アーカイブ | ファーストフード RSS feed for this section

食の歴史その50~フィッシュ&チップスと捕鯨・石鹸・冷蔵庫

17 3月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いてみました。

今回もビジュアルで分かりやすくなるよう、画像を沢山使っています。

使用している画像はクリックしますと拡大され、より見やすくなるものもあります。

Matthew_Calbraith_Perry

幕末の1854年にペリー率いる黒船がやってきましたが。その目的は開国によって捕鯨船に水や食糧が補給できるようにする事でした。

img076img077

石油の採掘が始まるまで鯨油(げいゆ)はランプの燃料と潤滑油として大量の需要がありました。
理由は温度が下がっても固まらない、粘結度があまり変わらないので引っ張りだこでした。

1800年代のコルセット

1800年代のコルセット

髭や骨は女性のコルセットやペチコートの材料として使われました。

images81

鯨油は石鹸にも使われ当事の石鹸の包装に鯨の絵が使われている事からもうかがえます。

83R83R83i83b83c83I83C838B8ECA905E

しかし、1800年代半ばから値上がりした鯨油に取って代わってココナッツ・オイルが石鹸の材料に使用されていきます。

img078ruspatsand-soap

石鹸が変わっていくのは材料だけでなく、当事は糸で切り分けていたのが現代の石鹸のように使いやすいサイズへと変わり。

1f1317fd063fd07ced092266acdd4538sunlight-soapgiving_puppy_a_bath_from_pears_soap_postcard-r553a1825464448c6b95f85e1b861f74d_vgbaq_8byvr_512

有名な画家を使って広告にも力を入れた石鹸が洗練されていくと同時に1851年の万国博覧会には727ものメーカーが出品していましたが。石鹸のシェアはナイト、ギブス、ヤードリー。それと新規参入したサンライトとペアーズに半数以上占められました。

img079

競争に敗れた数百もの石鹸メーカーは石鹸を作るための銅鍋をフライパンに、ココナッツオイルを揚げ油に転用する事によってフィッシュ&チップス屋に転業していきます。

石鹸からフィッシュ&チップスへ転業された頃、この料理にとって重大な発明がされています。

冷凍装置の発明者ジェームズ・ハリスン

冷凍装置の発明者ジェームズ・ハリスン

1856年に実用的な冷凍装置をオーストラリアのジェームズ・ハリスンが発明しました。

prince50ogfoodcompany-09070350

この冷凍装置は1864年以降、蒸気トロール漁船にて使われた結果、氷詰めで輸送されたタラがイギリスで安く出回るようになりました。

img08122988-1

こうして、1860年代からロンドンとランカシャーでタラのフライとポテトのフライが組み合わされたフィッシュ&チップスが売り出されると爆発的に広まり、1870年代にはイギリスの他の地方でも労働者の食べ物つぃて広まっていきました。

”世界で最も有名なフィッシュ&チップスの店”のキャッチフレーズでお馴染みハリー・ラムズデンのトレードマーク

”世界で最も有名なフィッシュ&チップスの店”のキャッチフレーズでお馴染みハリー・ラムズデンのトレードマーク

こうして現代では自分は外国にいった事が無いので、伝聞ですが。イギリスはロンドンのヒースロー空港に降りたつや、空港内に”世界で最も有名なフィッシュ&チップスの店”というキャッチフレーズで知られる、ハリー・ラムズデンが迎えてくれますが。創業者のハリー・ラムズデンは石鹸業者ではないらしく。ブラッドフォードの下町マンチェスター・ロードで店を開き、1900年前後にフィッシュ&チップスがイギリスでポピュラーな庶民の味となっていきます。

reチーズソーセージ&チップス

日本でも売られるようになりましたが、ソーセージとポテトを揚げたソーセージ&チップスというのも存在します。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

お腹が空いてきたので、夜食にモルト・ビネガーをたっぷりかけてフィッシュ&チップスを頂こうと思います。

img082

油っぽいものにビールが欲しい方はパブなどへ足を運んでみてはと思います。

皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

お知らせ~過去の記事を加筆修正しました。

13 11月

こんばんは。以前に書いた記事に画像を加えてビジュアルで分かりやすくしたり、新たに加筆修正しました。

加筆修正した記事のタイトルとイメージ画像の一覧を下に出します。タイトルをクリックしますと、その記事のURLに移動できます。

世界の食文化その3~イスラム教の食事マナー


食の歴史その36~トマトがなかった昔のケチャップ

世界の食文化その1~世界の4割は直接手で食べている~

食の歴史その18~最初は下品だったフランス料理~

食の歴史その17~パスタのルーツは中国か?~


食の歴史その16~フレンチポテトからポテトチップに至るまで~

食の文化史その2~茶と紅茶とコーヒーの歴史~

以上となります。

また加筆修正したらブログの新着記事にてお知らせします。

食の歴史その36~トマトがなかった昔のケチャップ

2 8月

こんにちは、今日も暇つぶしになればと願ってコラムを書いて見ました。

ビジュアルで分かりやすくするため、画像を沢山使ってみました。

今、ケチャップと言いますと完熟トマトを加熱してから湯剝きで皮を取り、裏ごししてから低温で煮詰めてトマトピューレを作り。砂糖、塩、酢、オールスパイス(ピメント)、シナモン、グローブを加え、タマネギ、セロリなどの野菜も加えて作られます。

