こんばんは。以前に書いた記事に画像を加えてビジュアルで分かりやすくしたり、新たに加筆修正しました。
加筆修正した記事のタイトルとイメージ画像の一覧を下に出します。タイトルをクリックしますと、その記事のURLに移動できます。
食の歴史その16~フレンチポテトからポテトチップに至るまで~
以上となります。
また加筆修正したらブログの新着記事にてお知らせします。
こんばんは。以前に書いた記事に画像を加えてビジュアルで分かりやすくしたり、新たに加筆修正しました。
加筆修正した記事のタイトルとイメージ画像の一覧を下に出します。タイトルをクリックしますと、その記事のURLに移動できます。
食の歴史その16~フレンチポテトからポテトチップに至るまで~
以上となります。
また加筆修正したらブログの新着記事にてお知らせします。
こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いてみました。
今回もビジュアルで分かりやすくすべく、画像を多用してみます。
砂糖の原料サトウキビはインド原産で2500年ほど前には製糖されていたとされています。
アレキサンダー大王(紀元前356~紀元前323年)がサトウキビの産地インドまで遠征し、「蜜の葦」の存在を伝えた頃にヨーロッパにも砂糖は伝わっており、古代ローマにて使われていましたがローマ帝国が崩壊し中世になるとヨーロッパへの砂糖の供給が滞ります。
砂糖の生産地はイスラム帝国のアラブ人が入植したスペインとシチリア。そして中近東であり。サトウキビが育たないヨーロッパではヴェネチアに運ばれて再び製糖された砂糖を大変な高値で取り引きされていました。しかし、1096年からそれを覆す事件が起きます。
1096年から始まった十字軍が砂糖の生産地を占領し、再びヨーロッパへ直接供給されていきますが、1300年頃から勢いの増したオスマントルコ帝国に駆逐され、千年にわたって東ローマ帝国の帝都だったコンスタンティノポリスが1453年に陥落してから砂糖の供給がほとんど無くなってしまいました。
ところが、1419年に大西洋のマデイラ諸島が、1480年にカナリア諸島が発見され、技術者を送り込んで砂糖の生産が始まりました。
こうして生産された砂糖が値崩れしないようヨーロッパに供給する数は制限され、イギリスでは450グラムの砂糖でレモン240個が買えたましたので、現代の価格に相当しますと、約14000円相当となります。
そんな高値でも砂糖がヨーロッパ中に出回り、砂糖を使った様々な菓子が考案され洗練されていきます。
砂糖を使った菓子類が大好物のエリザベス1世(1533~1603年)は歯が虫歯で真っ黒だったと伝えられています。
当時は黒くなった歯に石灰で磨いたり硝酸で漂白などを行い、虫歯を抜くために歯医者という職業も出現し。古代インド発祥の爪楊枝で上の食卓風景の絵にある右端の女性のように歯をほじるのがステータスとなり、爪楊枝には金属製ブローチのように彫刻や宝石がついていました。
しかし、時代は進みイギリスなどがカリブ海やアメリカ大陸に植民地を持ちますと、上の図に見られるような三角貿易によって西アフリカから連れてきた奴隷をカリブ海などへ砂糖を作るための労働力として送り、砂糖の大量生産が行われヨーロッパにもっと安く供給されるようになりました。
こうして庶民にまで砂糖を入れたコーヒーや紅茶が広まり、産業革命にも陰ながら貢献していきます。
それまでの労働者は水の代わりにビールやワインを飲んでいたので、酔っ払って作業効率が悪くなりましたが。コーヒーや紅茶は逆にカフェインで目が冴え、一緒に入れた砂糖から手っ取り早くカロリーが摂取できるので、素早く体を動かすエネルギーが得られ、労働効率が上がっていきました。
そういった事情からか、1800年代に「世界の工場」と言われた頃のイギリスでは温かいミルクティーが1度の食事と同等の扱いをされていました。
一方、同じく砂糖が安く手に入るようになったフランスでは1674年からカフェが始まり。家に閉じ込められていた女性たちもカフェに出入りする事が許され。カフェではコーヒー、紅茶、ココアなどの飲み物の他にお菓子、果物の砂糖漬け、シャーベットが出されました。
1721年にはパリに300軒ものカフェが営まれ、フランス革命後の1800年になると2000軒を越えるまでになりました。
