アーカイブ | 食肉 RSS feed for this section

天下人の食卓~織田信長

5 8月

ダウンロード

「天下人の食卓」第1回は織田信長の食卓を紹介してまいります。

e801777857beaa15f34290596364c3d4

『信長公記(しんちょうこうき)』のエピソードで桶狭間(おけはざま)の戦いに出る前、

「人生五十年~」と敦盛(あつもり)の舞を行ってから鎧をつけた信長は立ったまま食事したとあります。

信長が立ったまま食べていたのはご飯にお湯をかけた「湯漬け(ゆづけ)」と呼ばれるものでした。

この頃にポルトガルから日本へやってきた宣教師のルイス・フロイスは『ヨーロッパ文化と日本文化』のなかで、

・われわれはスープがなくても結構食事をすることができる。

・日本人は汁がないと食事ができない。

と記し。必ず水分と一緒に食べる日本食が印象的でした。

『名将言行録(めいしょうげんこうろく)』『信長公記』などにあるエピソードによると信長は好き嫌いが激しく偏食がでした。

618QzxFnSsL

他にも街を歩きながら餅や瓜を食べる事は不作法とされてましたが、一目をはばからずに行い「うつけ者」と呼ばれます。

信長、秀吉、家康の3人に共通するのは鳥肉をよく食べ。

醤油はずっとあとの時代の調味料なので当時は鳥肉の塩焼き、または焼いた鳥肉を味噌ダレで頂きました。

imgrc0076191462

漬物はみそ漬けが多く。

当時は漬け物を「香の物(こうのもの)」と呼んでました。

unnamed

目新しい洋菓子を好んでいた信長へ宣教師がカステラを献上したところ、

ワサビと醤油で食べたと記録されてます。

IMG_20200806_151634-01

『名将言行録』では信長が鷹狩りに出かけると昔、信長を諫(いさ)めて切腹した平手政秀を思い出し。狩った鳥の肉を引き裂いて

「政秀!これを食べよ!」

と言って空に向かって投げ、涙を浮かべていたそうです。

信長にとって家臣に与える褒美の食べ物が、「肉」だとうかがい知れるエピソードです。

以上が信長の食卓でした。

これから焼き鳥の缶詰めとみそ漬け、かぶのお吸い物でご飯にしたいと思います。

焼き鳥の缶詰めとみそ漬けは酒の肴にも相性バツグンです。

外出を控えている方もそうでない方も、いい暇つぶしになったでしょうか?

参考文献

・ルイス・フロイス著「ヨーロッパ文化と日本文化」

・太田牛一著「信長公記」

・志村直人著「歴史ごはん」

・岡谷繁実著「名将言行録」

食の歴史その50~フィッシュ&チップスと捕鯨・石鹸・冷蔵庫

17 3月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いてみました。

今回もビジュアルで分かりやすくなるよう、画像を沢山使っています。

使用している画像はクリックしますと拡大され、より見やすくなるものもあります。

Matthew_Calbraith_Perry

幕末の1854年にペリー率いる黒船がやってきましたが。その目的は開国によって捕鯨船に水や食糧が補給できるようにする事でした。

img076img077

石油の採掘が始まるまで鯨油(げいゆ)はランプの燃料と潤滑油として大量の需要がありました。
理由は温度が下がっても固まらない、粘結度があまり変わらないので引っ張りだこでした。

1800年代のコルセット

1800年代のコルセット

髭や骨は女性のコルセットやペチコートの材料として使われました。

images81

鯨油は石鹸にも使われ当事の石鹸の包装に鯨の絵が使われている事からもうかがえます。

83R83R83i83b83c83I83C838B8ECA905E

しかし、1800年代半ばから値上がりした鯨油に取って代わってココナッツ・オイルが石鹸の材料に使用されていきます。

img078ruspatsand-soap

石鹸が変わっていくのは材料だけでなく、当事は糸で切り分けていたのが現代の石鹸のように使いやすいサイズへと変わり。

1f1317fd063fd07ced092266acdd4538sunlight-soapgiving_puppy_a_bath_from_pears_soap_postcard-r553a1825464448c6b95f85e1b861f74d_vgbaq_8byvr_512

有名な画家を使って広告にも力を入れた石鹸が洗練されていくと同時に1851年の万国博覧会には727ものメーカーが出品していましたが。石鹸のシェアはナイト、ギブス、ヤードリー。それと新規参入したサンライトとペアーズに半数以上占められました。

img079

競争に敗れた数百もの石鹸メーカーは石鹸を作るための銅鍋をフライパンに、ココナッツオイルを揚げ油に転用する事によってフィッシュ&チップス屋に転業していきます。

石鹸からフィッシュ&チップスへ転業された頃、この料理にとって重大な発明がされています。

冷凍装置の発明者ジェームズ・ハリスン

冷凍装置の発明者ジェームズ・ハリスン

1856年に実用的な冷凍装置をオーストラリアのジェームズ・ハリスンが発明しました。

prince50ogfoodcompany-09070350

この冷凍装置は1864年以降、蒸気トロール漁船にて使われた結果、氷詰めで輸送されたタラがイギリスで安く出回るようになりました。

img08122988-1

こうして、1860年代からロンドンとランカシャーでタラのフライとポテトのフライが組み合わされたフィッシュ&チップスが売り出されると爆発的に広まり、1870年代にはイギリスの他の地方でも労働者の食べ物つぃて広まっていきました。

”世界で最も有名なフィッシュ&チップスの店”のキャッチフレーズでお馴染みハリー・ラムズデンのトレードマーク

”世界で最も有名なフィッシュ&チップスの店”のキャッチフレーズでお馴染みハリー・ラムズデンのトレードマーク

こうして現代では自分は外国にいった事が無いので、伝聞ですが。イギリスはロンドンのヒースロー空港に降りたつや、空港内に”世界で最も有名なフィッシュ&チップスの店”というキャッチフレーズで知られる、ハリー・ラムズデンが迎えてくれますが。創業者のハリー・ラムズデンは石鹸業者ではないらしく。ブラッドフォードの下町マンチェスター・ロードで店を開き、1900年前後にフィッシュ&チップスがイギリスでポピュラーな庶民の味となっていきます。

reチーズソーセージ&チップス

日本でも売られるようになりましたが、ソーセージとポテトを揚げたソーセージ&チップスというのも存在します。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

