って騙す悪いマヤ人もいました。

壁画:コルテス率いるスペイン軍のアステカ征服

壁画:コルテス率いるスペイン軍のアステカ征服

このカカオを最初に発見したヨーロッパ人は1502年に中南米のポンジュラスでカカオの種を見つけたコロンブスですが、彼が一緒にヨーロッパへ持ち帰った唐辛子と同じく忘れられ。メキシコにあるアステカ帝国を征服したコルテスが1519年にカカオを煎って砕き、熱湯を加えてかき混ぜて泡立ったものを飲む利用法を知り、ハプスブルグ家の血を引くスペイン国王カルロス一世に献上されました。

スペイン名物 チョコラテとチュロ

スペイン名物 チョコラテとチュロス

それ以来、「苦い飲み物」を意味するココアは最初、貴族が朝食前のベッドで飲んで滋養強壮に使っていましたが、次第に王侯貴族だけでなく、教会の神父や女性にまで流行し。

南米では唐辛子などを入れて飲まれていたココアをスペイン宮廷で工夫を凝らし砂糖、バニラ、シナモンを入れたチョコラテとして飲まれ。揚げ菓子のチュロスと一緒に楽しむ文化も生まれました。

東京ディズニーランドに行った人なら食べた事があるであろう、チュロスは。本場スペインでは単体で食べるだけでなく、チョコラテと一緒に食べるのも定番となっています。

1600年代のスペインでは良家の娘の嫁ぎ先に持参金かわりにカカオを持って行く習慣があり、1615年と1660年の2度にわたってフランスに嫁いだ王女によってココアはフランスにも定着していきました。

ハプスブルグ家の女帝マリア・テレジア

ハプスブルグ家の女帝マリア・テレジア

1736年。フランスの近くからハプスブルグ家の本場オーストリアの女帝マリア・テレジア(1717~1780年)へ婿入りしたフランツによってウィーンの宮廷にも伝わり夫婦仲良くココアをたびたび飲まれました。

当事、ココアはコーヒー、紅茶の3倍の値段で取引され。いまだ珍重された飲み物でしたが、マリア・テレジアとフランツ夫妻が愛飲したココアは乾燥させたバラとジャスミンの花びらをココアパウダーに混ぜて数日間保存して香り付けしたものですが、花びらで香り付けする習慣はアラビアの食文化とされ、アラビアではバラの風味のついた水や油が使われていました。

ですので、ハプスブルグ家のココアは東洋と西洋が融合されたメニューといえるでしょう。

ザッハトルテ

ザッハトルテ

その後、ハプスブルグ家の歴代皇帝に仕えた宰相メッテルニヒが1832年、フランツ・ザッハーに飽食した貴族のために新しいデザートを作るよう命じたところ、1700年代からあるココア風味のケーキをひと工夫加えたザッハトルテを作ってだしたところ、フランツ・ザッハーの特別料理としてウィーン中の話題となり、世界中に広まっていきます。

それから15年経った1847年、イギリスのジョセフ・フライが固形チョコレートを発明し、スイスではネスレの創業者アンリ・ネスレがミルクチョコレートを大量生産して世界最大の食品会社ネスレの礎を築いていきます。

チョコ専門職人ショコラティエとデザート

チョコ専門職人ショコラティエとデザート

こうしてネスレを筆頭とした大企業によって規格化され、大量生産されたチョコレートのおかげで値段が下がり、庶民にもチョコレートが広まる一方、ベルギーやフランスを中心にチョコ専門職人ショコラティエが作る高級チョコレートの店が立ち並び、ヨーロッパでは差別化が図られてきました。

ブラウニーケーキ

ブラウニーケーキ

こうしたチョコレートが大西洋を渡ってアメリカに到着し、1893年のシカゴ万博にて「万博に参加する女性のために、ケーキひと切れよりも小さくて、お弁当箱から気軽に出して食べられるようなデザートを作ってほしい」というリクエストに応えてブラウニーというお菓子が考案されました。

ここから家庭でも作れる様々なチョコレートケーキのレシピが出回るようになり、太平洋を越えた日本でもレシピサイトのクックパッドに「ブラウニー」とキーワードを入力すると、1760種類ものレシピが出てくるのを氷山の一角に、多彩なチョコを原料としたお菓子が企業、家庭問わず作られております。