ケチャップ状の調味料には歴史があり、古代ローマ時代からあるケチャップは広く「ガルム」という名で知られ、リクアメンと呼ばれていました。

ローマでのガルムの製法

ローマでのガルムの製法

ガルム、またはルリクアメンは世界で最も古い調味料の一つで。酢、オイル、コショウ、干したアンチョビをドロドロにしてから潰して裏ごしにして調味したソースでした。

古代ローマで作られたトマトのないケチャップは鶏肉や魚に良く合うソースとして重宝され、ケチャップ工場で有名な町もありました。

2000年ほど前に火山灰に埋もれたポンペイの遺跡には「最高に滑らかなリクアメン。ウンブリクス・アガトホプス工場製」と書かれた世界で最も古いケチャップの瓶が発掘されています。

しかし、これは現在のケチャップの直接の先祖ではなく。1690年代に中国でやはり鶏肉と魚用のソースとして魚の酢漬け、貝、スパイスを塩水で漬け込んだものがマレーシアやその周辺にも伝わり、ここで「ケチャップ」という言葉が初めて出てきます。

このケチャップを1700年代にイギリス人がマレーシアやシンガポールの原住民が食べているのを見つけ、故郷のイギリスに持ち帰り、イギリスでもその味を懐かしんで料理人に作らせたのですがアジアのスパイスが手に入らなかったので、代用として魚介類ではカキ、アンチョビ、ロブスターを使い、他にはマッシュルーム、インゲンマメ、クルミ、キュウリ、クランベリー、レモン、ブドウなどで作り、現在でもパイやシチューに使われています。

イギリスのキノコから作ったケチャップ

イギリスのキノコから作ったケチャップ

この中国、マレーから伝わってイギリスで独自に作られたケチャップはイギリス人を魅了し、ハリスン夫人の書いた『ハウスキーパーのポケットブック』という人気の高い料理書に、主婦は「このソースを決して切らしてはなりません」と書かれています。

チャールズ・ディケンズ

チャールズ・ディケンズ

ヴィクトリア朝時代のイギリスを代表する『オリバー・ツイスト』などの著書を残した作家チャールズ・ディケンズ(1812~1870年)は『バーナビー・ラッジ』の中で「たっぷりケチャップをかけたラムチョップ」に舌鼓をうち、パイロン卿は彼の詩『ペッポー』の中でケチャップを称えています。

このケチャップにトマトに入ったのは1790年ごろ、アメリカのニューイングランド地方で生まれたとされます。

トマトは今のメキシコに繁栄していたアステカ帝国で食用に品種改良し、栽培されており。そのアステカを征服したスペインのエルナン・コルテスが1519年に種を持ち帰ったのですが、毒草のベラドンナに似ているのと、赤い実だけでなく毒のある葉も間違って食べていたから長い間毒とされ、日本でも江戸時代に長崎から伝わり、貝原益軒の『大和本草』にもトマトについて書かれていたのですが。ここでも偏見があり、日本でも食用になるのは明治を待たなければなりませんでした。

トーマス・ジェファーソン

トーマス・ジェファーソン

こういったトマトの偏見を覆したのがアメリカ建国の父の一人トーマス・ジェファーソン(1743~1826年)でして、アメリカで最初にトマトを栽培し、赤い実だけ食べれば毒は無く、すぐれた食べ物である事を知らせました。

アメリカにパリ仕込みのフライドポテトを持ち込んだりとアメリカの食生活にも影響与えたジェファーソンのトマトとそのケチャップはすぐさま広まり、1792年にリチャード・ブリッグが書いた『新しい料理法』にトマトケチャップの料理法が書かれ、1850年代にもなると、どこの家庭にでも見かけられるようになります。

この頃人気のあった料理書、イザベラ・ビートン著『家政学の書』は、「トマトケチャップ・ソースは経験を積んだ料理人にはもっとも利用価値の高いソースの一つです。作る手間を省いてはなりません」と主婦たちにアドバイスしています。

しかし、家庭ではトマトを湯剝きして、裏ごししたものを絶えずかき回して作るトマトケチャップは大変な手間であり、1876年にドイツ系アメリカ人の料理人兼ビジネスマンのヘンリー・ハインツが世界で初めて瓶詰めケチャップを最初に大量生産されたとき、アメリカの主婦達がしきりに買い求めたのも当然のことでした。

ハインツ社のトマトケチャップ

ハインツ社のトマトケチャップ

ハインツ社を作ってトマトケチャップの瓶詰めを量産したヘンリー・ハインツは「お母さんがたと家庭を預かる女性に福音!」とレッテルに書いて売れたケチャップは、瓶の形は底が広くて首が細いデザインと中身のケチャップの製法が百年以上の間、ほとんど変わっていません。

アメリカから飛んで日本に向かいますと、カゴメのトマトケチャップが圧倒的なシェアを得ていますが、これは明治になってから西洋野菜としてカゴメの創業者、蟹江一太郎が1899年にトマトを栽培し、数年後豊作で余ったトマトを保存食にするべく、西洋のケチャップの製法には必要なオールスパイス(ピメント)、シナモン、グローブなどのスパイスの調達が難しく、代用で漢方薬を使ったりと試行錯誤を繰り返し。1904年に生産を開始し、今に至ります。

カゴメが国産ケチャップを開発、販売していなければ。チキンライス、オムライス、ナポリタンは生まれていなかったかも知れません。

今日はケチャップでタマネギとピーマンを炒め、ナポリタンを作りたくなってきました。

皆さんもケチャップがあったら何かに使ってみませんでしょうか?フライドポテトにケチャップも美味しいですよね。

それではケチャップをふんだんに使ったナポリタンを食べますので。今日のコラムはこれで終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

参考文献
チャールズ・パナティ 著 バベル・インターナショナル訳 『はじまりコレクションⅠ』
高平鳴海 著 『図解 食の歴史』(「ガルム」の製法のみ参考)