お腹が空いてきたので、夜食にモルト・ビネガーをたっぷりかけてフィッシュ&チップスを頂こうと思います。

img082

油っぽいものにビールが欲しい方はパブなどへ足を運んでみてはと思います。

皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その49~「人類の恩人」と瓶詰め、缶詰

10 2月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願い、コラムを書いてみました。

今回もビジュアルで分かりやすくなるよう画像、写真を多用していきます。

1800年代は食卓にも科学技術の革命が起き。サトウダイコンから砂糖を取り出したり、粉末スープの工業生産が可能となり、ヨーロッパは飢餓から逃れる事に成功します。

ニコラ・アペール

ニコラ・アペール

そんな1800年代の発明で特筆すべきはニコラ・アぺールが発明した瓶詰めと彼の名前を取った「アペルティザシオン」と呼ばれる殺菌消毒法です。

ウィキペディアを見ると情報が少なすぎるので、ニコラ・アペールの生い立ちなどの詳細も書きますと。

1749年11月17日、フランス北部のシャロン=スュル=マルヌ(マルヌ県)に生まれ。父はホテルを経営していました。

PJB_jam1 balthazarfrenchmartini 331d8242-s

実家のホテルの厨房で料理の手ほどきを受けたアペールはジャム、リキュール、砂糖菓子などを担当する料理人として1772年にクリスチャン4世。1775年にフォルバック公妃のもとに仕え、修行を重ねていました。

修行して腕を上げたアペールは1782年にパリのレ・アル地区のロンバール通りに店を構え。瓶詰めで食品を保存させる研究を行っていきます。

ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』

ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』

ナポレオンが皇帝になった1804年。フランス政府は遠征軍のために長期間の保存が利く方法を発明した者に今の価値で約300万円相当になる12000フランの賞金を約束し、民間からもアイディアを募集していました。

milk3-thumb-640x480-84

この募集の話を知って奮起したアペールは塩漬け、酢漬け、アルコール漬け、燻製といった中世からの古い食品保存方に革命を起こすべくグリンピース、サヤインゲン、牛乳などをガラス瓶に入れて密封し、長時間煮沸する殺菌消毒を発見します。

この殺菌消毒が「アペルティザシオン」と呼ばれるものです。

ジャン-アントワーヌ・シャプタル

ジャン-アントワーヌ・シャプタル

この保存方法を科学者であり、当事大臣だったシャプタルがナポレオンに伝え、アペールの店は軍の公式納入業者となり、1809年に皇帝から12000フランの賞金を賜り、3年後の1812年には「人類の恩人」という称号も授かりました。

こうして大もうけして名誉も得たアペールですが、瓶詰めに使われた殺菌消毒と保存法などの特許を取らず、全財産を投げ打って死ぬまで食糧の保存法を研究し。『あらゆる動植物食品を多年にわたり保存する法』を出版し、英語に翻訳されたものはイギリスを経由してアメリカで読まれ、好評を博しました。

 

1824年イギリスの缶詰

1824年イギリスの缶詰

アペールの瓶詰めと保存法から発展していくイギリスのピーター・デュラントが発明してアペールと違い、特許を取得した缶詰は缶切りがまだ発明されておらず、開封はハンマーとたがねなど、大工道具を用いるため長期航海する船員や遠隔の僻地に旅行する人などが利用する程度の特殊な保存食でした。

アメリカ南北戦争 ゲティスバーグの戦い

アメリカ南北戦争 ゲティスバーグの戦い

しかし、アメリカ南北戦争(1861~1865年)で需要が増大して缶詰の大量生産に繋がっていき。1860年代は缶詰の素材に適したブリキと容易に中身を取り出せる缶切りが発明され。南北戦争以降から欧米の庶民の食卓に缶詰食品がのぼりはじめます。

0010040000372

日本でも明治四年(1871年)に缶詰の製法が伝わり。長い間、軍の保存食として生産されていましたが。明治時代の缶詰の詳細は『食の歴史その47~アメリカの辞書にも載っている「テリヤキ」』をご参照下さい。

saba_1 200908052247126ad

さて、そろそろ夕食の時間なので、さばの水煮缶と大根おろしとレモン汁と薬味でさばのおろし和えでも作って食べようかと思います。

皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その48~古代ローマ庶民の接待ディナー

1 12月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いて見ました。

今回は古代ローマのディナーには金持ちのディナーについての文献は美食を極めたものなど、沢山ありますが。庶民のディナーを書き記したものは珍しいので、庶民のディナーを優先的に取り上げてみようと思います。

童話作家グリム兄弟

グリム兄弟

後にグリム童話を編集するグリム兄弟やシェイクスピアにも影響を与えた古代ローマの詩人オウィディウスが書いた作品に、ロウで作った羽で空を飛び最後は墜落してしまうイカロスの話などの有名なエピソードを複数収めた『変身物語』があります。

フィロモンとバウキスの家の、ジュピターとマーキュリー

バウキスとピレーモーンの家の、ジュピターとマーキュリー

この中に神々が旅人に変身して村人の家でディナーをご馳走になる「バウキスとピレーモーン」という話がありまして。庶民のディナーが描かれていますので、これを中心に取り上げていきます。

天空の神ジュピター

天空の神ジュピター

天空の神ジュピターと、父ジュピターのお供するために翼の着いた靴を脱いだマーキュリーの親子が旅人に化けて。バウキスとピレーモーン老夫婦の家にお邪魔しますと、老夫婦は荒い布をかけた椅子を出し。二人はそこに体を休めます。

8

それから囲炉裏の灰を掻き分けて昨晩の火種を見つけ、木の葉や乾いた樹皮に火を移して息を吹きかけ燃え立てたら、その炎で細かく割った薪を燃やし、水を張った銅鍋を暖めていきます。

pr00044

鍋の水が温かくなると、菜園で取れたキャベツを取り出して刻んでから煮込むのですが。今も昔もキャベツの芯は捨てています。

meicho_2-1238-2601

刻んだキャベツと同時に二又のフォークで取ったベーコン細かく刻み、キャベツと一緒に煮込んで柔らかくなるまで待ちます。

recipeA1img_882062_28825116_1

こうしてベーコンとキャベツのシチューが出来るまでの間、客と談笑しつつ桶にお湯を入れて客の手足を温めたりもします。

ついでに、古代ローマ時代はシチューの事を「オフエラ」と呼んでいました。

20080824_411931OLYMPUS DIGITAL CAMERAhagoromo

シチューが出来るまでの前菜のことを指す「プロムルシス」が用意され。この前菜はゆで卵から始まり、オリーブの実、サクランボみたいに実った山グミ、酒かすに漬け込まれた大根、ヤギのチーズなどが皿に盛られて出てきます。