パリの数あるカフェの中でも「カフェ・プロコープ」はすぐ近くの劇場で劇が終わると貴族や金持ち、知識人がやってきて。イギリスのコーヒーハウス同様、貼り出されたその日のニュースなどを見て情報交換や討論を行い、噂の発生源ともなりました。
この由緒ある「カフェ・プロコープ」に出入りした客の中に宗教と科学の分離を促す啓蒙思想の大家ヴォルテール。
絶対王政に反対し、権力を司法、立法、行政の3つに分ける三権分立を説いたモンテスキュー。
「人民主権」を提唱し、後の民主制や選挙制度に影響を与えたルソー。
などが出入りし、彼らによって後のフランス革命に繋がる革命思想が芽生えました。
こういった知識人が出入りしたカフェについて1721年にモンテスキューはこう書いています。
「もし私がこの国の統治者だったら、カフェなど閉めてしまうだろう。なぜなら、ここに集まってくる人々は頭にひどく血が上っている。居酒屋で酔っ払わせているほうがずっとましだ。少なくとも、酒に酔っても自分にしか害を及ぼさないが、カフェで議論に酔った連中は、国の将来にとって危険なものになる。」
こうしてコーヒーや紅茶に入れられた砂糖は陰ながら近代思想にも影響を与えたりもしました。
もし、ヨーロッパに砂糖がなければ現代につながる近代国家も産業革命も生まれなかったことでしょう。
以上でコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?
こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いて見ました。
今回もビジュルアルで分かりやすくするために幾つか画像を使います。
イスラム教では、預言者ムハンマドの行動を信者の慣習と定め、イスラム教にとって民法、刑法、行政法というありとあらゆる範囲にまで及んでいるイスラム法のシャリーアを学ぶ上で重要な第1経典『コーラン』の次に重要な第2経典『ハディース』という経典にまとめられています。
その中から、食事に招かれたときの礼儀作法やマナーなどをおおまかに説明していきます。
まず基本は多くの人で分け合って食べる事です
経典にも「二人分の食べ物は3人に十分であり、3人分の食べ物は4人に十分である」として列席者が増えるのを歓迎されます。
こうして列席者もそろったところで大皿に盛られた料理は必ず蓋をして運ばれてきます。これは悪魔が料理に悪さをするのを防ぐためで、イスラム教では悪魔を意識した行動が数多く。
例えば、食事に右手を使うのは、悪魔が左利きとされているからです。
そのため、全ての行為は右から行い。順番は右回り。歩く時も右足から歩き、文字を書くときも右から左へ書き。上座(かみざ)も右側とされています。
食事の席は円形の敷物に「クルスィー」という小さなテーブルのようなものを置き。その上に「シーニーヤ」という金属製の大きな盆が置かれ、これは平安と祝福があるようにと預言者がした行いに近いものとされています。
そして、敷物の上に置かれた大きな盆の周囲に置かれたゴザに靴を脱いで座り。この時は寄りかからず、片ひざを立てます。
この片ひざの立て方も右ひざを立て、左足に重心を置くようにと決まっています。
こうやって詰めて座る事によって多くの人が列席できるようにするためと、胃を圧迫して食べ過ぎないようにするためです。
経典に「・・・(胃の)1/3は食事に、1/3は飲み物に、1/3は呼吸のために」とあって食べすぎが厳しく戒められ、ベルトもきつく締めるように言われます。
イスラム教では異教徒は腸(はらわた)が7つあるが、イスラム教徒はひとつの腸を満たせば良いと言われ、預言者ムハンマドは痩せて健康的であるのが望ましいと語ったとされてあるので、その影響から小食で満足できる工夫がされたのかも知れません。
ただ、イスラム教は例外事項も多く。座るスペースに余裕があれば、あぐらをかくのも許されます。
こうして準備が出来たら水差しから注がれた水で手を洗い、食後も同じく手を洗います。
食前と食後の手洗いに関してイスラムの学者は石鹸や洗剤で洗うのが好ましいとも述べています。
こうして準備が整うと、いただきますにニュアンスの近い言葉として「神の御名にかけて」を意味する「バスマラ」と唱えて食べ物が浄化されたと見なされてから食事が開始されますが、最初に食べるのは年長者、徳のある人から食べ始め、それから他の人も食べ始めます。
