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天下人の食卓~織田信長

5 8月

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「天下人の食卓」第1回は織田信長の食卓を紹介してまいります。

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『信長公記(しんちょうこうき)』のエピソードで桶狭間(おけはざま)の戦いに出る前、

「人生五十年~」と敦盛(あつもり)の舞を行ってから鎧をつけた信長は立ったまま食事したとあります。

信長が立ったまま食べていたのはご飯にお湯をかけた「湯漬け(ゆづけ)」と呼ばれるものでした。

この頃にポルトガルから日本へやってきた宣教師のルイス・フロイスは『ヨーロッパ文化と日本文化』のなかで、

・われわれはスープがなくても結構食事をすることができる。

・日本人は汁がないと食事ができない。

と記し。必ず水分と一緒に食べる日本食が印象的でした。

『名将言行録(めいしょうげんこうろく)』『信長公記』などにあるエピソードによると信長は好き嫌いが激しく偏食がでした。

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他にも街を歩きながら餅や瓜を食べる事は不作法とされてましたが、一目をはばからずに行い「うつけ者」と呼ばれます。

信長、秀吉、家康の3人に共通するのは鳥肉をよく食べ。

醤油はずっとあとの時代の調味料なので当時は鳥肉の塩焼き、または焼いた鳥肉を味噌ダレで頂きました。

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漬物はみそ漬けが多く。

当時は漬け物を「香の物(こうのもの)」と呼んでました。

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目新しい洋菓子を好んでいた信長へ宣教師がカステラを献上したところ、

ワサビと醤油で食べたと記録されてます。

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『名将言行録』では信長が鷹狩りに出かけると昔、信長を諫(いさ)めて切腹した平手政秀を思い出し。狩った鳥の肉を引き裂いて

「政秀!これを食べよ!」

と言って空に向かって投げ、涙を浮かべていたそうです。

信長にとって家臣に与える褒美の食べ物が、「肉」だとうかがい知れるエピソードです。

以上が信長の食卓でした。

これから焼き鳥の缶詰めとみそ漬け、かぶのお吸い物でご飯にしたいと思います。

焼き鳥の缶詰めとみそ漬けは酒の肴にも相性バツグンです。

外出を控えている方もそうでない方も、いい暇つぶしになったでしょうか?

参考文献

・ルイス・フロイス著「ヨーロッパ文化と日本文化」

・太田牛一著「信長公記」

・志村直人著「歴史ごはん」

・岡谷繁実著「名将言行録」

食の歴史その42~古代ローマの食卓その2 昼食編~

4 9月

おはようございます。今日も皆さんの暇つぶしになればと願って、コラムを書いて見ました。

今回もビジュアルでわかりやすくするよう、画像を多用します。

もともと、古代ローマ人の食事スケジュールは、朝は朝食を意味するイェンタークルム、正午近くにケーナという1日の主となる食事をし、晩に夕食を意味するヴェスペルナをつまむというものでした。

しかし、昼間は暑くて食欲が起きない事と、ローマの勢力が大きくなりギリシャの文化が入って影響を受けると同時に国が豊かになってケーナの内容が次第に豪華になり、ケーナの時間は夕方へ移っていきました。

こうしてケーナ以外の食事は軽食かおやつを意味するようになり、腹が減ったので仕方なくとか、仕事の合間の休憩などに分類されるようになりました。

ケーナで腹いっぱい食べるので。上流階級でもケーナ以外の朝食、昼食を粗食で済ませれば倹約が美徳とされていたので誇るべき事であり。上流階級は昼をパンとワインだけで済ませましたが、肉体労働している人たちはたっぷり昼食を食べました。

時代の移り変わりでヴェスペルナは消え、「2度目の朝食」を意味するプランディウムが導入されました。

古代ローマの人口は100万人以上あり、人口密度は東京23区の5倍以上という過密状態で。一軒家は1700軒ほどしかなく。殆どの庶民が住んでいた七階建てもある賃貸住宅のインスラは机と椅子を広げるのが精一杯で。ベッドを置くスペースが無いので、ワラを袋に詰めたものをベッド代わりするか、直接床に寝ており、水道は皇帝と仲の良いごく限られた人しか家に引くことが出来ず、台所のスペースがあまり無いのでバールという軽食屋またはファーストフード店に分類される所で昼食を済ませるのが一般的でした。