o0800053611523377524

古代ローマのゆで卵の特徴は貴族も金持ちも庶民も何故かお湯で茹でず、囲炉裏の熱した灰の中で卵を加熱し、ゆで卵を作る事でした。

ワインを水と混ぜる時に使うクラテル

クラテル

前菜が終わるとワインと水をクラテルという器で混ぜて出し。それからシチューが運ばれてメインディッシュを意味する「ケーナ・プリマ」が始まります。

OLYMPUS DIGITAL CAMERAb47292e320121120170711

メインディッシュのシチューが片付けられると。蜂蜜とともにデザートにクルミ、イチジク、ナツメヤシ、スモモ、ブドウが運ばれ、最後のしめにリンゴが出ます。

古代ローマでは前菜の卵から始まって、しめにリンゴを出して終える事から、「初めから終わりまで」という意味で「卵からリンゴまで」という言い方が生まれました。

古代ローマのベッド

古代ローマのベッド

こうしてワインを飲みながらのデザートがなくなるとディナーは終わり。夜明けとともに起きて日没とともに寝るのが普通だった庶民はベッドを用意し、囲炉裏の火で部屋が暖かいうちに客を眠らせます。

古代ローマ庶民のベッドは柳で出来たベッドに綿が詰まって温かい布団をのせ、その上にシーツをかけていました。

古代ローマの詩人オウィディウス

古代ローマの詩人オウィディウス

以上が古代ローマの詩人オウィディウスの描いた庶民のディナーでしたが。彼は同じ時代を生きた他の詩人と違い、パトロンやタニマチを持たず。ギリシャ神話を参考に書いた『恋の歌』があまりにもエロチックだったために実際に読んだ皇帝が激怒し、罰としてローマから地方の田舎へと飛ばされた人なので、そういった立場から田舎の庶民の生活を見て書き残したのでしょう。

以上でコラムは終わりですが。皆さん、いい暇つぶしになったでしょうか?

今夜は冷えますので、自分もキャベツとベーコンでシチューを作って体を暖めるとします。

食の歴史その47~アメリカの辞書にも載っている「テリヤキ」

3 11月

こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いて見ました。

今回もビジュアルで分かりやすくするために画像を多く使うつもりです。

醤油工場

醤油工場

アメリカで消費される醤油は醤油メーカーのキッコーマンがアメリカで製造している量だけでおよそ10万リットルと言われていますが。アメリカで消費される醤油のほとんどが照り焼きソースになっていると言われています。

映画『サイン』のワンシーン

映画『サイン』のワンシーン

映画『サイン』でも晩飯にメル・ギブソン演じるパパが家族に「好きなもの食っていいぞ」言うと。まずはチーズバーガー、スパゲッティとアメリカらしい食事を家族がリクエストしていき、最後に筋肉質のあんちゃんが「teriyaki」とさり気無く言うシーンがあるほど、照り焼きという言葉も料理もアメリカでは一般的になっており。アメリカの辞書にも「teriyaki」が載っています。

ブリの照り焼き

ブリの照り焼き

アメリカに伝わる以前の照り焼きは醤油、砂糖、酒で魚を調理したもので。日本ならではの料理、肉じゃが、すき焼き、今も缶詰に使われる大和煮などと共通しているのは調味料に砂糖を使っているところです。

ここからは推測で述べますが。日本料理に醤油と砂糖で煮〆た料理が普及したのは戦前に日本全国から人を集めた軍隊の中で食べ親しまれ全国的に普及したのだと思われます。

吾妻ひでお著 『失踪日記』よりアル中病棟のひとコマ

吾妻ひでお著 『失踪日記』よりアル中病棟のひとコマ

人間は酒が飲めないと、むしょうに甘いものが欲しくなるもので。アル中の体験を小説にした故、中島らも氏も断酒時代は冷凍バナナやあんぱんに凝り出し、桃の天然水をよく飲んでいました。

フランス軍の戦闘糧食に付属する菓子類

フランス軍の戦闘糧食に付属する菓子類

ミリタリーに疎いので、詳しい人の解説が欲しいところですが。軍隊もなかなか酒が飲めないらしく、どこの軍隊でも甘いものが求められ。各国軍隊の携行食糧には菓子や粉末の紅茶、コーヒー、ジュースが付属しているのが、よくあるパターンで。日本も例外ではありません。

大和煮の缶詰

大和煮の缶詰

明治時代の日本軍では醤油と砂糖とその他調味料で煮〆た大和煮の缶詰に人気があり。日清戦争、日露戦争では日本の肉牛が全て大和煮の缶詰になったほどだったといわれています。

京都の福神漬け

京都の福神漬け

もうひとつ、日本の軍隊で人気が高かったのは砂糖で甘口に漬け込んだ福神漬けの缶詰もありました。

このような甘口メニューを軍隊に入って口にし。戦争が終わって故郷に帰った後も海軍名物である肉じゃがのように家庭でも作らせて家庭料理として砂糖と醤油で煮〆た料理、または砂糖で味付けした料理が広まり、砂糖と醤油で味付けするのが共通項の照り焼きも軍隊で食べた大和煮の代わりに生まれたのだろうと推測しています。

海上自衛隊のカレー

海上自衛隊のカレー

話がわき道にそれますが。激辛、辛口がブームになったのは1980年代の事で。昔のカレーも甘口が普通でして、特に軍で出すカレーは辛くて食えない人を出さないようにするためなのか、必ず甘口だったそうですので、今時の辛口カレーが食べられないお年寄りも結構いたりします。

チキンテリヤキ

チキンテリヤキ

閑話休題。こうして戦前には各家庭でおふくろの味となった照り焼きが戦後の1957年に醤油メーカーのキッコーマンがアメリカに進出して醤油を売ろうとした時、キッコーマンの日系二世のセールスマン、タム吉永が彼の母親の調理した和食、魚の照り焼きをヒントに、肉料理に合う醤油ベースの料理法「テリヤキ」を発案。テリヤキソース調理法はキッコーマン主催の料理教室や販売促進用の小冊子などで、ゆっくりとアメリカに定着し、アメリカの辞書に乗るほどの現在の地位を確立してきました。

ヨシダソース創業者 吉田 潤喜(よしだ じゅんき)