参考サイト
カゴメ公式サイト 「カゴメの歴史」 http://www.kagome.co.jp/company/about/history/
ウィキペディア

食の歴史その28~江戸時代のおかず番付その1~

14 7月

おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと願って、コラムを書いて見ました。

今回もはめこんだ画像をもとにコラムを書いていきます。

まずは幕末に書かれたおかず番付の画像を一つ。

ざっと見て何が何だか分からないでしょうが、参考文献「江戸のまかない」にて現代語に訳した上に補足説明がついたものがありますので、そこから抜粋しますと。

sannentakuan3sisosarabu19

まず、中央の行司の下に沢庵、梅干を中心にぬかづけ、なすび漬け、茎菜漬けと並び。

112daikokuhisior0b01333d5ac0f55b8a411b08c21f2dd5

その下の世話役にでんぶ、ひしお、ざぜん豆、味噌漬け、唐辛子。

zyunbokuhpph01main2

一番下の段には味噌、塩、醤油の三大調味料となっています。

katsuobushiikasiokara-big2 hawa3

その右には年寄の欄があり、かつおぶし、塩辛、佃煮、ごま塩となっています。

これらは現在でも日本料理の基本となる調味料や食材なので、幕末も今も大して変わらないものとなっています。

そして右側が野菜や大豆を使ったメニューの番付で、左側が魚など肉をつかったメニューの番付となります。

この番付は大関までしかありませんが、江戸時代は大関が一番位が高く、横綱は名誉職で番付外でした。

では、右の野菜メニューの番付から解説を。

ただし、全部は列挙しきれないので、それぞれ一部からの抜粋になります。

八杯豆腐

大関に「八はいどうふ」とありますが、これは水6杯と酒1杯を入れて、煮立ったら醤油1杯を入れて煮立てる、そこに絹ごし豆腐を入れて、豆腐がグラグラ動き出したところを、おたまですくいだし、これに大根おろしをかけて食べるというメニューです。

自分もこのメニューを作りますが、感想としては安くて簡単であっさりしていて美味しいメニューです。

大根おろしがなくても、この一品で酒のつまみにもなるだろうと思っています。

昆布と油揚げの煮物

昆布と油揚げの煮物

関脇は「昆布油揚げ」昆布と油揚げの煮物です。小結はきんぴらごぼう、これはコンビニにもありますので、説明する必要もないでしょう。

前頭筆頭は煮豆で、食物繊維の王様なのだそうです。

前頭二枚目は焼き豆腐を具にしたおすまし。

008760_2

前頭三枚目はひじきの白和え、ひじきの煮物に砕いた豆腐を和えたもので、海草と豆腐の取り合わせという長寿食のイメージがあります。

四枚目は切り干し大根を薄味で煮た素朴なおかず。

五枚目はサトイモの仲間、「唐の芋」の茎を使った芋がらと油揚げの煮物。

j3SLZfQY

六枚目は油揚げに醤油をつけてあぶるだけ、刻みネギをつけると酒の肴にもうってつけだったりします。

七枚目は小松菜のおひたし。

ここまでが四季を問わずに食べられるおかずで、次は四季折々のおかずの番付を。

春の部も一部抜粋しますと、油で炒めた豆腐、笹がきゴボウ、麻の実を入れた「けんちん」というすまし汁。

わかめに酢味噌をかけた「わかめのぬた」「ニンジンの白和え」

油揚げ、大根、シイタケを葛(くず)でとろみをつけた「のっぺい(能平汁)」

レンコンを酢味噌とサンショウの若芽で和えた「蓮の木の芽和え」。

「ほうれんそうのおひたし」「海苔とウドの吸い物」。

わらびとがんもどきを煮付けた「わらびがんもどき」。

「たんぽぽの味噌和え」たんぽぽはサラダにしても美味しかったりします。

夏の部の抜粋は「地元ナスうま煮」「ささげごぼうの和え物」「いんげんごまひたし」「そら豆煮付」。

他にも「茄子の刺身」ゴマ油で軽く揚げた「茄子の揚げだし」。「かぼちゃゴマ汁」「フキの煮付」。

花が落ちて10日ほどの若いへちまの実を食べる「へちま煮浸し」。

白瓜(しろうり)をらせん状に細長く切って塩につけて干した「かみなり漬け」

最後にとりあげるのは茄子をマツタケの形に切って炒め煮にした「まつもどき」などのように多少凝った料理もあります。

秋の部の抜粋は「若菜汁」「サトイモころがし」「ふろふき大根」「とろろ汁」。

豆腐にとろろをかけた「山かけ豆腐」。「焼きしょうが」。

水気を切ってくずした豆腐に味をつけて炒る「炒り(いり)豆腐」。「あんかけ豆腐」。

「長いもおでん」「山芋のぐつぐつ煮」。

冬の部の抜粋は「湯豆腐」「こんにゃくおでん」「納豆汁」「かぶ菜汁」「輪切りゴボウ」「こんにゃく白和え」「ねぎ南蛮」「こんにゃく刺身」「ごま味噌」。

0902n_03

大根、こんにゃく、コボウ、人参、豆腐などを入れた味噌汁で、旧暦の12月8日に、その年の農作業の終わりである「お事終い(おことじまい)」を祝って食べた「お事汁」。

他にも「うど白和え」。鍋に材料を入れて焦げ付かないように水分を飛ばす「こんにゃく炒りつけ」。

「切干し大根白和え」。

などなど、今でも通用しそうなメニューが沢山あります。

明日は江戸時代の魚を使ったメニューの番付を書いて見ます。

皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?暇つぶしだけでなく、簡単なメニューもありますので、今日の献立の参考にもなれば幸いです。

食の歴史その26~ユダヤ教と食のタブー~

8 7月

おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いてみました。

図表で説明もするため、今回も画像を載せます。

 

