アーカイブ | アメリカ RSS feed for this section

食の歴史その50~フィッシュ&チップスと捕鯨・石鹸・冷蔵庫

17 3月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いてみました。

今回もビジュアルで分かりやすくなるよう、画像を沢山使っています。

使用している画像はクリックしますと拡大され、より見やすくなるものもあります。

Matthew_Calbraith_Perry

幕末の1854年にペリー率いる黒船がやってきましたが。その目的は開国によって捕鯨船に水や食糧が補給できるようにする事でした。

img076img077

石油の採掘が始まるまで鯨油(げいゆ)はランプの燃料と潤滑油として大量の需要がありました。
理由は温度が下がっても固まらない、粘結度があまり変わらないので引っ張りだこでした。

1800年代のコルセット

1800年代のコルセット

髭や骨は女性のコルセットやペチコートの材料として使われました。

images81

鯨油は石鹸にも使われ当事の石鹸の包装に鯨の絵が使われている事からもうかがえます。

83R83R83i83b83c83I83C838B8ECA905E

しかし、1800年代半ばから値上がりした鯨油に取って代わってココナッツ・オイルが石鹸の材料に使用されていきます。

img078ruspatsand-soap

石鹸が変わっていくのは材料だけでなく、当事は糸で切り分けていたのが現代の石鹸のように使いやすいサイズへと変わり。

1f1317fd063fd07ced092266acdd4538sunlight-soapgiving_puppy_a_bath_from_pears_soap_postcard-r553a1825464448c6b95f85e1b861f74d_vgbaq_8byvr_512

有名な画家を使って広告にも力を入れた石鹸が洗練されていくと同時に1851年の万国博覧会には727ものメーカーが出品していましたが。石鹸のシェアはナイト、ギブス、ヤードリー。それと新規参入したサンライトとペアーズに半数以上占められました。

img079

競争に敗れた数百もの石鹸メーカーは石鹸を作るための銅鍋をフライパンに、ココナッツオイルを揚げ油に転用する事によってフィッシュ&チップス屋に転業していきます。

石鹸からフィッシュ&チップスへ転業された頃、この料理にとって重大な発明がされています。

冷凍装置の発明者ジェームズ・ハリスン

冷凍装置の発明者ジェームズ・ハリスン

1856年に実用的な冷凍装置をオーストラリアのジェームズ・ハリスンが発明しました。

prince50ogfoodcompany-09070350

この冷凍装置は1864年以降、蒸気トロール漁船にて使われた結果、氷詰めで輸送されたタラがイギリスで安く出回るようになりました。

img08122988-1

こうして、1860年代からロンドンとランカシャーでタラのフライとポテトのフライが組み合わされたフィッシュ&チップスが売り出されると爆発的に広まり、1870年代にはイギリスの他の地方でも労働者の食べ物つぃて広まっていきました。

”世界で最も有名なフィッシュ&チップスの店”のキャッチフレーズでお馴染みハリー・ラムズデンのトレードマーク

”世界で最も有名なフィッシュ&チップスの店”のキャッチフレーズでお馴染みハリー・ラムズデンのトレードマーク

こうして現代では自分は外国にいった事が無いので、伝聞ですが。イギリスはロンドンのヒースロー空港に降りたつや、空港内に”世界で最も有名なフィッシュ&チップスの店”というキャッチフレーズで知られる、ハリー・ラムズデンが迎えてくれますが。創業者のハリー・ラムズデンは石鹸業者ではないらしく。ブラッドフォードの下町マンチェスター・ロードで店を開き、1900年前後にフィッシュ&チップスがイギリスでポピュラーな庶民の味となっていきます。

reチーズソーセージ&チップス

日本でも売られるようになりましたが、ソーセージとポテトを揚げたソーセージ&チップスというのも存在します。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

お腹が空いてきたので、夜食にモルト・ビネガーをたっぷりかけてフィッシュ&チップスを頂こうと思います。

img082

油っぽいものにビールが欲しい方はパブなどへ足を運んでみてはと思います。

皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その49~「人類の恩人」と瓶詰め、缶詰

10 2月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願い、コラムを書いてみました。

今回もビジュアルで分かりやすくなるよう画像、写真を多用していきます。

1800年代は食卓にも科学技術の革命が起き。サトウダイコンから砂糖を取り出したり、粉末スープの工業生産が可能となり、ヨーロッパは飢餓から逃れる事に成功します。

ニコラ・アペール

ニコラ・アペール

そんな1800年代の発明で特筆すべきはニコラ・アぺールが発明した瓶詰めと彼の名前を取った「アペルティザシオン」と呼ばれる殺菌消毒法です。

ウィキペディアを見ると情報が少なすぎるので、ニコラ・アペールの生い立ちなどの詳細も書きますと。

1749年11月17日、フランス北部のシャロン=スュル=マルヌ(マルヌ県)に生まれ。父はホテルを経営していました。

PJB_jam1 balthazarfrenchmartini 331d8242-s

実家のホテルの厨房で料理の手ほどきを受けたアペールはジャム、リキュール、砂糖菓子などを担当する料理人として1772年にクリスチャン4世。1775年にフォルバック公妃のもとに仕え、修行を重ねていました。

修行して腕を上げたアペールは1782年にパリのレ・アル地区のロンバール通りに店を構え。瓶詰めで食品を保存させる研究を行っていきます。

ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』

ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』

ナポレオンが皇帝になった1804年。フランス政府は遠征軍のために長期間の保存が利く方法を発明した者に今の価値で約300万円相当になる12000フランの賞金を約束し、民間からもアイディアを募集していました。

milk3-thumb-640x480-84

この募集の話を知って奮起したアペールは塩漬け、酢漬け、アルコール漬け、燻製といった中世からの古い食品保存方に革命を起こすべくグリンピース、サヤインゲン、牛乳などをガラス瓶に入れて密封し、長時間煮沸する殺菌消毒を発見します。

この殺菌消毒が「アペルティザシオン」と呼ばれるものです。

ジャン-アントワーヌ・シャプタル

ジャン-アントワーヌ・シャプタル

この保存方法を科学者であり、当事大臣だったシャプタルがナポレオンに伝え、アペールの店は軍の公式納入業者となり、1809年に皇帝から12000フランの賞金を賜り、3年後の1812年には「人類の恩人」という称号も授かりました。

こうして大もうけして名誉も得たアペールですが、瓶詰めに使われた殺菌消毒と保存法などの特許を取らず、全財産を投げ打って死ぬまで食糧の保存法を研究し。『あらゆる動植物食品を多年にわたり保存する法』を出版し、英語に翻訳されたものはイギリスを経由してアメリカで読まれ、好評を博しました。