ヨシダソース創業者 吉田 潤喜(よしだ じゅんき)

それから50年以上経った今のアメリカでは。アメリカ人が好きなバーベキューに照り焼きソースをつけて食べられていますが。そのソースは吉田 潤喜(よしだ じゅんき)が80年代初期に考案して販売し。大成功を収めたヨシダソースが有名です。

ヨシダソース

ヨシダソース

もし、アメリカで照り焼きを食べる機会がありましたら。おそらくはヨシダソースを塗って焼いたものが出されるかと思います。

ブリの照り焼き

ブリの照り焼き

照り焼きの事を書いていましたらお腹が空いてきましたので、魚屋に行ってブリの照り焼きを買って生姜をそえて頂こうと思います。

皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

世界の食文化その3~イスラム教の食事マナー

8 8月

こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いて見ました。

今回もビジュルアルで分かりやすくするために幾つか画像を使います。
イスラム教では、預言者ムハンマドの行動を信者の慣習と定め、イスラム教にとって民法、刑法、行政法というありとあらゆる範囲にまで及んでいるイスラム法のシャリーアを学ぶ上で重要な第1経典『コーラン』の次に重要な第2経典『ハディース』という経典にまとめられています。
その中から、食事に招かれたときの礼儀作法やマナーなどをおおまかに説明していきます。
まず基本は多くの人で分け合って食べる事です

経典にも「二人分の食べ物は3人に十分であり、3人分の食べ物は4人に十分である」として列席者が増えるのを歓迎されます。

こうして列席者もそろったところで大皿に盛られた料理は必ず蓋をして運ばれてきます。これは悪魔が料理に悪さをするのを防ぐためで、イスラム教では悪魔を意識した行動が数多く。

例えば、食事に右手を使うのは、悪魔が左利きとされているからです。

そのため、全ての行為は右から行い。順番は右回り。歩く時も右足から歩き、文字を書くときも右から左へ書き。上座(かみざ)も右側とされています。

クルスィー

クルスィー

食事の席は円形の敷物に「クルスィー」という小さなテーブルのようなものを置き。その上に「シーニーヤ」という金属製の大きな盆が置かれ、これは平安と祝福があるようにと預言者がした行いに近いものとされています。

シーニーヤ

シーニーヤ

そして、敷物の上に置かれた大きな盆の周囲に置かれたゴザに靴を脱いで座り。この時は寄りかからず、片ひざを立てます。

この片ひざの立て方も右ひざを立て、左足に重心を置くようにと決まっています。

こうやって詰めて座る事によって多くの人が列席できるようにするためと、胃を圧迫して食べ過ぎないようにするためです。

経典に「・・・(胃の)1/3は食事に、1/3は飲み物に、1/3は呼吸のために」とあって食べすぎが厳しく戒められ、ベルトもきつく締めるように言われます。

イスラム教では異教徒は腸(はらわた)が7つあるが、イスラム教徒はひとつの腸を満たせば良いと言われ、預言者ムハンマドは痩せて健康的であるのが望ましいと語ったとされてあるので、その影響から小食で満足できる工夫がされたのかも知れません。

ただ、イスラム教は例外事項も多く。座るスペースに余裕があれば、あぐらをかくのも許されます。

中東の水差し

イブリーク(水差し)

こうして準備が出来たら水差しから注がれた水で手を洗い、食後も同じく手を洗います。

食前と食後の手洗いに関してイスラムの学者は石鹸や洗剤で洗うのが好ましいとも述べています。

こうして準備が整うと、いただきますにニュアンスの近い言葉として「神の御名にかけて」を意味する「バスマラ」と唱えて食べ物が浄化されたと見なされてから食事が開始されますが、最初に食べるのは年長者、徳のある人から食べ始め、それから他の人も食べ始めます。

もし、うっかりバスマラと唱える前に食べてしまった場合は気づいた時点で「始めも終わりも神の名において」を意味する「ヒズミッラー・アッワリヒ・ワアーヒリヒ」と唱えると良いとされています。

素手で食べる場合は右手の親指、人差し指、中指を使って、一口分だけちぎって口に運び。よく噛んで口に入っている食べ物を飲み込むまで他の食べ物に手を伸ばさないよう注意します。

パンをちぎる場合、肉から骨をはがす場合など、両手で行う必要がある場合は左手を使う事も許されています。

イスラムの食事風景

イスラムの食事風景

こうやって近くの皿に盛られた食べ物に手を伸ばし、黙って食べないよう談笑して時間をかけ、音を立てず、美味そうに食べていきます。

リチャード・フランシス・バートン

リチャード・フランシス・バートン

余談ですが、通称『アラビアンナイト』とも『千夜一夜物語』とも言われるイスラム文学の翻訳者である1800年代を代表するイギリスの探検家リチャード・フランシス・バードンがイスラム圏に滞在していた時に、母国で食事する時と同じように静かに食べていたところ、周りにいた人から
「君はなんだって小動物みたいにそんなに静かに食べるんだ。食欲がないのか?もっと、にぎやかに食べなさい。」と言われたそうです。

話を食事マナーに戻しますが。食事中、皿の位置を変えたり、美味しそうな部分を独り占めしてはいけません。

他にも嫌いな料理はスルーして文句は言わない事。客は好き嫌い関わらず、勧められても勧めた側の家族が食べ残しで食事をするためにも、あえて遠慮します。

その他のマナーも箇条書きにしますと。

・よく噛んで時間をかけて食べる。

・人に「食べろ」と言って困らせない

・人が食べている姿をじっと見つめないよう心がける。

・複数の料理を1度にまとめて口に入れない。

・音を立てずに食べる。

・食べるときに他人の服にこぼしてを汚さないように気を付ける。

・口の中に食べ物があるまま喋ったりしない。

他にも大事なマナーとして食事中に指を舐め、その舐めた手で料理を取ってはいけない。というのがありますが、食が進んで満腹になってきて手を止めてから指をなめるのは満腹を示す仕草として推奨されています。