もし、うっかりバスマラと唱える前に食べてしまった場合は気づいた時点で「始めも終わりも神の名において」を意味する「ヒズミッラー・アッワリヒ・ワアーヒリヒ」と唱えると良いとされています。
素手で食べる場合は右手の親指、人差し指、中指を使って、一口分だけちぎって口に運び。よく噛んで口に入っている食べ物を飲み込むまで他の食べ物に手を伸ばさないよう注意します。
パンをちぎる場合、肉から骨をはがす場合など、両手で行う必要がある場合は左手を使う事も許されています。
こうやって近くの皿に盛られた食べ物に手を伸ばし、黙って食べないよう談笑して時間をかけ、音を立てず、美味そうに食べていきます。
余談ですが、通称『アラビアンナイト』とも『千夜一夜物語』とも言われるイスラム文学の翻訳者である1800年代を代表するイギリスの探検家リチャード・フランシス・バードンがイスラム圏に滞在していた時に、母国で食事する時と同じように静かに食べていたところ、周りにいた人から
「君はなんだって小動物みたいにそんなに静かに食べるんだ。食欲がないのか?もっと、にぎやかに食べなさい。」と言われたそうです。
話を食事マナーに戻しますが。食事中、皿の位置を変えたり、美味しそうな部分を独り占めしてはいけません。
他にも嫌いな料理はスルーして文句は言わない事。客は好き嫌い関わらず、勧められても勧めた側の家族が食べ残しで食事をするためにも、あえて遠慮します。
その他のマナーも箇条書きにしますと。
・よく噛んで時間をかけて食べる。
・人に「食べろ」と言って困らせない
・人が食べている姿をじっと見つめないよう心がける。
・複数の料理を1度にまとめて口に入れない。
・音を立てずに食べる。
・食べるときに他人の服にこぼしてを汚さないように気を付ける。
・口の中に食べ物があるまま喋ったりしない。
他にも大事なマナーとして食事中に指を舐め、その舐めた手で料理を取ってはいけない。というのがありますが、食が進んで満腹になってきて手を止めてから指をなめるのは満腹を示す仕草として推奨されています。
それから口に水を拭くってゆすぎ、手をハンカチなどの布でぬぐいます。
預言者ムハンマドは木の枝でできた歯ブラシ「ミスワーク」で歯磨きしてから口をゆすぐ事を推奨していますので、食後に歯磨きをする場合もあります。
手をぬぐい、水で口をゆすいだらニュアンス的にはご馳走様を意味する「ハムダラ」と唱えて席を立ちます。
他の人も満腹を感じたら「神に感謝を」を意味する「アルハムド・リッラー」と唱えて席を立ちます。
こうして席を立つと別室で食後のコーヒーか紅茶が出される場所へと移動し。先ほど食事終了したさいに手を布でぬぐった手をより清潔にするためテシュト(水受け)の上にイブリーク(水差し)を載せた、運ぶときに金属の擦れ合う音を立てる「震え声をたてるもの」を意味するムルジファーンという道具が運ばれてきますので。この道具で手洗いをします。
この手洗いを「あきらめの父」を意味する「アブー・イヤース」と言われます。
手洗いを済ませて運ばれる飲み物にもマナーがあって、右手で器を取り、中身を確認してから穏やかに口をつけて3度にわけて飲みます。
食後に用意されるのはコーヒー、紅茶だけでなく、「余力の父」を意味する「アブー・サルウ」と言って、香炉で香を焚いて食事中についた匂いを落とし、さっぱりさせて出ていけるよう気づかいをする場合もあります。
食事を開いたホストの家の格によってお香のグレードが上がったりします。
さて、世間でも広く知られており、このブログでも取り上げましたが、イスラム教では豚と酒がタブーで。
豚成分の入った調味料、豚肉に触れた食器、酒を注いだコップを使うことさえ禁じられています。
そのせいもあって2000年に、味の素の成分に豚の酵素が入っているとしてのインドネシアの現地法人の社長が逮捕され、味の素の製品が姿を消しましたが。その後、豚の酵素を使わない商品をだして製造販売を許可をされ、現地法人の社長も釈放され、再びインドネシアで味の素の商品が出回るようになりました。
2000年に起きた味の素の事例でも分かるとおり今でもイスラム教では大雑把に言うと豚や酒が駄目でイスラム法で許可された食材しか食べてはいけないとする「ハラール」があるため、敬虔なイスラム教徒は一般的な日本人の家で食事する事はないでしょう。
以上でコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?
こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いて見ました。
今回も地図を使って説明しますので、画像もアップします。
直接手を使って食べる行為は特に欧米ですとアジア、アフリカを征服し。植民地とした優位性からか。征服した現地の手を使った食べ方に非文明的、不衛生、不作法、下品というイメージが先行し、文明開化して欧米化した日本にもその価値観を押し付けていましたが。欧米の自己中心的な価値観が生んだ偏見にすぎません。
自ら「先進地域」としているヨーロッパでさえ、長い間ナイフで切り分ける以外は手で食べていましたし、
箸で食べる文化の日本でもおにぎり、サンドイッチ、ハンバーガーなどを手で食べていたりします。
世界の歴史を振り返っても人類は手で食べる事を基本としていました。
ですから、手で食べたからといって、粗野で文化の程度が知れるものではありませんし、逆にそのような思い込みこそ、人類の食文化史に対する無知をさらけだすことになります。
現在も手で食べる事文化が地球上の総人口の4割を占めており、25億人以上の人々が手で食べている計算になります。
なかでも、インドのヒンズー教徒や中東のイスラム教徒などは、食べ物は神から与えられた神聖なものと言う固定概念が強く、昔はヨーロッパもそうでしたが、食器などを使わず、手で食べる事が最も清浄といった宗教的な戒律を強く守っています。
しかも、この文化圏では右手は清浄だが、左手は尻拭いに使うほど不浄という考えが徹底し、神から与えられた食物に触れることが許されるのは、右手だけと信じられ、たとえ左利きであっても左手で食べ物を持つ事はあっても、左手を使って口に運ぶことはまずありません。
この文化圏では食事に使う手も親指、人差し指、中指の三本だけと決められてありまして。
北アフリカの先住民であるベルベル族の間では次のようなことわざがあります。
「一本指で食べるのは憎しみを象徴することであり、二本指で食べることは傲慢さをしめす。三本指で食べるのはムハンマドのイスラムの教えに忠実なものであり、四本あるいは五本指で食べることは大食漢であることをしめす。」とあります。
ヒンズー教徒などが手で食べる場合、第二関節から先だけを使い、あたかも象の鼻のように器用に動かしながら食べ物を掴んで放り込みます。
カレーのような汁物でも問題なく手で手で食べます。つかむ、つまむという動作を通じて、口だけでなく手の感触も楽しめる事から、彼らは、
「まず手で味わい、次に口で味わう事ができる」と言われるほど、手で食べる事にこだわりがあります。
掴み方の方にも様々な厳しい食事作法があります。まず、食事の前後に必ず手を洗う事は言うまでもないが、同時に口もすすぎます。これは古来、食べる行為を神聖な儀式とされていたことの名残ですが、特に食後の口のすすぎは、指の腹側を使ってよくこすり、口の中を綺麗に掃除することが礼儀となっています。
最近では組み立て式の食卓も一般化しつつあるとはいえ、庶民の家では床の上に大きな風呂敷のような布を広げ、この上に食べ物を並べるのが一般的な食べ方です。布は膝にかけて、そのままナプキンとして使うこともできます。
食べるときは、食べ物を取り囲むようにして座り、男性や子供はあぐらをかき、女性は膝を立てた姿勢をとります。
このスタイルはヒンズー教もイスラム教もほとんど変わりありません。
来客の時は男女別々に食事を取り、食事中に誰かが尋ねてきた場合には、食事にともにくわわるようすすめるのが礼儀となっています。
いっぽう、手で食べるために指がやけどするような熱い料理は食べません、というか食べられていません。
つまり手で食べる文化圏では息をかけて冷ますような熱いスープなどの料理はあまりつくりません。
また、幾ら起用に扱っても手は汚れるし、お代わりは自分で取り分ける事ができないために、主婦あるいはホスト役が気を利かせて器の中から注ぎます。
このときに限って木製のスプーンを使うことが許されています。
日本人は一般に潔癖症な性格だと言われています。
しかし、カースト制のもとに清浄、不浄の概念が徹底しているヒンズー教徒のほうがより潔癖と言えるかも知れません。