 

1824年イギリスの缶詰

1824年イギリスの缶詰

アペールの瓶詰めと保存法から発展していくイギリスのピーター・デュラントが発明してアペールと違い、特許を取得した缶詰は缶切りがまだ発明されておらず、開封はハンマーとたがねなど、大工道具を用いるため長期航海する船員や遠隔の僻地に旅行する人などが利用する程度の特殊な保存食でした。

アメリカ南北戦争 ゲティスバーグの戦い

アメリカ南北戦争 ゲティスバーグの戦い

しかし、アメリカ南北戦争(1861~1865年)で需要が増大して缶詰の大量生産に繋がっていき。1860年代は缶詰の素材に適したブリキと容易に中身を取り出せる缶切りが発明され。南北戦争以降から欧米の庶民の食卓に缶詰食品がのぼりはじめます。

0010040000372

日本でも明治四年(1871年)に缶詰の製法が伝わり。長い間、軍の保存食として生産されていましたが。明治時代の缶詰の詳細は『食の歴史その47~アメリカの辞書にも載っている「テリヤキ」』をご参照下さい。

saba_1 200908052247126ad

さて、そろそろ夕食の時間なので、さばの水煮缶と大根おろしとレモン汁と薬味でさばのおろし和えでも作って食べようかと思います。

皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

お知らせ~過去の記事を加筆修正しました。

13 11月

こんばんは。以前に書いた記事に画像を加えてビジュアルで分かりやすくしたり、新たに加筆修正しました。

加筆修正した記事のタイトルとイメージ画像の一覧を下に出します。タイトルをクリックしますと、その記事のURLに移動できます。

世界の食文化その3~イスラム教の食事マナー


食の歴史その36~トマトがなかった昔のケチャップ

世界の食文化その1~世界の4割は直接手で食べている~

食の歴史その18~最初は下品だったフランス料理~

食の歴史その17~パスタのルーツは中国か?~


食の歴史その16~フレンチポテトからポテトチップに至るまで~

食の文化史その2~茶と紅茶とコーヒーの歴史~

以上となります。

また加筆修正したらブログの新着記事にてお知らせします。

食の歴史その47~アメリカの辞書にも載っている「テリヤキ」

3 11月

こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いて見ました。

今回もビジュアルで分かりやすくするために画像を多く使うつもりです。

醤油工場

醤油工場

アメリカで消費される醤油は醤油メーカーのキッコーマンがアメリカで製造している量だけでおよそ10万リットルと言われていますが。アメリカで消費される醤油のほとんどが照り焼きソースになっていると言われています。

映画『サイン』のワンシーン

映画『サイン』のワンシーン

映画『サイン』でも晩飯にメル・ギブソン演じるパパが家族に「好きなもの食っていいぞ」言うと。まずはチーズバーガー、スパゲッティとアメリカらしい食事を家族がリクエストしていき、最後に筋肉質のあんちゃんが「teriyaki」とさり気無く言うシーンがあるほど、照り焼きという言葉も料理もアメリカでは一般的になっており。アメリカの辞書にも「teriyaki」が載っています。

ブリの照り焼き

ブリの照り焼き

アメリカに伝わる以前の照り焼きは醤油、砂糖、酒で魚を調理したもので。日本ならではの料理、肉じゃが、すき焼き、今も缶詰に使われる大和煮などと共通しているのは調味料に砂糖を使っているところです。

ここからは推測で述べますが。日本料理に醤油と砂糖で煮〆た料理が普及したのは戦前に日本全国から人を集めた軍隊の中で食べ親しまれ全国的に普及したのだと思われます。

吾妻ひでお著 『失踪日記』よりアル中病棟のひとコマ

吾妻ひでお著 『失踪日記』よりアル中病棟のひとコマ

人間は酒が飲めないと、むしょうに甘いものが欲しくなるもので。アル中の体験を小説にした故、中島らも氏も断酒時代は冷凍バナナやあんぱんに凝り出し、桃の天然水をよく飲んでいました。

フランス軍の戦闘糧食に付属する菓子類

フランス軍の戦闘糧食に付属する菓子類

ミリタリーに疎いので、詳しい人の解説が欲しいところですが。軍隊もなかなか酒が飲めないらしく、どこの軍隊でも甘いものが求められ。各国軍隊の携行食糧には菓子や粉末の紅茶、コーヒー、ジュースが付属しているのが、よくあるパターンで。日本も例外ではありません。

大和煮の缶詰

大和煮の缶詰

明治時代の日本軍では醤油と砂糖とその他調味料で煮〆た大和煮の缶詰に人気があり。日清戦争、日露戦争では日本の肉牛が全て大和煮の缶詰になったほどだったといわれています。

京都の福神漬け

京都の福神漬け

もうひとつ、日本の軍隊で人気が高かったのは砂糖で甘口に漬け込んだ福神漬けの缶詰もありました。

このような甘口メニューを軍隊に入って口にし。戦争が終わって故郷に帰った後も海軍名物である肉じゃがのように家庭でも作らせて家庭料理として砂糖と醤油で煮〆た料理、または砂糖で味付けした料理が広まり、砂糖と醤油で味付けするのが共通項の照り焼きも軍隊で食べた大和煮の代わりに生まれたのだろうと推測しています。

海上自衛隊のカレー

海上自衛隊のカレー

話がわき道にそれますが。激辛、辛口がブームになったのは1980年代の事で。昔のカレーも甘口が普通でして、特に軍で出すカレーは辛くて食えない人を出さないようにするためなのか、必ず甘口だったそうですので、今時の辛口カレーが食べられないお年寄りも結構いたりします。

チキンテリヤキ

チキンテリヤキ

閑話休題。こうして戦前には各家庭でおふくろの味となった照り焼きが戦後の1957年に醤油メーカーのキッコーマンがアメリカに進出して醤油を売ろうとした時、キッコーマンの日系二世のセールスマン、タム吉永が彼の母親の調理した和食、魚の照り焼きをヒントに、肉料理に合う醤油ベースの料理法「テリヤキ」を発案。テリヤキソース調理法はキッコーマン主催の料理教室や販売促進用の小冊子などで、ゆっくりとアメリカに定着し、アメリカの辞書に乗るほどの現在の地位を確立してきました。

ヨシダソース創業者 吉田 潤喜(よしだ じゅんき)

ヨシダソース創業者 吉田 潤喜(よしだ じゅんき)