それから口に水を拭くってゆすぎ、手をハンカチなどの布でぬぐいます。

ミスワーク

ミスワーク

預言者ムハンマドは木の枝でできた歯ブラシ「ミスワーク」で歯磨きしてから口をゆすぐ事を推奨していますので、食後に歯磨きをする場合もあります。

手をぬぐい、水で口をゆすいだらニュアンス的にはご馳走様を意味する「ハムダラ」と唱えて席を立ちます。

他の人も満腹を感じたら「神に感謝を」を意味する「アルハムド・リッラー」と唱えて席を立ちます。

ムルジファーン

ムルジファーン

こうして席を立つと別室で食後のコーヒーか紅茶が出される場所へと移動し。先ほど食事終了したさいに手を布でぬぐった手をより清潔にするためテシュト(水受け)の上にイブリーク(水差し)を載せた、運ぶときに金属の擦れ合う音を立てる「震え声をたてるもの」を意味するムルジファーンという道具が運ばれてきますので。この道具で手洗いをします。

この手洗いを「あきらめの父」を意味する「アブー・イヤース」と言われます。

コーヒーを注ぐイスラム教徒

コーヒーを注ぐイスラム教徒

手洗いを済ませて運ばれる飲み物にもマナーがあって、右手で器を取り、中身を確認してから穏やかに口をつけて3度にわけて飲みます。

食後に用意されるのはコーヒー、紅茶だけでなく、「余力の父」を意味する「アブー・サルウ」と言って、香炉で香を焚いて食事中についた匂いを落とし、さっぱりさせて出ていけるよう気づかいをする場合もあります。

食事を開いたホストの家の格によってお香のグレードが上がったりします。

さて、世間でも広く知られており、このブログでも取り上げましたが、イスラム教では豚と酒がタブーで。

豚成分の入った調味料、豚肉に触れた食器、酒を注いだコップを使うことさえ禁じられています。

20090707-mark_ajinomoto

そのせいもあって2000年に、味の素の成分に豚の酵素が入っているとしてのインドネシアの現地法人の社長が逮捕され、味の素の製品が姿を消しましたが。その後、豚の酵素を使わない商品をだして製造販売を許可をされ、現地法人の社長も釈放され、再びインドネシアで味の素の商品が出回るようになりました。

2000年に起きた味の素の事例でも分かるとおり今でもイスラム教では大雑把に言うと豚や酒が駄目でイスラム法で許可された食材しか食べてはいけないとする「ハラール」があるため、敬虔なイスラム教徒は一般的な日本人の家で食事する事はないでしょう。

以上でコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その33~食と健康をめぐる迷信を科学する~

22 7月

おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと願って、コラムを書いて見ました。

今日も図で解説しますので、画像を一つ入れようと思います。

 

戦前、戦中生まれの老人ですと、ウナ丼を食べた後に梅干を口に入れるとハッと気がつき、慌てて正露丸を取り出す人が近所にいましたが。

このように、異なる食品を同時に食べると有害と考える事を、古くから「食い合わせ」と呼んできました。

ウナギと梅干をはじめ、天ぷらとスイカ、カニとカキ氷、うどんとスイカ、ドジョウとトロロなどが代表的な食い合わせですが、実際には数え切れないほどあります。

こうした言い伝えは、古くは平安時代にまで遡ると言われ、江戸時代の儒学者である貝原益軒(かいばらえきけん)の健康教訓書『養生訓』の中にも、食い合わせ食品のリストが挙げられています。

これらの食い合わせを検討しますと、熱いものと冷たいもの、消化の良くない食べ物などがある事に気づきます。

しかし、科学的にはほとんど根拠がなく、現在では迷信とされ、ゆとり世代などの層になると食い合わせという言葉自体を知らない人も多い事でしょう。

食い合わせは日本的な食のタブー一種ですが、もともとは古代中国の陰陽思想を端に発しています。

陰陽は宇宙の万物の相反するものを陰と陽に二分、その組み合わせによって吉凶を占う易学の思想で、後にこれが日本に導入されると食生活の面に「食合禁(しょくごうきん)」つまり食い合わせを生んだと見られます。一部では早くから迷信と指摘されていましたが、民間では戦前まで大真面目に信じられていました。

食い合わせと似たような迷信に、中南米や東南アジアなどでみられる「温冷説」があります。

これは、すべての食べ物を温と冷に二分した分類法で、温、冷の基準は体温となります。

つまり、人間の体は非常に繊細に出来ており、熱くなりすぎたり逆に冷たくなりすぎると、ときには死に至る事があるから、食べ物の選択にあたってバランス良く取らなければならないという思想です。

<図表>にも見られるように、肉類などの動物性食品や脂肪の多いものは温に、野菜類や乳製品は冷に分類される事が多いです。

しかし、これは固定化された概念ではなく、地域や民族によって代わる場合も少なくありません。

例えば、卵はタイでは冷のほうに分類されますが、バングラデシュでは温のほうに分類されます。

東南アジアにおける温冷食の習慣は中南米ほど厳格なものではなく、最近では若年層はこだわらない傾向にあります。

もともと血液は温、母乳は冷の性質を持つと考えられていますが、一般に温冷説の背景には、女性の生理サイクルと結びつける事が多いです。

例えば、出産は母体の体温を大きく奪うために、それを補う意味でも出産・授乳期間は積極的に温の食事を取るようにすすめられ、これによって全身の血行をよくして貧血を防ぐ事ができると信じられています。

このような方法は栄養学的に理にかなっている点が多く、一概に迷信だからと言って軽んじるべき物ではありません。

食品を二つに分類する方法論は、ユダヤ教の戒律や中国の陰陽思想とも通じるものがありますが、この思想は古代ギリシャ、古代ローマに発生しアラブ世界に伝えられたと言われています。

のちにイスラム勢力のスペイン侵攻にともない再びヨーロッパ南部に逆輸入され、コロンブスなどが活躍した大航海時代の波に乗る植民地政策で中南米や東南アジアに持ち込まれたと見るのが、現在の定説となっています。

話を日本の食い合わせなどに戻しますと、「秋茄子は嫁に食わすな」ということわざがありますが。文字通りに読めば、秋口のナスは味が良いので憎い嫁に食べさせる道理はない、と世に言う「姑(しゅうとめ)の嫁いびり」となっているが、それだけではない様々な解釈がみられます。

秋茄子はあくが強く体にさわるものなので、かわいい嫁の身を案じて食べさせるなという、まったく逆の例えをする説も根強いです。

ナスはヒスタミンという物質を多く含み、人によってはアレルギー症状を引き起こすとも言われ、味が良いからといって食べすぎると夏の暑さで弱った胃腸をこわしかねない。

こうした点を戒めたことわざと、一般には解釈される事が多いです。

中には、秋茄子は種が少ないので、子種がなくなることを案じた縁起かつぎだとする説もあります。

いずれの説にせよ、ことわざながら迷信のようなものだから本音部分はわからない。

しかし、故事とことわざに引き寄せた食のタブーは世界各地に無数にあります。

なかでも出産や授乳に関する食のタブーが特に多く、殆ど世界中でみられます。

生まれてくる子供にイボがつきやすいから「妊婦はタコを食べてはならない」、双子が生まれやすくなるため「二股ダイコンは食べない方が良い」といった根も葉もない迷信がまかり通っています。