カカオからチョコレートに至る歴史をかいつまんでかいていましたら、むしょうにチョコが食べたくなったので、今日は寝る前に板チョコを冷凍庫に入れた物を出して夜食にしようかと思います。

以上でコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その37~古代バビロニアと野菜、果物~

9 8月

こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしにと思ってコラムを書いてみました。

今回も画像を使ってビジュアル的に分かりやすくなればと願っています。

ナツメヤシの樹

ナツメヤシの樹

ナツメヤシは古代エジプトや古代バビロニアにて8000年前から栽培されていると考えられており、アラビアで6000年前に栽培されたのが確認され、3000年以上前に栄えたアッシリア帝国の王宮建築の石材に刻まれたレリーフにナツメヤシを人工授粉させる光景があったりと、古代人に馴染み深い植物であります。
これだけ馴染み深いのは炎天と塩害に強く、ナツメヤシの実はビタミンと糖分が豊富で食べ方も生食、パン、酒、家畜の飼料、ジャム、ジュース、ドライフルーツと多種多様で、葉っぱも幹も芽も使えて捨てる所がなく、大きくなると樹高25メートルにもなり、古代バビロニア文明が栄えた場所は雨が少なく、日差しが強く40度を越える事も珍しくないため、野菜を栽培するのに適していない土地ですが、この大樹の木陰でタマネギ、ネギ、ニンニク、キュウリ、カボチャ、レタス、カブなどの野菜を栽培できたため、古代中東では豊穣の象徴や神聖なものとして彫刻にも残されており。『旧約聖書』に出てくる「生命の樹」もナツメヤシの事を指しています。

これだけ利点のあるナツメヤシを3750年ほど前にバビロニアで作られた「目には目を、歯に歯を」で有名なハンムラビ法典でもナツメヤシの果樹園を保護するように法律で決めていました。

ただ、唯一の難点は実をつけるのに5年かかり、成木となるのに10年かかる事です。

アッシリア時代の受粉の儀式 神官とナツメヤシ

アッシリア時代の受粉の儀式 神官とナツメヤシ

このため、古代人は春になると梯子をかけて木に登り、雄の樹の花粉を取っては雌の樹の花につける世界で最も古い人工授粉を行っておりました。
また、メソポタミアでは都市に届く野菜の値段が高い事から、野菜が買えない理由によりビタミン不足で眼病を患う貧民も多く、目の不自由な貧民はナツメヤシの世話をして働く場所として認められていました。

ギルガメシュ叙事詩

ギルガメシュ叙事詩

野菜と果物が不足することによるビタミン欠乏症は昔からの経験則で知られており、健康のために野菜を取る教訓が転じたのか、4000年以上昔に編纂された『ギルガメシュ叙事詩』には不老長寿の薬草として野菜が登場し、野菜は健康維持だけでなく回春の薬ともみなされていました。

3600年前のバビロニアから出土された世界最古のレシピでは40種類ある中で20種類の料理にはタマネギ、ネギ、ニンニクのいずれかが必ず使われており、レタス、カブ、カボチャも好まれていましたが、多くは煮込み料理に使われており、煮込みの料理法も研究され、野菜を煮崩したりパンを加えるなどしてとろみをつけてポタージュのようにするのが流行っていました。

飲み物では40度を超える暑さのために冷たいソフトドリンクがいち早く作られ。最初はレモン、ザクロ、イチジク、リンゴなどを絞った生ジュースや飲み水に果汁を入れて味と香りをつけ、他にも保存の利く乾燥ナツメヤシやレモンを煮出して作る作ることもありました。

乾燥レモンを煮出したハーモズ

乾燥レモンを煮出したハーモズ

乾燥果物は甘味料やケーキの材料として広く出回っており、各家庭で使いやすく便利だったことから、今でもイラクには熱して潰してから乾燥させたレモンの煮出し汁の「ハーモズ」がありますが、これは古代から受け継がれた文化遺産の一つだったりします。