それから50年以上経った今のアメリカでは。アメリカ人が好きなバーベキューに照り焼きソースをつけて食べられていますが。そのソースは吉田 潤喜(よしだ じゅんき)が80年代初期に考案して販売し。大成功を収めたヨシダソースが有名です。

ヨシダソース

ヨシダソース

もし、アメリカで照り焼きを食べる機会がありましたら。おそらくはヨシダソースを塗って焼いたものが出されるかと思います。

ブリの照り焼き

ブリの照り焼き

照り焼きの事を書いていましたらお腹が空いてきましたので、魚屋に行ってブリの照り焼きを買って生姜をそえて頂こうと思います。

皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

番外編 カミソリと脱毛の歴史

26 8月

こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしになればと願ってコラムを書いてみました。

今回もなるべく画像を使って分かりやすくしたいと思っています。

体毛を剃る習慣は10万年以上前から存在しており、20万年前に出現したとされるネアンデルタール人の壁画に二枚貝で挟んでピンセットのように毛を抜く様子が描かれており。しばらくすると灰色の石で研ぎやすく切れ味の良い「フリント」という石で削るように体毛を剃っていたとされています。

何故に10万年以上昔から体毛を処理していたかと言いますと。体にノミ、シラミなどの寄生虫をつかないようにするなどの理由で衛生を保ち、健康面に気を配ったのだろうと推測されています。

それから時代を経て5500年前には金属製の髭剃りが作られており、遺跡から発掘されています。

古代エジプトでは体毛があるのは不潔とされ、上の再現図のようにするため。金や銅で出来たカミソリで体中の体毛を剃ったり、デンプンや油、香料を混ぜたジェルのようなもので全身のムダ毛をはがして脱毛を行い。エジプトの王であるファラオは全身をツルツルにしてからカツラを被っていました。

それを見た古代ギリシャの歴史家ヘロドトスは「エジプト人は暇さえあれば髭剃りしている」と評しています。

古代バビロニアでは5000年前には灰汁と油を混ぜた石鹸の元祖をシェービングクリームのように使い、髭を剃る理容師という職業が既に存在し。腕の良い理容師は政府高官や医者として高い地位にあり。そのバニロニアに征服されバビロン捕囚を経験したヘブライ人の子孫が書いた聖書にも理容に関する記述が見られます。

ヨーロッパでも古代ギリシャで発掘された金属性のピンセットや刃物で体毛を剃ったり抜いたりし。アリストパネスの戯曲『女の平和』では浴場で女性同士が脱毛された下腹部を話題にする描写があり。

具体的には世界各地の美術館にある彫像から古代ギリシャ女性がいかにムダ毛処理を徹底させていたかをうかがい知る事ができます。

こちらは古代ローマ時代に発掘された金属製の髭剃りです。

こちらは発掘された髭剃りで髭剃る様子を再現した図です。

古代ギリシャを征服し、ギリシャ文化が流入した古代ローマでは2200年ほど前から兵士が軽石で髭を剃って清潔を保ち、自由市民は奴隷と区別するために髭を剃らなくてはいけなくなる一方、奴隷は髭を伸ばすよう決められ。ローマ帝国になって巨大な公衆浴場が幾つも建造された時代になりますと、ピンセットや脱毛ジェルなどを使って髭以外のムダ毛を処理する風習が庶民にまで広がりました。

キリスト教を弾圧した暴君とされる皇帝ネロ(37~68年)の家庭教師だった哲学者のセネカは、

「公衆浴場はブチブチ体毛を抜く時のうめき声でうるさい」と評しています。

ローマ帝国が崩壊し、ヨーロッパ各地に侵入したゲルマン人が複数の王国を建てた中世になりますと、理容師は髭剃りだけでなく、怪我の処置や四肢の切断まで行う外科医、虫歯を抜く歯医者も兼務しており。

オペラ『セビリアの理髪師』では金さえ出せば何でもやってみせる便利屋として登場します。

ジレット安全剃刀の特許の図

ジレット安全剃刀の特許の図

古代バビロニアの時代から鋭利で危険な刃物を使って髭をそるのは専門家の仕事でしたが、200年と少し前にフランスのジャン=ジャック・ペレが安全カミソリを発明し、その後イギリスで試行錯誤されたものが製造され。1901年にアメリカの発明家キング・キャンプ・ジレットが使い捨ての替え刃を取り替えるT字型安全カミソリを発明。これによって大多数の人が自分で安全に毛を剃る事ができるようになりました。

第一次世界大戦(1914~1918年)にジレットは安全カミソリを軍と契約して350万本の安全カミソリ本体と3200万本の使い捨て替え刃を供給してアメリカ中の男性に普及しました。

明治になって開国し、文明開化した日本でも日本刀などの刃物を作る刀鍛冶の伝統と歴史のある岐阜県関市で誕生した貝印株式会社が1932年に国産初の安全カミソリを製造し。戦後も安い安全カミソリを全国的に売り、今も国産のカミソリと言ったら「貝印」が有名となっています。

1921年にジェイコブ・シックがアラスカに赴任した際、水が凍って従来のカミソリでは髭が剃れないので電気カミソリを考案してから様々な電気カミソリが製造されていきます。

駆け足で髭剃り脱毛の歴史を紹介していきましたが以上でコラムは終わりです。

皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?最後に日本語字幕つきのオペラ「セビリアの理髪師」序曲をどうぞ。

食の歴史その36~トマトがなかった昔のケチャップ

2 8月

こんにちは、今日も暇つぶしになればと願ってコラムを書いて見ました。

ビジュアルで分かりやすくするため、画像を沢山使ってみました。

今、ケチャップと言いますと完熟トマトを加熱してから湯剝きで皮を取り、裏ごししてから低温で煮詰めてトマトピューレを作り。砂糖、塩、酢、オールスパイス(ピメント)、シナモン、グローブを加え、タマネギ、セロリなどの野菜も加えて作られます。

ケチャップ状の調味料には歴史があり、古代ローマ時代からあるケチャップは広く「ガルム」という名で知られ、リクアメンと呼ばれていました。

ローマでのガルムの製法

ローマでのガルムの製法

ガルム、またはルリクアメンは世界で最も古い調味料の一つで。酢、オイル、コショウ、干したアンチョビをドロドロにしてから潰して裏ごしにして調味したソースでした。

古代ローマで作られたトマトのないケチャップは鶏肉や魚に良く合うソースとして重宝され、ケチャップ工場で有名な町もありました。

2000年ほど前に火山灰に埋もれたポンペイの遺跡には「最高に滑らかなリクアメン。ウンブリクス・アガトホプス工場製」と書かれた世界で最も古いケチャップの瓶が発掘されています。