世界には様々な宗教と食のタブーがあります。

世界三大宗教と言われるユダヤ教も例外ではなく、興味深い食のタブーもあったりします。

ユダヤ教で食に関する戒律を「適正な」を意味するカシェールを語源とするコシェルと呼びまして、神によって定められた約束事とされており、『旧約聖書』の「レビ記」第11章の中で次のように述べられています。

「……獣のうち、全てひづめの分かれたもの、すなわち、ひづめの全く切れたもの、反芻するものは、これを食べる事が出来る。ただし、反芻するもの、またはひづめの分かれたもののうち、次のものは食べてはならない。すなわち、ラクダ…岩タヌキ…野ウサギ…これらは反芻するけど、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。豚、これはひづめが分かれており、ひづめが全く切れているけれども、反芻することをしないから、汚れたものである」

このあと魚、虫、と各カテゴリーごとに目録が続きますが長いので割愛して下に食べてもいいもの、いけないもののリストを出しておきます。

獣についてもう少し述べますと、ひづめがわかれていない馬、肉球とも言う、足の裏のふくらみで歩く猫や狐なども食べてはいけないものとされています。

なぜ神は食肉には食べてよいものといけないものと細かく分類し、どんな基準によって分けたのかをい文化人類学者のマービン・ハリスは次のように説明しています。

食べてよいとされた獣を整理すると、ひづめが分かれていて反芻する哺乳類であり、さらに付け加えれば、乳が搾り取れ、食料が人間と競合しないうえに、おおむね群れをなしているので、家畜にしやすいなどの合理的な理由もあると説明しています。

反芻する哺乳類はすべて草食動物ですが、これらは人間の食用に適さない固い繊維質の植物、たとえば草やワラ、切り株、木の葉などを食べて大きくなります。

飼育のために人間にとって大切な穀物を与える必要がないばかりか、肉やミルク、皮を提供してくれる上に移動や農作業などの労働力としても十分に使えます。

このような特性は食べてよいとされる動物とされるにあたって極めて重要で、肉を得るための家畜化が簡単で、雑食や肉食獣の動物に比べたら元手がほとんど掛からないなどがあって、ひづめが分かれて反芻する動物は食べても良いとされた最大の理由と考えられています。

最初は反芻するかしないかが条件でしたが、ひづめ云々は後付けで加わったとされてあり、その理由としてはラクダを食べてはいけないほうに分類するためだったと考えられています。

定住した農耕民であるユダヤ人は、ラクダをほとんど使わず、その代用として牛や羊を利用してきました。

ラクダはきわめて繁殖が遅く、しかも産むのは一頭で離乳期間も1年近くに及ぶなど、食肉にするには効率が悪いので、反芻以外にも複雑な条件を持ち込んでタブーとしたのは古代ユダヤ人の経験から基づく比較的合理的な理由を神の言葉として『旧約聖書』に書いたのだろうと推測されています。

コシェルは上に出した図表に示したように、哺乳類以外にもおよんでいます。

魚では、ヒレとウロコがあるものと限定され、これによってイカやタコ、カキ、ハマグリなどが禁止されています。この点からボンゴレやグラムチャウダーが好きな自分としては絶対にユダヤ教には改宗できないと思っています。

鳥は羽毛があって空を飛び、かぎ爪がないものが食べても良いとされ、逆にワシ、ハヤブサ、カラスなど20種類が食べるのを禁じられていますが、それらの大半は肉食の猛禽類(もうきんるい)や雑食性であります。

虫の中でイナゴが食べてよいとされたのは、比較的体が大きく、1度に大量に捕まえる事ができるため、効率が極めて良い点を評価されたのでしょう。

しかも、穀物を食い荒らす虫なので、害虫駆除となって一石二鳥でもあります。

また、食材ばかりでなく、調理法殺し方にもややこしい規定があります。

調理法では、魚をのぞく肉類と乳製品を同じ道具で煮炊きしてはならないとされています。

獣とそれが生み出したミルクは親子関係にあると規定され、「子ヤギをその母ヤギの乳で煮てはならない」が拡大解釈されて肉料理にバターを使ったり、クリームソース入りのソースを添えたりも出来ません。

日本の親子丼も拡大解釈されたらご法度になるかも知れません。

そんな戒律のため、イスラエルのマクドナルドでユダヤ教の戒律を守っている店は青い看板で、チーズバーガーを注文しますと、ご丁寧に「チーズをつけますか?」と言われるとの事です。

どうしても肉を食べた後に牛乳が飲みたかったら、牛肉を食べてから6時間待てばよしとされ。

反対に乳製品を食べたら30分間は牛肉を食べてはいけない。

しかも、調理は別々に行うのが原則ですから、チーズ用のまな板と牛肉用のまな板と別々に用意しなければならず、日本人にとってややこしいことこの上ありません。

より熱心なユダヤ教徒になりますと、牛乳と牛肉を同じ冷蔵庫に入れず、食材ごとに使用する調理器具も使い分けています。人によってはミルク入りコーヒーさえ遠ざけているそうです。

他にも観光者の話として、土曜日に煙草を吸ったら何故か怒られまして、それはユダヤ教の休日が土曜日で日曜日は普通に働きに行く日なので、その休日である土曜日は喫煙さえ戒律で禁じられているようです。

以上でコラムは終わりですが、いい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その21~ハンバーガーとモンゴル帝国~

29 6月

おはよございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと願って、コラムを書いて見ました。

地図で説明する箇所があるので、画像を一枚アップロードします。

ハンバーガーはアメリカの国民食であり、世界のファーストフードの王者となっており。

10年ほど前のデータでは、マクドナルドは世界120カ国に進出し、1日あたりの来客者数はのべ4000万人に達するそうです。

ハンバーグステーキを丸型のパンでくるむというアイデア料理の俗称がハンバーガーだが、その起源はドイツ北部の港町ハンブルグの家庭料理をヒントとしてアメリカで改良され、のちにハンブルグの英語なまりであるハンバーガーtご呼ばれたといわれています。