そもそも自分の手以外に食べ物には触らないという徹底ぶりのうえ、食器や道具もできるだけ使おうとしません。
他人が触れたり使用したりする食器は不浄そのものという考え方から、日本人のように茶碗によそって箸を使うほうが彼らにとっておそ「不潔」となります。
従って、食べ物は皿やお椀に代わって、バナナやバショウの葉に盛り付けるか、あるいは使い捨ての素焼きの器に入れて食べます。
水を飲むときもコップに口をつけないようにするか、使い捨ての素焼きの器で飲みます。
何故ここまでヒンズー教ではこだわるのかと言いますと、ヒンズー教における戒律の一つに、異なるカーストの階級が交じり合う事を厳禁していることが背景にあります。
インドのカースト制では、この戒律と制度のもとで、上位のカーストは下位の不浄なカーストを見ることさえ忌み嫌います。
ましてや彼らが触れたかも知れない食器を使い、同じ食卓で同じ食べ物を食べることは、自らを汚す行為にほかなりません。
異なるカースト同士が絶対に食事をともにしない理由はここにあります。
また、共同の食器としての盛り皿を利用する場合、タライのような金属製や石製品はあとで綺麗に洗えるから清浄とされています。
しかし、共同の食器から個人用の食器に取り分けられた食べ物は、口につけたか否か関係なく不浄な存在であります。従って一旦取り分けられたものを他人が食べることはありえないので、料理を残すことは極めて礼儀知らずな行為となります。
ただし、中東や北アフリカなどに住むイスラム教の人々には金属製の共同の食器をごく普通につかいますが、ヒンズー教のような厳しい清浄・不浄の概念はないと言われています。
以上でコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?
おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと願って、コラムを書いて見ました。
また、説明に地図を使うので。画像を出します。
古来、世界各地でいわれなき偏見やタブーにさらされた肉は少なくありません。
豚肉はそれらの筆頭にあげられ、豚肉を食べる事を禁じるユダヤ教、特に広く分布しているイスラム教での忌み嫌われぶりも半端ではないです。
たとえば厳格なイスラム教徒となりますと、豚肉が鍋や包丁などの調理器具に触れているかも知れない可能性を恐れ、一般のレストランを避けて、わざわざイスラム教徒専用レストランで食事を取るなど徹底しています。
イスラムの戒律が比較的ゆるいインドネシアでも10年ほど前、味の素の製造過程に豚の成分を使用したという事実が発覚して逮捕者が出たりと大騒ぎになった事もあります。
科学的には味の素という製品になった時点で豚の成分は消滅しているのですが、イスラム教では食用禁止にあたるのだそうです。
ではなぜ、そこまで豚を嫌うのか聞くと、豚を嫌う当事者であるユダヤ教徒、イスラム教徒も明快な答えを出せなかったりします。
そういった事情から生理的な嫌悪感や食わず嫌いとも言えるでしょう。
イスラム教の開祖マホメットによる『コーラン第五章の食卓の章には、
「死んだ獣の肉、血、豚肉、それからアッラーならぬ邪心に捧げられたもの、絞め殺された動物、撃ち殺された動物、また猛獣の食らったもの」
などは食べてはならないとされてあり、第六章の家畜の章にも「死肉、流れ出た血、豚の肉、これらはまったくのけがれもの」などとタブーであることを強調しています。
イスラム教徒が豚肉を嫌う最大の理由は、これらの戒めを遵守しているからにほかならないのです。
ちなみに、イスラム世界で禁じられた肉は「ハラム」と呼ばれ、逆に食用にしていい肉は「ハラール」と言われています。
ユダヤ教の聖典『旧約聖書』の「レビ記」「申命記(しんめいき)」の中でも、全知全能の神ヤハウェ(エホバ)は事細かに食肉のタブーを命じています。
数ある動物のなかでも、
「ひづめが分かれたもの、ひづめが二つにきれたもの、反芻(はんすう)するもの」
という条件をクリアしないといけませんが、豚は反芻しないという理由で、けがれた獣としてタブーにされてしまいました。