余談ですが、独特の苦味と酸味のあるハーモズは二日酔いに効くと評判だそうです。

現存する古代の素焼きの壷

現存する古代の素焼きの壷

古代では生ジュース、乾燥果物の煮出し汁を冷たくする工夫として素焼きの瓶に入れて冷暗所で保管し、移動の際には皮袋に移し替えます。

素焼きの瓶や皮袋には少しずつ表面に水分がにじみ出てくる性質があり。滲み出した水分は蒸発して気化し、その気化熱で中身が冷やされるなどの工夫が凝らされていました。

他には夏に振ってきた雹(ひょう)や北方の山にある氷や雪などを集めては地下室の倉に運び、ワラで包んで溶けないよう保存していました。

こうして保存した氷などで涼をとった記録はあちこちにありますが、そんな事が出来たのは大きな地下倉庫を持つ上流階級だけでした。

一般庶民も夏にアイスクリームなどで涼を取れるようになるには1560年、ローマに住んでいたスペイン出身の医者プラシウス・ヴィリャフランカが雪と氷の入った桶に硝石を入れると材料が氷点まで下がる事を発見し、大量のアイスクリームを凍らせる事ができるようになるまで待つしかありませんでした。
今日も暑いので自分はミントチョコアイスで涼を取りたくなってきました。

以上でコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

世界の食文化その3~イスラム教の食事マナー

8 8月

こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いて見ました。

今回もビジュルアルで分かりやすくするために幾つか画像を使います。
イスラム教では、預言者ムハンマドの行動を信者の慣習と定め、イスラム教にとって民法、刑法、行政法というありとあらゆる範囲にまで及んでいるイスラム法のシャリーアを学ぶ上で重要な第1経典『コーラン』の次に重要な第2経典『ハディース』という経典にまとめられています。
その中から、食事に招かれたときの礼儀作法やマナーなどをおおまかに説明していきます。
まず基本は多くの人で分け合って食べる事です

経典にも「二人分の食べ物は3人に十分であり、3人分の食べ物は4人に十分である」として列席者が増えるのを歓迎されます。

こうして列席者もそろったところで大皿に盛られた料理は必ず蓋をして運ばれてきます。これは悪魔が料理に悪さをするのを防ぐためで、イスラム教では悪魔を意識した行動が数多く。

例えば、食事に右手を使うのは、悪魔が左利きとされているからです。

そのため、全ての行為は右から行い。順番は右回り。歩く時も右足から歩き、文字を書くときも右から左へ書き。上座(かみざ)も右側とされています。

クルスィー

クルスィー

食事の席は円形の敷物に「クルスィー」という小さなテーブルのようなものを置き。その上に「シーニーヤ」という金属製の大きな盆が置かれ、これは平安と祝福があるようにと預言者がした行いに近いものとされています。

シーニーヤ

シーニーヤ

そして、敷物の上に置かれた大きな盆の周囲に置かれたゴザに靴を脱いで座り。この時は寄りかからず、片ひざを立てます。

この片ひざの立て方も右ひざを立て、左足に重心を置くようにと決まっています。

こうやって詰めて座る事によって多くの人が列席できるようにするためと、胃を圧迫して食べ過ぎないようにするためです。

経典に「・・・(胃の)1/3は食事に、1/3は飲み物に、1/3は呼吸のために」とあって食べすぎが厳しく戒められ、ベルトもきつく締めるように言われます。

イスラム教では異教徒は腸(はらわた)が7つあるが、イスラム教徒はひとつの腸を満たせば良いと言われ、預言者ムハンマドは痩せて健康的であるのが望ましいと語ったとされてあるので、その影響から小食で満足できる工夫がされたのかも知れません。

ただ、イスラム教は例外事項も多く。座るスペースに余裕があれば、あぐらをかくのも許されます。

中東の水差し

イブリーク(水差し)

こうして準備が出来たら水差しから注がれた水で手を洗い、食後も同じく手を洗います。

食前と食後の手洗いに関してイスラムの学者は石鹸や洗剤で洗うのが好ましいとも述べています。

こうして準備が整うと、いただきますにニュアンスの近い言葉として「神の御名にかけて」を意味する「バスマラ」と唱えて食べ物が浄化されたと見なされてから食事が開始されますが、最初に食べるのは年長者、徳のある人から食べ始め、それから他の人も食べ始めます。

もし、うっかりバスマラと唱える前に食べてしまった場合は気づいた時点で「始めも終わりも神の名において」を意味する「ヒズミッラー・アッワリヒ・ワアーヒリヒ」と唱えると良いとされています。

素手で食べる場合は右手の親指、人差し指、中指を使って、一口分だけちぎって口に運び。よく噛んで口に入っている食べ物を飲み込むまで他の食べ物に手を伸ばさないよう注意します。