しかし、この説は現在ではほとんど試みられていません。これはれっきとしたアメリカ生まれのアメリカ料理だからです。

例えば日本語に「日本風天ぷら」という呼び方がないように、「ハンバーグステーキ」もドイツ語には見当たらない言葉です。

地元のドイツでは皿に出されたものを「ドイチェス・ビーフシュテーキ」と言い。牛肉のミンチを丸めて平たくしたもので、つなぎなどを混ぜていないためにポロポロした食感だと言われています。

他にはジャガイモをつなぎに使った「フリカデレ」というドイツのひき肉料理もあります。

フランス料理には馬肉のひき肉、たまねぎ、薬味、生卵をまぜたタルタルステーキがありますが、このタルタルステーキが原型ではないか、という説が注目されているそうです。

タルタルとは生肉をミンチ状に刻んで賞味するいわば、牛肉や馬肉のタタキであり、そもそもタルタルとは1200年代にチンギス・ハーンとその子孫によって征服された中央アジアやロシアに移住したモンゴル系の人たちの総称で、一般にはタタールと言われています。

タタールの由来はギリシャ神話に登場する最悪の死後の世界であり、奈落も意味する「タルタロス」から生まれ、ハンガリーやポーランドにまで攻め入ってヨーロッパ連合軍を殲滅させた強さから野蛮で凶暴と恐れられたモンゴル帝国率いるモンゴル系、トルコ系遊牧民が、タタールと呼ばれるようにjなったのだと言われています。

このタタールと呼ばれた遊牧民は中央アジア平原で放牧された羊や馬などの肉質の硬い生肉を細かく刻んで食べていましたが、1200年代末期にこの料理法がドイツに伝わり、素材を羊や馬から牛に変えて定着したのが、タルタルステーキの源流とされています。

はじめのころは、硬いスジ肉を塩や身近な調味料だけで味付けしていたらしいのですが。

そのご、今日のタルタルステーキのように生卵やピクルス、刻みタマネギなどを添えて深みのある味を出すようになりました。

そして数百年経ちましたら、焼いてハンバーグの原型になるものがイギリスとアメリカに伝わります。

イギリスはジェームズ・ヘンリー・ソールズベリー博士が食事改善運動を行い、全ての食材は細かく切ってから食べると健康にいいと提唱し、南北戦争(1861~1865年)に従軍の際、兵士が下痢をしないよう、消化の悪いステーキではなく、脂身を含まない牛肉の赤味を細かく刻んだステーキを考案。この考案者ソールズベリー博士にちなんでイギリスではソールズベリー・ステーキとも言われているそうです。

ちなみに、第2次世界大戦中のアメリカではハンバーグは敵国ドイツの言葉としてソールズベリー・ステーキと言うようにお上からの指示があったそうです。

さて、ハンバーグ、ハンバーガーという名前を考案し、世界的にその名を広めたアメリカはと言いますと。1850年代からドイツ移民がハンブルクからニューヨークまでのアメリカに至る長い船旅の中で硬くなったり、古くなった燻製肉を細かく刻んで調理していた料理法を伝えたとされ、1884年2月16日のボストン・ジャーナルという新聞に

「ニワトリを1羽捕まえて煮る。冷めたらハンバーグステーキの肉と同じように刻む」

という調理記事が紹介され、これが活字で記録された最も古いハンバーグの記録とされています。

これからアメリカの北部ウィスコンシン州セイモアという小さな田舎町は、ハンバーガー発祥の地として名乗りを上げ、ハンバーガー博物館まで設置していたりするなど、アメリカ各地でハンバーガー発祥の地と名乗りを上げている場所がいくつかあります。

下にハンバーガーとゆかりのある場所を指し示す地図を出します。

上の地図のようにアメリカ各地に広まったハンバーグ、ハンバーガーですが。1900年代初頭になっても評判の悪いものでした。

歴史学者デイヴィット・ジェラード・ホーガンによれば、ハンバーガーは汚くて、口にするのは危険な貧乏人の食べ物と思われていました。

レストランで出される事はほとんどなく、工場のそばにくるランチのワゴン、サーカス、カーニバル、博覧会などで売られる代物でした。

これは今の日本人の感覚で言えば、噂話ですが、地元で夏祭りになると路上の屋台に出す焼きそば、たこ焼き、お好み焼きなどを買ってたべようとしたら親に「屋台のは路上に水道なんてなく、汚い水で作っているからやめなさい」と言われ、食べられなかった思い出がありますが。博覧会で売られたハンバーガーも似た様な認識だったかも知れません。

アメリカに話を戻しますと昔、ひき肉は合成保存料がたっぷり添加された腐った古い肉から出来ていると信じられていました。ですから、

「ハンバーガーを食べるのは、ゴミ箱から取り出した肉を食べるのと同じくらい危険だ」

と、昔のアメリカの食品評論家は論じていました。

それからしばらくして、1920年代に、アメリカ初のハンバーガー・チェーンであるホワイト・キャッスルは、ハンバーガーの悪いイメージを払拭するために、グリルを客が見れるようにした上で1日に2回新鮮なひき肉が搬入されている事を訴え、チェーン店の名前も清潔なイメージを受け付けられるようにとの思いから命名し、さらには、ミネソタ大学の実験のスポンサーとなり、医学生がホワイトキャッスルのハンバーガーと水だけで13週間生きられる事を証明しました。