しかし、これは現在のケチャップの直接の先祖ではなく。1690年代に中国でやはり鶏肉と魚用のソースとして魚の酢漬け、貝、スパイスを塩水で漬け込んだものがマレーシアやその周辺にも伝わり、ここで「ケチャップ」という言葉が初めて出てきます。

このケチャップを1700年代にイギリス人がマレーシアやシンガポールの原住民が食べているのを見つけ、故郷のイギリスに持ち帰り、イギリスでもその味を懐かしんで料理人に作らせたのですがアジアのスパイスが手に入らなかったので、代用として魚介類ではカキ、アンチョビ、ロブスターを使い、他にはマッシュルーム、インゲンマメ、クルミ、キュウリ、クランベリー、レモン、ブドウなどで作り、現在でもパイやシチューに使われています。

イギリスのキノコから作ったケチャップ

イギリスのキノコから作ったケチャップ

この中国、マレーから伝わってイギリスで独自に作られたケチャップはイギリス人を魅了し、ハリスン夫人の書いた『ハウスキーパーのポケットブック』という人気の高い料理書に、主婦は「このソースを決して切らしてはなりません」と書かれています。

チャールズ・ディケンズ

チャールズ・ディケンズ

ヴィクトリア朝時代のイギリスを代表する『オリバー・ツイスト』などの著書を残した作家チャールズ・ディケンズ(1812~1870年)は『バーナビー・ラッジ』の中で「たっぷりケチャップをかけたラムチョップ」に舌鼓をうち、パイロン卿は彼の詩『ペッポー』の中でケチャップを称えています。

このケチャップにトマトに入ったのは1790年ごろ、アメリカのニューイングランド地方で生まれたとされます。

トマトは今のメキシコに繁栄していたアステカ帝国で食用に品種改良し、栽培されており。そのアステカを征服したスペインのエルナン・コルテスが1519年に種を持ち帰ったのですが、毒草のベラドンナに似ているのと、赤い実だけでなく毒のある葉も間違って食べていたから長い間毒とされ、日本でも江戸時代に長崎から伝わり、貝原益軒の『大和本草』にもトマトについて書かれていたのですが。ここでも偏見があり、日本でも食用になるのは明治を待たなければなりませんでした。

トーマス・ジェファーソン

トーマス・ジェファーソン

こういったトマトの偏見を覆したのがアメリカ建国の父の一人トーマス・ジェファーソン(1743~1826年)でして、アメリカで最初にトマトを栽培し、赤い実だけ食べれば毒は無く、すぐれた食べ物である事を知らせました。

アメリカにパリ仕込みのフライドポテトを持ち込んだりとアメリカの食生活にも影響与えたジェファーソンのトマトとそのケチャップはすぐさま広まり、1792年にリチャード・ブリッグが書いた『新しい料理法』にトマトケチャップの料理法が書かれ、1850年代にもなると、どこの家庭にでも見かけられるようになります。

この頃人気のあった料理書、イザベラ・ビートン著『家政学の書』は、「トマトケチャップ・ソースは経験を積んだ料理人にはもっとも利用価値の高いソースの一つです。作る手間を省いてはなりません」と主婦たちにアドバイスしています。

しかし、家庭ではトマトを湯剝きして、裏ごししたものを絶えずかき回して作るトマトケチャップは大変な手間であり、1876年にドイツ系アメリカ人の料理人兼ビジネスマンのヘンリー・ハインツが世界で初めて瓶詰めケチャップを最初に大量生産されたとき、アメリカの主婦達がしきりに買い求めたのも当然のことでした。

ハインツ社のトマトケチャップ

ハインツ社のトマトケチャップ

ハインツ社を作ってトマトケチャップの瓶詰めを量産したヘンリー・ハインツは「お母さんがたと家庭を預かる女性に福音!」とレッテルに書いて売れたケチャップは、瓶の形は底が広くて首が細いデザインと中身のケチャップの製法が百年以上の間、ほとんど変わっていません。

アメリカから飛んで日本に向かいますと、カゴメのトマトケチャップが圧倒的なシェアを得ていますが、これは明治になってから西洋野菜としてカゴメの創業者、蟹江一太郎が1899年にトマトを栽培し、数年後豊作で余ったトマトを保存食にするべく、西洋のケチャップの製法には必要なオールスパイス(ピメント)、シナモン、グローブなどのスパイスの調達が難しく、代用で漢方薬を使ったりと試行錯誤を繰り返し。1904年に生産を開始し、今に至ります。

カゴメが国産ケチャップを開発、販売していなければ。チキンライス、オムライス、ナポリタンは生まれていなかったかも知れません。

今日はケチャップでタマネギとピーマンを炒め、ナポリタンを作りたくなってきました。

皆さんもケチャップがあったら何かに使ってみませんでしょうか?フライドポテトにケチャップも美味しいですよね。

それではケチャップをふんだんに使ったナポリタンを食べますので。今日のコラムはこれで終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

参考文献
チャールズ・パナティ 著 バベル・インターナショナル訳 『はじまりコレクションⅠ』
高平鳴海 著 『図解 食の歴史』(「ガルム」の製法のみ参考)

参考サイト
カゴメ公式サイト 「カゴメの歴史」 http://www.kagome.co.jp/company/about/history/
ウィキペディア

食の歴史その21~ハンバーガーとモンゴル帝国~

29 6月

おはよございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと願って、コラムを書いて見ました。

地図で説明する箇所があるので、画像を一枚アップロードします。

ハンバーガーはアメリカの国民食であり、世界のファーストフードの王者となっており。

10年ほど前のデータでは、マクドナルドは世界120カ国に進出し、1日あたりの来客者数はのべ4000万人に達するそうです。

ハンバーグステーキを丸型のパンでくるむというアイデア料理の俗称がハンバーガーだが、その起源はドイツ北部の港町ハンブルグの家庭料理をヒントとしてアメリカで改良され、のちにハンブルグの英語なまりであるハンバーガーtご呼ばれたといわれています。

しかし、この説は現在ではほとんど試みられていません。これはれっきとしたアメリカ生まれのアメリカ料理だからです。

例えば日本語に「日本風天ぷら」という呼び方がないように、「ハンバーグステーキ」もドイツ語には見当たらない言葉です。

地元のドイツでは皿に出されたものを「ドイチェス・ビーフシュテーキ」と言い。牛肉のミンチを丸めて平たくしたもので、つなぎなどを混ぜていないためにポロポロした食感だと言われています。