ユダヤ教を母体とするイスラム教は『旧約聖書』の教えの一部を受け継いでいるものなので、タブーとした根源が『旧約聖書』が由来とみても差し支えないと言われています。
このような背景から、豚を禁じるのは宗教に根ざしたものと思われるが、ではなにゆえにヤハウェやマホメットが豚を禁じてしまったのだろうかと言いますと。
豚は人糞も含むあらゆるものをむさぼり食う大食漢で、鈍重なうえに、発情期が21日周期で年中繰り返すといった性欲のを持つ習性が、不潔で汚らわしいというイメージをかきたてられ、ブクブクと醜く肥え太り、どうひいきめに見てもスマートさとは程遠い。
「この豚野郎!」
という感じの、ののしりの言葉が世界共通の代名詞にもなっているほどなので、比較的に禁欲主義的なユダヤ教やイスラム教とは相容れない家畜と、そうそうに決められてしまったのかも知れません。
事実、現在のイスラム法学者たちの多くは、
「アッラーが豚肉を禁じた第一の理由はそのいやしい習性と食べ物がきわめて不潔である豚の生態そのものにある」
と解釈する傾向が強いそうです。
しかし、豚は清潔好きな動物で知られており、悪しき本章とみられるのは飼育する側に問題があるためです。糞を食べるという理由にしても好んで食べるわけではないし、場合によってはニワトリ、ヤギ、ウサギ、イヌも糞を食べる習性があったりしますので、根拠が弱かったりします。
いっぽう、牛やヤギはミルクをはじめとする乳製品を、羊は羊毛を、ニワトリは卵をといったように、肉だけにとどまらず、様々な副産物を提供してくれる家畜ですが、豚は労働力にもならなければ、毛も繊維には向かない。
結局、豚は肉以外に利用価値がないから差別の対象になったのだろうとする意見もあります。
これらの動物の習性論に取って代わったのが、食衛生と生態環境の両面から解釈しようとする試みでして、要約しますと。
第1に、中東のような暑くて乾燥した地域では、豚肉は腐りやすく、これを食べると食中毒にかかりやすい。
第2点は、不潔な食べ物を摂取する豚は病気に感染している危険性が高い。
第3には、絶えず移動を強いられる遊牧中心の中東では、定住性の家畜である豚は生態環境に適さない、
などといったものです。
これらの点を案じた古代の人たちは、生活を合理的に営む知恵として、神の啓示という建前を駆りながら豚肉を食べる事をタブーにしたと考えられております。
豚の祖先は適度な湿度と大量の水に恵まれた河岸を住みかととしてきたと言われています。
このため、豚の体温調節システムは高温で乾燥した場所で生息には適していない事だけは確かです。
そもそも、汗を出す汗腺をほとんど持っていないため、自ら体温を調節することが出来ない。
豚が泥の中を転げまわっている光景も汗を流す事ができない豚の体温冷却のための生理的な動作だったりします。
したがって、中東で養豚業を営もうとすると、風通しの良い場所を選び、直射日光をさえぎるための日陰や水を蓄えた土地を人工的に作る必要があり、飼育してもコストが大変悪い。
飼育するコストが大変悪いのは中東に限った話ではなく、乾燥地帯の遊牧民全てに当てはまる法則だとも言われています。
だが、3000年ほど前まで古代の中東では豚を抵抗無く食べていたことは、各地の遺跡による大量の骨の発掘で証明されていますので、環境条件だけを、タブーにされ続けてきた根拠とするには、根拠が弱かったりします。
諸説入り乱れる中で、最近では古代ユダヤ人による善悪二元論的な世界観に基づいた「肉食可否の分類法」が有力説として浮上してきています。
これは自分達の食体験にのっとって、食べていいもの悪いものを振り分けておけば食生活の安全上の目安になるうえ、肉を得るための家畜化する判断基準にもなりうると考えた一種の○×法です。
この法則によって、草食動物はOKだが肉食動物は駄目という単純な図式が定着したのですが、雑食性とあいまいな動物、とりわけ豚は○か×か判断に迷う正体不明な動物と見られたのでは?と言われています。
一方、乾燥地帯の中東には不向きでコストが高い豚の飼育は中東では重要な農牧とは言えず、タブーになったからといって経済面でもそれほどマイナス要因にならなかっただろうと推測されています。
コラムは以上ですが、いかがでしたでしょうか?