こうした努力と成功がハンバーガーの偏見を取り除きましたが、客層はほとんどが都会の男性労働者で、女性や子供も一緒に食べる国民的な食べ物になるには、30年ほど経った1950年代にマクドナルドが家族向けチェーン店として売り出すのを待つしかありませんでした。

こうして現在、スーパーに行きますと安く真空パックのハンバーグが置いてあり。街へ出るとMをかたどった金色アーチの看板をかかげたマクドナルドがあちらこちらにあるようになりました。

最後に一つ蛇足しますと、日本のハンバーグは日本独自の調理法を取っていて。

日本の一般的レシピでは、牛、豚、7対3のミンチと、みじん切りして炒めた玉ネギを加え、塩、胡椒、ナツメグ、全卵、パン粉混ぜを合わせ、表面をしっかり焼いて肉汁を閉じ込め、オーブンで中まで火を通す。仕上げにブラウンソース、またはデミグラスソースをかける。

といった感じで、アメリカやイギリスより手の込んだ代物なのだそうです。

今日のコラムはここで終わりですが、皆さん楽しんで頂けたでしょうか?

食の歴史その16~フレンチポテトからポテトチップに至るまで~

21 6月

おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと願って、コラムを書いて見ました。

ビジュアルで分かりやすくなればと思って画像を幾つか入れていきます。

米、小麦、トウモロコシ並んで世界の4大作物とされているジャガイモは寒冷地や痩せた土地でも育ち。

イギリスの経済学者 アダム・スミス

イギリスの経済学者 アダム・スミス

「国富論」を書いた経済学者アダム・スミスも「ジャガイモは小麦の3倍収穫量がある」と評されています。

そのジャガイモ薄切りにして塩味つけてから揚げたポテトチップはある男が閃きや発明ではなく、腹立ち紛れに作ったものでした。

1853年の夏、ネイティブアメリカンのジョージ・クラムは、ニューヨーク州の高級リゾート、サラトガ・スプリングズのムーン・レーク・ロッジというレストランでコックをしていました。

そのレストランのメニューにはフレンチポテトがありました。

トーマス・ジェファーソン

トーマス・ジェファーソン

アメリカ建国の父で3代目大統領のトーマス・ジェファーソンが1785年からフランス革命が起こる1789年までフランス大使だった頃からフレンチフライが大好物で。1802年に「ポム・フリット」というパリ仕込みなフレンチフライのレシピを取り寄せ、来客者に出してから広まり、そのご本核的なディナー料理になりました。

そのフレンチフライをクラムが作って出したところ、客は厚すぎて好みに合わないと注文を取り消しました。

そこでクラムは薄く切って揚げたが、これも客は気に入らなかった。

腹を立てたクラムはこれでもかというほど薄く切ったジャガイモをフォークで刺せないほどカリカリに揚げて、客を困らせてやろうとしました。

ところが、紙のように薄くパリパリのジャガイモを食べた客は美味いと大喜び。それを見た他の客も競ってポテトチップを注文しました。

こうしてポテトチップはムーン・レーク・ロッジ特性のサラトガ・チップとしてメニューに載りました。

間もなくポテトチップは包装されて近所に売り出されましたら、最初は近所だけでしたが。次第にアメリカ東海岸のニューイングランド地方全域にまで広まりました。

この流れにのって腹立ち紛れにポテトチップを世界で最初に作ったクラムはポテトチップを呼び物にして自分でレストランを開きました。

当事はジャガイモを皮むきして薄切りにするうんざりする手作業でしたが。1920年代に皮むき機が発明されると、少量しか出回らない特製品だったポテトチップがアメリカで一番売れるスナックになる道が開かれていきます。

ハーマン・レイ Herman W. Lay 

ハーマン・レイ Herman W. Lay

ポテトチップは1853年に発明されてから数十年間主にアメリカ北部のディナー料理でしたが。1920年代にセールスマンのハーマン・レイが車のトランクに詰め込んでアメリカ南部を回り、食料品店を行商し、取引しては名前を広め。レイのポテトチップはブランドとなりました。

レイのポテトチップ lay's classic potato chips

レイのポテトチップ lay’s classic potato chips

そして、1961年にはコーンチップを作っていた会社を併合してよりアメリカ全土にポテトチップを生産して売り込むほどになりました。

一方日本ではコイケヤの創業者、小池和夫が飲みに行ったお店でポテトチップに出会い、「こんな美味しいものがあったとは」と感動し。もっと広くこの美味しさを伝えたいと思い、1962年に日本人の口に合うようにと、のり塩のポテトチップを売り出しました。

アメリカでは昔、ジャガイモは食べる寿命が縮むという迷信を信じて豚の餌にしていましたが。ポテトチップにするために油で揚げて塩をまぶした事から、高血圧と心臓病の原因の一つとなり。迷信ではなく本当に体に悪い食べ物となってしまいました。

皆さんもポテトチップを食べるときはお体にお気をつけて。

コラムは以上で終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の安全その1~アメリカの食中毒と縦割り行政~

21 6月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと思ってコラムを書いてみました。
携帯やスマホで見る人もいるかと考え、あえて画像は載せていません。

日本では新聞やテレビで役所の縦割り行政の話をすることがしばしばありますが。
この縦割り行政の弊害は日本だけでなく、アメリカにもあったりします。

アメリカでは12の政府機関が食品衛生と安全に関わっており。議会の28の委員会がこの政府機関を監督しています。

所属する省庁も利益も異なる役人が介在するため、食品安全製作の運用に混乱や格差がみられ、不合理な事も数多くあります。

農務省は屠殺(とさつ)した牛には細菌検査を行う権限がありますが。食肉加工場から例えばBSEなどに汚染された牛を排除するために生きた牛を検査する権限がありません。

冷凍チーズピザの製造は、食品医薬品局が取り締まっていますが。このピザにペパローニを載せると管轄が農務省になります。

卵は食品医薬品局が取り締まりますが。卵を産む鶏は農務省の管轄で、この二つの役所は縦割り行政の弊害で連携ができず。サルモネラ菌に感染された卵を取り除く努力が阻害されています。