パンをちぎる場合、肉から骨をはがす場合など、両手で行う必要がある場合は左手を使う事も許されています。

イスラムの食事風景

イスラムの食事風景

こうやって近くの皿に盛られた食べ物に手を伸ばし、黙って食べないよう談笑して時間をかけ、音を立てず、美味そうに食べていきます。

リチャード・フランシス・バートン

リチャード・フランシス・バートン

余談ですが、通称『アラビアンナイト』とも『千夜一夜物語』とも言われるイスラム文学の翻訳者である1800年代を代表するイギリスの探検家リチャード・フランシス・バードンがイスラム圏に滞在していた時に、母国で食事する時と同じように静かに食べていたところ、周りにいた人から
「君はなんだって小動物みたいにそんなに静かに食べるんだ。食欲がないのか?もっと、にぎやかに食べなさい。」と言われたそうです。

話を食事マナーに戻しますが。食事中、皿の位置を変えたり、美味しそうな部分を独り占めしてはいけません。

他にも嫌いな料理はスルーして文句は言わない事。客は好き嫌い関わらず、勧められても勧めた側の家族が食べ残しで食事をするためにも、あえて遠慮します。

その他のマナーも箇条書きにしますと。

・よく噛んで時間をかけて食べる。

・人に「食べろ」と言って困らせない

・人が食べている姿をじっと見つめないよう心がける。

・複数の料理を1度にまとめて口に入れない。

・音を立てずに食べる。

・食べるときに他人の服にこぼしてを汚さないように気を付ける。

・口の中に食べ物があるまま喋ったりしない。

他にも大事なマナーとして食事中に指を舐め、その舐めた手で料理を取ってはいけない。というのがありますが、食が進んで満腹になってきて手を止めてから指をなめるのは満腹を示す仕草として推奨されています。

それから口に水を拭くってゆすぎ、手をハンカチなどの布でぬぐいます。

ミスワーク

ミスワーク

預言者ムハンマドは木の枝でできた歯ブラシ「ミスワーク」で歯磨きしてから口をゆすぐ事を推奨していますので、食後に歯磨きをする場合もあります。

手をぬぐい、水で口をゆすいだらニュアンス的にはご馳走様を意味する「ハムダラ」と唱えて席を立ちます。

他の人も満腹を感じたら「神に感謝を」を意味する「アルハムド・リッラー」と唱えて席を立ちます。

ムルジファーン

ムルジファーン

こうして席を立つと別室で食後のコーヒーか紅茶が出される場所へと移動し。先ほど食事終了したさいに手を布でぬぐった手をより清潔にするためテシュト(水受け)の上にイブリーク(水差し)を載せた、運ぶときに金属の擦れ合う音を立てる「震え声をたてるもの」を意味するムルジファーンという道具が運ばれてきますので。この道具で手洗いをします。

この手洗いを「あきらめの父」を意味する「アブー・イヤース」と言われます。

コーヒーを注ぐイスラム教徒

コーヒーを注ぐイスラム教徒

手洗いを済ませて運ばれる飲み物にもマナーがあって、右手で器を取り、中身を確認してから穏やかに口をつけて3度にわけて飲みます。

食後に用意されるのはコーヒー、紅茶だけでなく、「余力の父」を意味する「アブー・サルウ」と言って、香炉で香を焚いて食事中についた匂いを落とし、さっぱりさせて出ていけるよう気づかいをする場合もあります。

食事を開いたホストの家の格によってお香のグレードが上がったりします。

さて、世間でも広く知られており、このブログでも取り上げましたが、イスラム教では豚と酒がタブーで。

豚成分の入った調味料、豚肉に触れた食器、酒を注いだコップを使うことさえ禁じられています。

20090707-mark_ajinomoto

そのせいもあって2000年に、味の素の成分に豚の酵素が入っているとしてのインドネシアの現地法人の社長が逮捕され、味の素の製品が姿を消しましたが。その後、豚の酵素を使わない商品をだして製造販売を許可をされ、現地法人の社長も釈放され、再びインドネシアで味の素の商品が出回るようになりました。

2000年に起きた味の素の事例でも分かるとおり今でもイスラム教では大雑把に言うと豚や酒が駄目でイスラム法で許可された食材しか食べてはいけないとする「ハラール」があるため、敬虔なイスラム教徒は一般的な日本人の家で食事する事はないでしょう。