また、スリランカでは「妊婦はネズミなどのげっ歯類やウミガメを食べるな」との迷信がみられます。

食べた動物に外見のよく似た子供が生まれるからというのが禁止の理由ですが、このような肉を本格的に食べる習慣が明治までなかった日本では首をひねる話です。

セックスと結婚にまつわる食のタブーの迷信も少なくありません。

インドで言う「女性は卵を食べない方がいい」は、多産なニワトリの習性から淫乱な女性になりかねないという戒めだとか。

しかし、インドネシアの「未婚の男はニワトリの手羽先を食べると結婚ができない」は現地語の「手羽先」と「拒否」の発音が似てることによる語呂合わせだったりします。

以上でコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

自分は食い合わせを気にしないので、もらったスイカを食べた後、夕食に天ぷら蕎麦でも頂こうと考えています。

食の歴史その29~江戸時代のおかず番付その2~

15 7月

おはようございます。今日は先日書いた江戸時代のおかず番付の続編を書きます。

まずは四季と問わず年中食べられた魚介類のおかずの番付を一部列挙しながら、解説を加えていきます。

最高位の大関はメザシ、イワシとなっています。

メザシは安く保存しやすく栄養豊富といいとこ取りで。

イワシのような青魚にはDHA=ドコサヘキサエン酸や、EPA=エイコサペンタエン酸という舌を噛みそうなな名前の不飽和脂肪酸とやらが含まれていて、これを摂取すると血行がよくなり、頭がが冴え、週に2~3回は食べると良いとされているそうです。

江戸時代の人はこのような栄養価の高さを知らないわけですが、現代の栄養学的にも最高位の大関に相応しいでしょう。

次の関脇はアサリ、ハマグリなどの剥き身を切り干し大根と一緒に煮たもので、「剥き身切り干し」。

これを美味しく食べるには薄味にするのがコツなんだとか。

前頭筆頭はマグロの赤身を味噌汁にした「まぐろからじる」。

ちなみに江戸時代は冷凍技術がないので、トロといった脂身はすぐ腐敗してしまうので、大正、昭和初期に評価されるまで猫の餌にしか使わなかったと言われています。

そして、次の「たたみいわし」は静岡県と神奈川県沿岸が名産地なので、その他の地方の方にも分かるよう画像を出しますと。

たたみいわし

たたみいわし

この写真はカタクチイワシの稚魚を板状にしたもので、酒の肴にも良いのだとか。

次も「いわしの塩焼き」脂の乗ったイワシの塩焼きもうまいですが、冷蔵庫の無い時代なので、番付が下がったのでしょう。

次はマグロを薄く削いだ魚肉を塩干しにした「まぐろすき身」、カツオの塩漬け「しおカツオ」。塩漬けニシンの「ニシン塩引き」

以上が春夏秋冬関係なく食べられるおかずの番付でしたが、次は春のおかずを一部抜粋してみます。

まず、春の部の最高位である大関が醤油にショウガ汁を入れたタレをつけて約「マグロきじ焼き」。

関脇はまたアサリ、ハマグリですが、ヒジキとの煮付けとなっています。

小結が海老をさっと炒めて、食べる時に調味料を使う「芝海老から炒り」。

次はイワシの刺身に酢味噌を和えた「いわしのぬた」。

「いわしつみいれ」これはイワシのつみれですが、おでんの具としてコンビニでもよく見かける事でしょう。

「サバ味噌漬け」「スルメ付け焼き」スルメを炙ったものは今も酒の肴として今でも食べられています。

夏の部は芝海老と豆腐を一緒に煮た「芝海老豆腐」。

カツオを一回蒸してから干した、カツオのなまり節をヒジキと煮る「ヒジキなまり節」「なまりキュウリもみ」「コハダ煮浸し」「なまり節大根おろし」「クジラ汁」「どじょう鍋」。

殻つきの海老の丸焼き「えび鬼瓦焼き」

秋の部はまず、「蒸しハマグリ」「焼きハマグリ」。

東京湾から千葉県の房総半島へかけての内海沿岸は当事、日本一のハマグリの産地で沢山取れる分、値段も安かったようです。

他はそれぞれ一緒に煮たのであろう「芋煮ダコ」「ハゼ煮大根」。

「酢だこ」「ニシン煮浸し」。そして、今も秋の名物とされる「焼き秋刀魚」

冬の部は文字が潰れて判読できないものが多いのですが、それでも抜粋しますと。

ナマコを酢とショウガで食べる「ナマコ生姜」。「秋刀魚の干物」「しらす干し」。

他にはどの海産物が対象なのかわからない「卵とじ」などもありました。

江戸時代のおかず番付をその1とその2に分けて説明してきましたが、大体の料理は現在でも食卓に出ておかしくない食品で、改めて幕末のおかずが今もなお日本のどこかで食卓に上がっているかと思いますと、明治維新から洋風や中華が沢山取り入れられていてもなお、日本の伝統が残っているのだなと感慨深いものがあります。

家庭科で栄養を勉強しますとたんぱく質、脂肪、炭水化物とビタミンからなる三大栄養素なるものがありますが、先進諸国では食べないコンニャクやトコロテンなどは大腸ガンを予防し、悪玉コルステロールを減らす食物繊維という「第四の栄養素」が豊富なのも江戸のおかずの特徴であります。

ただ、「好事、魔が多し」と例えていいのか分かりませんが。和食の特徴は塩分を摂りすぎてしまいやすい事なので、そこをクリアしつつ江戸時代のおかずを食べ続けていたら立派な健康食となる事でしょう。

大根は切らしていますが、おかず番付その1で紹介した「八杯豆腐」をまた作りに行こうかと思います。

それでは皆さんも紹介したおかずの中で気に入ったものがありましたら今日の食卓にいかがでしょうか?