古代ローマ時代に最も多かった食堂の形態 バール

バールは入り口付近にL字型の長いカウンターが置かれ、テーブルと椅子は店の中だけでなく、現在のオープンカフェのように外にもズラりと並べ、大きい店のなかには中庭にも椅子とテーブルを並べ、沢山の客が飲食できるようになっていました。

古代ローマの軽食屋で出された代表的なメニューは豆の入った小麦の粥「プルス」で。それ以外の物を売ることを禁止された時代もありましたが。街頭でこっそり売っていたりと禁止の効果はありませんでした。

プルス以外で人気があったのは豚のゆで肉、豚のもも肉や頭の串焼き、ウナギ、オリーブ、イチジク、ソーセージ、魚肉団子、肉団子、サラダ、ローストチキン、野菜マリネ、ゆで卵、オムレツ、チーズなどが出されましたが。ローストチキンなど肉に火を通した料理を出す事は法律で禁じられていました。

ポンペイで発掘された竈とカウンター

ポンペイで発掘された竈とカウンター

古代ローマは現代の東京23区より過密していて火事が起こりやすかった事情から火を通して調理した肉を出す事は法律で禁じられていましたが。この法律を律儀に守る店はほとんどありませんでした。

共和制ローマの富豪で政治家のクラッスス

共和制ローマの富豪で政治家のクラッスス

そうした事情から厨房や暖房の火の不始末などで火事が起こると、ジュリアス・シーザー、ポンペイウスと組んで3頭政治を行ってローマを牛耳った人物の一人、クラッススは火事になった家の周辺の隣家が延焼を恐れて持ち家や建物・土地を手放すのをいち早く情報を仕入れた上でそれらを買い占め、その後に自らが雇っていた建築に携わる奴隷にそれらを壊させたためにローマの不動産の大部分がクラッススの所有物になったと言われています。

古代の消防用送水ポンプ

古代の消防用送水ポンプ

ローマのトップには何度も起こる火災を座視するだけでなく、初代皇帝アウグストス(紀元前63~西暦14年)は正式な消防隊を組織しました。

この消防隊には2250年前にエジプトのアレキサンドリアで発明された放水ポンプを台車に載せて町中の火消しにまわっていました。

火事の最前線に立つ危険な仕事であるため、奴隷が消防隊にあてがわれていましたが。奴隷が何年も寝ずの番をして消防隊に勤めると。晴れて自由市民になれるので、志願する奴隷が数多くおりました。

この消火用水はローマに引かれた上水道から使われており、この水は普段ローマに大小ふくめて1000軒以上あった公衆浴場に供給されていました。

ローマ市民は用事を午前中に済ませたら「シエスタ」、つまり昼寝をし、起きたら公衆浴場に出かけますが。公衆浴場は浴場、プール、トレーニングジム、マッサージ室、談話室、ゲーム広場、軽食屋などの施設が揃った健康ランドのようなもので入場料は現在の価値にして10円程度でした。

公衆浴場に入りますと。まずはトレーニングジムでレスリング、球技、槍投げ、円盤投げなど練習で汗を流してからマッサージ室で体をほぐしてもらい、それからいよいよ入浴。

入浴は低温サウナと高温サウナの2種類がありまして、体が温まったらプールでひと泳ぎします。

カリグラ帝

カリグラ帝

ちなみに水泳は帝王学の一環であったので、カリグラ帝に関して諸説ありますが、とにかく泳げなかった事が記録に残っているほどです。

プールから上がりますと談話室、ゲーム室へ行ったり。10円の入場料で食べられる軽食屋ではビスケット、油で揚げたスナック、野菜のマリネ、果物とドライフルーツ、肉団子や魚のパテ、ソーセージなどに舌鼓を打っていました。

繰り返しますが、軽食屋の食事は別料金ではなく。10円の入場料で食べる事ができ、不景気な時でも6皿の食事にありつけました。

公衆浴場に来る人たちは様々な思惑を持って訪れ。庶民は金持ちと知り合って豪華なディナーのケーナに招待されるのを期待して訪れ。招待されなければ、また10円払って別の公衆浴場へとハシゴしていました。

一方、元老院の議員や貴族などのケーナに招待する側にとって、ここで投票権を持つ市民を見つけて招待することは、立候補して投票してもらう際、知名度や人気を高める上で意味のあることでした。

以上で古代ローマ人の昼食に関するコラムは終わりですが、次は古代ローマの晩餐を書こうと思います。

皆さんいい暇つぶしになったでしょうか?