以上でコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

世界の食文化その2~箸を使う国々のユニークな食作法~

5 8月

おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いて見ました。

今回も画像をつけて説明していきたいと思います。

古来、朝鮮半島では、中国から伝わった儒教の考えが深く根付いていて、なかでも最も重視されているのが「長幼有序(チャンスユソ)」、つまり年下は目上の人を敬わなければならないという年功序列の考え方が徹底し。それは食事作法の中にも連綿と受け継がれています。

たとえば、食事はその家の最年長者が箸(はし)をつけてからはじめるのがマナーである、たとえ客人であろうと年長者が一口食べて「どうぞ」とすすめるまではお預けとなります。

また、目上の人の食事が終わっていなければ、勝手に食事の席を立つことは許されないし、客人より先に食事を終えてしまうのもマナーに反します。

酒は左手を右ひじにかけ、右手で注ぐのが一般的ですが、ここでも目上の人にすすめられた場合のみ頂くのが礼儀と、食作法はけっこう細かくてうるさいものとなっています。

しかし、最近では日本と同じように洋風の生活様式の定着や核家族化現象などによって、年長を敬う習慣も薄れてきたと嘆く声もしばしばあります。

伝統的な食事作法では、おのおのが自分の膳を持って静かに食べるのが礼儀にかなった習わしとされてきましたが、これも最近では大きな卓を囲んでワイワイ話しながら食事する事が一般化していると言われています。

一方、中国では客が最後に一口残すのが招かれた側のマナーとされ。

これは、「十分満足しました。ありあまるほどたくさんの料理をありがとう」という意味があります。

ところが食器が大振りな上に食卓に食べきれないくらいの量の料理を並べる朝鮮半島のもてなし方には「お代わり」という言葉はとくにありません。

椀のたぐいの食器は原則として金属製で大きくて重いため、日本のように手で持ち上げるようなことは絶対にしないし、そうすること自体が極めて行儀の悪い事と考えられています。

朝鮮半島の食卓には、「スッカラク」という柄の長いサジと「チョッカラク」という金属製の箸が必ずセットで並ばれます。

汁物とご飯はサジですくって食べ、箸はキムチなどのおかずをつまむときにだけ使用します。

これは中国で2000年ほど前にあった漢王朝時代の食事作法である「匙主箸従(しちょうちょじゅう)」がいまも朝鮮半島における基本的な食事作法となっているものです。

また、酒や飲み物以外で食器類にじかに口を付けることも、すこぶるはしたないマナー違反で、箸とサジを一緒につかむことも礼に反する行為だとされます。

サジは食事を続けているときは食器にかけておき、これを離して食卓に置くと食事が終了した事を意味します。

日中戦争当事に中国側がスパイの素性を調べる際、箸とサジで食事させたという逸話がどこまで本当の話かはさておき、有名な話だったりします。

具体的にどう見分けるかといいますと。サジを使わず食器を手に持って箸で飯をかきこみ、食穂は端を食器の上にのせるのが日本人、逆に食器を卓に置いたまま箸とサジを使い分けながら食事をとり、食後は卓の上に箸とサジをじかに置くのが朝鮮人と見分けたという話です。

なお、汁物は箸のほうが食べやすいのではと日本人なら思われるようですが、朝鮮半島の汁椀には具が沢山入っており、汁と具をともにすくいながら、すすり味わうにはサジのほうが扱いやすく。

また、箸で食べると汁と一緒に幸運も逃げてしまうといって縁起の悪いこととされています。

汁物の中に飯を入れるカルビタン

汁物の中に飯を入れるカルビタン

朝鮮半島ではカルビタンなどの汁物のなかに飯を入れるぶっかけ飯があります。

これは日本では「猫まんま」といって不作法とされる食べ方の一つですが、朝鮮半島では中国の影響によるもので一向にかまわないようです。

ただ、例えば日本の牛丼のように飯に汁をかけるのと逆に、通常は汁の入った器に飯を入れます。

 

スーパーカップ もやしみそラーメン

スーパーカップ もやしみそラーメン

話が逸れますが、北朝鮮で金正日の料理人をやっていた藤本健二がテレビで語っていた話によりますと、北朝鮮ではスーパーカップのカップラーメンが兵士に褒美として与えられ、兵士は麺を食べた後のスープにご飯を入れて食べたとありますが、これも朝鮮半島の伝統的な食べ方に沿ったものなのかも知れません。