それでは厨房に行きますので、この辺で。

食の歴史その26~ユダヤ教と食のタブー~

8 7月

おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いてみました。

図表で説明もするため、今回も画像を載せます。

 

世界には様々な宗教と食のタブーがあります。

世界三大宗教と言われるユダヤ教も例外ではなく、興味深い食のタブーもあったりします。

ユダヤ教で食に関する戒律を「適正な」を意味するカシェールを語源とするコシェルと呼びまして、神によって定められた約束事とされており、『旧約聖書』の「レビ記」第11章の中で次のように述べられています。

「……獣のうち、全てひづめの分かれたもの、すなわち、ひづめの全く切れたもの、反芻するものは、これを食べる事が出来る。ただし、反芻するもの、またはひづめの分かれたもののうち、次のものは食べてはならない。すなわち、ラクダ…岩タヌキ…野ウサギ…これらは反芻するけど、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。豚、これはひづめが分かれており、ひづめが全く切れているけれども、反芻することをしないから、汚れたものである」

このあと魚、虫、と各カテゴリーごとに目録が続きますが長いので割愛して下に食べてもいいもの、いけないもののリストを出しておきます。

獣についてもう少し述べますと、ひづめがわかれていない馬、肉球とも言う、足の裏のふくらみで歩く猫や狐なども食べてはいけないものとされています。

なぜ神は食肉には食べてよいものといけないものと細かく分類し、どんな基準によって分けたのかをい文化人類学者のマービン・ハリスは次のように説明しています。

食べてよいとされた獣を整理すると、ひづめが分かれていて反芻する哺乳類であり、さらに付け加えれば、乳が搾り取れ、食料が人間と競合しないうえに、おおむね群れをなしているので、家畜にしやすいなどの合理的な理由もあると説明しています。

反芻する哺乳類はすべて草食動物ですが、これらは人間の食用に適さない固い繊維質の植物、たとえば草やワラ、切り株、木の葉などを食べて大きくなります。

飼育のために人間にとって大切な穀物を与える必要がないばかりか、肉やミルク、皮を提供してくれる上に移動や農作業などの労働力としても十分に使えます。

このような特性は食べてよいとされる動物とされるにあたって極めて重要で、肉を得るための家畜化が簡単で、雑食や肉食獣の動物に比べたら元手がほとんど掛からないなどがあって、ひづめが分かれて反芻する動物は食べても良いとされた最大の理由と考えられています。

最初は反芻するかしないかが条件でしたが、ひづめ云々は後付けで加わったとされてあり、その理由としてはラクダを食べてはいけないほうに分類するためだったと考えられています。

定住した農耕民であるユダヤ人は、ラクダをほとんど使わず、その代用として牛や羊を利用してきました。

ラクダはきわめて繁殖が遅く、しかも産むのは一頭で離乳期間も1年近くに及ぶなど、食肉にするには効率が悪いので、反芻以外にも複雑な条件を持ち込んでタブーとしたのは古代ユダヤ人の経験から基づく比較的合理的な理由を神の言葉として『旧約聖書』に書いたのだろうと推測されています。

コシェルは上に出した図表に示したように、哺乳類以外にもおよんでいます。

魚では、ヒレとウロコがあるものと限定され、これによってイカやタコ、カキ、ハマグリなどが禁止されています。この点からボンゴレやグラムチャウダーが好きな自分としては絶対にユダヤ教には改宗できないと思っています。

鳥は羽毛があって空を飛び、かぎ爪がないものが食べても良いとされ、逆にワシ、ハヤブサ、カラスなど20種類が食べるのを禁じられていますが、それらの大半は肉食の猛禽類(もうきんるい)や雑食性であります。

虫の中でイナゴが食べてよいとされたのは、比較的体が大きく、1度に大量に捕まえる事ができるため、効率が極めて良い点を評価されたのでしょう。

しかも、穀物を食い荒らす虫なので、害虫駆除となって一石二鳥でもあります。

また、食材ばかりでなく、調理法殺し方にもややこしい規定があります。

調理法では、魚をのぞく肉類と乳製品を同じ道具で煮炊きしてはならないとされています。

獣とそれが生み出したミルクは親子関係にあると規定され、「子ヤギをその母ヤギの乳で煮てはならない」が拡大解釈されて肉料理にバターを使ったり、クリームソース入りのソースを添えたりも出来ません。

日本の親子丼も拡大解釈されたらご法度になるかも知れません。

そんな戒律のため、イスラエルのマクドナルドでユダヤ教の戒律を守っている店は青い看板で、チーズバーガーを注文しますと、ご丁寧に「チーズをつけますか?」と言われるとの事です。

どうしても肉を食べた後に牛乳が飲みたかったら、牛肉を食べてから6時間待てばよしとされ。

反対に乳製品を食べたら30分間は牛肉を食べてはいけない。

しかも、調理は別々に行うのが原則ですから、チーズ用のまな板と牛肉用のまな板と別々に用意しなければならず、日本人にとってややこしいことこの上ありません。

より熱心なユダヤ教徒になりますと、牛乳と牛肉を同じ冷蔵庫に入れず、食材ごとに使用する調理器具も使い分けています。人によってはミルク入りコーヒーさえ遠ざけているそうです。

他にも観光者の話として、土曜日に煙草を吸ったら何故か怒られまして、それはユダヤ教の休日が土曜日で日曜日は普通に働きに行く日なので、その休日である土曜日は喫煙さえ戒律で禁じられているようです。

以上でコラムは終わりですが、いい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その25~ヒンズー教はなぜ牛を神聖視するのか?~

7 7月

おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと願って、コラムを書いて見ました。

今回も地図で説明するために画像を幾つか貼り付けます。

宗教には戒律などによってタブーがあるものですが、有名なのはユダヤ教、イスラム教で豚肉を食べる事を禁じる事ですが。

インドのヒンズー教が牛を食べる事を禁じるタブーを皆さんも何となく聞いた事があるかと思います。

ユダヤ教、イスラム教で豚が汚らわしい動物となっているのに対してヒンズー教では牛は神格化された動物として祭り上げられています。

その意味でヒンズー教はユダヤ教、イスラム教と好対照となっております。

それは中央アジアかたインドへやってきたアーリア人と関係がありますので、インドへやってくるまでの地図を出します。

注釈しますと、地図にある数字の語尾についている「BC」は紀元前を意味します。

ですので、「20~17BC」とあったら紀元前20世紀~17世紀。およそ4000~3700年前という認識をしてくれればと思います。

およそ4000年程前、中央アジアの遊牧民であったアーリア人にとって、牛は貴重な労働力であり、牛乳やバターの供給源であり、糞も肥料や燃料になったりと、牛は彼らの生活に欠かせない存在だった事から、古代から崇拝の対象になったとされています。