オランダやスェーデンでは卵の雑菌をほぼ完全に取り除いていますが。アメリカでは年間50万人以上が卵で食中毒になり、年間300人以上がその食中毒で死んでいます。

「ファストフードが世界を食いつぶす」の著者、エリック・シュローサーはアメリカの食品衛生全般を一手に引き受ける役所を作り、徹底的に検査する権限も与えるべきだと主張しています。

エリック・シュローサーの著書では。農務省は農業の促進と監視の二つの業務があるが、両立しえないと主張し。

もう一方の食品医薬品局も病院や薬屋で手に入る医薬品の監視に予算を殆ど使っており。
食品医薬品局の検査官が食肉加工場に訪れるのは平均して10年に1回のみ。

こんな状況なのでアメリカに20万も店舗があるファーストフード店の食品衛生は全く監視されていません。

このせいで悲惨な事が発生しました。
1993年シアトルの病院で血の混じった下痢便のために受診する子供が急激に増えた事に医者が気づきました。

以前は珍しかった「溶血性尿毒症症候群(HUS)」という、腎臓を破壊する病気にかかった子供もいました。

そこから保険職員がすぐに、集団食中毒の原因が地元のジャックインザボックスで出された生焼けのハンバーグであることを突き止めました。

問題のハンバーガーパテを調べたところ、牛を解体する食肉加工の段階で無理して大量生産させた結果、製造ラインの速度が速すぎて雇われた大勢の不法移民がラインのスピードについていけず、誤って胃腸を傷つけ、そこから出た未消化物や糞便が混じった事が原因とされる大腸菌O-157H7が含まれる事が判明しました。

ジャックインザボックスはカルフォルニアのヴォンズ社が製造した汚染ひき肉の回収を、すぐさま宣言しました。

しかし、時既に遅く。少なくとも4つの州で700人以上がジャックインザボックスのハンバーガーを食べて病気になり、200人以上が入院し、4人が死亡しました。

この食中毒の被害者のほとんどが子供でした。

最初に発症したうちのひとり、ローレン・ベス・ルドルフは、クリスマスの1週間前にジャックインザボックスのハンバーガーを食べて1週間後のクリスマスに入院。

ローレンは入院中、激しい痛みに苦しみ、3回心臓発作を起こして1992年12月28日、母親の腕に抱かれて息を引き取りました。

ローレンはまだ6歳でした。

こんな惨事が実は80年代にマクドナルドでも起こっていたにも関わらず、アメリカの農産物の生産、流通、加工、貿易など食に関して多岐にわたって携わるアグリビネジネスの大企業とファーストフード大手は政治家に多額の政治献金をしたおかげで。
「農産物名誉毀損法」
という恐ろしい法律を2001年の段階で13の州に制定させました。

この法律は”正当”な科学的根拠も無しに農産物や食品を批判してはいけないという法律です。

この”正当な”は食品関連の大企業から献金や天下り先を約束されている人たちが決めますので。
消費者にとって公平な判断が出来るのかどうか疑問です。

ドキュメンタリー映画「フード・インク」では。O-157などの細菌が混じった食べ物を食べた子供が死んでしまい。遺族が製造元を批判したところ、大企業から名誉毀損などで訴訟を起こされてしまい。カメラの前でも遺族は、また訴訟が起こされないかビクビクしていたようで歯に物が詰まった物言いでした。

こうやって大企業への批判を圧殺する手口を「まるでソ連の人民委員だ」と例えられてもいます。

日本の食品行政は不勉強なので、わかりませんが。アメリカみたいに杜撰で無い事を願うばかりです。

それと、アメリカから輸入された物もちゃんと検査されている事も願うばかりです。

以上でコラムは終わりですが、いかがでしたでしょうか?

皆さんのいい暇つぶしになったら幸いです。

食の文化史その1~フレンチポテトとコーラとアメリカ~

18 6月

こんにちは。皆さんの暇つぶし用に長めのコラムを書いて見ました。
携帯やスマホで見ている人もいるだろうと考え、あえて画像は入れてません。

フレンチポテトが広まった歴史は比較的新しく。1914年から1918年まで起こっていた第1次世界大戦にて、ヨーロッパに派遣されたアメリカ兵がベル ギー人からフライドポテトをお裾分けしてもらったのですが。ベルギー人がフランス語を話すので、フランスのポテトだと思い込み、そこから「フレンチポテ ト」という名前になったようです。

そのベルギーではフライドポテトの歴史がある程度あり。昔、ベルギーの漁村では川で取れた小さな魚を揚げて食べていた。しかし、冬になると川が凍って魚が取れないので代わりにポテトを揚げてみたのが始まりらしいです。

ヨーロッパで本格的にジャガイモが食用になったのはフランス革命が起こった時、パンが不足していたので革命政府が代用として家畜の飼料にしか使われていな かったジャガイモを配給したのが始まりだと言われるので。ベルギーでもジャガイモが食べられたのは。おそらく、フランス革命が起こった1789年以降かも 知れません。

ベルギーでは現在、フライドポテトをフリッツと呼んでおり。これが主食となっているほどです。
フリッツにつけるソースも独特で「サムライソース」というマヨネーズにハリッサという唐辛子とニンニクとその他香辛料を加えた調味料とレモンで味付けしたものをつけて食べるのが一般的らしいです。