韓国風混ぜご飯ビビンパブ

韓国風混ぜご飯ビビンパブ

一方、韓国風まぜご飯のビビンパブに代表されるような丼ものは、とにかく上から下まで徹底的にかき混ぜて、その結果、料理の素材がなんであったか分からなくなってしまう事が多いです。

日本では卵かけご飯や納豆はともかく、このように料理をかき混ぜるやり方は行儀がよくないと考えられていますが、朝鮮半島ではまったく問題ありません。

かえって徹底的にかき混ぜる事によって、独自の風味や香りが増すと受け止められています。

このほかでは、床暖房施設のオンドル式部屋で食事をとるため、客人の前で片ひざ立ててたり、あぐらをかいて食べても無礼になりません。

というよりもこれこそが、朝鮮半島における「正座」にあたります。ひざを折って座る日本式の正座は、恭順(きょうじゅん)の意を表すときの座り方で、上司や年長者など目上の人の前に出た時のみ行う座り方です。

しかし、それも「楽にしなさい」の一言ですぐにあぐらをかくのが普通となっています。

また、最近では洋風のテーブルに座る事が多く、若い人の間では少なくなってきているとはいえ、女性は片ひざ立ちして食事を取るのが正式な礼儀作法とされています。

朝鮮半島の挨拶としては「アンニョンハシムニカ(安寧でいらっしゃいますかの意)」が有名ですが、これは1960年代に一般化したあらたまった用語で、長い間「食事は済みましたか?」が挨拶言葉でありました。

これは食事をわかちあう仲間意識と、食に対するこまやかな価値観が生んだ言葉といってよいでしょう。

様々な食事作法の違いの背景には、多種多様な料理の存在、ひいては料理を盛る食器の素材の違いも影響しているかも知れません。
下にある素材別の分布図は1400年代末期のものですが、おおむね地図のようになっています。

 

食器の素材(1400年代末期)

食器の素材(1400年代末期)

以上でコラムは終了ですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その36~トマトがなかった昔のケチャップ

2 8月

こんにちは、今日も暇つぶしになればと願ってコラムを書いて見ました。

ビジュアルで分かりやすくするため、画像を沢山使ってみました。

今、ケチャップと言いますと完熟トマトを加熱してから湯剝きで皮を取り、裏ごししてから低温で煮詰めてトマトピューレを作り。砂糖、塩、酢、オールスパイス(ピメント)、シナモン、グローブを加え、タマネギ、セロリなどの野菜も加えて作られます。

ケチャップ状の調味料には歴史があり、古代ローマ時代からあるケチャップは広く「ガルム」という名で知られ、リクアメンと呼ばれていました。

ローマでのガルムの製法

ローマでのガルムの製法

ガルム、またはルリクアメンは世界で最も古い調味料の一つで。酢、オイル、コショウ、干したアンチョビをドロドロにしてから潰して裏ごしにして調味したソースでした。

古代ローマで作られたトマトのないケチャップは鶏肉や魚に良く合うソースとして重宝され、ケチャップ工場で有名な町もありました。

2000年ほど前に火山灰に埋もれたポンペイの遺跡には「最高に滑らかなリクアメン。ウンブリクス・アガトホプス工場製」と書かれた世界で最も古いケチャップの瓶が発掘されています。

しかし、これは現在のケチャップの直接の先祖ではなく。1690年代に中国でやはり鶏肉と魚用のソースとして魚の酢漬け、貝、スパイスを塩水で漬け込んだものがマレーシアやその周辺にも伝わり、ここで「ケチャップ」という言葉が初めて出てきます。

このケチャップを1700年代にイギリス人がマレーシアやシンガポールの原住民が食べているのを見つけ、故郷のイギリスに持ち帰り、イギリスでもその味を懐かしんで料理人に作らせたのですがアジアのスパイスが手に入らなかったので、代用として魚介類ではカキ、アンチョビ、ロブスターを使い、他にはマッシュルーム、インゲンマメ、クルミ、キュウリ、クランベリー、レモン、ブドウなどで作り、現在でもパイやシチューに使われています。