他にはジャガイモをつなぎに使った「フリカデレ」というドイツのひき肉料理もあります。

フランス料理には馬肉のひき肉、たまねぎ、薬味、生卵をまぜたタルタルステーキがありますが、このタルタルステーキが原型ではないか、という説が注目されているそうです。

タルタルとは生肉をミンチ状に刻んで賞味するいわば、牛肉や馬肉のタタキであり、そもそもタルタルとは1200年代にチンギス・ハーンとその子孫によって征服された中央アジアやロシアに移住したモンゴル系の人たちの総称で、一般にはタタールと言われています。

タタールの由来はギリシャ神話に登場する最悪の死後の世界であり、奈落も意味する「タルタロス」から生まれ、ハンガリーやポーランドにまで攻め入ってヨーロッパ連合軍を殲滅させた強さから野蛮で凶暴と恐れられたモンゴル帝国率いるモンゴル系、トルコ系遊牧民が、タタールと呼ばれるようにjなったのだと言われています。

このタタールと呼ばれた遊牧民は中央アジア平原で放牧された羊や馬などの肉質の硬い生肉を細かく刻んで食べていましたが、1200年代末期にこの料理法がドイツに伝わり、素材を羊や馬から牛に変えて定着したのが、タルタルステーキの源流とされています。

はじめのころは、硬いスジ肉を塩や身近な調味料だけで味付けしていたらしいのですが。

そのご、今日のタルタルステーキのように生卵やピクルス、刻みタマネギなどを添えて深みのある味を出すようになりました。

そして数百年経ちましたら、焼いてハンバーグの原型になるものがイギリスとアメリカに伝わります。

イギリスはジェームズ・ヘンリー・ソールズベリー博士が食事改善運動を行い、全ての食材は細かく切ってから食べると健康にいいと提唱し、南北戦争(1861~1865年)に従軍の際、兵士が下痢をしないよう、消化の悪いステーキではなく、脂身を含まない牛肉の赤味を細かく刻んだステーキを考案。この考案者ソールズベリー博士にちなんでイギリスではソールズベリー・ステーキとも言われているそうです。

ちなみに、第2次世界大戦中のアメリカではハンバーグは敵国ドイツの言葉としてソールズベリー・ステーキと言うようにお上からの指示があったそうです。

さて、ハンバーグ、ハンバーガーという名前を考案し、世界的にその名を広めたアメリカはと言いますと。1850年代からドイツ移民がハンブルクからニューヨークまでのアメリカに至る長い船旅の中で硬くなったり、古くなった燻製肉を細かく刻んで調理していた料理法を伝えたとされ、1884年2月16日のボストン・ジャーナルという新聞に

「ニワトリを1羽捕まえて煮る。冷めたらハンバーグステーキの肉と同じように刻む」

という調理記事が紹介され、これが活字で記録された最も古いハンバーグの記録とされています。

これからアメリカの北部ウィスコンシン州セイモアという小さな田舎町は、ハンバーガー発祥の地として名乗りを上げ、ハンバーガー博物館まで設置していたりするなど、アメリカ各地でハンバーガー発祥の地と名乗りを上げている場所がいくつかあります。

下にハンバーガーとゆかりのある場所を指し示す地図を出します。

上の地図のようにアメリカ各地に広まったハンバーグ、ハンバーガーですが。1900年代初頭になっても評判の悪いものでした。

歴史学者デイヴィット・ジェラード・ホーガンによれば、ハンバーガーは汚くて、口にするのは危険な貧乏人の食べ物と思われていました。

レストランで出される事はほとんどなく、工場のそばにくるランチのワゴン、サーカス、カーニバル、博覧会などで売られる代物でした。

これは今の日本人の感覚で言えば、噂話ですが、地元で夏祭りになると路上の屋台に出す焼きそば、たこ焼き、お好み焼きなどを買ってたべようとしたら親に「屋台のは路上に水道なんてなく、汚い水で作っているからやめなさい」と言われ、食べられなかった思い出がありますが。博覧会で売られたハンバーガーも似た様な認識だったかも知れません。

アメリカに話を戻しますと昔、ひき肉は合成保存料がたっぷり添加された腐った古い肉から出来ていると信じられていました。ですから、

「ハンバーガーを食べるのは、ゴミ箱から取り出した肉を食べるのと同じくらい危険だ」

と、昔のアメリカの食品評論家は論じていました。

それからしばらくして、1920年代に、アメリカ初のハンバーガー・チェーンであるホワイト・キャッスルは、ハンバーガーの悪いイメージを払拭するために、グリルを客が見れるようにした上で1日に2回新鮮なひき肉が搬入されている事を訴え、チェーン店の名前も清潔なイメージを受け付けられるようにとの思いから命名し、さらには、ミネソタ大学の実験のスポンサーとなり、医学生がホワイトキャッスルのハンバーガーと水だけで13週間生きられる事を証明しました。

こうした努力と成功がハンバーガーの偏見を取り除きましたが、客層はほとんどが都会の男性労働者で、女性や子供も一緒に食べる国民的な食べ物になるには、30年ほど経った1950年代にマクドナルドが家族向けチェーン店として売り出すのを待つしかありませんでした。

こうして現在、スーパーに行きますと安く真空パックのハンバーグが置いてあり。街へ出るとMをかたどった金色アーチの看板をかかげたマクドナルドがあちらこちらにあるようになりました。

最後に一つ蛇足しますと、日本のハンバーグは日本独自の調理法を取っていて。

日本の一般的レシピでは、牛、豚、7対3のミンチと、みじん切りして炒めた玉ネギを加え、塩、胡椒、ナツメグ、全卵、パン粉混ぜを合わせ、表面をしっかり焼いて肉汁を閉じ込め、オーブンで中まで火を通す。仕上げにブラウンソース、またはデミグラスソースをかける。

といった感じで、アメリカやイギリスより手の込んだ代物なのだそうです。

今日のコラムはここで終わりですが、皆さん楽しんで頂けたでしょうか?