次はヒンズー教やユダヤ教の食のタブーについてもとりあげてみようと思います。
こんばんは。今日も皆さんの暇つぶし用にコラムを書いてみました。
ビジュアルで分かりやすくするために画像を沢山使ってみます。
まず、茶の歴史はミャンマー北部と中国南部に自生していたのを2300年ほど前に飲み物として使うようになったのだけど。最初は漢方薬として使われていました。
それが仏教が伝来し。仏教が酒を戒めると、お茶は酒の代わりに広まっていき。1600年ほど前には茶を栽培して飲むようになりました。
そのお茶も中国では大雑把に三種類ありまして。北部では緑茶、ジャスミンなどを入れた花茶。南部の福建省では烏龍茶。香港の近くにある広東では紅茶が作られて飲まれるようになりました。
それから千年以上送れてヨーロッパもお茶を飲むようになったのですが。最初は1610年にオランダが長崎からオランダの首都アムステルダムに運んだ緑茶がヨーロッパに渡った最初のお茶と言われています。この頃はオランダが植民地帝国で世界中に幅を利かせていました。
イギリスもその頃は意外でしょうけれども緑茶を飲んでいました。他にも、沢山の皇帝を輩出したヨーロッパの名門家ハプスブルグ家の本拠地ウィーンでも、不老長寿の薬として飲まれていました。海の交易は最初オランダが独占していましたが。1669年にイギリスが中国からお茶の買い付け に成功していますが、まだ緑茶でした。
緑茶から紅茶への変化をもたらすきっかけは1662年にポルトガルの王女キャサリンがイギリスに嫁いだ時に持参した紅茶でイギリス王室から紅茶を飲む習慣を広めたことからはじまります。
イギリスの硬水 の水質では王女キャサリンが故郷ポルトガルの貿易港リスボンから持参したタンニンの多い紅茶が適しており、肉食を好む食生活に濃厚なお茶の風味がマッチしていたのも緑茶に代わって紅茶が席巻していった理由だと言われ ています。
こうして紅茶が緑茶よりも好まれるようになり。ヨーロッパ、中東、アメリカでも飲まれるようになりました。
1800年代にインドやスリランカで紅茶を栽培して世界の紅茶をイギリスが独占しますと。独占しているために高値でふっかけられた値段に嫌気をさしたフランスやアメリカはコーヒーへとシフトしていきます。
こんな事情があって。紅茶はイギリス、コーヒーはアメリカという図式が後々出来ていきます。
では、次にコーヒーの歴史もさらっと説明してみます。
コーヒーの原産地はエチオピアのカファと言われる標高2400メートルの高原地帯に自生していたのを飲料にしたのが中東に伝わったものです。
コーヒーを飲むきっかけとそのルーツは伝説の領域ではっきり分かってませんが。文献には1100年前にアラビアのラーゼスという医師が茶と同じく薬用で処方したのが一番古いコーヒーに関する記録だと言われています。
あと、1587年に書かれた文献ではイエメンのモカに住むシェーク・オマールというアラブの偉い坊様が山で小鳥がついばんでいる赤い実を食べてみたらカフェインのせいか。心身爽快になったので。飲み物に加工して病人に与えて苦痛を救ったので聖人になったと言われています。
「昔ア~ラブの偉いおぼうさ~まが~♪」で始まるコーヒー・ルンバはこの話が元です。
アラブの偉いお坊様が飲ませたコーヒーはモカだったんですねえ。
しかし、コーヒーは長い間、門外不出の秘薬とされ。一般には出回らなかったけど。1554年にトルコの首都イスタンブールで「文化人の学校」という名前で出したのがコーヒー喫茶店の始まりだったそうです。
そのトルコ人が1615年にイタリアは水の都ベネチアに持ち込み、それがフランスやイギリスにまで飛び火して、イギリスも紅茶が普及するまでは「コーヒーショップ」というものが沢山あったほど流行していました。
しかし、キリスト教の敵であるイスラム教徒の飲み物を喜ぶなんてとんでもないという声もあり。反対派と擁護派で乱闘騒ぎになるほどヒートアップ。