その牛を崇拝するヒンズー教の神学者によると、牛には3三千万の神々が宿っていると述べています。

雄牛はインドを襲う暴風雨と生命を宿す水を運ぶ二面性から破壊と再生を司るヒンズー教の三大神のシヴァ神の乗り物として信仰の対象であり、雌牛は『旧約聖書』のモーゼのような出生伝説があり、民衆から人気の高いクリシュナ神の従者である事から、今も牛殺しは親を殺す事より重罪とみなされています。

したがってヒンズー教徒にとっては、牛は聖なる獣であって、食用にしようという発想は毛頭ありません。

経済用語の「BRIC’S(ブリックス)」は経済成長が著しいブラジル、ロシア、インド、チャイナの略称で、今も経済発展が続き、インドの外周を1週したり、十字架のような形でインドの東西南北を真っ直ぐ横断できる広大な道路網などを急速に整備している現在も野良牛が路上をうろついている光景を目にしますが、牛は神の使いなので、わざわざ牛と牛の糞を避けて通ったりしていまして。それが渋滞の原因になることもしばしばだと聞いております。

それどころか、クリシュナの祭りでは牛の群れが通り過ぎるまで人々はひざまずいてこれを待ち、落としたばかりの牛糞を額に塗ってお恵みにあずかろうとします。

ヒンズー教の僧侶になりますと、牛を世話するのこと自体が信仰のあかしであり、どの家庭も牛を飼う事によって宗教的な喜びを得るべきだと説いています。

1996年にマクドナルドがインドに出店しましたが、むろん牛肉は使われておりません。

羊の肉で作った「マハラジャ・マック」をはじめ水牛の肉、鶏肉などで代用していますが、それでも行列ができるほどの人気があったといわれています。

同じ牛でも水牛は死神の乗り物とされ、殺そうが食べようがヒンズー教徒の間ではまったく問題視されていないそうです。

いっぽう、豚に対してはすさまじい拒絶反応をみせるイスラム教徒は、こと牛に関しては食用とみなすことに罪悪感もなく。うまい牛肉を食べるために牛は存在しているのだとばかり、インドに総人口の13%もいるイスラム教徒のあいだでは密殺が絶えず。

「神の従者」がこっそり処分される件数の急増に驚いたヒンズー教団体は、近年、ウシの養老院とでもいべき施設「老牛の家」を各地に設置し、手厚い保護対策にのりだしているほどです。

このように牛に対する価値観の違いから数百年にわたって続く不毛な争いを繰り返してきましたが、ではなぜころほどまでにヒンズー教徒は牛を神聖視するのでしょう。

冒頭でもふれたように、かつて遊牧民であったアーリア人は3500年ほど前に北インドに侵入したが、そのころは牛の食用にまったくタブーがありませんでした。

それどころか、宗教的な行事には牛を生贄として捧げたとされています。

3000年ほど前の北インドではもっとも好まれた食肉は牛肉だったと伝えられております。

その後、インドという高温多湿な気候条件に合わせながら、アーリア人の生産形態は遊牧民から定住する農耕民へ移っていきました。

しかし、定住によって人口は急増したものの、それに見合った食料を生産するには、さらに農地を拡大しなければならず。

こうして、草地や森林が農耕地へ姿を変えていくのにさほど時間は掛かりませんでしたが、相対的に牛に食べさせる飼料は脅かされるようになってきました。

そこで人々は、収支バランスの立場から次のような結論に達したと言われています。

牛肉を得るために広大な放牧地を確保して牛に穀物飼料を与えるよりは、その土地で収穫された穀物を直接人間が食べた方がはるかに効率がよいのではないかと。

この考えは合理的で正しく、具体的に説明しますと、1キロカロリーの牛肉を作るには10キロカロリーの穀物が必要です。

つまり牛一頭養える穀物があったら人間10人を養う方にまわした方が合理的なのです。

さらに、北インドのような硬い土を耕すには牛は欠かせない貴重な労働力であり、牛は牛乳やバターなどを提供してくれるエネルギー源でもあります。

さきほども述べたように糞は肥料や燃やして燃料にも利用できますので、まことにいい事ずくめの家畜をわざわざ殺して食べる無意味さと非合理性に気づいたのだろうというわけです。

近代までの日本もヨーロッパもそうでしたが、定住する農耕民は家畜を安易に食用とするような真似は絶対にしませんでした。

家畜として生かし利用しつくしたほうが、殺して食べるより利益が大きい事を経験則から知っていたのです。

このような背景から、ヒンズー教のあいだでは、次第にウシは人々の生産活動に深くかかわる大切な家畜とみなされるようになっていきました。

さらに、その牛の体内には無数の神々が宿っているとの解釈を後ろ盾にしながら、単なる家畜であった牛は、神聖さをそなえた聖なる動物として大きく変化していきます。

だが、それでもなお、貴族や王族などの支配階級の一部が牛を宗教的な理由で生贄に捧げて殺したり、食べたりする習慣が絶えませんでした。

2400年以上前に釈迦によって仏教が生まれましたが、この世界初の生き物すべての殺生を戒めることを提唱した考えは、動物であれ人間であれ、殺生をとがめて動物の生贄を禁止し、動物を殺す者を非難した。

この考えは、牛を神聖視しつつあったヒンズー教に大きな影響を与える事になります。

もちろん、仏教は牛肉を食べる行為をことさら悪行と説いたわけではありません。

むしろ、動物殺害に直接関与しなければ肉食にも寛容だったし、釈迦自身も亡くなるまで肉を食べていたと言われています。

こうして釈迦が仏教を広めて200年ほど経ったころのインドでは、牛を食べる事を禁止する習慣がかなり浸透し、同じころに編纂された『マヌ法典』によれば、

「肉は生き物を損なわずしては決して得られず。而(しこう)して生類を損なうは天界の福祉にさわりあり。ゆえに肉を避けるべし」

と牛を中心とした肉食を禁じる記述が見られる。

これがのち仏教の生き物全般を殺さない戒律を取り入れたヒンズー教に影響を与え、神は肉を食べない、だから生贄は意味が無い、という論法を持ち出して大衆の支持を得て、1500~1600年ほど前にはヒンズー教の教えの一つとして定着しました。

現在にみられる牛のタブーは、こういった経緯があって始まったとされています。

以上でコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?