食の歴史その17~パスタのルーツは中国か?~

23 6月

こんにちは。今日も皆さんの暇つぶしになればと思ってコラムを書いて見ました。

今日のコラムはいくつか画像を載せています。

よく「中国4000年の歴史」なんてフレーズがありましたが。

歴史をかじってますと。殷(いん)が3600年以上昔にあったかな?という段階で4000年も歴史があるのか疑問が沢山あるのですが。数年前に中国で麺の化石が出てきました。

4000年前の麺の化石

4000年前の麺の化石

写真を見ると現在の麺と変わりない形をしております。

およそ1800年前の後漢という中国の王朝の時代に書かれた語学書「釈名(しゃくみょう)」に麺の記録が現れ。1500年ほど前に書かれた「斉民要術(せいみんようじゅつ)」という世界的に初めて書かれた農業に関する学術書には農業だけでなく、調味料や麺の製法まで書かれています。

現在の湯餅のひとつ

現在の湯餅のひとつ

それによると、湯餅(たんぴん)と呼ばれる小麦粉で作った麺を温かいスープで煮込んだものが現在の麺料理の元祖らしいです。

麺の製法の中で最も古いとされるのは、こねた小麦粉を手でひたす延ばす「手述べ麺」でして、日本ではそうめんが代表的です。

この手述べ麺が中国北部では拉麺(ラーミェン)と呼ばれ、後に日本でラーメンと呼ばれるルーツになったとも言われています。

中国では元々「麺(ミェン)」は小麦粉を意味したものでしたが、穀物を粉にしたもの全てを表す言葉になり、現在の中国では麺類を「麺条(ミェンティアオ)」と呼んで使い分けています。

これが1400年前に出来た一度は教科書で習った「遣唐使(けんとうし)」の時代である、唐王朝の時代になりますと、小麦粉を板状に広げて切っていく「切り麺」が普及していきまして。日本でもこの頃、中国からこの切り麺の製法が伝わり、そば切りやうどんなどに発展していきます。

シルクロードを経由してイタリアに伝わったパスタにもフィットチーネ(幅広パスタ)という切り麺がありまして、カルボナーラなどによく合います。

130年の歴史があるイタリアで初めての押出式パスタマシン

130年の歴史があるイタリアで初めての押出式パスタマシン

イタリアのパスタやマカロニなどでよく行われている製法にトコロテン方式のこねた小麦粉を小さな穴から突き出して麺にするもので、アジアでも冷麺やビーフンがこの製法で作られています。

こうして200年ほど前になりますと。麺類はアジア、中近東、イタリアに分布しますが。これらは独自にうまれたのか、アジアから伝わったのか、確認する方法は今のところ無いみたいですが。東南アジアの麺料理は200年ほど前に東南アジアのあちこちに住み着いた華僑(かきょう)と言われる中国人と関係があると言われています。

マルコ・ポーロ

マルコ・ポーロ

一方、イタリアのパスタ、マカロニに関して古くからある論争に「東方見聞録」を1298年ごろに書いたマルコ・ポーロが中国から伝えたという説についての論争がありますが。ヨーロッパの学者達でさえ、このマルコ・ポーロが本当に中国へ行った事があるのか疑念を抱いています。

大英図書館

大英図書館

イギリス国立図書館のフランシス・ウッドは「東方見聞録」では中国に長く滞在した事になっているが。もし、そうだとしたら後に中国へ本当に滞在した人なら必ず珍しがって記録する中国の文化面が致命的に抜けていると指摘しています。

台湾の飲茶(ヤムチャ)

台湾の飲茶(ヤムチャ)

たとえば、コーヒー、紅茶が伝わり。沸騰させた水が飲める事にヨーロッパ人がやっと気づいたのが400年前ですが。それ以上前に中国に行ったのであれば、茶を飲む習慣を書いていなければおかしいと指摘していますし。中国で長期間滞在したら、お茶を飲みながら点心を食べる飲茶(ヤムチャ)も見たはずです。

その時に食器として箸を使う習慣も、今から300年ほど前にベルサイユ宮殿に君臨していたルイ14世がフォークやスプーンを使わずに手づかみだった事を考えれば、物珍しいものとして書いていなければおかしいと指摘。

万里の長城

万里の長城

他にもアルファベットや中東の文字と全く違う文字である漢字の存在や木版画、女性が行う纏足(てんそく)、観光客を圧倒させる万里の長城などを書いていない事を挙げ。マルコ・ポーロは家族が貿易やっていたので、ヨーロッパにいながら中国の産物を運んでくるペルシャやアラビアの商人から情報を仕入れて、さも中国に行ったように書いたのではなかろうか?と言われています。

そして、マルコ・ポーロが帰国したのが1295年とされていますが。それより前の1279年の記録にマカロニと書かれたものが出てきています。

ジョヴァンニ・ボッカッチョ

ジョヴァンニ・ボッカッチョ

それから数十年経ってイタリアの詩人である作家であるジョヴァンニ・ボッカチオが書いた10日間を意味するタイトルの「デカメロン」が出版された1353年には、パスタやマカロニがもうしっかりイタリアの定番料理になっていたようです。

「デカメロン」の中には2種類のパスタが書かれており、上にかけるソースやチーズについても書かれています。一部を抜粋しますと、

「イタリアのベンゴディ地方にはブドウのつるをソーセージで結ぶ。そこにはおろしたチーズの山があって、その上で一日中男達は、スパゲッティとラビオリを作っては、チキンのソースをかけて食べる」

とあります。

さて、フォークは1700年代頃まで普及していなかったので、どうやって食べたかと言いますと。

下の図のように長い間手づかみで食べていました。

フォークが普及する300年以上昔のパスタの食事風景

手づかみでパスタを食べる300年以上前の人たち

こんな食べ方を長い事していたものですから、中国のように温かいスープに入れて箸で食べるのではなく、手掴みが前提でバターやチーズをまぶして食べるタイプになったのも当然の成り行きなのでしょう。

パスタを手掴みで食べる光景を写した20世紀初頭の絵葉書用写真

パスタを手掴みで食べる光景を写した20世紀初頭の絵葉書用写真

このような手掴みで食べる伝統イタリアでは20世紀初期までありまして。絵葉書の写真にもされています。

イタリア南部を支配したシチリア王国

イタリア南部を支配したシチリア王国

パスタにはもっと古い記録もありまして、1140年代にイタリア南部を支配していたシチリア王国のロジェル2世に仕えた北アフリカはモロッコ出身の地理学者アリ・イドリーシが書いた「ロジェルの書」によりますと、イタリア半島の南にあるシチリア島の北西部にあるトラビアの町にはパスタの一種イットリーヤが作られ、各地に積み出されている事が記録されています。