イギリスのキノコから作ったケチャップ

イギリスのキノコから作ったケチャップ

この中国、マレーから伝わってイギリスで独自に作られたケチャップはイギリス人を魅了し、ハリスン夫人の書いた『ハウスキーパーのポケットブック』という人気の高い料理書に、主婦は「このソースを決して切らしてはなりません」と書かれています。

チャールズ・ディケンズ

チャールズ・ディケンズ

ヴィクトリア朝時代のイギリスを代表する『オリバー・ツイスト』などの著書を残した作家チャールズ・ディケンズ(1812~1870年)は『バーナビー・ラッジ』の中で「たっぷりケチャップをかけたラムチョップ」に舌鼓をうち、パイロン卿は彼の詩『ペッポー』の中でケチャップを称えています。

このケチャップにトマトに入ったのは1790年ごろ、アメリカのニューイングランド地方で生まれたとされます。

トマトは今のメキシコに繁栄していたアステカ帝国で食用に品種改良し、栽培されており。そのアステカを征服したスペインのエルナン・コルテスが1519年に種を持ち帰ったのですが、毒草のベラドンナに似ているのと、赤い実だけでなく毒のある葉も間違って食べていたから長い間毒とされ、日本でも江戸時代に長崎から伝わり、貝原益軒の『大和本草』にもトマトについて書かれていたのですが。ここでも偏見があり、日本でも食用になるのは明治を待たなければなりませんでした。

トーマス・ジェファーソン

トーマス・ジェファーソン

こういったトマトの偏見を覆したのがアメリカ建国の父の一人トーマス・ジェファーソン(1743~1826年)でして、アメリカで最初にトマトを栽培し、赤い実だけ食べれば毒は無く、すぐれた食べ物である事を知らせました。

アメリカにパリ仕込みのフライドポテトを持ち込んだりとアメリカの食生活にも影響与えたジェファーソンのトマトとそのケチャップはすぐさま広まり、1792年にリチャード・ブリッグが書いた『新しい料理法』にトマトケチャップの料理法が書かれ、1850年代にもなると、どこの家庭にでも見かけられるようになります。

この頃人気のあった料理書、イザベラ・ビートン著『家政学の書』は、「トマトケチャップ・ソースは経験を積んだ料理人にはもっとも利用価値の高いソースの一つです。作る手間を省いてはなりません」と主婦たちにアドバイスしています。

しかし、家庭ではトマトを湯剝きして、裏ごししたものを絶えずかき回して作るトマトケチャップは大変な手間であり、1876年にドイツ系アメリカ人の料理人兼ビジネスマンのヘンリー・ハインツが世界で初めて瓶詰めケチャップを最初に大量生産されたとき、アメリカの主婦達がしきりに買い求めたのも当然のことでした。

ハインツ社のトマトケチャップ

ハインツ社のトマトケチャップ

ハインツ社を作ってトマトケチャップの瓶詰めを量産したヘンリー・ハインツは「お母さんがたと家庭を預かる女性に福音!」とレッテルに書いて売れたケチャップは、瓶の形は底が広くて首が細いデザインと中身のケチャップの製法が百年以上の間、ほとんど変わっていません。

アメリカから飛んで日本に向かいますと、カゴメのトマトケチャップが圧倒的なシェアを得ていますが、これは明治になってから西洋野菜としてカゴメの創業者、蟹江一太郎が1899年にトマトを栽培し、数年後豊作で余ったトマトを保存食にするべく、西洋のケチャップの製法には必要なオールスパイス(ピメント)、シナモン、グローブなどのスパイスの調達が難しく、代用で漢方薬を使ったりと試行錯誤を繰り返し。1904年に生産を開始し、今に至ります。

カゴメが国産ケチャップを開発、販売していなければ。チキンライス、オムライス、ナポリタンは生まれていなかったかも知れません。

今日はケチャップでタマネギとピーマンを炒め、ナポリタンを作りたくなってきました。

皆さんもケチャップがあったら何かに使ってみませんでしょうか?フライドポテトにケチャップも美味しいですよね。

それではケチャップをふんだんに使ったナポリタンを食べますので。今日のコラムはこれで終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

参考文献
チャールズ・パナティ 著 バベル・インターナショナル訳 『はじまりコレクションⅠ』
高平鳴海 著 『図解 食の歴史』(「ガルム」の製法のみ参考)

参考サイト
カゴメ公式サイト 「カゴメの歴史」 http://www.kagome.co.jp/company/about/history/
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