フライドポテト先進国であり、偶然にも「フレンチポテト」名付け親となったベルギーからアメリカに渡ったフレンチポテトがアメリカで普及するには時間がかかっており。
ジャガイモ王、フライドポテトの王とも言われる。ジョン・リチャード・シンプロットというアメリカの田舎はアイダホで戦前は農場を営んでいた男が第2次世界大戦後に所有するジャガイモの大農場と巨大な加工工場を使って1950年代に売り込みます。

1950年代に売れるまでの間、シンプロットは第2次世界大戦中に乾燥ジャガイモや乾燥タマネギを軍に納入して莫大な儲けを得ては農場と加工工場を拡大していき。冷凍庫が家庭にも普及した1950年代になると冷凍食品に目をつけます。

実は1920年代にクラレンス・バーズアイと言う人が急速冷凍の特許を取り。冷凍食品を売り込んだのですが、当事はスーパーや食料品店にも冷凍庫がなかったので全然売れませんでした。

それから家庭にも冷凍庫が普及した30年後にクラレンス・バーズアイが考案したアイディアにジャガイモ王シンプロットが目をつけました。

1950年代は「食品加工の黄金時代」と言われ。冷凍TVディナー(これは1960年の映画「アパートの鍵貸します」に出てくる都会で一人暮らししている サラリーマンが家に帰るとテレビ見ながらマッチで火をつけたコンロで解凍したTVディナーを食べているシーンが出てきます)に始まり、袋から出てくるポテ トサラダ、冷凍オレンジジュース、スプーンで簡単にすくえるほど柔らかいチーズが詰まったチーズウィズ(アメリカではこれを使ったチーズマカロニがお袋の 味のようです)などなどが最先端の食料品としてもてはやされ。レストランでは誇らしげに缶詰スープを出し、冷凍食品を出すのが売りのレストランもありまし た。

ここでシンプロットは家庭がどんな加工食品を欲しているのかリサーチを開始します。
その結果、アメリカ建国の父トーマス・ジェファーソンが1802年にパリ仕込みの「ポム・フリッド」という正真正銘なフレンチポテトのレシピを持ち込み、 第1次世界大戦後にアメリカで庶民に流行したフレンチポテトを冷凍食品にして売ったら儲かるとのリサーチ結果が出ました。

そして、1965年にマクドナルドがフライドポテトをシンプロットが売り込んだ冷凍ポテトに切り替えてより爆発的に広がって今に至ります。

マクドナルドのフライドポテトの味の秘訣は揚げる油にありました。
それは7%の大豆油と93%牛脂という割合で混ぜた混合油にありました。
しかし、フライドポテトのコルステロールの高さに非難が高まり。1990年に100%植物油へと切り替えます。
この時に使えなくなった牛脂で出していた風味をどうやって出すか考えた結果。
「香料」とも「人工香料」とも言われる添加物を使って風味をつけました。

もし、この「香料」がなかったらファーストフードは存在しなかっただろう。と言われるほど大変重要なものです。

加工食品は洗浄、カット、詰め込み、乾燥、冷凍、貯蔵、輸送などの過程で風味が殆ど失われるため、人工香料で風味をつけざるおえないのです。

スーパーで食品の添加物の表示を注意して見ると、さりげなく「香料」と書かれている割合が高いのに気づく事でしょう。

これらの香料は製法が門外不出で限りられた場所のラボで科学者たちが調合して常に新たな風味をつける香料を開発しています。

匂いは食べ物の味の90%を決めるほど重要な要素で。この香料さえあれば、誰でも美味しい料理を簡単に作れてしまいます。

これまでラボで開発された香料を一部だけ羅列しますと。ポップコーン、ポテトチップ、パン、クラッカー、朝食用シリアル、スポーツドリンク、紅茶、天然オーガニック食品全般、醸造酒、ビールなど。どんな食品の風味も香料で作れてしまいます。

ノンアルコールビールを飲んでもビールの味がするのは香料で人工的に作られたビールの香りのおかげです。

こうした人工、天然を問わず。「心地よい食べ物」の匂いが脳に記憶されると。特定の食べ物を無意識に食べたくなるようなります。こうしてアメリカでは週に4~5回以上マクドナルドなどに通う。業界用語では「ヘビーユーザー」と言われる客層を産み出しました。

そんなヘビーユーザーの一人らしい有名人がいます。元アメリカ大統領のビル・クリントンです。

彼はアレルギーが多く。牛乳やら花粉やら様々なアレルギーがあるので、チーズバーガーは食べないようですが。フライドポテトを食べながらコーラを飲むのが 大好きで。その結果心臓病になり、手術を受けることになって一命を取り留めましたが。それ以来コーラは飲んでもフライドポテトは控えるようになったと言わ れています。

このコーラも中毒者が多く。まだ元気で「バック・トゥー・ザ・ヒューチャー」に出演中だったマイケル・J・フォックスにインタビューしたライターのガモ川口さんが言うには彼がやたらダイエットコーラをがぶがぶ飲む姿が印象的だったと語っています。

他にもエルトン・ジョンは演奏しながらダイエットコーラを飲む姿が有名なほどのコーラ愛好者です。

カロリー0のダイエットコーラは一見、悪くないように見えますが。カロリーを0にするために使う人工甘味料が肝臓やすい臓を悪くするという話もあります。

こうした話の結論か言わせてもらうと、アメリカ人はコーラとフライドポテトの組み合わせで中毒になっている人が多い。

そういった人ほど肥満がひどく、糖尿病や心臓病の割合が高い。

なので、お子様が炭酸飲料全般とポテトチップ、フライドポテトの組み合わせが病みつきにならないよう、食育が必要となりますでしょう。

ここでコラムは終わりですが。いい暇つぶしになったでしょうか?

楽しんでもらえたら幸いです。