中世のアラブ人が書いた本によると、イットリーヤはキシメンに似た手打ちの乾麺だったと記録され、

イスラム圏の麺類リシュタ

イスラム圏の麺類リシュタ

1000年前のペルシャで活躍した哲学者イブン・シーナもイットリーヤはペルシャ語で「糸」を意味するリシュタと同じ食べ物であると記録しています。

イブン・シーナはペルシャからはるか北の中央アジアからやってきたイスラム教徒である事などから、麺を食べる文化が東から中央アジア、中東、北アフリカとはるか昔に広まっていたようです。

こうして東からイタリアへ伝わったであろうイットリーヤなどは大量生産される事なく、今ほどありふれた食べ物ではありませんでした。

大量生産されたのは1800年代にナポリで木製のねじ式の押し出し機を使って細長いパスタが大量に出来上がっては天日干しにされ、手で練っていた生地も1830年代に発明された機械で練られ、イタリア中に広く普及しました。

そして、イタリア系移民がアメリカに大勢住みつき、1920年代になりますと。ニューヨークはマンハッタンのプラザホテルでコックをしていたヘクター・ボイアーディがアメリカ人にもっとイタリア料理を知ってもらいたい思いからトマトソース味のパスタを瓶詰めにしてみました。

この便利なパスタの瓶詰めがA&Pフードの重役ジョン・ハートフォードの目に止まり。アメリカ中の食品店にソースで味付けされたパスタの瓶詰めや缶詰が置かれれるようになり、1940年代に今も量だけは多いけど貧相なアメリカ料理に革命がもたされ、イタリア系じゃないアメリカ人にもパスタが普及しました。

今でもトマトソースで味付けされたパスタを詰め込んだ缶詰がケチャップで有名なハインツ社によってイギリスで作って売られているようですが、フォークでクルクル巻こうとする前にブチブチ切れるほど伸びている代物なので、微妙な味ですが。興味ある方は「缶詰パスタ」とgoogleにキーワードを入れて検索しますと実際に缶詰パスタの中身を写した写真や食べた感想などが書かれている記事を読む事ができます。

検索するのが面倒臭い。そんな人のためにパスタの缶詰の画像を2つほど出しておきます。

イギリスのパスタの缶詰

イギリスのパスタの缶詰

パスタの缶詰を皿に移したもの
パスタの缶詰を皿に移したもの

それから第2次世界大戦後、日本にやってきた米軍が接収していた横浜のニューグランドホテルで今のナポリタンの原型が開発され、1950年代半ば以降から学校給食にケチャップとソーセージで作ったナポリタンが出されるようになり、日本人にも馴染み深い麺料理となりました。

ただ、ナポリタンとミートソース以外のパスタは1980年代のイタメシと言われたイタリア料理ブームが来るまで待たなければなりませんでした。

ここでコラムは終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

自分はケチャップとソーセージと乾麺のスパゲッティがあるので、ナポリタンを作ってタバスコと粉チーズをかけてこれから昼飯を楽しもうと思います。

では、ご拝読有難うございました。

・参考文献

辻原康夫 著 『世界地図から食の歴史を読む方法』

池上俊一 『世界の食文化15 イタリア』

チャールズ・パナティ 著 バベル・インターナショナル訳

『はじまりコレクション 1』

アレックス・バーザ 著 小林浩子 訳  『嘘の歴史博物館』

ウィキペディア 『ナポリタン』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%BF%E3%83%B3#.E5.8D.A0.E9.A0.98.E4.B8.8B.E3.81.AE.E6.97.A5.E6.9C.AC

食の歴史その16~フレンチポテトからポテトチップに至るまで~

21 6月

おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと願って、コラムを書いて見ました。

ビジュアルで分かりやすくなればと思って画像を幾つか入れていきます。

米、小麦、トウモロコシ並んで世界の4大作物とされているジャガイモは寒冷地や痩せた土地でも育ち。

イギリスの経済学者 アダム・スミス

イギリスの経済学者 アダム・スミス

「国富論」を書いた経済学者アダム・スミスも「ジャガイモは小麦の3倍収穫量がある」と評されています。

そのジャガイモ薄切りにして塩味つけてから揚げたポテトチップはある男が閃きや発明ではなく、腹立ち紛れに作ったものでした。

1853年の夏、ネイティブアメリカンのジョージ・クラムは、ニューヨーク州の高級リゾート、サラトガ・スプリングズのムーン・レーク・ロッジというレストランでコックをしていました。

そのレストランのメニューにはフレンチポテトがありました。

トーマス・ジェファーソン

トーマス・ジェファーソン

アメリカ建国の父で3代目大統領のトーマス・ジェファーソンが1785年からフランス革命が起こる1789年までフランス大使だった頃からフレンチフライが大好物で。1802年に「ポム・フリット」というパリ仕込みなフレンチフライのレシピを取り寄せ、来客者に出してから広まり、そのご本核的なディナー料理になりました。

そのフレンチフライをクラムが作って出したところ、客は厚すぎて好みに合わないと注文を取り消しました。

そこでクラムは薄く切って揚げたが、これも客は気に入らなかった。

腹を立てたクラムはこれでもかというほど薄く切ったジャガイモをフォークで刺せないほどカリカリに揚げて、客を困らせてやろうとしました。

ところが、紙のように薄くパリパリのジャガイモを食べた客は美味いと大喜び。それを見た他の客も競ってポテトチップを注文しました。

こうしてポテトチップはムーン・レーク・ロッジ特性のサラトガ・チップとしてメニューに載りました。

間もなくポテトチップは包装されて近所に売り出されましたら、最初は近所だけでしたが。次第にアメリカ東海岸のニューイングランド地方全域にまで広まりました。

この流れにのって腹立ち紛れにポテトチップを世界で最初に作ったクラムはポテトチップを呼び物にして自分でレストランを開きました。

当事はジャガイモを皮むきして薄切りにするうんざりする手作業でしたが。1920年代に皮むき機が発明されると、少量しか出回らない特製品だったポテトチップがアメリカで一番売れるスナックになる道が開かれていきます。

ハーマン・レイ Herman W. Lay 

ハーマン・レイ Herman W. Lay

ポテトチップは1853年に発明されてから数十年間主にアメリカ北部のディナー料理でしたが。1920年代にセールスマンのハーマン・レイが車のトランクに詰め込んでアメリカ南部を回り、食料品店を行商し、取引しては名前を広め。レイのポテトチップはブランドとなりました。

レイのポテトチップ lay's classic potato chips

レイのポテトチップ lay’s classic potato chips

そして、1961年にはコーンチップを作っていた会社を併合してよりアメリカ全土にポテトチップを生産して売り込むほどになりました。

一方日本ではコイケヤの創業者、小池和夫が飲みに行ったお店でポテトチップに出会い、「こんな美味しいものがあったとは」と感動し。もっと広くこの美味しさを伝えたいと思い、1962年に日本人の口に合うようにと、のり塩のポテトチップを売り出しました。