この論争は当事のローマ法王クレメンス8世(1536~1605年)が「こんな美味しいものをイスラム教徒に独り占めさせておくことはない」と発言して一件落着。
ローマ法王が擁護するほど教会はコーヒー寄りで。カプチン修道会ではスパイスを混ぜたコーヒーを作って寝ずに修行していました。
これがカプチーノの始まりです。
コーヒーに砂糖とミルクを入れるスタイルを考案したのは音楽の都、ウィーンの人だと言われています。
トルコ帝国は音楽の都ウィーンを2回包囲して結局攻略できずに去って行ったのですが。トルコ人が去って行った時に山ほどコーヒーを残していったので。それを目端の利く人がタダ同然で買い付けてカフェを開いて一攫千金したそうです。
カフェではカップに粉が入らないよう布で濾してクリームを入れたウィンナーコーヒーも考案しました。
このカフェがヨーロッパの歴史を大きく変えていきます。
フランスやイギリスにコーヒーショップが出来ますと。イギリスでは1ペニーの入場料と1ペニーのコーヒーで雑誌や新聞読み放題。雑誌や新聞を読んだ知識をコーヒー片手に議論できたので通称「ペニー大学」とも言われました。
その「ペニー大学」の議論からイギリスでは損害保険、生命保険の概念が生まれます。
イギリスの保険組合といえばロイズが有名ですけど。もとはコーヒーショップの談義から生まれたものなんですね。
一方フランスでは政治家、学者、芸術家などが集まってサロンとなり。コーヒー片手に新しい思想が生まれ。それがフランス革命の原動力となっていきます。
コーヒーが無ければイギリスの議会制もフランスの共和制も出来なかった事でしょう。
さて、アメリカのほうでは1669年にニューヨークでコーヒーショップが開かれ。1730年頃には一般家庭にまで広まっていました。
しかし、西部開拓民はコーヒーが満足に無いので。代わりに黒パン、大麦、タンポポの根、嗅ぎ煙草などを煮出して。「むくんだコーヒー」と言われる代用品を作っていました。
そんなアメリカも当事はイギリスの植民地でしたので。紅茶は伝わっていたのですが。高い関税がかけられて高値でした。
その上アメリカと関係の無い所でイギリスとフランスが戦争を起こし。その戦費調達に印紙税をアメリカから取りました。
その名残が日本でも文書に収入印紙を押す形で残っています。
アメリカからすると、アメリカ人はイギリスの領土なのに、イギリスの議会に参加できない。ロンドンの政治に参加できず勝手に決められた税金なのです。
そこで、アメリカの有識者が「代表なくして関税なし」と言い出しました。
そこからイギリスの関税の象徴である紅茶を攻撃しようとインディアンの格好して乱入し。紅茶の箱を次々と海に投げ込む事件が起こりました。
これがアメリカ独立戦争のきっかけになった「ボストン茶会事件」です。
アメリカは紅茶を独占するイギリスと何度も戦い。時にはホワイトハウスを燃やされた時もあった程なので。紅茶は廃れ、コーヒーが主流になりました。
しかし、1800年代が終わろうとする頃に大きな変化が起こります。
イギリスはスコットランドのグラスゴーに生まれたトーマス・リプトン(1845~1931年)がアメリカに渡り、食料品店を開きます。その時にスリランカともセイロン島とも呼ばれる場所で紅茶を栽培してから、大量に輸送し。商標をつけて安全性も確保し、信頼を得られるブランドとなりました。
それと、リプトンがセイロン島から大量に持ち込んだ紅茶のおかげで紅茶の値段が半分になったのもアメリカでも売れた大きな要因と言われています。
リプトンの缶などにパイプをくわえ、ヒゲを生やしたおじさんの顔が書かれていますが。あれがトーマス・リプトンです。
紅茶で財を成したリプトンは慈善事業も展開し。そのせいもあってかビクトリア女王からサーの称号を貰っています。
もし、イギリスのグラスゴーなどへ行ってみる時はリプトンの創始者。トーマス・リプトンさんの歴史も念頭に入れるとより旅行が楽しめるかも知れません。
さて、長々とした文章ですが。いい暇つぶしになったでしょうか?
楽しんでもらえたら幸いです。