アメリカでは昔、ジャガイモは食べる寿命が縮むという迷信を信じて豚の餌にしていましたが。ポテトチップにするために油で揚げて塩をまぶした事から、高血圧と心臓病の原因の一つとなり。迷信ではなく本当に体に悪い食べ物となってしまいました。

皆さんもポテトチップを食べるときはお体にお気をつけて。

コラムは以上で終わりですが、皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

食の歴史その14~神々とワイン~

21 6月

こんばんは。今日も皆さんの暇つぶしになればと思ってコラムを書いてみました。
携帯やスマホで見ている方もいるだろうと考え、あえて画像は入れていません。

聖書では人類が初めて口にした酒はワインとされています。
「旧約聖書」にはワインの記述が500箇所ほどあり。
その中でノアの大洪水の話では洪水が終わって箱舟から出てくると。
「ここにノア、農夫となりて、ブドウ畑をつくることはじめしが、ワインを飲みて酔い、天幕のうちにありて裸になれり」
と「旧約聖書」ではノアが初めてブドウを栽培し、ワインを作った事になっています。

「新約聖書」では、最後の晩餐にてキリストが、
「お前達のために流す私の血」
と言って弟子達に分け与えて以来、教会のミサに欠かせないものとなりました。

また、ギリシャ神話では酒の神ディオニソスの血とされ、古代ローマでは酒の神バッカスへのささげ物でした。

古代ギリシャではディオニューシア祭という。酒の神ディオニソスにちなんだ祭りがありましたが。
この日に限っては酒の席だからなのだろうか、階級や男女問わず、からかったり冷やかしても許され。

ディオニューシア祭のメインイベントである演劇の上演も普段は言えない反戦のメッセージや体制批判などを表立って行える貴重な場でもありました。

ワインがいつから飲まれたのかについては諸説ありますが。6000年前のメソポタミア文明があった所の遺跡からワインを醸造していた痕跡がありますし。このメソポタミアは「ギルガメシュ叙事詩」にて「旧約聖書」よりもはるか昔に洪水伝説が発祥した所でもあります。

ちなみに、ワインという言葉はラテン語の「ウィヌム」、古代ギリシャ語の「オイノス」に由来しています。
このラテン人や古代ギリシャ人が参考にしたもっとも古いワインを指す言葉「ウィヤナス」はトルコのアナトリア半島に勢力を持った世界最古の製鉄民、ヒッタイト帝国の言葉であるとの説があります。

こうして古代からヒッタイト人、ラテン人、古代ギリシャ人がそれぞれ命名したワインは3700年ほど前にエジプトや中東からギリシャに伝わり、さらにギリシャが植民地を拡大していきますと。イタリアにも広まり、そこから南フランス、スペインへと広まっていきました。

この当事はワインをまず宴会を行う家の主人が最初に飲み、これを時計周りと逆の順番で回し飲みするマナーなどもありました。

他にも古代ギリシャ、古代ローマではワインを水で割って飲むのが常識でした。

割る割合もワイン1に対して水が3で割ると決まっておりました。

割らずに飲むと野蛮人の飲み方とされました。

こうした水で割って飲む習慣はワインがまだ大量生産されず貴重品だったので、生のまま浴びるほど飲む余裕が無かったのと。アンフォラという素焼きのかめの中に保存していると水分が蒸発して濃縮され甘みも酸味も強くなってしまう事が多々ありました。

そこで、濃縮されたワインが発酵しないよう松ヤニや塩水を加えましたが。それでも味が濃縮されているので、水で割って飲みやすいよう工夫したとも言われています。

その後、ローマ帝国の時代である西暦300年代にはフランスのボルドーやブルゴーニュ、シャンパーニュ、そしてドイツのライン川沿いなど、現在でもワインの名産地とされている場所でブドウの栽培と同時にワインの製造も行われていたようでした。

それからも少し時代を経て、ローマ皇帝がキリスト教を帝国の宗教とし、布教が広まると。教会では僧侶がワイン作りを熱心に取り組み技術も向上させ、「聖なるキリストの血」の研究に没頭していきました。

こうして教会の僧侶が努力して醸造していったワインは上質なものを醸造するためには品質、気象、土壌、地形などに左右され。あらゆる面で繊細さを求められるので、ワインが文化と呼ばれてきたゆえんでもあります。

欧米のアルコール文化は、
フランス、イタリア、スペイン、ポルトガル、ギリシャなどの南ヨーロッパを中心とした「ワイン文化圏」

イギリス、オランダ、北欧を中心とした「ウイスキー文化圏」

ドイツ、オーストリア、チェコとアメリカを加えた「ビール文化圏」
に大きく区別されます。

ワイン文化圏では、基本的にワインを飲みながら食事をします。

なかでもフランス人はワインと食事の調和になみなみならぬ情熱を注ぎ、料理の味を引き出すために、ワインの銘柄や種類にこだわります。

これは和食と日本酒との関係にも共通するところがあり。

例えば本膳料理や会席料理などの和食の多くは酒のためのおかずという意味合いが強く、肴(さかな)と言う字も、元々は「酒菜」、つまり酒を飲みながら食べるおかずという意味合いから生まれた言葉なのだと言われています。

晩酌という言葉がありますが、これは厳密には食事の前にお酒を軽く楽しむもので。以外に新しい習慣で。平安時代から食事と酒を一緒に味わうものでした。

ワインの話に戻しますと。ワインは食事中の酒ですが。ウイスキーやビールは食前の酒とされてきました。

ウイスキー文化圏ではカクテルも含めて酒を楽しんでからメインディッシュにかかるのが伝統とされているようです。

おもしろいことに、ワイン文化圏は食生活が豊かで農耕もいち早く発展し。産業革命後もそれほど工業が発展せず。宗教はカトリック文化圏と重なります。

逆に食生活が貧弱で産業革命が急速に進んだイギリスやドイツなどのプロテスタント文化圏ではウイスキーやビールを好む傾向があります。

これには、ブドウが暖かい所でしか栽培できないのに対し、ウイスキーの原料の大麦などが寒いところでも育つ事。

さらに気候的に寒い条件では度数の強いアルコールが好まれる事。

儀礼を重視してワイン作りに情熱を傾けるカトリックと、儀礼を軽視するプロテスタントの宗旨の違いなども深く関係していると思われます。

ここでコラムは終わりですが。皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?

それではよい週末を。